蛙声爺の言葉の楽園

. 心の音(1)


「心の音」 (1)   ――それは物静かなミステリー。


 一

 舗装路をまだらにして見せている樹木の影が大きく揺れている。まだ濃鼠色のそれも昼中には紫が混ざり、陽の当たるところとの明暗の差も驚くほどに大きくなるにちがいない。朝聴いた天気予報によれば今日は真夏並みに暑くなるという。梅雨の長雨が育てすぎた沿道の木の枝や雑草が南からの風を受けて、もっとアクセルを踏めと言わんばかりに志津をあおった。時速八十キロ、今まで一度も出したことがないスピードに挑む。左小回りで側溝近くに擦り寄ると、タイヤが路上の木の実や枯れ枝を押しつぶすのだろうピキピキと不気味な音がした。
 夫の猛雄と何を言い争ったのかを正確に思い出そうとしたが、限りなく迫ってくるカーブに対応し、ハンドル操作を繰り返しているうちにそれ自体どうでもよくなった。その代わりに、命の意味や価値への疑問が急に志津の中に湧いて出た。たとえばたった今、反対車線を迫り来る黄色いオープンカーに向けてハンドルをきり正面衝突をしたら、シートベルトはしているが私も相手も即死だろう。 わざとではなく技量不足や過失でも結論は同じだ。それほど危険な瞬間を、何時間後かは分からないが我が家に帰るまで何十回何百回と経験する。しかしこのドライブに命を懸けるほどの意味がないことは百も承知の私なのだ。猛雄たち男はどうか。仕事は車をはじめ高速度交通機関を利用しなくては不可能だから、この身の危険を日常的に経験していることになる。家にいる女はそれだけでも感謝すべきなのかもしれない。
「あっ」と志津は急に口喧嘩のきっかけを思い出した。
「おふくろの嫌味が悔しかったら、妊娠して産んでみろよ、言っておくが俺の子種はちゃんとしているからな」
 子どもの産めない女は価値がないと志津に向かって言い放った姑を、今朝方志津が非難したときの猛雄の台詞だ。 
 胸の動悸が激しくなり志津は、「野鳥の森」の看板を目にして車を寄せ、息苦しさから逃れるようにして車外に出た。目の前の木の枝に白い尾を振る小鳥がいて小首をかしげた。
「車を置いていってやるから、こごめの湯にでも浸かって来い。俺のせいだって言いたいならほかの男と寝て、試してきてもかまわないんだぞ」
 思い出したとたん心が再び震え始めた。
 こごめは懐妊の意だ。猛雄に言われなくても三年ほど前から一と月おきぐらいには通っている。藁をもつかむ気持ちからだった。「お湯に浸かって本当にその場で妊娠してはたまらないでしょう? あなたの協力がいるわ」
 かつて性生活がお世辞にも濃密とはいえないことを皮肉って志津は言ったものだ。だから猛雄は今回仇をとったことになる。二十七と十九で、八つ違いの末広がりと周囲に祝福されて同棲を始めた二十年前には、紛れもなく愛があったと志津は思う。それなのに、いや、そうだからか二人は子どもを授からなかった。
「いつまでも二人は、いつかは一人」
 標語のような、呪文のような姑の言葉が重くのしかかってくる。猛雄は淡野家の一人息子、跡取りができないのは志津が考えている以上に一大事なのに違いない。
「女は出産するだけの機械かさ」
 志津はドアを勢いよく閉め、ゆっくりとルートに戻ると、若者のようにタイヤを鳴らして急加速をした。左右の緑が恐ろしい速さで後ろへと飛んでいき、センターラインがクネクネしながら生き物のように迫ってくる。半ば笑いながら志津は、つまらないことに命を懸けている自分を「バカだバカだ」と罵りつづけた。


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comments
666. 蛙声爺 さん
初回なので1回分としては少し長めですが、400字で3-4枚程度になる予定です。
何か別途書きたいときは『続き』コーナーを利用していこうと思っています。その場合も記事というより「エッセイ」として纏めて、と気負いつつ。

自分の「海馬」のリハビリも兼ねまして(^^♪集中して書けば少しは効くかなと。
方向転換のご挨拶まで。
2017-04-01 11:11:55 | [編集]

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Author:蛙声爺
文芸同人誌編集をしています。
考えるフクロウが理想。
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