蛙声爺の言葉の楽園

. 目をいたわります。これからは時々帰ってきます


 当分の間、眼をいたわるためにパソコン作業量を必要最少限にいたします。ブログ記事が極端に減りますので、もしよろしければ、カテゴリ別の過去記事をお訪ねくださいますよう。
 いつもいつも、ありがとうございます。 
 


     発行済みの爺の本
 

 五冊目の単行本をめざして550枚の長編小説に挑んでいます。上掲の写真は発行済みの私の小説本です。(蛙声爺)
 
    

. もうそろそろブログの引き上げ時なのかも


 かねてから私は「自分の身の回りに起きることはみんな意味がある」と思っていました。昨秋から連鎖しているパソコン系のトラブルは「もうアナログへ帰れよ」ということなのかもしれません。目の悪化を防ぐためにも、パソコンの利用は最低限にすべきだと分ってもいます。すでに眼医者行き、のレベルに達しているのですから。
 2013年7月11日に始めたブログ『蛙声爺の言葉の楽園』は先日、記事700回を超えました。もう5年近くの歳月が流れていたのでした。今朝、初回の記事を見ていたらこんなことが書いてあり、思わず苦笑いをしてしまいました。

 つまらぬものの言う言葉をも意味する『蛙声がなぜブログなのか。とかくこの世は住み難い。爺が口をきく場がないのだ。職場でものを言えば唇が寒い。うちへ帰れば発言権が無い。では公園にでも行ってと、可愛い幼子に話しかければ誘拐犯と間違えられる。スーパーでまともな苦情を言えばクレーマー扱い。やむを得ず壁に向かって何やら話しだせば、百パーセントぼけ老人だ。文芸好きだからといって、読み聞かせの場がそうあるわけもない。 というわけで、お世話になるのがこのブログ』

 終わりに近いのだから、せめて1か月でも毎日更新をやってみようと思ったのですが、それすらいろいろありで、穴を開けてしまいました。なかなかどうして、トラブルは機器にも人間にも付き物のようでして。そうそう今日の業者修理で解かったこと。それはウイルス感染でした。良く分かりませんが、故意にやられたらしいとのこと。怖いですね。もう海外の反応など、絶対にアクセスしません。ネットを開くと出てくるマスコミ系の注目記事一覧も、子細に検討すればほとんど読まなくてもいいものばかり。サーフィンをして目を傷めるのも考えものと、思うようになりました。 

 今度はパソコンに異状が出たとしても修理しません。そのままデジタル・リタイアをするつもりです。読むのは本・雑誌の活字のみ。通信は手書き。急用は電話でお願いするつもりです。「昭和への回帰」、もしかしたら老いてきた私には一番の道かもしれません。だいいち、お金ばっかりかかるのですよ、デジタルは。 



    苔むす

         堅いだけではいま一つ。苔むして初めて価値が出ることも
  

. トラブルばかり襲ってきてめげる


 またパソコントラブルが発生し、午後はひとりでドタバタ。結局また、いつもの業者に出かけて症状を説明しました。明日の午前中に修理です。さすがにめげますね、今年何回目でしょう。
 今朝も3時起床でしたから、もう頭も働きません(^^♪


     草の名しらず

       不思議な草、誰かが綿をこぼしながら歩いたような


 『僕等が過去を飾り勝ちなのではない。過去の方で僕らに余計な思ひをさせないだけなのである』
    ( 小林秀雄 )



. 箪笥が倒れてきて死なないように


 大阪の地震報道を受けて、自宅の家具の倒壊防止策を再点検しました。
 1 か所不備を見つけてホームセンターへ。今まで箪笥を支持する箇所が1点だったので、天井へのツッパリ棒を増やすことにしたのですが、在庫を当ててみると長さが足りません。つまり箪笥の身長が低すぎるのです。そこで一計を案じ、ラチスフェンスの脚止めを2つ購入することにしたのでした。帰ってすぐに組み、その上に棒を立てました。成功です。
 ただ、何か不細工です。とくに土台部分の木組みが部屋の雰囲気を壊していました。棒自体は白色なのでそれほど目立ちません。
 ふと周りを見渡すと良い奴が隠れていました。
 文章で書いても想像しにくい思いますので、恥ずかしながら写真を撮りました。
 ちなみにうちは、70と71の老夫婦です。


    ツッパリ棒の上




    ツッパリ棒の土台
 
 
 ヘッドホンはこの子が地震情報をキャッチするためのものです。支え役も兼ねています。


. わが青春の「ちばてつや」


 1958年と言いますと爺が11歳のときになりますか、その後「まんが」に夢中になるきっかけを作った漫画家ちばてつやが『ママのバイオリン』を発表したのは。それから1973年(私26歳 )に連載が始まった『のたり松太郎』に至るまで、この作家は私の青春時代の心を彩ってくれました。生来体が弱かった私は自分でも絵が好きで漫画らしきものまで描いていたのです。人によって異論はあるでしょうが彼の作品の特色は、人間に対する「優しいまなざし」でしょう。主人公にライバルは創りますが、根っからの「悪人」は登場させないのです。もう一つは、少年漫画と少女漫画の双方にヒット作を生み出したことです。その多くは『少年マガジン』と『少女フレンド』を発表の場にしていました。もっとも漫画にヒロインを据えた先駆けは手塚治虫だと記憶してはいるのですが、私的にはちばてつやの作品に魅かれ続けたのでした。

 誤解のないように書きますが、少年少女雑誌に連載中に全て見ていたわけではありません。自分で毎回雑誌を買うお金もありませんでしたし。ですから貸本屋だったり、人から借りたり、単行本になってから通しで読む機会があったりといろいろです。しかも18歳を超えてからのまとめ読みが際立っています。名作『あしたのジョー』前の作品はほとんど遡及的に鑑賞したとも言えます。

 懐かしいと思ってくれた人のためにタイトルを挙げてみましょう。もちろん私が見たものです。少女漫画からいきます。『ママのバイオリン』『ユカを呼ぶ海』『リナ』『1・2・3と4・5・ロク』、このロクは犬の名前でした(^^♪ そしてもっともはまった 『ユキの太陽』、我が母の名がユキと同じなので? いえいえ少女漫画のヒロインのイメージを一変させたからなんです。『島っ子』『アリンコの歌』『テレビ天使』と、いやぁ凄いですね、少女ものですよ、ヘンタイ・オタク?
 疑われては何ですので少年漫画に移りましょう。古い順です。『ちかいの魔球』『ハチのす大将』『紫電改のタカ』、笑い転げた『ハリスの旋風』、そして不動の一番『あしたのジョー』、矢吹丈のライバル力石徹の葬式が東京音羽の講談社で行われたとき、私は直近の牛乳販売店でアルバイトをしていました。「マンガの登場人物の葬式?」と仰天したのを憶えています。あとは一見高慢チキに見える美人のお嬢様、「あのひと白木葉子」のジョーに対する深い愛には惚れました。で、『おれは鉄兵』そして『のたり松太郎』と続きます。

 近年はコミックや、「動くコミック」としてのアニメーションに対する世間の評価が変わってきましたが、私の青春時代では、いわゆる「教育ママ」や「視野狭窄教師」が目の敵にしていましたね。「そんなくだらないもの見て!」「マンガばっかり見てんじゃないよ勉強しろ」「マンガなんか捨てろ」「バカじゃないの」…さんざんだったようです。私が直接罵倒されなかったのは親が「教育」に無頓着だったからです。この点は有難いことでした(^^♪。。
 いまも同じように低評価している方、いまや「コミック」や「アニメ」は世界を席巻する日本文化です。
 よろしくお願いします。
  



    流れは続く 

    私の中で「流れ」はつづく。手塚治虫→ちばてつや→あだち充



. 夕餉の「映画館」復活


 以前難聴のため夕食時にDVDを鑑賞をする「夕餉の映画館」をやめたことをブログ記事にしました。そこで「BGM」的な感覚で夕方のニュースショーを視ることになったのですが、各局とも嫌というほど続く半島関連問題、しつこい刑事3面記事、偏向報道、飽くなき飲み食い情報などでストレスが溜まり食欲が萎えて仕方がないので 、かみさんと相談の上DVD鑑賞を復活させました。とは言っても聴力が復活するわけもありません。そこで選ぶのは当面2種類になりました。48作ほどある『男はつらいよ』シリーズと、スタジオジブリの長編アニメ全作品がそれです。共通点は、すでに複数回鑑賞していて、完璧に聞き取れなくてもストーリーはほとんど問題なく把握できるということ。モニター画面を凝視しなければ筋が分からなくなるという心配もありません。

 再開してからだいぶ経ちますが、新しい発見もあり、けっこう「家内興行」的には成功しています。『男はつらいよ』は『水戸黄門』などと一緒で1作ごとの展開がワンパターンになっています。ここで身内とケンカをして旅に出るな、この辺でマドンナに出会うな、もう片想い、お約束の「事件」と失恋、そしてまた旅へ。結局その回のマドンナに興味があるという結論になります。シリーズでは4作品でしたかね、最多出場は浅丘ルリ子の「リリー」で内容もかなり濃密でした。このシリーズで単語を並べて特色をあぶりだしてみました。羅列で恐縮ですが、かえって納得されるかもしれません。甘え、お節介、身内、身勝手、請け売り、口喧嘩。一目ぼれ、勘違い、片想い、背伸び、照れ、見栄、臆病。文無し、地域社会、教養差、放浪癖。それでも観てしまう不思議。それが山田洋次マジックなのでしょう。私は「意図されたマンネリ」がマジックの種だと踏んでいます。

 ジブリアニメの方にも、個人的に見直し分類が起こりました。まず食事時なので避けた作品ですが、宮崎駿の『もののけ姫』と『千と千尋の神隠し』。実は私の中での全作品中の1位と2位なのでした。高畑勲の『ほたるの墓』も避けました。好きな順位で上昇してきたものもあります。宮崎の『耳をすませば』『風の谷のナウシカ』と高畑の『おもひでぽろぽろ』です。初見ではあまり評価できなかった宮崎吾朗『コクリコ坂』も急上昇しました。鑑賞している環境の差で変わるというのは面白い発見でした。

 それでも、ちゃんと鑑賞するにはパソコンでヘッドホンを使わなくてはならないことに変わりはありません、難聴ですから。となると、レンタルDVDではだめなのでした。図書館から借りてくれば大丈夫です。初めて知りました。
 年をとるといろいろ工夫しなければならないことが多くなりますね。
 



    小室山公園

      「花」が無くても美しいって、人間にも言えるのかな、寅さん
     


. この地で生きる文芸同人誌、発行さる


 伊豆を拠点に平成9年から21年続いている総合文芸誌『岩漿(がんしょう)』の26号が発行されました。ちなみに誌名の意味は地下の「マグマ」のことです。心のマグマを噴出させましょうと叫んでいます。



     岩漿26号の表紙

       岩漿26号の表紙・とびら・目次です。


 今号は創刊以来最も分厚い261ページで厚さ1.2センチになります。中編小説5作のほか、「総合」の名にふさわしく掌編、エッセイ、詩、短歌、紀行とジャンルも豊富です。
 読書離れが進む昨今ですが、伊豆半島の文芸の根を絶やすまいとして資金的に苦しい中、がんばっているのが良くわかります。
 もし3年前にこういう書き方をしたら「手前味噌」「自画自賛」になって見苦しいのですが、健康上・経済上の理由により会員を辞めたいまだからこそ口にできるわけです。もっとも、今回は非会員からの「投稿」で参加する流れになっています。そうなんです、この文芸誌は非会員の投稿を歓迎しています。

 もうすぐ伊東市の「サガミヤ書店」(検索可能)で発売となります。
 興味のある方は是非、お読みになってください。著名作家ではない代わりに、「素人作家」たちの不思議な視点に気づかれると思いますので。
 本日は、お知らせまで。ご容赦ください。


. 「梅雨空(つゆぞら)」の反対が「空梅雨(からつゆ)」だと気づいたとき


 早朝五時、気持ちが良いので散歩に出た。歩道から松川を覗くと鯉たちが我先にと寄ってくる。人が上に見えたら食べ物をくれるのだと条件反射的に捉えているらしい。残念ながらコンビニに行く途中だ。冷たくその場を離れる。民家と商家の間の道、かわいい凌霄花(ノウゼンカズラ)が頬に迫った。少し身を離してお辞儀をしてみる。奈良の鹿ではあるまいし、返礼のお辞儀は無いに決まっている。花びらをちょんと突いて先を急ぐ。広めの路地に目をやると、3匹の地域猫が顔を突き合わせて何やら話し込んでいる。止まって見ていたら1匹が「行けよ」と言わんばかりに首を横に振った。ヤンキーかもしれない。猫パンチが怖いのでサッと目を逸らした。

 コンビニの駐車場に足を入れた時、前方から小太りの中年男が顔を赤くして走ってくるのに出くわした。楽しいのか苦しいのか分からないがたぶん、帰りに甘いもの欲しさにここに立ち寄ると予想した。中で新聞と赤のボールペンとブラックブラックを買おうとレジのところに居たら、やっぱり入って来た。失礼なので何を買うのか確認するのは避けた。外に出たとたんクスッと笑ったことは笑った。

 信号機もなく、めったに車も来ない時間なのに横断歩道を小走りでわたる。「歩道」であって「走道」ではないのに。そういえばネットで『海外の反応』を見ていたら、『車が全然いないのに信号が青になるのを待っているバカな日本人』というコメントがあった。確か「どいつ」だ。他人さまは知らないが自分はまさに「バカ」が当てはまる。早朝でも、信号や横断歩道は避け何もないところで、安全を確認してから道路を横断する。どこがどう違うのか。「信号無視を万一子どもに見られたら…」と、それが癖になっているのだ。

 アユ釣りの人はまだ誰も居ない。いつも見ていたサギもどこかへ去ったようだ。心なしか川面が寂しい。
 前から来た巡回のパトカーが左折して消えた。訳もなくホッとする自分がいる。はっきり言って人相がいい方ではない。顔だけで無慈悲に職務質問を受けては、平凡な爺としては立つ瀬がないからだ。
 そうこうしているうちに終わった散歩。歩数は3000程度だった。
 悔いがひとつ。「あんこも欲しかったな」
 
 



    動と静


       懐かしいので「再録」: この子もたしか独りだった


. 何となく体調悪いです


      ほんとに「夜明け」なのかな

     夜明け



      真実は見ないほうがいいのかも

      まだ「夜明け」とは言えない



      むしろ暮れているような

     夜明け3


      それって「老人」の終わらない日々のこと?


     『自己を俎上にのせるほど壮絶なことはない』 (丹羽文雄)



    

. 小さいけれど「科学の罪」?


 人間て科学で自然を支配できると思ってるのでしょうか。もし出来るとしたら何だか味も素っ気もなくなってつまらないですよね。第一これからの人間の感性や判断力、大丈夫かな? おおきなお世話ですが。
「ねえ、まだ3月なのにチューリップ満開だよ」と驚く子どもに係の人、「球根を冷蔵庫に入れて勘違いをさせてるんだよ」
「いまは胡瓜の旬じゃないだろ」と知ったかぶりをするとかみさんは、「スーパーに1年中出てるから旬なんて無いの」
「これ古くないかな、臭うぞ」と助六寿司を掲げたら仲間が、「大丈夫、賞味期限の日時確かめたから」
「こんな山林の中に工場は無いよな」と不安を口にしたら助手席の友人、「カーナビだとここだよ、間違いないって」 
「きょうは折りたたみ傘を持ってお出かけください」とお天気お姉さん。俺「どんな傘持っていくかは自分で決めるよ」
「明日どこで待ち合わせる」と男の子。すかさず女の子は「スマホ見て、おすすめデートスポット出てる」

『菜の花や月は東に日は西に』(蕪村) この17文字の大パノラマも、科学で説明しますかねぇ。味気ないな。「月にウサギなんかいないよ、クレーターの影じゃないかなぁ」と子ども。童話もあぶないな、きっと。
 「今日の午後4時ごろから強く降る恐れ」と知らされて実際降った雨を『にわか雨』とは言えません。急に話を飛ばして何ですが「ゲリラ豪雨」など美しい日本の雨の種類に比して恥ずかしいネーミングです。「小糠雨(こぬかあめ)」「霧雨(きりさめ)」「驟雨(しゅうう)」「時雨(しぐれ)」「五月雨(さみだれ)」と比較してみて。「雨」の読み方がみんな違うという奥深さに感嘆します。「篠突く雨(しのつくあめ)」もいいし、「遣(や)らずの雨」なんて色っぽいのもあるんですから。アニメファンの人は新海監督の『言の葉の庭』にでてくる雨にちなむ万葉の和歌(相聞歌※)を思い出してください。
 宣言までされて入ったはずなのにちっとも降らない。「カラ梅雨」はじつは『梅雨』ではないのです。桜の「開花宣言」もそうですが「自然がすることをいちいち宣言するなって」。当たった、外れたは「自然」概念に反するでしょうに。

 朝、サッシ戸の向こうのどんよりした空を見ていたら、つれづれにと言いますか無計画に書き始めてしまいました。
 今度、梅雨らしい弱弱しい雨が降る朝にでも、この続きを書きたいと思います...


 ※『鳴神(なるかみ)の少し響(とよ)めてさし曇り雨も降らぬか君を留めむ』
 

    風のせいで

         風のせいで穏やかな湖はぶれて波立つ
     
 

. 医者と床屋は「馬が合う」を基準に選ぶ


 ほかのブログを訪ねたとき、理髪の話にコメントで参加しました。じつは私、伊東に住所を映してから三軒「バーバー」を換えたあと、現在の11年続いている店に定着しました。「浮世床」ではありませんが、床屋さんは話し好きが多い印象ですが、いまの女店主もお客と明るくおしゃべりをしながら仕事をします。それだけなら長年通ったりしないのですが、スピードが速く、且つこちらの「注文」にピタリと合わせてくれるのです。何でも彼女の亡夫が、生きていれば私と同じ歳なのだそうです。もっともそれで良くしてくれるわけではないでしょうが、とにかく感じがいいのです。チョキチョキやっている最中に、常連の人がちょっとした差し入れをしてくることも多々あり、彼女の人柄に対する周囲の好評価を実感したりします。
 余所はいざ知らず、とにかく伊東は理容店が多いらしく、「競争」もはげしいとか。娘さんと二人で住んでいますが、店は彼女1人で切り盛りしています。私も毛髪があるうちはずっと通う予定です。
 そうそう、いろいろ談笑しているうちに私が小説を趣味にしていることが話題になり、現在は上梓した4冊の単行本が小さな「待合所」に並んでいます。順番を待っている間に読んでくれるお客もいるそうで、挟まれている「栞」も確認できました。嬉しいものですね。

 「馬が合う人を選べ」とアドバイスをくれたのは同級生の医師で、床屋さんではなく「内科医」に関してでした。彼は横浜の開業医、私は伊東在住。「通院可能な範囲で馬が合う医者を探すのが一番」だというのでした。外科的な観察も処置もしない内科では、医師と患者の意思の疎通が不可欠です。問診、触診、打診、特に問診は最重要かと思いますので。いまも診察室から漏れてくる両者の会話を聞いていると、ほとんど他愛もない内容です。でも、その中にこそ「信頼」の共有があるのでしょうね。
 私も糖尿の治療でそういう医者を見つけました。もう7年目を迎えています。
 
 いずれにせよ、人と人との出会いはたいせつですね。



     付き合う?


       「つきあってみる?」 「はやく声かけろよ」


. すませました特定健診、健康は貯金と同じ


 6月1日から受診可能になった2018年度の特定健康診査に行ってきました。といっても、検査項目のほとんどが採尿、採血した検体の専門的な分析結果にかかるものなので、そのほかの血圧やメタボ判定のための測定が済めば早々と終わっています。私の場合、毎月の投薬を受けるための診察が別途加わりますので、それなりの所要時間になりましたが。
 特定健診の結果は1週間経過後に病院で確かめることが出来ます。

 実は私、数年前まではほとんど受けませんでした。受診しなければ市の負担をそれだけ減らせると考えていたのです。食後高血糖で通院していたことも理由の一つです。ところが市の実施率が一定の率を超えないと国からの助成金が減り、国保や市民に不利益が生じると判ったのです。「常習的に受診しない者」を啓蒙すべく訪問指導をしていた人に諭されて分かりました。因みに市国保の目標受診率は52%だそうです。「協力」出来て幸いでした。

 地方公共団体によって区々なのでしょうが、私の住む市では、男性である私に向けられた受診の奨めは、「検診」と名の付く主だったものでも以下のようになります。「胃がん」「肺がん」「大腸がん」「前立腺がん」「歯科」、さらに「健康診断」カテゴリに入る今回の「特定健康診査」、これとは別に「人間ドック」「脳ドック」などがあります。
 ここには「治療」から「予防」へと行政の目が広がったという流れがあるようです。罹患してから長期治療になるよりも予防する方が保険財政上の負担が軽いからです。市民としては「有難い」ことではあります。
 配布された広報には「健康マイレージ」の案内まであって、これにはさすがに市の真剣度が伝わってきたものです。

 いいと分かっていても受け損なう案内があります。例えば今年の3月末に私の生年月日に対応する助成金が終了した「肺炎球菌予防接種」がそれでした。病院の廊下に貼り出されていた2018年度の案内を見て知った次第です。もっとも、助成金の対象ではないのですが、自己負担で任意の予防接種は受けられるようです。
 ご存知のように肺炎は①がん②心臓病に次いで③位の死因ですが、その肺炎での死亡者の95%が65歳以上とのことです。私は71ですから、年齢的に罹患は「やばい」です。後悔先に立たず、ですが。

 それにしても健康は安上がりです。また、老後の備えとしての「貯金」と同じです。
 この2日間、身に染みてそう思いました。



    公園の亀



. この年で学ぶ俳句集からの文字と言葉


 先週土曜日に俳句の結社で主幹をしている知人から五巻目となる『句集・何』が送られてきました。早速鑑賞をはじめ、パソコンで目が疲れるたびに飛びついて読み、土日丸2日をかけて味わいました。全136頁、質の良い書籍用紙で1頁に5句ずつ配されたもので、俳人数は22と大勢でした。誰も居ない小さな部屋で1句ずつあたっていく静かな時間。何となく日々追われていた自分が解放されたような気になりました。

 今回ご紹介しますのは作品自体ではありません。鑑賞中にサッと読めなかった「漢字」と初めて見た「ことば」を並べてみようと思ったのです。齢71、これまで自分ではかなりの文章、作品に接してきましたが、この年になって学ばせてもらいました。机の脇に大辞典と大部の漢和辞典を置いて、その都度調べた時間。それもまた学校時代、独学時代を思い出して何度も頬をゆるめたものです。
 最後に感想をしたためて書簡にしましたが、今日はあいにくの雨。まだ投函には行けず、封筒はこのときも傍らにあります。作品そのものには触れていませんので、ブログの方が先になってしまった失礼は許していただきましょう。
 
 【漢字】「 」の中が苦労した読みです。
 「耿耿」こうこう。気にかかることがあって心が安らかでないさま。 「鵙」もず。おなじみは百舌ですね。 「魞」えり。これは漢字でなく国字でして、魚を入れて捕らえるしかけの種類でした。 「妣」ひ。なきはは。亡母ですね。 「料峭」りょうしょう。春の風が寒いことの形容でした。

 【ことば】
 「雪しずり」雪垂り、とも書く由。枝に積もった雪が落ちること。またはその雪。 「喜雨」きう。日照り続きのあとに降る雨。 「水馬」すいば。馬に乗って水の中を渡る術。 「目の子算」めのこざん。数量などを目で確かめながら計算すること。

 いかがでしたでしょうか。俳句には、現在めったにお目にかかることが無い、美しい日本語がたくさん使われています。言葉から季節が導かれる「季語」がそれをより一層優雅なものにしているのかもしれませんね。 
 

 長編小説進捗度 6月11日現在 400字詰×300枚 (予定550枚)


    光と水

     (再録) 水清くして魚棲まず。ただしいまはアユ解禁の時季、たくさんいるそうな。



. 70歳まで働いてもらいたいとは言うけれど(2)


 60歳、65歳で一区切りを終えた人が、まったく別の会社、職種、職場に対応することは現実問題として厳しいでしょう。本人の自己評価はこの際別にして客観的にみれば、知力、体力、気力の減退は否めないからです。最近見た何かの記事には、『40歳を超えた従業員からは新しいものは何も出てこない』などという経営者もいるくらいです。まして60代においておやということになります。一方で、人手不足解消の一助として高齢者にも働いてもらう必要があるという政府。ではどうしたら可能なのかという話になります。

 全産業的ではなく部分的な効果しか期待できないかもしれないのですが、『終身雇用』の復活が考えられます。 定年まで「現職」だった仕事なら冒頭の「障害」を最小限に抑えられるからです。(1)で町工場の熟練工を例に出しましたが、熟練度が命という「作業」を中心とする部署については特にお勧めだと思います。何も労働契約の基本方針を全社一律にする必要はないのです。
 もう一つ確認しなくてはいけないのは、ここにいわゆる「終身雇用」に「年功序列」という制度をくっつけないことです。そもそも「定年」の必要性は、高齢になり労働価値が低下しているのに賃金が高い、また地位まで高いので後進のやる気を削ぎ更新に支障が出るという弊害のせいでした。「愛社精神」や「全社団結」、「技術、伝統の承継」など高度で精緻な産業の発展に貢献したにもかかわらず国際化の中で衰退したこの『終身雇用』の復活。それはもしかしたら、「時代に逆行」ではなく、「時代の寵児」になれるかもしれません。

 新・終身雇用を可能にするには、「基幹賃金A」をきめる「作業」を絞り込む必要があります。そしてこの部分は終身保証しなければなりません。言い方を換えれば、一般定年後の報酬額はこの部分だけでいいとするのです。物価スライドなどは当然必要になります、なにせ半世紀にもなろうかという長丁場なのですから。就職から定年までの一般期間の「総合賃金T」は、このAに労働基準法が定義している「賃金」の中に入るものでA以外のもの「賃金B」を 加えることになります。例えばですが、役職手当、皆勤手当、特技・資格手当、家族手当、超過勤務手当。持ち家などで会社から住宅の貸与などを受けていないのに均衡上一定額が支給されるという意味での住宅手当もこの中に入ります。
 
 実はこの考え方に近いものが最近訴訟として問題になりました。原告の主旨は「同じ仕事をしているのに非正規雇用者の賃金が低いのは同一労働同一賃金に反する」というものでした。しかしこの「同じ仕事」の中身を詳細に分類・検討しないと「反する」かどうかは判定できません。原告の主張は上の「基幹賃金A」に当たるものが正規社員に比較して低いと限定する必要があります。役職が無い、所定の家族が無い、資格も特技もないなど、そういう人が「同じ仕事」なのに自分より高い賃金をもらっているのは可笑しいと訴えているかもしれないからです。きっと裁判所は、給与内容を精査すべきと指示すると思います。

 すこし広げすぎたかもしれませんが、要するに慣れ親しんだ環境と作業で70歳まで「現役」でいられるような制度作りが必要でしょうといいたいのです。所定の高齢者を一定期間雇用すれば助成金を出すというやり方だけでは、助成対象労働者を一定期間後に取り換えるだけで儲けようとする経営者を喜ばせるぐらいで、根本的な解決にはならないと思うのです。
 またこの考え方は、新卒者との労働契約だけでなく、中途採用や配転の場合でも同様です。
 長々と失礼しました。
 



      水車


        水車は自分の力で回っているのではありません  

. 70歳まで働いてもらいたいとは言うけれど(1)


 自分が71歳になって思うのですが、タイトルどおり、国の計画はなかなか難しいのではないでしょうか。
 日本人の平均寿命は、女が87.14で男が80.98です。これは2016年時の死亡率が不変と仮定してこの年の0歳児が今後何年生きられるかという数値にすぎませんが、いちおう最新のものとして使いましょう。政府は可能な限り70歳まで現役として働いてもらおうと考えているように思えます。すでに、厚生年金の「当然被保険者」は70歳未満の者としていますし、70歳以上でも所定の要件を満たす場合は、「在職老齢年金(高在老)」の仕組みから老齢厚生年金の支給停止の対象になっていて各種の届出を求められています。「当然」の文字が躍っていますね。また雇用保険でも65歳未満の「一般被保険者」の他に65歳以上の「高年齢被保険者」を創出しています。これらは1例にすぎませんが、視点を変えれば労働者保護にも映るこれらの狙いは、保険料はできるだけ長期間納付してもらい、支給総額は減らしたいということでしょう。
 
 よく言われていることですが、定年退職の年齢と年金支給開始年齢には5年の開きがあるようです。かつて55歳定年時代では60歳で開始、60歳定年では65歳で開始。現在がここですが、実は、就業規則で65歳定年とすることを求め、できない場合でも事実上65歳まで継続的に働けるようにせよという「縛り」ができていますので、現在は実質上65歳「定年」といっても過言ではありません。だとしますと、5年の開きを付けたいので年金支給の開始は70歳が目標になるのです。上で例示した法的な動きも「着々と」という感じを受けます。なにせ優秀な官僚のすること、目だたぬように少しずつ確実に歩を進めるわけです。

 少子高齢化が進み生産年齢人口が漸減して止まらないのですから、財政上仕方がないのかもしれませんが、何か見落とされているような気がします。今、男性だけで見てみましょう。70歳から平均寿命81歳まで10年ほどしかありません。大卒で半世紀近く働いても10年しか年金がもらえないとしたら、若者は何を考えるでしょう。また、70歳まで働けるかどうかは「平均寿命」から導くことはできません。百歩譲って寿命を指標にするなら「健康寿命」の平均値ではないでしょうか。ただ、実際にはここにいわゆる「健康」の定義自体が難しいので数値は出せないとは思いますけど。

 いくら国が欲しくても「70歳定年制」を採れる企業はほとんどないと思います。伝統工芸の職人、町工場の超熟練工など70歳定年どころか終身勤務すら歓迎される特殊分野は別ですが。定年についての議論は65歳で終わると思います。だからこその支給開始年齢の引き上げなのです。最後のチャンスですね、国の。いつかきっとやると予想しています。
 いまでさえ多くの場合、65歳から70歳までの空白の5年間を埋めるものはないでしょう。巷のコメントには「退職金」を取り崩してつなぐというものが多々あります。しかし公務員や大企業の社員だった人を除けば無理筋ではないでしょうか。 「雀の涙」から退職金ゼロまで底辺の裾野は広いと思います。
 つまるところ「自己責任論」から引かれる「預貯金額如何」に落ち着くのかもしれません。それで良いかは別個の問題として。

 

      アオサギ


      背を向けて、立ち姿がうつくしいサギ。これって何のこと?     

  
     

. (事件) 平仮名だけの文だから見えてきてしまう


 テレビ報道で何度も視たのに、事件が発覚した日付も、被疑者二人の氏名も、被害者の名前もまったく憶えていない爺の頭ですが、公表されたひらがなだけの幼な子の日記(メモ)が忘れられないのです。

 メモの文章の向こう側に「おとな」の顔が透けて見えてしまうから。
 口移しで書かせたように感じられるから。
 家庭内の支配関係すら想像できるから。
 その「おとな」は誰で、誰にメモを見せようとしたのか。
 あるいは、
 「しつけ」でやっていたという証を創っていたのでは、と思えてしまうから。

 もし、そうではなく、幼な子が自分の心と頭で創った文だとしたら、
 それはそれで、失われた文才に、涙するしかないのですが・・・
 爺にできることは、心から合掌することだけでした。
 「奪われた命。あまりにもひどすぎる」  




     暗い川

     愛ならば流れる向きも明るさも、色でさえも違っていたはず





. 不可解な「小悪魔」



         不可解な「小悪魔」


 昭和六十年代だったと思います。「戦後強くなったものは靴下と女」という表現が揶揄(やゆ)的に使われました。私見では、女は有史以来ずっと強かったはずですから、これは男からの視点でしかありません。「女」と並列的に持ち出された「靴下」がその証左で、対照的に弱くなった男の報復のようなものを感じます。一昔前までは、草食(ベジタリアン)は女と相場は決まっていたのですが、昨今では草食男が巷に氾濫し、肉食女が跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)しているとのこと、懐古主義者の憂慮ここに極まれりでしょう。
 そういえば、ここ十数年戦争映画が頻繁に創られてます。以前「男が男であった時代」というキャッチコピーでヒットした青年将校を扱った映画がありましたが、言いえて妙で、たしかに男が戦乱を招き、その渦中でのみ男が男として輝くのでした。してみれば「女の増殖・増長は平和の証」、せめて実害のない銀幕の世界で、男は憂さ晴らしを、女は逞しい異性の具象化を、それぞれ図っているのかもしれませんね。
 
 さて、以下の記述は、「弱き者汝の名は男」と指弾された貴方の溜飲を、きっと下げてくれるに違いありません。「七出三不去」という言葉をご存知でしょうか。気が遠くなるような昔の律令制の下での掟です。男が離婚して女を叩き出せる「棄妻(きさい)」項目が七つありました。

 ①「無子(むし)」妻が五十歳になっても子を産めなかったとき。
 ②「淫疾(いんしつ)」妻が不貞を働いたとき。
 ③「不事舅姑(きゅうこ)」妻が夫の父母に仕えなかったとき。
 ④「口舌(こうぜつ)」妻がおしゃべりだったとき。
 ⑤「窃盗(せっとう)」妻が盗みを働いたとき。
 ⑥「妬忌(とき)」妻が嫉妬深いとき。
 ⑦「悪疾(あくしつ)」妻が悪い病気をもっていたとき。
 現代の女性にしてみれば、噴飯ものの規定に違いありません。
 ただし、②と⑦以外の自由については、妻が復帰する家が無いとき、舅姑の喪に服したとき、貧賤であった者が結婚によって富貴になったとき、の三つの場合は去らせることが出来ないとされていました。この点は、不条理満載の内で一定の配慮がうかがえます。

 え? 読んだら夫諸氏の羨望がなおさら募った、ですか(御免深謝)。
 それにしても、勝手なもので、なんの手枷(てかせ)も掣肘(せいちゅう)もなく気ままに出来るようになると、「男らしい男像」を求めて戦国武将ブーム到来だとか。皆さん、巨人だけではなく「小悪魔」も不滅です。
 


       虹の郷でシャッター

          ぷくぷくでもかわいいのです、さみしそうですが


 「W10」の自動更新予約のバタバタで午前中は何もできず。こちらのミスなのかさっぱり…


. どうすれば円満に? 席を譲る敬老マナーの行方


 あるコラムでお年寄りに席を譲ろうとしたのに断られ恥をかいた、なぜ善意でしたことが「トラブル」化してしまうのかという趣旨の問題提起がありました。社会常識としての敬老精神と、個人としての矜持や遠慮という美徳がバッティングしてしまうわけで悩ましいことではあります。
 じつは私も若いころ十回は経験しているのです。譲ったのにハッキリ断られたり、遠慮されたりで、周囲の失笑まで感じてその場を去ったということが。以来私はガラガラに空いているときを除き、車内で立っているようになりました。気まずい思いをするのは「もうたくさん」ということが動機でしたが、柔道部出身だった私はトレーニングにもなるからと悦に入っていた記憶があります。そんな「元気だった私」も何と71歳、譲られる側の人間になりました。もっともいままで譲っていただいた経験は1度もありません。もちろん「なぜ譲らない」と腹立たしく思った記憶もありません。まだ体力がそこまで落ちていないことを喜んでいる感じです。
 とはいえ、この間東京・横浜に出て行ったときはさすがに疲れ果て、立っているのがかなり辛くなりました。私もそろそろ、ですね。

 譲っている人の行為と勇気に想いをいたさず断っている人の理由は「そんな齢じゃない」「まだ元気だ」「すぐに降りるので」などいろいろでしょうが、一方では譲らない「若者」「自分より年下の者」に対して「優しくない」「マナーも知らんのか」「躾がなっておらん」と憤る人もいて、現場では小さいながらも「精神的な葛藤」があるような気がします。

 まったくの私見ですが、車における「高齢運転者標」と同様の観点から公的な「徽章」制度を創り、「譲ってもらえたら嬉しいマーク」として、付けたその人が高齢、妊娠、負傷、障害などで「譲られたい人」であることを任意で表示するというのは如何でしょう。現在でも電車やバスにはシートないしスペース、つまり場所として「譲られたい人」が優先であることを明確にしています。本来ならそこに座れば上述の徽章を付けたのと同様の「告白」になっているわけですが、問題はその場所が埋まっていたり足りなかったりしていることからも生じているようです。ただ、視点を変え「人としてのあるべき姿」から考察すれば、車内の全ての座席は「弱者優先席」なのです。そうなると「弱者優先の気持ちとして譲ったのに拒否された」は、1対1の問題ではなくなります。
 母の日に赤いカーネーションを胸に付けたこの国のこと、「思いやりを感謝します」として、例えば小さな黄色い花などを胸につける、それも受け入れてもらえるような気がするのですが。目で見て分かれば安心して譲ることができます。

 最後に。「席を譲られたら、いろいろあるでしょうが、受けてあげるのが相手に対する優しさ」ではないでしょうか。「次の駅で降りるから」そうだとしても。そうしないと善意の輪、マナーの輪は広がらないように思います。
 「笑顔で譲り、笑顔で感謝」「安心して善意を、安堵して着席を」、そうなることを願いつつ。
 えらそうに、失礼しました。



      松川湖畔

       伊東市内でホタルが棲む場所の一つ。白や黄色の「花」が「ほたる祭り」に協賛か


. 刑事事件化が最適だったアメフト「悪質タックル」


 まったく気鬱な毎日でした。事件発生から1週間たっても2週間たってもテレビのニュースやワイドショーでトップの扱いだった日大アメフト部の「悪質タックル」問題が原因です。私だけかもしれませんが、事件そのものよりもマスコミへの失望が強かったのです。国際問題、国内政治、経済問題なんか糞食らえといった「虫眼鏡」的な大報道でしたから。

 事件はもう「耳にタコができる」ほどでしょうから割愛して、爺がなぜタイトルのように思ったのかを記したいと思います。
 報道の視野に置くものを小さくすれば騒ぎも小さくなり穏便に済ますこともできるというのが通常です。今回の件で対象が小さい順に並べてみます。①タックルした部員 ②命じたコーチ・監督 ③関係した①②の3名 ④日大アメフト部の質 ⑤日大の体質 ⑥日本のアメリカンフットボールレベル ⑦日本人のスポーツマンシップ ⑧日本人全体の民度 ⑨日本国のレベル、となります。
 国内の報道を見た感じでは①から⑤まで問うているようです。⑤に至っては事件とは無関係な日大生の就職活動にも影響が出ているとテレビニュースが報じていました。一番の被害者は該大学の学生と卒業生かもしれません。
 「悪質タックル」という、事件の取り上げ方に終始すると、事態が公平且つ鮮明に伝わってきません。失礼ながら視聴率最優先の「マスコミ裁判」だからです。事件をルール違反として矮小化し無視し穏便に済まそうとしたことが、かえって問題を大きくしたと捉えることができますが、最初から刑事事件として扱われているべきだったと思うのは私だけでしょうか。
 百回以上繰り返し画面に出されたタックル場面を見れば、アメフトに詳しくなくても故意と分かりますし、「全治3週間」と比較的軽傷だからよかったものの、脊椎大損傷や寝たきり人生まで想像される映像でした。①の起こした刑事事件として捜査を進めて行けば②③の問題はもっと早く明確な形で出てきたと思います。④⑤もしかりです。

 「じゃ、マスコミ裁判でもそこまで迫ってるじゃん」と言われそうですが、スポーツとして、マナーとして出発してしまうと、国内はいざ知らず、海外ではきっと⑥から⑨まで疑われる恐れがあるのです。国際大会で、オリンピックで、惜しみなく称賛されてきた日本のスポーツとマナーが、少なからず傷つくのです。まさに数十年かけて培ってきた信頼が数秒で失われる恐れ、なのです。前のピョンチャン五輪で日本の選手が薬物使用を疑われたとき、ネットでは「日本人もやるのかよぉ」と悲鳴とも落胆ともとれるコメントが海外から発せられていました。これは厚い信頼がおおもとにあったからにほかなりません。
 どんな国でもどんなスポーツ内でも「刑事犯罪」は起こりますが、その当事者で悪影響は止まるのが普通です。しかし、スポーツの世界での故意による「ルール」無視は影響が違うのです。
 「スポーツマン」は世界中の無数の人たちからリスペクトされているからだと、爺は思います。 



     マリンタウンのヨットハーバー

       水面穏やかなハーバーには防波堤がありました

       

. 1円でも高い方へ動くパートさん、じつはそこに


 今朝の散歩はたったの2639歩でした。昨日膝に違和感がありましてセーブしたのです。で、途中でコンビニに寄り経済新聞を買って外に出たときです。何となく目についた「パート募集」の掲示。昔の癖でつい立ち止まりました。テレビドラマ『ハケンの品格』風に言えば『お時給』が気になったのです。
 「850と950」の数字。これは勤務時間帯で違うのでした。一番長い対象時間帯では850円と解釈して良いでしょう。ひょいと横を見たら何と淡い茶色のウサギにリードを付けて散歩している小父さんがいました。ウサギの仕草の可愛いことと言ったら…。
 ま、それはさておき、歩きながらまた頭の中でゴチャゴチャと想いが巡りました。

 「どうせパートなんてよお、1円時給が高いってだけで余所へ行っちまうんだからどうしようもねえよ」とは現役時代に聞いた言葉です。当時「だからどうだというのですか」が正直な感想でした。身近でアルバイト、パートと言えばスーパーマーケット、コンビニ、ファミリーレストランですよね。営業時間が長いのと若人だけでなく主婦層を重要な働き手として想定しているのですから、パート形態での募集はむしろ必然と言えます。雇われる側から言えば、自分が働ける時間を選んで働かせてくれる稀有な職種、それが目玉の職場なのだともいえます。そして上記3種の仕事は、それぞれパートに求められている責任範囲と動きが類似しているのです。であれば、1円高い時給の方に魅力を感じても不思議はありません。働く動機からすればむしろ当然でしょう。また、募集に関してはこんなことを思いました。どうして「経験・実績で応相談」とか「能力、勤務成績により昇給もあり」が掲げられていないのかと。時給金額だけでしか募集の差別化を図れないとしたら、初めから応募する人の個人的な能力を考えていない店、会社と思われるでしょうに。モチベーションが上がらないと思いますが。

 現場では、基本的な時給850円に着目しました。ここは静岡県ですから現行の最低賃金は「832円」です。ええ、クリアしていました(2017年決定。2018年はまだ未確定 )。前年に比べて25円高です。この最低賃金は各都道府県ごとに決まっていて、東京都なら「958円」、最も低い宮崎・沖縄だと「737円」です。もうお気づきですね、上記3種のような一定地域内を想定した募集での時給でも、全国的な求職者移動を誘発するということです。特に遠方への単身移動が可能な若者について顕著でしょう。
例えば宮崎の子が東京に出た場合の時給格差は221円です。これに1日8時間、20日勤務で計算すればひと月で35360円の違いが出るのです。人口が首都圏に集中するわけですね。そういえば契約社員募集でも、東京の次に最低賃金が高い神奈川にしたという四国の人がいましたっけ。因みに横浜をいただく神奈川は956円/hです。

 この時給を月給にして考えると、「同じ仕事をしているのに賃金その他の待遇が違うのは差別」という昨今の問題にも行きつきます。でも使用者側にしてみると、待遇を同じにしたらパート、アルバイト形態で雇用するメリットがなくなるわけです。
 こんど「終身雇用復活はなるか」で続きを書きたいと思います。


       琉球朝顔

          川底の浚渫で根こそぎやられたと思いきや、たくましい!




. 自動車税で驚いたぜい!


 なんと5100円も増税だったんです。文字通り「驚いたゼイ!」
 5月1日、地元のショッピングセンターのATMで信用金庫の通帳に記帳だけしたのですが、前回からの動きを確認していて「ええ?」と仰天。家に戻るやいなやなぜなのかを調べ始めました。 
 昨年の自動車税は自動振替で「34500円」だったのが、今年の5月31日では「39600円」納税となっています。「増税の根拠は何」とつい口をついて出ました。
 ネットで「自動車税」を検索。さらに項目「13年経過の自動車税」にたどり着きます。
 『初度登録から13年経過したガソリン車とLPG車は自動車税が15%重課されます』
 これでした。5100÷34500≒0.15 計算的には納得です…34500×1.15=39675 (百円未満切り捨てか)でも同じ。
 いえ、どんな計算方法を採っても通帳に打たれた数字は減らないのですが(^^♪
 これ『平成30年度からの重課』でした。つまり今度が初めて。
 次いで前提となる「文言」に移ります。「しつこい!」ですって? 「慎重な確認」とご理解ください。『初度登録』とは税務官吏らしい語感ですが、さすが語訳が付されていました。『運輸支局(軽自動車は軽自動車検査協会)に初めて登録申請し受理された年月』だそうな。爺の車は中古の「デミオ」でしたが、初期登録は平成17年2月の登録でした。つまり1か月ちょっとあとの登録車なら今回の増税は逃れたのでした(脱力感産まれる)。

 増税の狙いは排気ガスの規制、エコ対策でしょう。『重課適用外』として電気自動車、燃料電池自動車、ガソリンハイブリッド車なとが並んでいるので明白です。
 ただ副作用的に出てくる「問題」もあります。ガソリンの値上げも視野に入って来た昨今、加えて重課となれば、車の買い替え圧力が高まることがその1つでしょう。最近の新車はエコ対策車ですから。税による「目的のある消費行動」の誘引とでもいうのでしょうか。新車購入による景気浮揚への期待も見え隠れします。
 もう一つは旧基準車両を廃車方向へ導くこと。これは私事として語るにとどめますが、71歳と高齢になりましたので、そろそろ運転自体を止める準備を始めなくてはなりません。免許証更新が来年の4月に迫っていることも良い契機です。さらに車所有に関する年間費用が25万円ほどかかることです。年金生活にはきつい数字です。どうやら今回の重課にとどめを刺されたような気がします。

 しかし高齢者だからこそ生活の上で車が必須ということもまた事実です。大都会は別ですけどね。
 これはまた次の機会にでも。



     戸田

       数年前のフォト。「車だって若いころの写真の方が喜ぶでしょ」


. こわごわなめたサイコロ状のぶどう糖


 のっけから告白しますが、私71歳になったばかりの爺です。しかも食後高血糖症状ありで、つまり糖尿病を患っています。と言ってもヘモグロビンA1c7.0から7.2程度なのですが、消化器官からの糖の吸収を平均化する薬を服用しなければ、かなりのペースで数値は上がってしまいますから要注意です。
 自分でも「変な人だ」と思うことがあるんですが、薬の効果を確認する癖があります。実は上記の数値6.8のとき服用を止めてみました。そうです、高価な薬なので「費用対効果」をテストしたのでした。結果は6か月で数値が7.6まで上昇しました。食事の仕方をほぼ同じにしていてのことなので「薬効」は実証されたことになります。叱られるのを覚悟で主治医の元に帰りましたが、正直に病院から遠ざかっていた理由を告げると、意外や意外、喜ばれました。「そういうデータは貴重だ」と。「この先生、懐が深い(^^♪」

 数年「がんばるシニア」に「在籍」していたのですが、最近めっきり弱りまして、頑張れなくなったのに「がんばる」というのも何ですから、未練を残しつつ、「がんばる」の文言が無いこちらに「移籍」した次第です。
 さて本題ですが、いまも続けている服用薬、処方箋を持って薬局に行くと必ずと言っていいほど「ぶどう糖を常時そばに置いてくださいな」と真っ白で味もそっけもない箱に入った粉末タイプのぶどう糖を寄越そうとします。ところが主治医はこう説明していました。この薬は食後糖分を吸収する役目を果たす酵素に働きかけて食後高血糖を抑え、糖の吸収を平均化する新薬だと。他の局面では抑え込まないので低血糖状態に陥りにくい利点があると。だとすれば、「理論上」低血糖防止用のぶどう糖は「肌身離さず」の必要はないことになります。なので意固地な爺は「要りません」と言い続けています。

 再び「ところが」なのですが、ときどき頭の働きが急降下し、睡魔に襲われることがあります。高齢者であることを考慮してもなお不思議に感じるレベルでした。5分程度の「睡眠」で回復するのですが、またまたテスト癖が頭をもたげました。危険な低血糖と言わないまでも薬の効きすぎは考えられるのではと。そんなとき偶然、近所のドラッグストアで見つけたのが、「夢のくちどけ」とキャッチコピーも艶めかしい小さな角砂糖のような「ピュアグルコース100%の固形ぶどう糖」でした。
 購入して、上記症状が出た際にさっそく実験しようと手にしました。ときは午後2時、「いま服用薬が高血糖を抑え込んでいるときにぶどう糖を舐めれば間食するのと一緒じゃん」と首を傾げながら、サイコロを二つに割って半分だけ口に入れました。甘い塊があっと言う間に崩れ、溶けていきます。1分も経ったでしょうか。おどろいたことに眠気はなくなり徐々に頭のもやもやも晴れたのです。
 以上から、答えはこれでしょう。「いつもではないが薬効過剰は皆無ではない」
 素人判断ですが、薬剤師は加点報酬のためだけに奨めていたのではなさそうです。
 いまは、ウェストバッグにサイコロ糖分2つを忍ばせている爺です。粉末よりは始末がいいので。




    生きるとは食べること.

      就活戦線異状なし。売り手市場ってほんと?



. 「大」の字を取り去って欲しい「大相撲」


 ネットやテレビの報道で「大相撲」という活字を見るたびに最近思うことは、「もう大の字を取ったら」ということ。逞しさも美しさも礼節もない力士が多いので観戦も途中でやめることがしばしば。力士は負けると土がつくといいますが、観ているこちらは昔観ていた大相撲を思い出してため息をつくわけです。

 本場所が終わると地方巡業が待っている由、「でもね」と私は疑問に思うのです。本場所の土俵上で見る限りですが、膏薬やらサポーターだらけ。1年6場所の間に巡業を挟み込んだら、力士はいつ治療・休養をするのでしょうか。そのツケが回っての負傷休場や無気力相撲だとしたら、本末転倒のような気がします。だいたい、自分の抱えている弱点を張ったり巻いたりして明確に対戦相手や観客に見せて勝負の場「土俵」に上がること自体、可笑しいと思わないのでしょうか。せめて勝負の時ぐらいは外すのが礼儀だと思いますし、装着具が治療の上で不可欠なら出場すべきではありません。そんなことで休場させたら「取り組み表」が作れなくなるというのなら、相撲協会や部屋の「取り組み方」の方に何か問題があるのでしょう。巡業過多もその一つではないですか。

 昨日某大学教授のコメントを引用した記事にこんなのがありました。『相撲はもはや宗教的儀式ではなく、国際的なスポーツです』
 三役と横綱の大半が外国籍の力士になり、「横綱相撲」の意味も理解されなくなり、現在の「相撲内容」につき改革を目指す親方が協会からはじかれたりするのを見ていると、たしかに教授のコメントは的を射ています。観客のほとんどの方も「スポーツ」と理解しているようですし。相撲内容がどうでも勝てばいいのだ、金になればいいのだと明言している力士もいらっしゃる由、もうこうなると質がどうのこうのより観客の「好き好き」に任せて「うるさいことをいうな」状態ですね。
 なので、昔の大相撲ファンである爺は、テレビ観戦もやめることにしました。 

 最後に相撲に関して協会も巡業先の首長もこれを伝えるマスコミも「何か変」と思えることを一言。巡業先のお偉いさん(市長などの首長を差します)が、女性は土俵に上がって挨拶は出来ないというが、それは「男女差別」だ「女性蔑視」だと騒いでいる(失礼)件です。対する相撲協会側は「伝統なのでご理解を」と一歩も引きません。持論ですが、これは差別とは「似て非なるもの」です。最近は「差別」とか「ヘイト」とか「セクハラ」とか、まるで水戸黄門の印籠のように使う傾向がありますが、個別に吟味しないと「魔女裁判」のように危険です。二者択一問題に慣れた弊害のようにも感じられます。
 話を戻します。解決策は一つです。地方の首長に限らず、どんなに偉い人でも会場の観客やテレビ桟敷の「観客」に対して挨拶をするときは、男性も女性も土俵の下でマイクを握ればいいのです。土俵(高いところ)に上がることばかり考えているからややこしくなるのです。
 昔からこんな挨拶の切り出し方がありました。「高いところから失礼します」。そう、日本ではひとり「高いところ」に立ってものを言うのは、基本的に失礼なのです。協会側も「伝統」など持ち出して反論しなくていいのです。第一すでに、あちこちで伝統は穴だらけになっているではありませんか。(妄言多謝)

     


     名はしらずとも

        名は知らずとも「きれい」なのはわかる


 長編小説進捗度 5月31日現在 400字詰×250枚 (予定550枚)



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Author:蛙声爺
文芸同人誌編集をしています。
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