蛙声爺の言葉の楽園

. 心の音(3)


 その日も椿ラインを快調に下っていた。葉桜のはざまを、ころころと笑い合う少女たちの明るさを思わせる若葉の中を…その浮かれた気持ちが運転に隙を作ったらしく、ハンドル操作を過って左の後輪を側溝に落とした。女一人の力と知恵ではどうなるものでもなく、数台の乗用車に手を挙げて救いを求めたのだが、無理だと思うのか車を降りて助けてくれる者は一人もいなかった。あきらめてやや傾いた車のシートに身を沈めたとき、迂闊にも涙が流れた。男ならこういった場合の処し方にも慣れていようし、携帯電話を常用している人なら業者に連絡するなりして造作もなく危機を脱するだろうに。志津は自分の無力さをいやというほど思い知らされた。
「これは助けたくても無理だ」とウインドウの隙間から男の声が入ってきた。やっと停まって降りてきてくれた人がいると、ホッとして志津が外へ出ると、「その顔じゃあ、連絡済みの業者待ちってわけでもなさそうだ」と顔を不躾に覗きこまれた。
「ええ、どうしたらいいか、途方に暮れています」
「地元の人?」
「伊東です、これから万葉公園に行こうと」
 男は聞いているのかいないのか、親指を器用に動かして携帯電話のボタンを押している。
「おう、俺、金田。知り合いの車脱輪してさぁ、面倒みてやって。俺は連れがいるんでお前待ってはいられないんだけど、頼む。場所は城山入り口から奥湯河原に向かう下り。上品な美人が傾いた車の傍にいたらそこが現場。え? 名前」
 そこまで喋りまくると志津に視線を移した。
「淡野志津と申します」
「あわのさんだそうだ、じゃ。そうそう、二十分もあれば来られるよな。はいはい、よろしく。近いうちまた飲もうな」
 男は携帯電話を折り曲げて懐にしまうと、志津の全身を眺めながら自分の車へと後退りし始めた。
「あの、なんとお礼申し上げていいやら」
「礼なら助けに来る髭面のダチにして。俺は何にもしてないんだし」
 笑顔がさわやかだった。道端に落ちている吸殻を拾って、そっとハンカチにくるみ自分のポケットに入れて何事もなかったように立ち去る。そんな感じのさりげなさに胸を打たれた。
 リクライニングを倒していたが、助手席にいたのは女性らしかった。車を見送りながら志津は、自分の胸の中に小さな嫉妬が芽生えそうなのを必死で抑え込んだ。
 男の住所は金田の友人に聞き、後日礼状をしたためている。
 「貝などのこぼれしごとく我が足の爪の光れる昼の湯の底」という岡本かの子の和歌を引いて書き始め、なぜ万葉公園に定期的に訪ねてこごめの湯に浸かるのかはさすがに書けなかったが、岩風呂が好きなこと、休館明けを狙って行くこと、ルートがいつも一緒なのは方向音痴なので別の道が怖いことなど、とりとめのないことを書いた。そして趣味で作っている手書きの栞を添え、舌で糊をなめて封をした。手紙は何度も読み返したが、一度ならず投函することをためらうほど少女趣味に満ちていた。それでも出した。明らかに携帯電話の男に、恋に恋するように無防備にあこがれたのだ。それは長い間封印されていた、志津の女としてのときめきだったかもしれない。

 その金田がいま、目の前にいる。
 志津は、吉井勇について笑顔で語っている金田の背後から急に、あの車の中の女が初めて顔を見せ、怒鳴りだすような気がして落ち着かなかった。
 


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