蛙声爺の言葉の楽園

. 法律学に無いもの?

   下の写真を観て、小さなブドウパンではなく、縮(ちぢ)こまっている子犬に見えますか?
 六法全書をにらみ、判例を紐解いてうなっていたころなら、私にとっては「床に落ちたパン」でしかなかったでしょうね。生き方も、考え方も、感じ方も、「遊びの無いハンドル」だったのですから。小・中学生時代は絵心もあったのに、コミックもたくさん見て楽しんでいたのに、です。いつの間にか、「余裕のない自分」を愛おしく思うようになったんですね。法律を学んでいる。ただ、それだけのことで。
 40歳をこえた日々は、立てた志を全(まっと)うできなかったことで、世の中に負け、この「子犬」のように震えていたとも言えます。それを、気づかせてくれ救ってくれたのが、この1個のパンでした。                

                     misakiblog 0583

 いまは、有り難いことに程好く年をとり、可愛いぬいぐるみや少しばかり難しい本が「好物」で、おちょこ数杯でほろ酔いを愉しめる、フツーの爺さんになりました。

                     こんな人

   *********

 短編小説『くぐもり声』

 3
 急に腹が痛みだした。食料が切れて二日目になる。登ってきた当日は昼、夜ともにコンビニ弁当を食った。二日目と三日目はチビあんパン一個とウーロン茶のみ。食あたりするほどのものを胃に入れてないのだから、考えられるのは「冷え」か心因性だ。
 予想外のことだったが、幸いにも小屋には寝具があった。おそらく長期に亘る森林の下刈りか何かで、休息用に置いていったのだろう。捨ててもいいという粗末なものだったが、氷点下で体温を保持できるだけでも有り難かった。
 午後になって熱も出てきた。それでも今のうちならまだ、歩ける。
 近くの小さな沢に下りてタオルを濡らし、コッヘルに更新用の冷水も入れた。
『え、誰?』
 ふっと人の気配を感じて、振り返った。
 ――「いまね、お魚がいた。小さな岩のところ」
 膝に掌を当て川面を覗きこむ京(みやこ)の髪が、雑木林を潜(くぐ)ってきた風に揺れている。
「山女(やまめ)だな、だとすると、枯葉の塊(かたまり)の下に隠れてる」
「ほんと? 獲れたらいいね」
 真っ直ぐに背を伸ばした京。その顔が、俺の数十センチ先で微笑んだ。瞳(め)がきらきらと輝いている。
 撓(しな)う篠竹につかまって、右足を斜面に、左足を小岩に掛けて、両掌を、枯葉をつかむようにして下ろしていく。
「逃げちゃうよ、そんなに近づいてぇ」
「シーッ、山女は見つかりっこないって思ってるよ」
「うそばっか」と、声を殺して弾むように笑う京。
 水に浸かった枯葉を丸ごと掬(すく)い、高々と放り投げた。
「あー、お魚ぁ」
 抜けるような秋の空をバックに、尾鰭(おびれ)を大きく振って山女が飛んだ。
 ――体中がゾクゾクして、思わず額に手を当てた。
『たったままで夢かよ。熱のせいだな」
 せせらぎが急に耳に響いた。どうやら嘲(わら)われているらしい。

 下痢が始まった。トイレが無い小屋なので、入り口の扉の脇に雪を固めて和式の便器を造った。もちろん囲いも糞溜めもない。
 ろくなものを食べていないので水のような便しか出てこないが、一人前に体力の消耗は、一回ごとに激しさを増した。
 食べ物も薬も、無い。看護してくれる者もいない。いや、俺がこの小屋に居ることを誰も知らないのだ。出来ることといえば、自分の治癒力を信じて、傷ついた獣のようにジッとして、体力の温存を図ることだけだ。そう、眠ることだけだ。
 その大事な眠りが、しばしば下痢で妨げられた。
 意識が遠くなる。眠りなのか、気絶なのか。それとも『このまま死ぬのか』。
 ふっと笑いが来た。
 死にに来たのに、望むものを恐れてどうする。
 ――丸ノコの回転音が聞こえる。木材を刻む高い音に変わる。そのとき俺の目に、長い角材を持ってよろけながら傍を通るアルバイトの姿が映った。
「バカ、危ないったら、おい、学生! 離れろ学生!」
 ほんの一瞬のことだった。顔中に血しぶきを浴び、あとから右の指先に激痛が走った。心臓の弾ける音が聞こえた。救急車のサイレンを聞いたのは、それからずっと経ってからのような気がする。
 よそ見をして木材の切断を続けていた俺。
 結局利き腕の、親指を除く四本の指を、第二関節から失った。
 憶えていないのだが、俺は地べたを転がりながら、飛び散った指先を捜していたという。痛みに耐えかね、泣きながら、何かを喚(わめ)きながら。
 同僚は病院で同情をあらわにしてそう言うと、「なあ壮太、ミヤコってお前の彼女か。何度も何度も呼んでたぞ」と、俺の顔を覗いた。
 ――『ああ、宝だった』
 腹がまた、グググルッと不気味に鳴りだした。
『もう過去形、だけどな』
 布団を跳ね除け、外の「トイレ」を目指して扉へと走り出す。と、その瞬間、足がもつれて前のめりに倒れた。
 股間が生暖かくなってきたとき、京とは別の世界に心を移し、大声を出して嘲(わら)った。

 外が明るくなってから目が覚めた。
 どれくらい眠っていたかは分らない。素早く起き上がる力がないことは確かだ。それでも肛門の騒ぎは大分治まってきている。
 ブリーフもズボンも汚してしまった俺は、直に半ズボンを身につけている。布団の中で自分の男をしっかりと握ってみる。
 京の女の襞の手触りを想う。
『抱きたかった。実際にこの手で』
 この手で? 指の欠けたこの手で?
 飛び散って赤い斑点になった自分の血。その血の雀斑(そばかす)をいまも洗い流せずにいるこの顔では、京の唇さえ奪えない。もう手紙も書けない。あなたが褒めてくれた、好きだと言ってくれたきれいな文字が、一文字も書けない。唯一残されていた糧を得る仕事、木工もできない。家具も家も造れなくなった。
 自分の歯で、強く唇を噛んでみる。まだ生きている証か、淡い塩気の、血液の味がした。
 ――「…壮太、あなたは言いましたね、目が色弱で大好きな絵を捨てたって。それでも何かを創りたかったから高校を出てすぐに、木工の親方のもとに弟子入りしたって。それなのに、事故で指を失って、今度は生きていくためのジョブを、昔の宮大工にも負けない仕事をしたいって夢を、捨てるって? …それってずるいよ、自分の能力に対する裏切りだよ。絵を見失ったときに次の目標を立てたように、壮太なら今度もきっと何かを見つける。京はあなたの、ぜったい負けないっていう心の底力を信じているから、貴方が好きだから、同情なんかしない。いますぐ飛んで行って一緒に泣きたいけれど、そんなこと、しちゃあいけないんだ。そう思う。今度のお給料でノートパソコン買って送る。だから、苦手だなんて言わないで、キーボードを心で叩いて、お便りをください。あなたの元気な声、待っています。
 壮太の居るところから少し遠い長野から。みやこ」
 ――『さすがペンパルだよな。距離を置いたんだろ京、結局…』
 そこから先は、口にしてはいけない。たとえ心の中だけの声でも。いま一番。いや、俺の人生で一番、言葉にしてはいけないことなのだ。
『やっぱり京だけは、最期まで信じていたい。そうでなくっちゃ俺って、寂しすぎる』
 水っ洟(はな)が鼻から垂れた。溢れ出た涙が、それに追いついて重なった。 

  

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comments
232. takako さん
おはようございます。
ブログ村デビューおめでとう!!
山梨からも覗いてくれとありましたよ~
私の原点・・・それは単純に『両親』ですね。
良くも悪くもそこからが全て
生きることを教えて貰ったのですから
迷うことあれば原点に
今一度戻りましょう!
荷物の件、重ならないよう連絡取り合いましょう   孝子
2015-08-26 08:07:45 | [編集]

233. 蛙声爺 さん
 ありがとうございます。

 相変わらず忙しくしていますか。
 原点は「両親」、羨ましい気がします。
 何かをしてあげたい「自分の気持ち」と、してもらうことになる「相手の気持ち」のすり合わせ。双方で「相手に良かれと思って」なので、かなりデリケートですよね。
 でもその「すり合わせ」の熱は、双方の心を温めるような気がします。
 そう信じて動きましょう。

 私は「山籠り」で「1人」と「独り」の違いを知りました。「食べる」「排泄する」の意義も。とくに一生の仕事にすべきは、「好きなもの」がベストだということを。
2015-08-26 09:01:35 | [編集]

234. 紫水晶 さん
こんばんは。

思わず、一気読み
こんなに文章に引き込まれたのは久しぶりの
感覚で、ドキドキしてます。

人間は弱いな・・・私も含め・・・だから弱い人を
見ると安心するのかな
みんな一緒だよ・・・って
(あ、この辺は独り言みたいなものです><)
2015-08-26 19:46:13 | [編集]

235. 蛙声爺 さん
 自分の弱さをまっすぐに見つめられる人って「強い人」ですよね。
 本当に弱い人は自分を見詰めないように、横を向いて人のせいにしたり、妙に強がったりしますからすぐに分ります。
 でも人間の弱さが、絵や歌や詩を創り、文化を豊かにすることも忘れてはいけません。なんちゃって爺さんです。
 あと1回で終わる短編ですが、あしたはバイトが入りましたから、金曜完結です。ラストの彼女と雪中で会うシーン、彼の幻想で結局死ぬのか、現実でハッピーエンドなのか、見方が2分されていました。どちらを採るかは読み手の方の気持ち次第です。
2015-08-26 20:39:50 | [編集]

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蛙声爺

Author:蛙声爺
文芸同人誌編集をしています。
考えるフクロウが理想。
木内光夫のHPもよろしく。

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