蛙声爺の言葉の楽園

. 無謀な男?

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 確かカメラを岩の上に置いた。何故かモノクロームの写真になっている。活字を追うのに疲れて、何の計画も装備もなしに鳳凰(ほうおう)三山や北岳の方へと林道を歩き出したあの日。途中、湧水を啜(すす)り、鹿に出遭い、 岩魚(いわな)釣りの中年男性とおしゃべりをした。苔生した薄暗い滝への道を独り歩き、名も知らぬ花々の美しさに歓声をあげた。ツキノワグマに遭遇するかも、などとは考えもしなかった。いまにして改めて思う。無謀な男だったと。その後の人生を象徴するかのような一日だった。
 引き返したのは富士山の次に高い北岳が目の前に聳え立っている場所。さすがに理性が働いた。文字通り「来ただけ」だった。

 *******

 短編小説『くぐもり声』

 4
 『――まだ生きてた』
 枕元の二リットル入りのウーロン茶がカラになっていた。コッヘルの水も無い。タオルの水気も無かった。砂漠を歩いた後もこんな感じなのか。唇が渇き切っていて、上下で擦り合わせるとザラッと音がした。胃も腸も空っぽ。空腹の音さえ出せないだろう。
 不思議に想いが透き通ってきた。
 小屋中に満たされた冷気すら俺の周りには寄って来ない。そんな気がした。上半身を覆っていたウインドヤッケを摘まみ、中の臭いを嗅いでみる。鼻がまがりそうで、顔を顰(しか)めた。
『百年の恋も興醒めだな』
 心が嘲(あざわら)ったあとで『フン!』と言った。
『女もいねーくせに』か。
 のそのそと起き上がると、ふとももから下を目がけて寒さが襲ってきた。慌てて登山用のレッグウォーマーを穿(は)く。
 両足の脹脛(ふくらはぎ)までが覆われた。
 入り口の扉が外の強い光で縁取られている。
 あらかじめ目を細くしてから体ごと押してみた。
 すでにに日は高かった。
 下り傾斜の径(こみち)を挟んで、幹から梢(こずえ)に至るまで、全身を雪化粧した落葉樹が並んでいる。どこからか来た大型の野鳥が止まりきれずに、枝に積もった雪に突っ込んだ。羽ばたきが創った微細な雪片が、柔らかな風に乗って宙に舞う。葉も花もつけていない冬木立が、まるで満開の桜のように、その妖艶さを競っている。近いものは、陽光を受けて結晶を輝かせ、花ではなく雪であることを知らせてくる。波打つ白の濃淡の彼方にある空の色はどうだ。どこまでも均一な、耀(かがや)きに満ちたコバルトブルー。心で引き寄せれば、つかみ取れる気がする。
 ――「満開の桜ってね、雪積む木って言うの。だけどこれ、桜をほめてるの? それとも雪? 壮太はどっちだと思う」
 ――『そういえば京(みやこ)、文学部出だったっけな。桜を目の前にして言うんだったら、雪が格上(かくうえ)に決まってるだろ』
 俄か雨でこの小屋に一緒に避難したあのとき、確かワンゲル部のもう一人の女学生は桜だと言い張った。傍らで微笑していたのが京。この子、気立てもいいと、そう思った。「私は雪が格上だと思う」と、言葉ではなくて微笑みで知らせていたから。いま極上の景色を味わいながら、それは確信に変わった。
『花もなく葉っぱもなくて美しくなれる木々、か。そんな道もあるかもな』 
 京は俺にとっての雪。今日のこの雪。
『だといいな。もう、遅いけど』
 とりあえず水だ。脱水症状が出ていると自覚して、沢へと歩き出した。
 とたんに、思わず苦笑した。
『何だ、生きようとしてるじゃん』
 滑っては転び、吹き溜まりの雪に足を取られては前にのめった。そのたびに自分の情けない格好を見て雪を叩き、大笑いをした。
『高熱も下痢も身体が勝手に治しちまった』
 もう失うものは何も無い。これを笑わないでどうする。顔色もかなり酷(ひど)いにちがいない。たぶんムンクの「叫び」状態だろう。
 這いつくばったあとで立ち上がり、雪を払い落していると、前方に人の気配を感じた。幻を見た。いや、本当に人が見えて、目をこすった。
「やっぱりここだったのね」
「みや、こ?」
 一体何日声を出していなかったのだろう。久し振りの発声が彼女の名、京だった。なぜここにいる。なぜ俺がここだと判った。きっちりと山歩きの格好までして。出遭ったあの日と同じだ、山スカートの色まで。
「何しにここに来たのぉ…壮太」
 近づきながら半ベソをかいているのが分かる。
 むねが張り裂けそうになった。
 言葉が口をついて出てこない。
「家電(いえでん)にかけた…家出したって、おかあさんが…どこにいるか捜してって…泣いてた」
 汚いじぶんの顔が、さらに歪んでいる。そんな馬鹿なことを、ゴトゴトと心音を大きくしながら思った。
「ここよね、すぐわかった。私がいまの壮太なら、同じ発想をするもの」
 立ち止まった、京。
 近づけない俺。
「生きよ、一緒に、ね?」
 そう言ってゆっくりとうなずく、京。この上もなく、きれいだと思った。
「……うん」
 急に噴き出した涙で、京の顔が揺れた。
 それが笑顔だと分るまで、心も揺れていた。
 立ちすくむ二人の間を、雪の子が風に乗って、騒ぎながら通り過ぎていった。

                                (完)

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comments
236. 紫水晶 さん
よかった・・・・ハッピーエンドでよかった。

素直に喜んでしまいました。
たとえ、その後にどんな展開が待っていても、もっと苦しい事が
待ってるとしても。
やっぱり、二人で生きる道に収まるエンドがいいです。
2015-08-28 19:21:55 | [編集]

237. 蛙声爺 さん
 読んでくれてありがとうございます。
 どんな小説でも一人歩きを始めます。読んだ人のそのときの心の状態や願望が大きく影響するからです。この短編も、ラストで現れる京は幻覚だと感じる人たちがいます。
 創り手としてはどちらも「嬉しい感想」だと思っています。
 少年時代、名作を読まされて感想を強いられるのが一番嫌でした。正解と間違いの二つに一つだったからです。「小説書いた人に聞いてきたのかよ」と反発したものです。
 「読んだ小説は、読んだその人のもの」
 そうだと私は信じています。
2015-08-29 05:11:49 | [編集]

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Author:蛙声爺
文芸同人誌編集をしています。
考えるフクロウが理想。
木内光夫のHPもよろしく。

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