蛙声爺の言葉の楽園

. 心の音(7)


 三

 警察は任意のままで終日取り調べを続け、結局逮捕はしなかった。
「自信がないからじゃありませんよ、奥さん。逮捕してしまうといろいろ時間的な制約を受けるんでね、それだけです」とは羽月刑事の言だ。こうも言った。「逃亡するとはこれっぽっちも思っていません。あなたはそんなやり方で自分の罪を認めるような人じゃないんです。これ、褒め言葉です」
 志津は帰宅するとすぐ、巻き込まれた事件の概要を猛雄に話した。
 長い取り調べの後だ。常日頃から「おまえは女のくせに理路整然としゃべりすぎる」と叱られているほどの志津だが、疲れで感情が絡みつき、お世辞にも分かりやすいとは言えない内容だった。しかし省略はあっても、嘘はないと、それだけは得心がいった。
 何時間も前から欝々と飲んでいたらしく、酔って漂うような目をしている猛雄が、話が終わるのを待ちかねたように出してきた紙切れ…それには夫本人のみならず保証人の自署捺印までが済ませてあった。
 いっそ警察の留置場で一夜を明かした方が良かった。猛雄が差し出した離婚届を前にして志津は、心底そう思った。一番信じて欲しい人に、一番信じて欲しいときに、この仕打ちはいかにも手酷い。
 自慢の高級ソファーが、猛雄の貧乏揺すりに合わせて小さく上下している。
「ずっと前から用意なさってたのね」
「ああ…」とまたグラスを干した。
「絶好のチャンスというわけですか」
「まさか表彰状を期待しちゃいないだろ?」
 志津は、猛雄のグラスに七分目までウイスキーを注ぎ、怒りの気持ちを表した。
「お義母さまはご存じなんですか」
「離婚届のことか、警察沙汰のことか」
「両方…」と志津は唇を噛んだ。
「離婚には拍手喝采だろう。事件の方は言えるか、病人だぞおふくろは!」
「すみません、でも濡れ衣です」
 志津は凛として言った。
「ああ、おまえは事故現場から逃げ出せやしないし、人を傷つけることもできやしない。ほかの男と寝るなんてこともな。まったくつまらない女さ」
「それがいけませんか」
 志津の静かな反撃に猛雄が目をむいた。
「心じゃ抱かれてたろ? その男に。そうじゃないと、俺にではなく自分に向かって言いきれるか、志津」
 志津は黙った。猛雄の言う通りで、それはそう感じた回数が少ないとか、実際に行動には移さなかったとか、そういうことで免罪されるものではなかろう。
 猛雄の酔眼が、内省している志津の心を覗き込むように一点に集中している。
「よせよ反省なんて」と猛雄が急に笑い出した。「心も愛も無しのセックスに走って遊んでた俺のたわごとじゃないか。その挙句に女に子どもができて脅かされ、おまえが今度のミスを犯さなきゃ、俺の方から別れてくださいって頭下げるところだった。笑えるだろ? おまえのバカ亭主も」
 志津の中で何かが崩れていく音がした。
「あなたの子っていつ生まれるんですか」
 それだけは聞いておこうと思った。
「もう堕ろせない大きさ…で、いいか」
 志津は目を思わず瞑った。 外に子どもをつくったという事実よりも、数か月に及ぶ裏切りの日々がおぞましかった。
「若い人なんでしょ」
 そうなら自分の傷が浅いように思った。
「はっ、わたしに欠けているのは若さだけと、そのほかには夫を奪われる要素はないと、そう言いたいわけだ志津」と、何度も鼻先で笑って見せた。
「何をしている人ですか、お仕事の関係ですか」
 聞いて何がどうなるというのか。それでも口が勝手に質問をしていた。
「仕事? ああ、それもお前には無かったっけな」
 別に自分に無いものを探しているわけではない。猛雄の解釈は、語るに落ちるものだった。
「フーテンだよ、演劇やってるとか言ってたけどな」
 志津は絶句した。
 猛雄がウイスキーをあおるとすぐに注いで元の量に戻す。アルコールで殺せればいいのだが。そんなバカなことすら頭をかすめた。
「おっかねえ、恐ろしいよ、女は男より一枚も二枚も上手よ、腹が突き出りゃさらに頑丈でしたたかになる」
 猛雄の手からグラスが滑り落ち、そのあとを追うように猛雄がソファーからずり落ちた。
「志津、俺って汚いだろ…」
 酔いつぶれた夫に向かい志津は、ゆっくりとうなずいた。その汚い男に養われている自分は何なのだろう。そんなことを思った。
 寝息を確かめたあとで志津は、二階からタオルケットを運び、頭の天辺から足の先までを包んでやった。
 猛雄が死体になったように見えた。
「いつまでも二人は、いつかは一人」
 姑の口癖が現実になる。志津は、夫の偽の骸を横目にしながら、離婚届の空欄にペンを走らせた。
 もう悲壮感も気負いもなかった。

 翌朝、地元警察の車を回されるのを覚悟して志津は、観葉植物に水をやったり玄関の水盤に花を活けたりしながらそのときがくるのを待った。
 見ようによっては派手な車だ、ご近所の目を避けては通れない。いよいよ、あのテレビでよくやっている醜い晒し者に自分がなるのだ。



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文芸同人誌編集をしています。
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