蛙声爺の言葉の楽園

. 心の音(5)




 実を言えば、夫の猛雄が何で稼いでいるのか詳しくは知らない。いつだったか近所の人に質問されて正直にそう言ったところ「バカにしないで」と叱られ、それ以来口をきいてもらっていない。妻が夫の職業を知らないということが、それほど非常識な、考えられないことだということなのだろう。しかしその通りなのだから仕方がない。
 家計という側面から猛雄をみれば申し分がなかった。普通口座には常に、何もしなくても一家三人が一年は生活していけるだけの預金残高があったし、夫関係の冠婚葬祭費用はそこからは出さず、本人がどこからか捻出して賄っていた。悩みと言えば姑のことと子どもができないことぐらい。そう言われて羨ましがられても否定はしない。それさえ大元の原因をたぐれば一つことなりそうな気がする。心と心をとまでは望まないが、性器を合わせるという物理的な努力さえ昨今の夫にはないのだ。が、これもまたどこにでもある中年夫婦の有り様なのだろう。

「志津、車を使いたいときは三日前までに言えって言ったろ。何だ急にこごめの湯だなんて、きょうの商談の相手は車無しで行ける場所に住んじゃいないんだ、あきらめろ。第一おふくろは入院中、だれがここを守るんだ。先月の二十六日に行ったばかりじゃないか、わがままが過ぎるぞ」と猛雄が、ネクタイをウィンザーノットで結びながらまくしたてた。
 今日六日は偶数日、岩と石の風呂が女湯になる。何の約束もないのだが、行けば金田に会えそうな気がする。うっかり「行きたい」と言ってから心の奥をさぐると、そんな答えが返ってきた。それだけに、いとも簡単に断られて志津は少しばかり頭に来た。
「三日前にお願いすると、当日必ず泊まり込みのお仕事になるんでしたわね」
 変ではないかと気づいてはいた。車がないから外泊なのではなく、車がないことを口実にして外泊を正当化しているのだ。志津が湯河原に行くと当日とその翌日の丸二日、猛雄はたぶん女の所に居続ける。そう、正々堂々と、恩着せがましく…しかし夫婦としての本質的な問題はむしろ、そうと分かっていて、さして波立たない自分の心だろう。それは志津をいっそう哀しくさせた。
 気がつくと頭が燃えるように痛い。猛雄にしたたかぶたれたらしい。虚ろな目で、かつて愛した男の顔を見ると、唇のふちに白い泡をつけて何か怒鳴っている。幸いなことに何も聞こえなかった。
「わたしが出ていけばそれで終わり。わたしに勇気があればそれがはじまり」志津は、その二つを呪文のように唱えながら猛雄をしずかに送り出した。

 十分も応接間のソファーで横になっていただろうか、ドアチャイムの音で起こされ、想い頭を何度も振りながら玄関に出た。
「淡野志津さんですね」
 警察手帳を突き出して、丸顔で無精髭の、どちらかと言うと漁師のような感じの男が言った。
「はい、でも主人はたったいま勤めに出ましたが、何か」
 志津は反射的に猛雄が何かしでかしたのではと思ったのだ。
「こちらもそれを見届けてからチャイムしましたので知っています」
「はぁ」頭がズキズキしているのも手伝って、事態が全く呑み込めない。
「とりあえず任意で事情をうかがいたいということで、ま、いたずらにご家庭の円満を壊すのは本意ではありませんし、それでお一人になるのを待っていたと、こういう訳です」
「すみません、お話の趣旨がよく…」
「弱りましたな、おーい、裏はもういいからこっちへ来いや。少なくとも逃げるようなタイプの奥さんじゃないって」
 志津は唖然とした。目の前の刑事の目当ては自分だったのだ。
 あらかじめ裏口を固めていたのだろう、比較的若い刑事が家の角から顔を出した。

 刑事が容疑者を取り調べる。そんな場面はテレビドラマの中で視るだけのものと誰もが思っているはず…取調室に一人、ぽつねんと椅子に腰かけながら志津は、金田俊一に対する業務上過失致傷と保護責任者遺棄の容疑で、自分が現実にドラマの主人公にされている不思議さを噛みしめていた。
 急に二人の刑事が部屋を出ていくのも何かお定まりの儀式らしい。責められた後で独りになると、何でも自白するようになるとでもいうのだろうか。自宅での任意での事情聴取から警察署での取調に切り替わった最大の理由はアリバイが無かったからだ。
 事件が起きた七月四日はたった二日前のことだ、しっかりと二十四時間を丸ごと思い出せる。いつもなら近所のスーパーマーケットや八百屋に買い物に出掛けるので、馴染みの店員の幾人かと会話を交わし、それがアリバイにつながるのだが、この日は冷蔵庫の残り物で三食賄うつもりでいたので家にこもっていた。しかも猛雄は早朝から仕事で不在、姑はポリープが見つかったことで検査入院中でこれも不在、要するに志津自身しかその日の行動を証明する人間がいなかったのだ。
 当初語るに落ちるのを待つ取調手法なのか容疑の内容すら口にしなかった刑事も、あまりにも鈍感な反応に終には焦れて、当日の事件の内容に触れてきた。丸顔の羽月と名乗る刑事が直接の相手だった。

 刑事の尋問から事件の内容は把握できた。なにしろ三時間も同じ問答を繰り返したのだから。
七月四日午前十一時半頃、椿ラインの城山入口より大観山寄りの路上で、東京からドライブに来た中年の夫婦によってそれは発見され警察に通報がなされた。ガードレールの端に左前照灯を食い込ませた乗用車の助手席に、頭部を強打し額から血を流した金田の姿があったという。一旦ゆっくりと通り越したものの、蜘蛛の巣状にヒビが入ったフロントガラスを見て事故だと確信してバックしたらしい。運転席にはそのときすでに誰もいなかったようだ。被害者の金田はその時からずっと意識不明のまま回復していない。ということは、被害者本人から事情を聴取していないということになる。そのはずだ。金田に意識があれば間違っても自分を犯人に仕立てるはずがない。志津はそう思った。しかしそうならなぜ疑われたのかと、それ自体が不思議になる。金田俊一と自分を結ぶものは、二回の出会い、礼状とその返信、それだけなのだ。ところが刑事は嘘だと言い張る。四月二十四日に脱輪の処理をしてもらってから六月二十六日に万葉公園で会うまでの間に何回かデートを重ねていて、当然肉体関係にまで発展しているはずだとして譲らないのだ。その根拠は何? 志津は終に静かな口調ながらその証を求めて食い下がった。
 刑事たちが取調室から出て行ったのはその直後だった。
 志津は腕時計を見た。すでに三十分が経過している。 
 

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蛙声爺

Author:蛙声爺
文芸同人誌編集をしています。
考えるフクロウが理想。
木内光夫のHPもよろしく。

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