蛙声爺の言葉の楽園

. 心の音(10)




 家中の掃除と自分の荷物の搬出に二日を要した。
 予想通り猛雄は寄り付かず、電話一本よこさなかった。ビジネスホテルを梯子しているとも考えられる。どこかに居る女に鬱陶しがられたりして。
 淡野家を出ていく朝、志津は入念に顔をいじり紅を引いた。その行為は、志津が猛雄から分離するための通過儀礼にもなっていた。出直すなら形からというつもりだったが、これが予想外に心を高揚させた。鏡の中の自分が昨日までの自分を捨てていくのが分かる。
 そのための用意も周到にした。肩の少し下まである髪を丸め襟足を出すように束ねていたのを止め、前日美容院で一気に短くした。その足で、明るい色柄のワンピース、それに合うヒール、そしてバッグと、立て続けに買い物も済ませている。もちろん猛雄のカードでだ。
 学生時代のボーイフレンドに、つまり猛雄の恋敵だった男に連絡をとり、弁護士を紹介してもらった。猛雄の愛人には意地でも慰謝料などは請求しないが、猛雄にはきちんと財産分与をしてもらうつもりでいる。自分よりも元彼の方が猛雄憎しで燃えていたのがなんとなく嬉しくて、救われた。就職が決まるまでの一時的な住いを提供してくれたのもその彼だった。
 今日からは文字通り一人で生きていくことになる。遅ればせながら、戦う女に変身していかなくてはと思う志津だった。

 家を出て駅に向かう。
 少し熱を帯びた風が、沿道の垣に咲くノウゼンカズラの黄赤色を揺らしていた。数十輪の花が一斉に、別れを惜しむかのように首を振る。
「元気でね」
 志津は見送りに応えて、花に向かって小さく手を振った。
 途中で隣人と出会った。するとその婦人は大げさに目を剥き、掌で口を覆った。
「いったいどうなさったの」
 婦人の驚きは、日頃の志津が地味すぎた証拠でもある。
 志津は、微笑しながらくるりと体を一回りさせて「主人に追い出されたので少し派手なお仕事に就こうと思いまして」と言った。どうとるかは相手の自由だ。
「そうよ、まだお若いしお綺麗だし、ねえ、ご主人ばっかり若い娘といい想いさせるって手はないわよ」
 離婚されたとは受け取らなかったようだが、なぜ隣人が猛雄の浮気相手を知っているのかが気になった。
「若い子?」
「そうよぉ、この間茶髪の女の子とこの先の路地で顔と顔くっつけるようにしてヒソヒソ…あらいやだわ、わたしったら余計なことを。ほほほ、ごめんください」と婦人は口を掌でふさいでお辞儀をした。
「ん、茶髪?」
 まさか、と婦人の後ろ姿を見送りながら志津は、眉間に皺を寄せた。
 その女が水絵だとしたら…。その日時が事故の後だとしたら…「わたしがやった事故だとして猛雄を強請った? 確かに住所は金田に出した礼状から簡単に分かる。だとすればもしかしたら」警察から戻って話す以前に猛雄は事情を知っていた、だから離婚届を用意できた…
「あのー」と志津は婦人を呼び止めようとして、すぐに言葉を呑み込んだ。
「前だけを見るんだったわ」
 確かめていまさら何がどうなるというのだろう。
 せっかく幕切れを綺麗にしたのに、汚い愛憎劇として再演したくはない。
 志津は大きく息を吸ってから遠ざかる婦人に背を向けた。
 なのに足がその場に貼りついたように動かない。
 朝からずっと吹いていた爽やかな風が、志津の心の中でピタリと止んだ。
「前だけを…前? 事故の前? 水絵と猛雄がもしかしてあの事故の前から?」
 志津は両の掌で口を覆い、意識的に何度も首を振った。考えるだけでも恐ろしいことだ。しかし…
 金田に再会した日はこごめの湯に行くようにと猛雄に送り出されたようなもの。金田も万葉公園で営業と言っていたがあれは変だ。まだある、浮気相手は猛雄によればもう堕ろせない時期、水絵も刑事によれば六か月、胎児の状態はほぼ一致している。単なる偶然だろうか。
 志津は、取調室での水絵との面談にまで記憶をさかのぼらせた。そこには演技や嘘とは無縁の、剥きだしの哀しい女が居ただけ。そのはずだった。
「俊一、予想以上の出血で」…ああ、計画された事故だったのだ。さらに「あの旦那」の「あの」は? そうだったのか。
 志津は膝の力が抜けて、しゃがみ込んだ。
 にわかな風が水絵の高らかな嘲笑を運んできて志津の前に回った。
 目の前に志津の顔を下から覗き込む水絵の幼げな顔がある。その口元が小さく笑った。
 たしかに志津には見えて、背筋が凍った。
「フーテンだよ、演劇やってるとか言ってたけどな」
 猛雄の声がさらに、のしかかるように志津を襲ってきた。


                                 (完)




    伐られ、剥がされ、晒され、叩かれる。ミツマタの本当の花とは和紙のこと。

     ミツマタ



   
 
 
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comments
668. ぴーこ さん
ご無沙汰しています。
いつの間にか桜も終わってしまいました。
お元気でいらっしゃいますか?

わたし、初夏を前に心身がバランスを崩しているようです。元気が出ません。

2017-04-17 15:47:22 | [編集]

669. 蛙声爺 さん
ご訪問ありがとうございます。
「訪問客」が次々とブログやこの部門から去って行かれた関係でコメント欄も寂しくなりました。

 健康状態は一進一退ですが何とかしのいでいます。
 異常気象ですからぴーこさんも気をつけてお過ごしください。

 4/12-4/18の間、山梨に行って留守をしていました。写真と短いコメントだけを記事にした次第です。2日ほど完全休息を図ろうと思っています。

 ご心配いただき、ありがとうございました。
2017-04-19 07:24:56 | [編集]

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蛙声爺

Author:蛙声爺
文芸同人誌編集をしています。
考えるフクロウが理想。
木内光夫のHPもよろしく。

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