蛙声爺の言葉の楽園

. 心の音(4)


「この人吉井勇ね、かなり相聞歌が多いんです。とくに僕が好きなのは歌集『酒ほがひ』のなかの一首で『君見ずとかたく誓ひて来しものをもの狂おしやまた君を見る』、いまの僕も同じです」
 志津はここでようやく気づいた。金田が今回俺を僕に変えていることを。よく見せたいというのが動機なら、本当に自分に好意を寄せているのかもしれない。
 金田の目が志津の目をとらえている。
 息苦しくなった。
「あの、きょうお連れは?」
 たまらずに志津は直截的な聞き方をしてしまった。胸の内が丸見えではないか。恥ずかしさで心悸が早鐘のようになった。
「仕事の途中です、これでも」
「お仕事…」
「ええ、ほら後ろにも誰もいません」と金田は、スペインのマタドールよろしく身をひるがえしてみせた。気障にも見えるその仕草がまた妙に様になる男だった。
「営業なので比較的自由なんです」と、こちらの疑問を先取りしたりもする。
 さきほど紫陽花について聞いてきた三人組が、一歩一歩踏みしめるようにしてこちらに向かってきた。
 志津は道を開けるために、自然金田に寄り添う形になった。すれ違いざまの老婆たちの好奇の目が刺すように痛い。そのとき金田の右手が志津の腰にやさしく触れた。いやらしさなど微塵も感じさせないもので、志津の姿勢をバランス良く保たせるための配慮に違いないとは思ったが、それでも、ひそかに憧れたほどの男の厚意だ。嬉しくないはずはなく、心にも体の中にも熱いものが生れた。そうなればまた、そういう女の部分を疎ましくも汚らわしくも思う「自分」が育ってくる。
「あの、お仕事でお忙しいでしょうから失礼します、わたし、子どもを欲しがっている主人の希望に添えるように、願掛けのつもりでこごめの湯に来てますの」
 とうとう言ってしまった。これで、男の自分に対する或る種の興味は失われるはずだと志津は思った。これ以上二人の発展はない。女の言葉をそう解釈するのが分別ある大人というものだ。
 志津は金田の言葉を待たずに、白い敷石の路を登り、こごめの湯を目指し始めた。体を触られて怒ったと思われるのが一番いい。また、金田がそう思えるタイミングでなければ不自然になり、失礼になる。そうも思った。
「またここで、いつか、ほんとうにいつか、お会いしましょうね、いいでしょう? 志津さん、志津さん!」
 下の名前を呼ばれたところで一瞬足が止まった。ほんの一時間か二時間デートしたところで何が悪いというのか、誰に知られるというのか。しかし志津には、それだけで終わらせる自信はなかった。

 湯に身を沈めると、心なしか落ち着きが戻ってきた。やや抑えた照明と、ほとんど無彩色な石と岩で造られているせいだろうか。無色透明の温泉の中で手足を伸ばして見つめてみる。ふと気づくと、裸の自分もまた白と黒の無彩色だった。化粧らしい化粧はしない。「それが一番志津らしくていい」と結婚当初猛雄に言われて以来だが、いまはもう猛雄の興味は別の女に向いている。夫婦を互いに空気のような関係にしたのは、ため息が出るほどに長い二人の時間だ。心が先に離れるのか。それとも肉体か。いずれにせよそれは、ときめきが無くなった時期と符合しそうだ。金田の言葉は熱かった。それを受けた体の火照りを湯で冷ましているほどに。
 志津は立って露天風呂に出た。金田が今吸っている空気と繋がりたかったのかもしれない。来年は四十の声を聞く。しかし湯に移る映る志津の裸体はまだ十分すぎるほどに女だった。
 温泉に浸かり岩にもたれ目を細めて仰ぐと楓が見えた。陽を直接に受けて若葉のよう、重なりあって深緑のよう、さらに風にめくれ葉裏を輝かせて金属のよう…志津は究極の静けさの中で、いつしか睡魔に襲われ始めた。




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Author:蛙声爺
文芸同人誌編集をしています。
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