蛙声爺の言葉の楽園

. 心の音(8)


 刑事と接触したくなかったのか猛雄は、朝の六時には家を出ている。
 志津は朝食も作らず、見送りもしなかった。たぶん猛雄は、このまま志津が正式に淡野家を去っていくまで愛人の所に避難している気だ。車はガレージに置いてあった。これが思いやりなら嬉しいのだが、女の家に駐車スペースが無いから乗っていけないのだ。それだけの話。いまさらという気がしないでもないが、淡野猛雄は小さい男だと志津は思った。これで身も心も社会的にも独りになった。そんな気がした。
 午前九時、羽月刑事から電話が入った。
 刑事は、本署に出頭願いたいが車または電車で一人で来て欲しいと言い、ご婦人のことで支度もあるだろうから午後一時ころになってもかまわないと付け加えた。声音の柔らかさといい、鄭重さといい、だいぶ風向きが変わってきている。
 志津は、小田原で起こりうるあらゆる場合を想定して車に必要なものを載せながら、もしかしたら金田の意識が戻ったのではないかと思った。そうなら自分にかけられた容疑は即座に晴れるし、警察も一転して低姿勢になるのが道理だからだ。それにしても金田はどこに入院しているのか。できれば見舞いに行きたい。そうすればまた、金田の子を宿しているという問題の女性に会えるかもしれないのだ。別に、顔に唾しようとか、頬を殴ろうとか思っているわけではない。ただ、なぜ罪に陥れようとしたのか、その理由が知りたい。何度も自分の中で確認した、望んでいるのはそれだけだ。
 冷川峠を越えて、また伊豆スカイラインに入った。車はいい。「あらおでかけ」と不躾に行き先を聞かれることもないし、照ったり降ったりの話題に何度も愛想笑いをふりまく必要もない。とくに今日は、いまは、それが一番恐ろしい。拷問に近いことだから…。

「いやぁ奥さん暑いところをすみません、まったくまだ梅雨だというのに三十度超えてるんですからねえ」
 羽月刑事に招じ入れられた部屋は、取調室ではなかった。詳しくは知る由もないが、インテリアから見ても重要人物が執務していそうな感じだった。
「もしかしたら金田さんの意識が…」と、志津は後の言葉を濁した。弁解なら刑事から口火を切るべきと思ったのだ。
「ええ、まだ事情聴取ができる段階ではないんですが、医者の話では手術は成功したし、ちょうど奥さんを帰した直後ぐらいになるでしょうか、目も開けたということで、あとは時間の問題でしょう」
 案の定だった。
 志津はホーッと大きなため息をついた。犯していない罪は誰が何と言おうと犯していないのだが、それを証明しろと言われれば困難を極める。素人でも唯一それができるのが現場不在証明、つまりアリバイなのだが今回の場合、志津にはそれが無かった。金田に死なれでもしたら、志津は孤立無援のまま途方に暮れたに違いない。
「まさに急転直下なんですが…」と刑事が口籠った。
「わたしの容疑が晴れたならそうおっしゃってください、あなたがたもお仕事で取り調べをなさったわけですし」
 早くそれを聞きたい。そして金田がいる病院の名前も。
「じつは、被害者が助かるということを病院から聞いた藤原水絵が、あ、例の脱輪の際に金田さんの車の助手席にいた女性です」
「ミズエさん…」
 志津は、あの脱輪をした日、助手席の女がなぜリクライニングを倒していたのかをいぶかった。自分が彼女なら、恋人がほかの女を助けている、その光景自体を監視の対象にする。目を離せるわけがないのだ。
「ろくに寝ないで悩んだ末なんでしょう、明け方近くに署に来ましてね、すみません、ごめんなさいの連発だったそうです。呼ばれて来てみると彼女、自分がやった、あなたではないと。まあ自白したわけなんですが」
 刑事も内心忸怩たるものがあるのだろう、自然に頭を下げている。
「でも、なぜそんなことを」
「それが頑として言わないんですよ、あなたに会わせてくれたら言うの一点張りで。ま、しょせん僕らには解かりませんがね、今どきの若い女ってやつは」
「あの、わたしはかまいませんが」
 警察として許可できるのなら面談することに異存はない。
「僕らがいるんで危険はないと思いますが、なにぶん妊婦で、それでなくとも情緒不安定で」と羽月刑事は頭を掻いた。
「会うの、ミズエさんと二人だけにしていただけませんか」
 そうでなければ本音は吐かないのではないか。志津は女が求めているものが、おぼろげながら分かってきた。
「隣室で監視と録音をさせてもらって、ドアのすぐ外に署員を二名配して万一に備える」という条件で、異例の許可が下りたのは三十分後のことだった。
 確かに罪に陥れようとした女の動機如何では、部屋に二人きりは危険が伴うと志津も思う。




 取調室のドアを開けると、隈をつくり、そのうえ泣き腫らした目をした小作りな女の顔が真っ先に飛び込んできた。髪の毛の色を抜いていて、それが実際の年齢よりもずっと若く見える。見た目が幼いと言ってもいい。
 志津は会釈をしたついでに自分の服装をあらためて見た。車で来たことがわざわいしたかもしれない。取調室で転んだ時にスカート姿で惨めな想いをしたことから、きょうはパンツ姿で来ている。足の長さがもろに出るのは、若い女の前では少々辛いものがある。
 近くで志津を見るのは初めてのはずで、案の定水絵は急に目を凝らし、志津の全身を舐めるようにして見ている。
 志津は、椅子に掛けることで、点検される対象からやっとの想いで下半身を外した。
 言葉というものは思ったよりも不便なものだと志津は、二分を超えそうな沈黙の中でそう思った。
「何をしに来たの」
 水絵がようやく口火を切った。
「刑事さんはあなたが希望したと」
「そうじゃなくって! どんなバカ面な女か見に来たの、面会を承知した理由よ」
「聞きたいことがたくさんあって」
「あたしがあんたの立場なら絶対会わない」
「なぜ、の部分を知らずに終わらせることができないから」
「殺したくなるからよ!」
 顔を歪めての水絵の言葉の激しさに志津は、全身に震えを感じた。




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Author:蛙声爺
文芸同人誌編集をしています。
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