蛙声爺の言葉の楽園

. 心の音(2)


 熱海峠の少し手前で、ほんのひととき目に飛び込んできた一幅の絵画。残雪の白い縦縞を配した薄墨色の富士が、たなびく無彩色の雲の上にはっきりと顔を出している。志津は思わず歓声をあげてスピードを落とした。しかしそれもつかの間、 ガスの中に入り込み、視界数十メートルという乳白色の闇に囲まれている。
 猛雄にプロポーズされたのは、やはり富士の見える乙女峠の茶屋で、当時志津の目に映る猛雄は、一点の曇りもない済んだ大空であり、はたまた雄大な富士そのものだった。嫁、姑の間で姑息に立ち回ったり、日常の瑣末なことでいちいち嫌味を言うようなちっぽけな人間ではなかった。少なくとも志津はそう思いたい。そうでなければ、唯一の男として、生涯の伴侶として猛雄を選んでしまった自分が惨めすぎる。半面、そうだとすれば現在の猛雄を創ってしまったのは自分ではないかという疑いを生じる。哀しいかな即座に否定できる強さも図々しさも持ち合わせてはいない。しかも長期間にわたって専業主婦でいた分、一人で生きていく力は極限まで弱っている。自活できないから妻のままでいる、暦だけをめくっている、そうならあまりにもみじめだ。
 茫漠としたこの白い闇そのままだと志津は自嘲した。暗くないのに不安が募る。走っているそこだけは見えるのに遥か行く手が見えない。「まるでわたしの人生みたい」志津は目を凝らしながら声に出した。
 さらに、この遅々とした歩みに耐えられなくなったときはすべてを失う…そんなふうにも思った。

 大観山から椿ラインを下り、奥湯河原経由で観光会館に着いた。まだ十時を少ししか回っていない。いつものように万葉公園の散策路の入り口に立つ。そこまでは判で押したような流れだった。
「地元の方かねぇ?」と後ろから声をかけられて振りかえると、いかにも土の匂いのするような、三人の高齢の女性が立っていた。
「いえ、わたしも観光客の一人です、ごめんなさい」
 謝る必要もないのだが、たぶん名所に関する質問か、どこか目的地までの道を聞かれるのだろうと思い、先手をとった。
「あじさいはどこじゃろ?」
 老婆も老婆なりにめげない。聞きたいことはあくまでも聞くタイプらしい。紫陽花といえば、いま通ってきた椿ラインかあじさいの郷だが、彼女たちにガイドするほどの知識も道案内する自信もなかった。結局ごめんなさいを貫き、急ぎ足で散策路を進んだ。観光地の人間としては大いに失格だ。背中に三人の非難めいた視線を感じた。
 渓流をいただく森林、庭園には一つの特色がある。それは広範囲にわたる美しい苔の存在だ。万葉公園は、千歳川の渓流に接するので蘚苔類を育む適度な湿気にはことかかない。滝の傍らの自然石はもとよりのこと、それは、木の幹を覆い、路面を這い、崖の花崗岩を装ってそれらを落ち着かせている。
 志津は朝からずっと引きずってきた重い気分を一掃し、数十種類の緑色の中でひときわ輝くモスグリーンに囲まれて、ようやく癒されていった。
 そのとき…
「たゞひとり湯河原に来て既に亡き独歩を思ふ秋の夕暮れ。この歌ね、詠み人の吉井勇が僕で、独歩があなただとすると、ちょうどこのとおりなんだ」
 急に物静かな調子で、男の声がそう言った。
「僕の人生は早々と秋だし」
 志津はゆっくりと振り返り声の主を見て何度も瞬いた。長身で、長袖をたくし上げ、黒いウエストバックを着けている。顔は細面、七三に流すように分けられた髪、淡い色のサングラスが若者風だった。
「もっともこうしてあなたは生きていて、びっくりして、こいつは誰だろうと警戒心むき出しのどんぐり眼」と男がほほ笑んだ。
 白い歯が形よく並んできれいだった。
「あの…」とたまりかねて志津は「どちらさまでしょうか?」と聞いた。
「やっぱり僕って印象薄いなあ。二か月前、椿ライン、脱輪、ケータイ。これでも?」
「あーっ、ごめんなさい、なんてことでしょ、わたし、すっかり失礼しちゃって」
 志津は頬を熱くして深々と頭を下げた。

  

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蛙声爺

Author:蛙声爺
文芸同人誌編集をしています。
考えるフクロウが理想。
木内光夫のHPもよろしく。

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