蛙声爺の言葉の楽園

. 「ゴキブリ亭主」は良い夫? 


 午前2時にティッシュにゴミ箱と聞けば、これが若い夫婦なら別の想像をかきたててしまいそうですが、こちらはゴキの否コキ(古希)の老夫婦です、安心してください。半分寝ぼけ眼でかみさんを見上げると、ゴミ箱でゴキブリを捕らえ、ティッシュでソフトにつかんでドアを開け、生かして外に放り投げたと言います。褒めるべきか非難すべきか迷うところですが、実際は「へーえ」で済ませました。そのうえで「ゴキは夫婦でうちに侵入したはずだからもう1匹いるよ、必ず」と私。
「でもこれで増えないよ」と胸を張るかみさん。たしかに「2引く1は1で、子は出来ないから2以上にはならない」、ふむふむ。
そうなのですが生かして出せば必ず戻ってくることを忘れてはいけません。あの顔・姿形に似合わずゴキブリは厳格な1夫1婦制、ふたりの絆は深いのですから。生別死別を問わず「のち添え」などとらないそうな。
昔「ゴキブリ亭主」は駄目な夫への蔑称でした。いまは違います、浮気など間違ってもしない「貞淑」な夫を指すのです。
で、だとして逃がしたゴキがメスだったらどうなのか、戻るのか、ですか?
「すみません、女の人に聞いてもらえます?」



     「仲良きことは美しき哉」(武者小路実篤)

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. 億だの兆だの、このごろ「めまい」がして


 地政学的リスクを抱えて何かと穏やかでない世相ですが、このところ全く別のところで頭がくらくらするようになりました。うちのかみさんなどは重傷で「また億のニュース? チャンネル変えてくれる」と耳を覆うばかりの仕草。
 国家予算額の97兆超はいいとしても、超1流企業の減損処理が2500億、準国営会社の3月連結期赤字が400億、プロ野球の選手某が年俸2億、何とかいうジェット戦闘機が1機116億、ガンの特効薬何某の国の負担が1兆5千億…
 いえね、この辺りまでは「そうかな」程度だったのですが、銀行の駐車場での白昼強盗が約4億、海外への不正現金持出しが約7億ときて「もう勘弁かんべん」なのでした。そうそう、ロト何とかで10億なんてCMもありましたっけ。
 「このごろキュウリが高いわねえ」とか「あのスーパーのポイント、きょう5倍だから」なんてのが日常生活の庶民にとっては、精神的な劇薬でしかありません。兆と億への拒絶反応はすでに生理的なものになっています。「みなさんは違います?」
 いまは廃されていますが『億兆心ヲ一ニシテ世々厥ノ美ヲ濟セルハ』を思い出しました。もっともここでの「億兆」はお金ではなくて「万民」の意味でしたが。はは、「億兆」が「万」に等しいというのもかなりの皮肉になっていますね、貨幣価値、軽くなっていますから。…「さて景気付けに水でも飲むか」(^^♪




      1輪が群れた花より人の目を惹きつける。そんなことがあるのだろうか。

      つつじ


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. 美しいものは脇に居る


 のっけから何ですが、寝起きの腰痛は背筋を伸ばした散歩で治ります。昔読んだ専門書によれば、腹筋と背筋の強さのアンバランスが腰痛を引き起こすことがあるとか。そういえば私はシットアップという腹筋運動は毎日していますが、背筋運動というのはできていません。
  ということで、今日も早朝5時に散歩に出たのです。路地を歩くと「不審者」と思われますので大通りを選びます。長い坂を「1、2あ。3、4い。…」などと頭も動かしながら、かなり必死に歩くわけです。そして「頂」から下り坂へ。
 目の前に、道の端っこで何やらせっせと働く中年のご婦人たち。まだ5時半ですよ。道端の清掃をしているのでした。
 私はすれ違った7人の1人1人に「おはようございます」と挨拶をしました。自然に出たのです。もちろん返ってきたのは微笑と明るい声の挨拶でした。たったそれだけのことなのに、何か嬉しかったのです。これは何なのでしょう。
 ふと数十年も前に受けた講習での一言を思い出しました。
 『挨拶は自信につながる。挨拶をきちんとすると、どのような貴人に対しても動じないでいられる』
 確かに今朝出会った彼女たちは貴人でした。
 美しいものは脇に居る。その真理にもうなずきました。
  


      道端の花

      僅かな隙間に根を張ってまだ薄暗いのに咲いていました。この花、華道を心得ている!



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. 「ねばならない」を捨てねばならない


 産まれねば育たねばで来て、物心ついてすぐに生まれ落ちた家の環境を知り、
 学ばねば、成績を上げねば、合格せねば、卒業せねば、職に就かねば、貯めねば、結婚せねば、産まねば、育てねば、尽くさねばで、「ねばならない」の息詰まる闇の連鎖にはまり、
 いつの間にか老いて、退かねば、断たねば、捨てねば、離れねば、癒さねば、治さねばと己を責め続け、
 終には、なんとしても生きねばに落ち着く。
 そしてあるときフッと気づく…ほんとうにこれが「人生のすべて」なのかと。
 さらに歳月を経て確信する。
 「ねばならない」を捨てねばならないと。
 「ありのまま」は、「あるべき」よりもしたたかなはずだと。
 そう、「自分自身」という究極の美のためにも。
 


       金魚

       金魚の目なんて気にしないで、ときどきギョと思わせながら。生かされているのだから


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. 靴、クックッ、苦痛ーっ


 履きつぶすって言葉があるけれども
 靴底に穴があいて小石が入り、歩くとコロコロ音がする
 「うぐいす張り」は知恩院だけにしてくれ

 足音だけで君だと分かるとは、昔務めていた会社の専務の言葉
 まさか「いきなり肩を抱いてほしくてぇ🎶 (伊東ゆかり) 」じゃあるまい
 男に言われてもねえ

 「こんにちはぁ」とあいさつしても知らんぷり
 その仕打ちの原因は、折り目のついた黒いズボンと革の靴
 山ガールにとっての私は不審な男

 昔銀座の三流クラブに行こうと誘われた
 ホステスいわく「珍しいわね、その靴下と靴」
 足元を見れば上客かどうか分かるって、言わねーだろ普通
     
             ***

 ちなみに…
 『下からながめると事態の真相を見極めるのに役立つことが三つある。まず女、新聞、そして政治だ』 (ジャーナリスト 扇谷正造)



     亀

      「カルネアデスの舟板」か。 亀だって勝ちたいときはあるに決まってる


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. 遅れても小さくても、咲く桜花


 最も身近にある桜並木なのに、今年もまた満開の時季に他所に居た。
 松川沿いの遊歩道を、それこそ上を向いて歩いていても、見えるのは花びらを落とし蕊(しべ)だけになった「残骸」とそれを包み込むようにしている若葉だけ。
 それでも、のたりまったりと独り歩を進める。早朝6時、前にも後ろにも人はいない。
 「おっ」と思わず声が出た。
 太い古木の幹に小さく顔を出している桜3輪。しばらく立ち止まって、じっと見つめる。
 華やかさもなく、実を結ぶこともない、言わば仇花。そよとした風にときどき揺れる。
 見つけてもらえなくてもいい、褒められなくてもいい、ただ自分なりに咲こう。そんな風情だ。 
 省みて古希の己を想う。何かいまから、咲かせられるものがあるのだろうかと。



     桜花


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. 群れて咲いても「一人静」


 里山でヒトリシズカを見つけました。

     ヒトリシズカ

 広葉樹の落葉や松ぼっくりに囲まれてひっそり立っている姿は、楚々としてなかなか風情があります。ヒトリシズカ(一人静)なのに群れているのは変じゃないかと言われそうですが、「静」はご存知源義経の側室静御前を指しているそうです。じゃ「一人」は?となりますが、白い1本の花穂のことだと理解できます。この1本の周りに白い糸のような雄蕊(おしべ)が寄っています。そうそう花びらというものがありませんね。地味にすごい花です。
 写真でも「白」が輝いて見えます。静御前は元、流行りの歌舞を演じる遊女「白拍子(しらびょうし)」だったとか。さぞや美しい女性だったのでしょう、義経が見初めたのですから。「静」とこの花の「白」のつながりは、ここからの連想でしょうか。
 私的な好みで恐縮ですが、茎から花への流れから見ると別名の「まゆはきぐさ」の方が「なるほど感」が強いですね。
 もの静かで素敵な野草です。



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. 山梨での1週間は私にとっての「リハビリ」に


 4月12日から18日までの1週間、標高800メートルの里山に入っていました。兄の山荘の改装工事を手伝うためです。それは同時に私の健康管理にも役立ちました。
 現地は満開の桜でしたが、今回観光目的の桜見物はありません。従いまして桜の写真も…。

       到着

 12日9時到着です。片道220キロになります。


     甲斐駒

 甲斐駒ケ岳です。まだ雪を頂いていました。山荘の西側です。


      
      鳳凰三山

 鳳凰三山です。山荘の東南側にあたります。17日午後からの雨が頂付近では雪になったようで、帰り際に見たときはもっと雪の白が広範囲になっていました。


     山荘

 兄の山荘です。これを兄は自分一人で造ったのでした。


      梯子工事

 改装の一つ、2階への梯子工事です。避難口にもなります。


      観音

 韮崎平和観音像。17日市民病院・薬局での兄の診察・投薬が済むまでの待ち時間、姪とともに登りました。


     富士

 富士山。18日の帰途、積雪を増やした姿に感激する。車の中からの撮影です。 
    
      

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. 心の音(10)




 家中の掃除と自分の荷物の搬出に二日を要した。
 予想通り猛雄は寄り付かず、電話一本よこさなかった。ビジネスホテルを梯子しているとも考えられる。どこかに居る女に鬱陶しがられたりして。
 淡野家を出ていく朝、志津は入念に顔をいじり紅を引いた。その行為は、志津が猛雄から分離するための通過儀礼にもなっていた。出直すなら形からというつもりだったが、これが予想外に心を高揚させた。鏡の中の自分が昨日までの自分を捨てていくのが分かる。
 そのための用意も周到にした。肩の少し下まである髪を丸め襟足を出すように束ねていたのを止め、前日美容院で一気に短くした。その足で、明るい色柄のワンピース、それに合うヒール、そしてバッグと、立て続けに買い物も済ませている。もちろん猛雄のカードでだ。
 学生時代のボーイフレンドに、つまり猛雄の恋敵だった男に連絡をとり、弁護士を紹介してもらった。猛雄の愛人には意地でも慰謝料などは請求しないが、猛雄にはきちんと財産分与をしてもらうつもりでいる。自分よりも元彼の方が猛雄憎しで燃えていたのがなんとなく嬉しくて、救われた。就職が決まるまでの一時的な住いを提供してくれたのもその彼だった。
 今日からは文字通り一人で生きていくことになる。遅ればせながら、戦う女に変身していかなくてはと思う志津だった。

 家を出て駅に向かう。
 少し熱を帯びた風が、沿道の垣に咲くノウゼンカズラの黄赤色を揺らしていた。数十輪の花が一斉に、別れを惜しむかのように首を振る。
「元気でね」
 志津は見送りに応えて、花に向かって小さく手を振った。
 途中で隣人と出会った。するとその婦人は大げさに目を剥き、掌で口を覆った。
「いったいどうなさったの」
 婦人の驚きは、日頃の志津が地味すぎた証拠でもある。
 志津は、微笑しながらくるりと体を一回りさせて「主人に追い出されたので少し派手なお仕事に就こうと思いまして」と言った。どうとるかは相手の自由だ。
「そうよ、まだお若いしお綺麗だし、ねえ、ご主人ばっかり若い娘といい想いさせるって手はないわよ」
 離婚されたとは受け取らなかったようだが、なぜ隣人が猛雄の浮気相手を知っているのかが気になった。
「若い子?」
「そうよぉ、この間茶髪の女の子とこの先の路地で顔と顔くっつけるようにしてヒソヒソ…あらいやだわ、わたしったら余計なことを。ほほほ、ごめんください」と婦人は口を掌でふさいでお辞儀をした。
「ん、茶髪?」
 まさか、と婦人の後ろ姿を見送りながら志津は、眉間に皺を寄せた。
 その女が水絵だとしたら…。その日時が事故の後だとしたら…「わたしがやった事故だとして猛雄を強請った? 確かに住所は金田に出した礼状から簡単に分かる。だとすればもしかしたら」警察から戻って話す以前に猛雄は事情を知っていた、だから離婚届を用意できた…
「あのー」と志津は婦人を呼び止めようとして、すぐに言葉を呑み込んだ。
「前だけを見るんだったわ」
 確かめていまさら何がどうなるというのだろう。
 せっかく幕切れを綺麗にしたのに、汚い愛憎劇として再演したくはない。
 志津は大きく息を吸ってから遠ざかる婦人に背を向けた。
 なのに足がその場に貼りついたように動かない。
 朝からずっと吹いていた爽やかな風が、志津の心の中でピタリと止んだ。
「前だけを…前? 事故の前? 水絵と猛雄がもしかしてあの事故の前から?」
 志津は両の掌で口を覆い、意識的に何度も首を振った。考えるだけでも恐ろしいことだ。しかし…
 金田に再会した日はこごめの湯に行くようにと猛雄に送り出されたようなもの。金田も万葉公園で営業と言っていたがあれは変だ。まだある、浮気相手は猛雄によればもう堕ろせない時期、水絵も刑事によれば六か月、胎児の状態はほぼ一致している。単なる偶然だろうか。
 志津は、取調室での水絵との面談にまで記憶をさかのぼらせた。そこには演技や嘘とは無縁の、剥きだしの哀しい女が居ただけ。そのはずだった。
「俊一、予想以上の出血で」…ああ、計画された事故だったのだ。さらに「あの旦那」の「あの」は? そうだったのか。
 志津は膝の力が抜けて、しゃがみ込んだ。
 にわかな風が水絵の高らかな嘲笑を運んできて志津の前に回った。
 目の前に志津の顔を下から覗き込む水絵の幼げな顔がある。その口元が小さく笑った。
 たしかに志津には見えて、背筋が凍った。
「フーテンだよ、演劇やってるとか言ってたけどな」
 猛雄の声がさらに、のしかかるように志津を襲ってきた。


                                 (完)




    伐られ、剥がされ、晒され、叩かれる。ミツマタの本当の花とは和紙のこと。

     ミツマタ



   
 
 
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. 心の音(9)


「やってないのに罠にはめようとしたんだよ、あたしは。何で張本人を前にして、そんなに優しい声で話できるのさぁ、信じられない」
「逆に教えて水絵さん、なぜわたしを仇みたいに思っているの」
 見ず知らずの十も歳の違う女性から、激しく憎悪されるほどの何かを自分が持っていること自体、信じられないのだ。
「そんなことも分からないの、俊一の心を奪ったからに決まってるじゃないの」
 水絵によれば、金田と水絵の間の亀裂と不幸は全て、あの日金田が脱輪した志津を助けたことに端を発しているという。淡泊に現場を去ってしまったこと悔いた金田は、礼状がきてからというもの、こごめの湯の休館日明けの偶数日は、朝から万葉公園をうろついていたらしい。会いたいと言っては期待をふくらませ、会えなかったと言っては次回を指折り数えて待つ金田の姿が、水絵の目にどのように映っていたかは想像がつく。「いっそ電話して会ったら」と皮肉を言うと、「バカ、偶然再会するから詩的なんだ。おまえみたいなガサツな女にゃ解かんねえよ、黙ってろ」と一蹴されたという。
「わたしとのデートなんか、いつも面倒臭そうにしている俊一がよ、頭にきちゃう」
「ゲームよきっと、彼の中ではね」
 志津はそんな気がしてきた。
「違うわ、あんたに憧れたのよ。俊一、ものしりだけど文学とか短歌なんか興味なかった。それがよ手紙を見てからたくさん本買い込んできて、真剣に読んで。あたしのために、あんなに真剣になってくれたことなんか一度もない!」

 水絵は不安が募ったらしい。入籍はもちろん、金田の両親への紹介もまだだったのだ。おなかの子は四か月をとうに過ぎて、日に日に大きくなっている。そう言えばあの日から一度もドライブに連れて行ってくれない。最初はおなかの子を気遣ってと思っていた水絵もようやく気づき、七月四日、金田にねだって富士五湖行きを承諾させた。しかし大観山を越えて芦ノ湖へ下る辺りで腹痛に襲われる。金田は腹を立てて元来た道を引き返したのだが…椿ラインを下る途中、水絵は下痢の兆候を感じて車を降り、道端の草むらに姿を隠した。水絵が戻るとなぜか金田は助手席に座っていたという。しかも志津からもらった栞をじっと見つめながら。 話しながら水絵の顔が再三ゆがんだ。

「あたしのことなんか、ドライブしてる間中、ぜんぜん考えてなかったんだ」
 水絵はそう言うと、その後の二人の会話を、涙をまじえながら再現してみせた。

「腹痛だの下痢だの野グソだの最低だなぁおまえは。俺はもう嫌だからこの先はおまえが運転しろ」
「冗談でしょ、俊一」
「ほらぁ早く。大丈夫だよ、オートマチックはバカでも扱える。だいいち下りじゃねえか、ブレーキだけ踏んでりゃうちに着けらぁ」
「あたし、免許無いから」 
「じゃあ何があるんだよ、おまえに。あーあ、たまには志津さんみたいな人に運転してもらって助手席から横顔見つめていたいよなぁ、ほんと」

「くやしかった。おなかの子は気になったけど、死んでもいいって思ったくらい。もしかしたら俊一、流産狙いかなって、そこまで疑った」
 思い出すだけでも哀しい言葉だったのだろう、水絵の目から大粒の涙が落ちた。
「それならやってやる。死ぬんならおなかの子もいれて三人一緒だって、そう思って」
 無茶だ。生まれて初めてハンドルを握ってカーブの多い急坂を無事に運転できるくらいなら、自動車教習場など一箇所も要らないに違いない。
「シートベルトは?」と志津は聞いた。装着していれば頭部損傷は考えにくい。
「あたしはしたわ、窮屈だったけど、俊一がしろって」
「彼はしなかった…」
「いつもよ、きらいみたい」
 志津は目を瞑った。カーブを曲がり切れずガードレールに激突するシーンが見えた。
「あんたが悪いのよ、幸せだった俊一とあたしの間に入り込んで、かき回して、メチャメチャにしてえ!」
 水絵が急に物を投げつける真似をした。
「とりあえずわたしは悪者でいいわ。でもね、わたしどうしても不思議なの。あなたなぜ彼を助けようとしなかったの、なぜ救急車を呼ぼうとしなかったの、彼が好きだったら、いえ、おなかの子が彼の子に間違いないならパパになる人をなぜ見捨てたの」
「俊一、予想以上の出血で頭も顔も血だらけ、あれ見たら誰だって死んだと思うわ!」
「そう思ったとしましょう、じゃあなぜ、愛してた彼の遺体を残して逃げたの、変じゃない、矛盾じゃない?」
 ここが事件の核心だと志津は思った。
「あんたが運転してた」
「え?」
「あんたが運転したのにあたしがそこにいたら変でしょ」
「その場で、すぐにそれを思いついたとでもいうの、あなた。怖くて逃げて、あとで自分とその子を護るために、じゃなくて」
「そうよ、悪い?」
 志津の体に再び戦慄が走った。
「なによ、その顔。それって恵まれた人のものよね、いい? 聞いて」と水絵は続けた。
 事故原因が水絵の無免許運転で、しかも金田が死んだとしたら、自分は罪に問われ、どこからも救いの手はこない。たとえ金田が生命保険に入っていたとしても、妻でもなく、違法運転で保険事故を起こした当の水絵におりる金など一円も無い。だとしたら生まれてくる子はいったいどうなるのかと。どうやら謀って示談にもちこむ計画だったらしい。
「わたしにお金があるとでも思って?」
「たとえあんたには無くてもあの旦那にはあるでしょ。車だって国産だけど高級車だし、世間体を気にするお金持ちなら可能性は高いと踏んだのよ」
 会ったこともないのに「あの旦那」はない。
「残念ね、わたしの元夫は私を護るためのお金なんか払わないわ、絶対」
 哀しいけれどいまでは確信に近い。
「元夫?」と水絵が聞きとがめた。
「離婚されたのわたし」
 半ば微笑しながら志津はさらりと言った。
「あははは」と笑いを発した水絵は、さらに苦しがるほどにしゃくりあげ始めた。
 志津は黙ってそれを見ていた。大笑いしている者はほかにもいるはず…猛雄、姑、猛雄の愛人…そして自分。
「それでも許すの、あたしを。そんなふうにお上品ぶって。お人好し、バカみたい」
 おなかの子は男の子かもしれないと、志津は、水絵の攻撃的な態度からそんなことを想った。
 いずれにせよ児戯に等しい粗雑な計画だったことは確かだ。しかしその児戯が、ものの見事に志津の偽りの安定を破壊し去ったのだ。これを不幸とみるか、僥倖とみるかはこれからの自分の生き方にかかっている。志津はそう思う。
 羽月刑事によれば、金田の快復は比較的早いのではないかとのこと、なによりの朗報だ。ただ、水絵の話を聞いているうちに見舞う気持ちは喪失した。志津は自分で勝手に美化した金田に心奪われていたのだ。そうであればなおさらに、水絵のためにも二度と金田の前に立つべきではあるまい。
 志津は結論を出したあとで、一つ深呼吸をした。
「ねえぇ水絵さん」
「何、あらたまって」と水絵は構えた。
「すくなくてもわたし、あなたにかなわないものが三つあるわ」
「今度は同情からヨイショかさ」
 志津は笑顔を作って首を振った。
「まずあなたは子どもができたわ。女なら当たり前って思わないでね、わたしはできなかったから離婚されたの。こんどのことが直接の原因じゃないわ。だから念のために言いますけど、気にしないで。二つ目は、わたしよりも九つ若いわ。同じやり直すにしてもこの差は大きいわ。三つめね、あなたは命がけで必死に生きてるわ。わたしなんか足元にも及ばない真剣さで」
 金田が日意識を戻したことを知ってすべてを自白したことにもそれが表れていると思った。水絵は嘘が警察にばれることを恐れたというより、その嘘が金田の逆鱗に触れるだろうことを、誰よりも良く知っていたのだ。
 善悪はこの際措いておこう。志津は思う、水絵が金田を愛するように強く、自分は猛雄を愛したことがあるだろうかと。同様に、猛雄を命がけで自分のもとに引き寄せようとしたことがあるだろうかと。
 志津は女として、目の前の水絵に大いに負けているような気がした。
「余裕よね」
 志津の言葉を皮肉にとる姿勢は相変わらずだが、心なしか表情が和んできた。
「虚勢よ、精一杯の」
 本音だった。
 水絵が大きなため息をついたあとで、唇を何度も噛んだ。
「あんたの手紙ぐらいくやしかったものはないわ。どうしたらあんなきれいな字が書けるの、あんなふうにまとめられるの…俊一が夢中になるの、無理ないわ…」
「水絵さん」
「もっとおどろいたのは俊一が、さらさらってあんたに手紙を書いたことよ」
 簡潔で、しかもユーモアがあって、志津も感心した覚えがある。
「あたしには一回もくれたことない…そりゃそうよね、バカなあたしに合わせてくれてたってことでしょ」
 水絵の瞳と睫毛がいっぺんに濡れた。
 戯れに引用した短歌、行間に淡い恋心や憧憬をにじませた文章、確かに最初から最後まで、自分がいかに出来る女であるかを誇示し続けた手紙だったような気がする。
 志津は、自分の一通の手紙が一組の男女に与えた苦痛を思って萎えた。
 黙って涙を落とし続ける水絵に会釈をして志津は、ゆっくりと廊下に出た。
「いろいろな意味でご面倒をかけました」と、隣室から出てきた羽月刑事が言った。
「あの、嘆願書を書かせてくださいませんか、虚偽の告訴の方で少しはお役に立つかと思いますので」
 自分にも罪がある。志津は本気でそう思い始めていた。
 羽月刑事がぱちぱちと瞬きをした後、薄くなった髪を丸ごと見せて礼の言葉を口にした。 
 


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. 心の音(8)


 刑事と接触したくなかったのか猛雄は、朝の六時には家を出ている。
 志津は朝食も作らず、見送りもしなかった。たぶん猛雄は、このまま志津が正式に淡野家を去っていくまで愛人の所に避難している気だ。車はガレージに置いてあった。これが思いやりなら嬉しいのだが、女の家に駐車スペースが無いから乗っていけないのだ。それだけの話。いまさらという気がしないでもないが、淡野猛雄は小さい男だと志津は思った。これで身も心も社会的にも独りになった。そんな気がした。
 午前九時、羽月刑事から電話が入った。
 刑事は、本署に出頭願いたいが車または電車で一人で来て欲しいと言い、ご婦人のことで支度もあるだろうから午後一時ころになってもかまわないと付け加えた。声音の柔らかさといい、鄭重さといい、だいぶ風向きが変わってきている。
 志津は、小田原で起こりうるあらゆる場合を想定して車に必要なものを載せながら、もしかしたら金田の意識が戻ったのではないかと思った。そうなら自分にかけられた容疑は即座に晴れるし、警察も一転して低姿勢になるのが道理だからだ。それにしても金田はどこに入院しているのか。できれば見舞いに行きたい。そうすればまた、金田の子を宿しているという問題の女性に会えるかもしれないのだ。別に、顔に唾しようとか、頬を殴ろうとか思っているわけではない。ただ、なぜ罪に陥れようとしたのか、その理由が知りたい。何度も自分の中で確認した、望んでいるのはそれだけだ。
 冷川峠を越えて、また伊豆スカイラインに入った。車はいい。「あらおでかけ」と不躾に行き先を聞かれることもないし、照ったり降ったりの話題に何度も愛想笑いをふりまく必要もない。とくに今日は、いまは、それが一番恐ろしい。拷問に近いことだから…。

「いやぁ奥さん暑いところをすみません、まったくまだ梅雨だというのに三十度超えてるんですからねえ」
 羽月刑事に招じ入れられた部屋は、取調室ではなかった。詳しくは知る由もないが、インテリアから見ても重要人物が執務していそうな感じだった。
「もしかしたら金田さんの意識が…」と、志津は後の言葉を濁した。弁解なら刑事から口火を切るべきと思ったのだ。
「ええ、まだ事情聴取ができる段階ではないんですが、医者の話では手術は成功したし、ちょうど奥さんを帰した直後ぐらいになるでしょうか、目も開けたということで、あとは時間の問題でしょう」
 案の定だった。
 志津はホーッと大きなため息をついた。犯していない罪は誰が何と言おうと犯していないのだが、それを証明しろと言われれば困難を極める。素人でも唯一それができるのが現場不在証明、つまりアリバイなのだが今回の場合、志津にはそれが無かった。金田に死なれでもしたら、志津は孤立無援のまま途方に暮れたに違いない。
「まさに急転直下なんですが…」と刑事が口籠った。
「わたしの容疑が晴れたならそうおっしゃってください、あなたがたもお仕事で取り調べをなさったわけですし」
 早くそれを聞きたい。そして金田がいる病院の名前も。
「じつは、被害者が助かるということを病院から聞いた藤原水絵が、あ、例の脱輪の際に金田さんの車の助手席にいた女性です」
「ミズエさん…」
 志津は、あの脱輪をした日、助手席の女がなぜリクライニングを倒していたのかをいぶかった。自分が彼女なら、恋人がほかの女を助けている、その光景自体を監視の対象にする。目を離せるわけがないのだ。
「ろくに寝ないで悩んだ末なんでしょう、明け方近くに署に来ましてね、すみません、ごめんなさいの連発だったそうです。呼ばれて来てみると彼女、自分がやった、あなたではないと。まあ自白したわけなんですが」
 刑事も内心忸怩たるものがあるのだろう、自然に頭を下げている。
「でも、なぜそんなことを」
「それが頑として言わないんですよ、あなたに会わせてくれたら言うの一点張りで。ま、しょせん僕らには解かりませんがね、今どきの若い女ってやつは」
「あの、わたしはかまいませんが」
 警察として許可できるのなら面談することに異存はない。
「僕らがいるんで危険はないと思いますが、なにぶん妊婦で、それでなくとも情緒不安定で」と羽月刑事は頭を掻いた。
「会うの、ミズエさんと二人だけにしていただけませんか」
 そうでなければ本音は吐かないのではないか。志津は女が求めているものが、おぼろげながら分かってきた。
「隣室で監視と録音をさせてもらって、ドアのすぐ外に署員を二名配して万一に備える」という条件で、異例の許可が下りたのは三十分後のことだった。
 確かに罪に陥れようとした女の動機如何では、部屋に二人きりは危険が伴うと志津も思う。




 取調室のドアを開けると、隈をつくり、そのうえ泣き腫らした目をした小作りな女の顔が真っ先に飛び込んできた。髪の毛の色を抜いていて、それが実際の年齢よりもずっと若く見える。見た目が幼いと言ってもいい。
 志津は会釈をしたついでに自分の服装をあらためて見た。車で来たことがわざわいしたかもしれない。取調室で転んだ時にスカート姿で惨めな想いをしたことから、きょうはパンツ姿で来ている。足の長さがもろに出るのは、若い女の前では少々辛いものがある。
 近くで志津を見るのは初めてのはずで、案の定水絵は急に目を凝らし、志津の全身を舐めるようにして見ている。
 志津は、椅子に掛けることで、点検される対象からやっとの想いで下半身を外した。
 言葉というものは思ったよりも不便なものだと志津は、二分を超えそうな沈黙の中でそう思った。
「何をしに来たの」
 水絵がようやく口火を切った。
「刑事さんはあなたが希望したと」
「そうじゃなくって! どんなバカ面な女か見に来たの、面会を承知した理由よ」
「聞きたいことがたくさんあって」
「あたしがあんたの立場なら絶対会わない」
「なぜ、の部分を知らずに終わらせることができないから」
「殺したくなるからよ!」
 顔を歪めての水絵の言葉の激しさに志津は、全身に震えを感じた。




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. 心の音(7)


 三

 警察は任意のままで終日取り調べを続け、結局逮捕はしなかった。
「自信がないからじゃありませんよ、奥さん。逮捕してしまうといろいろ時間的な制約を受けるんでね、それだけです」とは羽月刑事の言だ。こうも言った。「逃亡するとはこれっぽっちも思っていません。あなたはそんなやり方で自分の罪を認めるような人じゃないんです。これ、褒め言葉です」
 志津は帰宅するとすぐ、巻き込まれた事件の概要を猛雄に話した。
 長い取り調べの後だ。常日頃から「おまえは女のくせに理路整然としゃべりすぎる」と叱られているほどの志津だが、疲れで感情が絡みつき、お世辞にも分かりやすいとは言えない内容だった。しかし省略はあっても、嘘はないと、それだけは得心がいった。
 何時間も前から欝々と飲んでいたらしく、酔って漂うような目をしている猛雄が、話が終わるのを待ちかねたように出してきた紙切れ…それには夫本人のみならず保証人の自署捺印までが済ませてあった。
 いっそ警察の留置場で一夜を明かした方が良かった。猛雄が差し出した離婚届を前にして志津は、心底そう思った。一番信じて欲しい人に、一番信じて欲しいときに、この仕打ちはいかにも手酷い。
 自慢の高級ソファーが、猛雄の貧乏揺すりに合わせて小さく上下している。
「ずっと前から用意なさってたのね」
「ああ…」とまたグラスを干した。
「絶好のチャンスというわけですか」
「まさか表彰状を期待しちゃいないだろ?」
 志津は、猛雄のグラスに七分目までウイスキーを注ぎ、怒りの気持ちを表した。
「お義母さまはご存じなんですか」
「離婚届のことか、警察沙汰のことか」
「両方…」と志津は唇を噛んだ。
「離婚には拍手喝采だろう。事件の方は言えるか、病人だぞおふくろは!」
「すみません、でも濡れ衣です」
 志津は凛として言った。
「ああ、おまえは事故現場から逃げ出せやしないし、人を傷つけることもできやしない。ほかの男と寝るなんてこともな。まったくつまらない女さ」
「それがいけませんか」
 志津の静かな反撃に猛雄が目をむいた。
「心じゃ抱かれてたろ? その男に。そうじゃないと、俺にではなく自分に向かって言いきれるか、志津」
 志津は黙った。猛雄の言う通りで、それはそう感じた回数が少ないとか、実際に行動には移さなかったとか、そういうことで免罪されるものではなかろう。
 猛雄の酔眼が、内省している志津の心を覗き込むように一点に集中している。
「よせよ反省なんて」と猛雄が急に笑い出した。「心も愛も無しのセックスに走って遊んでた俺のたわごとじゃないか。その挙句に女に子どもができて脅かされ、おまえが今度のミスを犯さなきゃ、俺の方から別れてくださいって頭下げるところだった。笑えるだろ? おまえのバカ亭主も」
 志津の中で何かが崩れていく音がした。
「あなたの子っていつ生まれるんですか」
 それだけは聞いておこうと思った。
「もう堕ろせない大きさ…で、いいか」
 志津は目を思わず瞑った。 外に子どもをつくったという事実よりも、数か月に及ぶ裏切りの日々がおぞましかった。
「若い人なんでしょ」
 そうなら自分の傷が浅いように思った。
「はっ、わたしに欠けているのは若さだけと、そのほかには夫を奪われる要素はないと、そう言いたいわけだ志津」と、何度も鼻先で笑って見せた。
「何をしている人ですか、お仕事の関係ですか」
 聞いて何がどうなるというのか。それでも口が勝手に質問をしていた。
「仕事? ああ、それもお前には無かったっけな」
 別に自分に無いものを探しているわけではない。猛雄の解釈は、語るに落ちるものだった。
「フーテンだよ、演劇やってるとか言ってたけどな」
 志津は絶句した。
 猛雄がウイスキーをあおるとすぐに注いで元の量に戻す。アルコールで殺せればいいのだが。そんなバカなことすら頭をかすめた。
「おっかねえ、恐ろしいよ、女は男より一枚も二枚も上手よ、腹が突き出りゃさらに頑丈でしたたかになる」
 猛雄の手からグラスが滑り落ち、そのあとを追うように猛雄がソファーからずり落ちた。
「志津、俺って汚いだろ…」
 酔いつぶれた夫に向かい志津は、ゆっくりとうなずいた。その汚い男に養われている自分は何なのだろう。そんなことを思った。
 寝息を確かめたあとで志津は、二階からタオルケットを運び、頭の天辺から足の先までを包んでやった。
 猛雄が死体になったように見えた。
「いつまでも二人は、いつかは一人」
 姑の口癖が現実になる。志津は、夫の偽の骸を横目にしながら、離婚届の空欄にペンを走らせた。
 もう悲壮感も気負いもなかった。

 翌朝、地元警察の車を回されるのを覚悟して志津は、観葉植物に水をやったり玄関の水盤に花を活けたりしながらそのときがくるのを待った。
 見ようによっては派手な車だ、ご近所の目を避けては通れない。いよいよ、あのテレビでよくやっている醜い晒し者に自分がなるのだ。



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. 心の音(6)


 カチャッと音がして羽月刑事ともう一人の若い刑事が、出て行ったときと寸分違わぬ顔つきで入ってきた。そして若者は坐り、丸顔は檻の中の熊よろしく室内をウロウロとしだした。
「おい、そろそろいくか」と熊の方が言った。
 若い刑事がビニール袋に入った栞を、掌で延ばすようにして志津の前に出した。
「事故車にあったんだその栞。それに付いていた指紋とさっき採った指紋が一致した。運転していたのは奥さん、あなただですよね」
「栞はお礼状と一緒に郵便で送ったものです。わたしの手作りですから当然わたしの諮問は付いていると思いますけど。それとも事故車にわたしの指紋でもあったのですか」
 志津は表情も変えずに言った。
「皮の手袋でもしてたんじゃないんですか。常識の部類だよね、何かやる気なら」
「事故っておっしゃったばかりですよ」
「奥さん」と言ったあとの間が長い。
「はい? 何でしょう」
 まったく身に覚えがないというのは強いはずだと、志津は落ち着いて、穏やかな顔を羽月刑事に突き出した。
「観光会館の駐車場ねえ、車のキー、預けますよね」
「え、ええ」
「そのとき車のナンバー告げるでしょ、係の人に」
「はい、確かに」それが何だというのか。
「二十六日の日、三人のおばさんに会いませんでしたか? 被害者と一緒に万葉公園の独歩の湯に行く途中の散策路で」
「ええ、その前に紫陽花についても聞かれていますし、憶えています」
「その三人も実は車で来てましてね。それが口を揃えて言ったそうです。あなたと被害者は男と女の関係に間違いないと。偶然の出逢いなんてムードじゃなかったとね」
 志津はあきれて首を振った。
「あなたも運が悪い。ナンバープレートの下の数字だけでいいのに、おばさん、上も下も全部書き写して係に渡したんだなこれが」
 確かに志津は言われるままに大きな数字だけを申告している。
「ま、あなたほどの美人だ、年配といってもおばさんたちも女性、ジェラシーも手伝って強烈な印象を受けたんでしょうな。どうです、浮気してたんでしょ、被害者と。別れ話、痴話喧嘩、それとも旦那さんにばらすとか言われて脅かされた? もう言ってしまったらどうです、真実ってやつを。警察はねえ奥さん、事故じゃないって見方も捨てちゃいないんです」
 「女性」という言葉に志津は引っかかっていた。刑事は志津のことをモータースの主任から聞いたと言っていた。あの日、脱輪した車をミニクレーン車で引き上げてくれた男で金田の飲み友だちだ。しかし刑事は金田に出した手紙の内容をあらかじめ知っていた。金田自身が警察に手渡すことはないのだから、そこには誰かがいる。
「あいつ、三十八で独身、しかも一DKマンションに一人暮らしでしょ、酒飲むよりほかに暇のつぶしようがないんじゃないかな。あのルックスでそこそこ教養あるし、女にゃもてますよ確かに、ええ」
 料金のほかにお礼をはずむと、男は金田に関する情報を分けてくれた。そうか、一人暮らしの男には必ず女がいると発想すべきなのだ。志津は自分の鈍さに腹が立ってきた。
「刑事さん、わたしが金田さんにお出ししたお礼の手紙、いったいどなたから手に入れられました?」
 若い刑事が音を立てて椅子から立ち上がり、テーブルをドンと叩いた。
「奥さんは質問できる立場じゃないの!」
 志津はあえて若い刑事を無視した。
「たとえば現在は独身だとしても前の奥さん、急を聞いて駆け付けた彼のお母さま、あるいは妹さん」志津は戦いが始まっていることを知った、誰だかは知らないがよその女との間で。「それとも、四月二十四日の日、彼の車の助手席にいた女の方」
 羽月刑事がピクッと目尻を動かしたあとで、若い刑事に坐るよう促した。
「いいでしょう、あなたが上品なだけの奥様でないことは納得しました」
「その方の犯行という見方はなさらない」
「ええ彼女は妊娠六か月、その子はむろん被害者の子だ。しかも彼女の年齢は三十、僕らの感覚から言えば結婚前の女性としては一杯一杯の立場に立たされている。そういう女性が相手の男をあんなふうに置き去りにしますかね」
「でも事故はありうるでしょ、彼女が運転しての、現実にわたしも脱輪したくらい」
「彼女は無免許だ! それだけじゃない、車のハンドルすら握ったことが無いんです」
「なぜ言い切れるんです、そこまで」
「複数の人がそう言い切ったからですよ、いいですか奥さん、七月四日、あの車の運転席に居たのはあなただ、僕はあなたのその、きれいな顔に似合わない太々しいほどの自信を突き崩して見せますからね」
「夫に連絡していただけませんか」
「来てくれるかなぁ、こんな事件起こして」
 若い刑事がこれ見よがしに首を傾げた。
「弁護士を付けてくれます、きっと」
 来てくれない可能性の方が確かに高い。志津は情けなさでさすがに目頭が熱くなってきた。
「ああ、そうでした、その妊婦さんにあなたを確認してもらいました、椿ラインでの被害者との出会いと万葉公園でのデートの相手がまさにあなたであることを。いましがたのことです」
 万葉公園の偶然の出会いのときも? 彼女が身を隠しながら見ていたのいうのか。金田は仕事の途中だと言っていた。確かに平日の昼日中公園をうろついていて営業というのは変だ。彼女とのデート中に姿を見つけて追ってきたという方が自然かもしれない。その金田の後を彼女がそっと追う、そしてあの二人のやりとりを隠れて? 
 志津は頭が混乱してきた。
「あわせてください、その女性に。いったい何の恨みがあって」と立ち上がり、「まだ署内にいるんでしょ」とドアに向かおうとした。
「奥さん!」と事務椅子に座ったまま移動した羽月刑事が志津の左腕をつかむ。
 志津は前のめりの勢いを体の一点で止められる形になって刑事の足元に転がった。
 スカートがめくれ太股があらわになっている。
「羽月さん、まずいですよ」
 若い刑事が志津を抱き起そうとする。
「さわらないで!」
 それはもう、絶叫に近かった。



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. 心の音(5)




 実を言えば、夫の猛雄が何で稼いでいるのか詳しくは知らない。いつだったか近所の人に質問されて正直にそう言ったところ「バカにしないで」と叱られ、それ以来口をきいてもらっていない。妻が夫の職業を知らないということが、それほど非常識な、考えられないことだということなのだろう。しかしその通りなのだから仕方がない。
 家計という側面から猛雄をみれば申し分がなかった。普通口座には常に、何もしなくても一家三人が一年は生活していけるだけの預金残高があったし、夫関係の冠婚葬祭費用はそこからは出さず、本人がどこからか捻出して賄っていた。悩みと言えば姑のことと子どもができないことぐらい。そう言われて羨ましがられても否定はしない。それさえ大元の原因をたぐれば一つことなりそうな気がする。心と心をとまでは望まないが、性器を合わせるという物理的な努力さえ昨今の夫にはないのだ。が、これもまたどこにでもある中年夫婦の有り様なのだろう。

「志津、車を使いたいときは三日前までに言えって言ったろ。何だ急にこごめの湯だなんて、きょうの商談の相手は車無しで行ける場所に住んじゃいないんだ、あきらめろ。第一おふくろは入院中、だれがここを守るんだ。先月の二十六日に行ったばかりじゃないか、わがままが過ぎるぞ」と猛雄が、ネクタイをウィンザーノットで結びながらまくしたてた。
 今日六日は偶数日、岩と石の風呂が女湯になる。何の約束もないのだが、行けば金田に会えそうな気がする。うっかり「行きたい」と言ってから心の奥をさぐると、そんな答えが返ってきた。それだけに、いとも簡単に断られて志津は少しばかり頭に来た。
「三日前にお願いすると、当日必ず泊まり込みのお仕事になるんでしたわね」
 変ではないかと気づいてはいた。車がないから外泊なのではなく、車がないことを口実にして外泊を正当化しているのだ。志津が湯河原に行くと当日とその翌日の丸二日、猛雄はたぶん女の所に居続ける。そう、正々堂々と、恩着せがましく…しかし夫婦としての本質的な問題はむしろ、そうと分かっていて、さして波立たない自分の心だろう。それは志津をいっそう哀しくさせた。
 気がつくと頭が燃えるように痛い。猛雄にしたたかぶたれたらしい。虚ろな目で、かつて愛した男の顔を見ると、唇のふちに白い泡をつけて何か怒鳴っている。幸いなことに何も聞こえなかった。
「わたしが出ていけばそれで終わり。わたしに勇気があればそれがはじまり」志津は、その二つを呪文のように唱えながら猛雄をしずかに送り出した。

 十分も応接間のソファーで横になっていただろうか、ドアチャイムの音で起こされ、想い頭を何度も振りながら玄関に出た。
「淡野志津さんですね」
 警察手帳を突き出して、丸顔で無精髭の、どちらかと言うと漁師のような感じの男が言った。
「はい、でも主人はたったいま勤めに出ましたが、何か」
 志津は反射的に猛雄が何かしでかしたのではと思ったのだ。
「こちらもそれを見届けてからチャイムしましたので知っています」
「はぁ」頭がズキズキしているのも手伝って、事態が全く呑み込めない。
「とりあえず任意で事情をうかがいたいということで、ま、いたずらにご家庭の円満を壊すのは本意ではありませんし、それでお一人になるのを待っていたと、こういう訳です」
「すみません、お話の趣旨がよく…」
「弱りましたな、おーい、裏はもういいからこっちへ来いや。少なくとも逃げるようなタイプの奥さんじゃないって」
 志津は唖然とした。目の前の刑事の目当ては自分だったのだ。
 あらかじめ裏口を固めていたのだろう、比較的若い刑事が家の角から顔を出した。

 刑事が容疑者を取り調べる。そんな場面はテレビドラマの中で視るだけのものと誰もが思っているはず…取調室に一人、ぽつねんと椅子に腰かけながら志津は、金田俊一に対する業務上過失致傷と保護責任者遺棄の容疑で、自分が現実にドラマの主人公にされている不思議さを噛みしめていた。
 急に二人の刑事が部屋を出ていくのも何かお定まりの儀式らしい。責められた後で独りになると、何でも自白するようになるとでもいうのだろうか。自宅での任意での事情聴取から警察署での取調に切り替わった最大の理由はアリバイが無かったからだ。
 事件が起きた七月四日はたった二日前のことだ、しっかりと二十四時間を丸ごと思い出せる。いつもなら近所のスーパーマーケットや八百屋に買い物に出掛けるので、馴染みの店員の幾人かと会話を交わし、それがアリバイにつながるのだが、この日は冷蔵庫の残り物で三食賄うつもりでいたので家にこもっていた。しかも猛雄は早朝から仕事で不在、姑はポリープが見つかったことで検査入院中でこれも不在、要するに志津自身しかその日の行動を証明する人間がいなかったのだ。
 当初語るに落ちるのを待つ取調手法なのか容疑の内容すら口にしなかった刑事も、あまりにも鈍感な反応に終には焦れて、当日の事件の内容に触れてきた。丸顔の羽月と名乗る刑事が直接の相手だった。

 刑事の尋問から事件の内容は把握できた。なにしろ三時間も同じ問答を繰り返したのだから。
七月四日午前十一時半頃、椿ラインの城山入口より大観山寄りの路上で、東京からドライブに来た中年の夫婦によってそれは発見され警察に通報がなされた。ガードレールの端に左前照灯を食い込ませた乗用車の助手席に、頭部を強打し額から血を流した金田の姿があったという。一旦ゆっくりと通り越したものの、蜘蛛の巣状にヒビが入ったフロントガラスを見て事故だと確信してバックしたらしい。運転席にはそのときすでに誰もいなかったようだ。被害者の金田はその時からずっと意識不明のまま回復していない。ということは、被害者本人から事情を聴取していないということになる。そのはずだ。金田に意識があれば間違っても自分を犯人に仕立てるはずがない。志津はそう思った。しかしそうならなぜ疑われたのかと、それ自体が不思議になる。金田俊一と自分を結ぶものは、二回の出会い、礼状とその返信、それだけなのだ。ところが刑事は嘘だと言い張る。四月二十四日に脱輪の処理をしてもらってから六月二十六日に万葉公園で会うまでの間に何回かデートを重ねていて、当然肉体関係にまで発展しているはずだとして譲らないのだ。その根拠は何? 志津は終に静かな口調ながらその証を求めて食い下がった。
 刑事たちが取調室から出て行ったのはその直後だった。
 志津は腕時計を見た。すでに三十分が経過している。 
 

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. 心の音(4)


「この人吉井勇ね、かなり相聞歌が多いんです。とくに僕が好きなのは歌集『酒ほがひ』のなかの一首で『君見ずとかたく誓ひて来しものをもの狂おしやまた君を見る』、いまの僕も同じです」
 志津はここでようやく気づいた。金田が今回俺を僕に変えていることを。よく見せたいというのが動機なら、本当に自分に好意を寄せているのかもしれない。
 金田の目が志津の目をとらえている。
 息苦しくなった。
「あの、きょうお連れは?」
 たまらずに志津は直截的な聞き方をしてしまった。胸の内が丸見えではないか。恥ずかしさで心悸が早鐘のようになった。
「仕事の途中です、これでも」
「お仕事…」
「ええ、ほら後ろにも誰もいません」と金田は、スペインのマタドールよろしく身をひるがえしてみせた。気障にも見えるその仕草がまた妙に様になる男だった。
「営業なので比較的自由なんです」と、こちらの疑問を先取りしたりもする。
 さきほど紫陽花について聞いてきた三人組が、一歩一歩踏みしめるようにしてこちらに向かってきた。
 志津は道を開けるために、自然金田に寄り添う形になった。すれ違いざまの老婆たちの好奇の目が刺すように痛い。そのとき金田の右手が志津の腰にやさしく触れた。いやらしさなど微塵も感じさせないもので、志津の姿勢をバランス良く保たせるための配慮に違いないとは思ったが、それでも、ひそかに憧れたほどの男の厚意だ。嬉しくないはずはなく、心にも体の中にも熱いものが生れた。そうなればまた、そういう女の部分を疎ましくも汚らわしくも思う「自分」が育ってくる。
「あの、お仕事でお忙しいでしょうから失礼します、わたし、子どもを欲しがっている主人の希望に添えるように、願掛けのつもりでこごめの湯に来てますの」
 とうとう言ってしまった。これで、男の自分に対する或る種の興味は失われるはずだと志津は思った。これ以上二人の発展はない。女の言葉をそう解釈するのが分別ある大人というものだ。
 志津は金田の言葉を待たずに、白い敷石の路を登り、こごめの湯を目指し始めた。体を触られて怒ったと思われるのが一番いい。また、金田がそう思えるタイミングでなければ不自然になり、失礼になる。そうも思った。
「またここで、いつか、ほんとうにいつか、お会いしましょうね、いいでしょう? 志津さん、志津さん!」
 下の名前を呼ばれたところで一瞬足が止まった。ほんの一時間か二時間デートしたところで何が悪いというのか、誰に知られるというのか。しかし志津には、それだけで終わらせる自信はなかった。

 湯に身を沈めると、心なしか落ち着きが戻ってきた。やや抑えた照明と、ほとんど無彩色な石と岩で造られているせいだろうか。無色透明の温泉の中で手足を伸ばして見つめてみる。ふと気づくと、裸の自分もまた白と黒の無彩色だった。化粧らしい化粧はしない。「それが一番志津らしくていい」と結婚当初猛雄に言われて以来だが、いまはもう猛雄の興味は別の女に向いている。夫婦を互いに空気のような関係にしたのは、ため息が出るほどに長い二人の時間だ。心が先に離れるのか。それとも肉体か。いずれにせよそれは、ときめきが無くなった時期と符合しそうだ。金田の言葉は熱かった。それを受けた体の火照りを湯で冷ましているほどに。
 志津は立って露天風呂に出た。金田が今吸っている空気と繋がりたかったのかもしれない。来年は四十の声を聞く。しかし湯に移る映る志津の裸体はまだ十分すぎるほどに女だった。
 温泉に浸かり岩にもたれ目を細めて仰ぐと楓が見えた。陽を直接に受けて若葉のよう、重なりあって深緑のよう、さらに風にめくれ葉裏を輝かせて金属のよう…志津は究極の静けさの中で、いつしか睡魔に襲われ始めた。




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. 心の音(3)


 その日も椿ラインを快調に下っていた。葉桜のはざまを、ころころと笑い合う少女たちの明るさを思わせる若葉の中を…その浮かれた気持ちが運転に隙を作ったらしく、ハンドル操作を過って左の後輪を側溝に落とした。女一人の力と知恵ではどうなるものでもなく、数台の乗用車に手を挙げて救いを求めたのだが、無理だと思うのか車を降りて助けてくれる者は一人もいなかった。あきらめてやや傾いた車のシートに身を沈めたとき、迂闊にも涙が流れた。男ならこういった場合の処し方にも慣れていようし、携帯電話を常用している人なら業者に連絡するなりして造作もなく危機を脱するだろうに。志津は自分の無力さをいやというほど思い知らされた。
「これは助けたくても無理だ」とウインドウの隙間から男の声が入ってきた。やっと停まって降りてきてくれた人がいると、ホッとして志津が外へ出ると、「その顔じゃあ、連絡済みの業者待ちってわけでもなさそうだ」と顔を不躾に覗きこまれた。
「ええ、どうしたらいいか、途方に暮れています」
「地元の人?」
「伊東です、これから万葉公園に行こうと」
 男は聞いているのかいないのか、親指を器用に動かして携帯電話のボタンを押している。
「おう、俺、金田。知り合いの車脱輪してさぁ、面倒みてやって。俺は連れがいるんでお前待ってはいられないんだけど、頼む。場所は城山入り口から奥湯河原に向かう下り。上品な美人が傾いた車の傍にいたらそこが現場。え? 名前」
 そこまで喋りまくると志津に視線を移した。
「淡野志津と申します」
「あわのさんだそうだ、じゃ。そうそう、二十分もあれば来られるよな。はいはい、よろしく。近いうちまた飲もうな」
 男は携帯電話を折り曲げて懐にしまうと、志津の全身を眺めながら自分の車へと後退りし始めた。
「あの、なんとお礼申し上げていいやら」
「礼なら助けに来る髭面のダチにして。俺は何にもしてないんだし」
 笑顔がさわやかだった。道端に落ちている吸殻を拾って、そっとハンカチにくるみ自分のポケットに入れて何事もなかったように立ち去る。そんな感じのさりげなさに胸を打たれた。
 リクライニングを倒していたが、助手席にいたのは女性らしかった。車を見送りながら志津は、自分の胸の中に小さな嫉妬が芽生えそうなのを必死で抑え込んだ。
 男の住所は金田の友人に聞き、後日礼状をしたためている。
 「貝などのこぼれしごとく我が足の爪の光れる昼の湯の底」という岡本かの子の和歌を引いて書き始め、なぜ万葉公園に定期的に訪ねてこごめの湯に浸かるのかはさすがに書けなかったが、岩風呂が好きなこと、休館明けを狙って行くこと、ルートがいつも一緒なのは方向音痴なので別の道が怖いことなど、とりとめのないことを書いた。そして趣味で作っている手書きの栞を添え、舌で糊をなめて封をした。手紙は何度も読み返したが、一度ならず投函することをためらうほど少女趣味に満ちていた。それでも出した。明らかに携帯電話の男に、恋に恋するように無防備にあこがれたのだ。それは長い間封印されていた、志津の女としてのときめきだったかもしれない。

 その金田がいま、目の前にいる。
 志津は、吉井勇について笑顔で語っている金田の背後から急に、あの車の中の女が初めて顔を見せ、怒鳴りだすような気がして落ち着かなかった。
 


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. 心の音(2)


 熱海峠の少し手前で、ほんのひととき目に飛び込んできた一幅の絵画。残雪の白い縦縞を配した薄墨色の富士が、たなびく無彩色の雲の上にはっきりと顔を出している。志津は思わず歓声をあげてスピードを落とした。しかしそれもつかの間、 ガスの中に入り込み、視界数十メートルという乳白色の闇に囲まれている。
 猛雄にプロポーズされたのは、やはり富士の見える乙女峠の茶屋で、当時志津の目に映る猛雄は、一点の曇りもない済んだ大空であり、はたまた雄大な富士そのものだった。嫁、姑の間で姑息に立ち回ったり、日常の瑣末なことでいちいち嫌味を言うようなちっぽけな人間ではなかった。少なくとも志津はそう思いたい。そうでなければ、唯一の男として、生涯の伴侶として猛雄を選んでしまった自分が惨めすぎる。半面、そうだとすれば現在の猛雄を創ってしまったのは自分ではないかという疑いを生じる。哀しいかな即座に否定できる強さも図々しさも持ち合わせてはいない。しかも長期間にわたって専業主婦でいた分、一人で生きていく力は極限まで弱っている。自活できないから妻のままでいる、暦だけをめくっている、そうならあまりにもみじめだ。
 茫漠としたこの白い闇そのままだと志津は自嘲した。暗くないのに不安が募る。走っているそこだけは見えるのに遥か行く手が見えない。「まるでわたしの人生みたい」志津は目を凝らしながら声に出した。
 さらに、この遅々とした歩みに耐えられなくなったときはすべてを失う…そんなふうにも思った。

 大観山から椿ラインを下り、奥湯河原経由で観光会館に着いた。まだ十時を少ししか回っていない。いつものように万葉公園の散策路の入り口に立つ。そこまでは判で押したような流れだった。
「地元の方かねぇ?」と後ろから声をかけられて振りかえると、いかにも土の匂いのするような、三人の高齢の女性が立っていた。
「いえ、わたしも観光客の一人です、ごめんなさい」
 謝る必要もないのだが、たぶん名所に関する質問か、どこか目的地までの道を聞かれるのだろうと思い、先手をとった。
「あじさいはどこじゃろ?」
 老婆も老婆なりにめげない。聞きたいことはあくまでも聞くタイプらしい。紫陽花といえば、いま通ってきた椿ラインかあじさいの郷だが、彼女たちにガイドするほどの知識も道案内する自信もなかった。結局ごめんなさいを貫き、急ぎ足で散策路を進んだ。観光地の人間としては大いに失格だ。背中に三人の非難めいた視線を感じた。
 渓流をいただく森林、庭園には一つの特色がある。それは広範囲にわたる美しい苔の存在だ。万葉公園は、千歳川の渓流に接するので蘚苔類を育む適度な湿気にはことかかない。滝の傍らの自然石はもとよりのこと、それは、木の幹を覆い、路面を這い、崖の花崗岩を装ってそれらを落ち着かせている。
 志津は朝からずっと引きずってきた重い気分を一掃し、数十種類の緑色の中でひときわ輝くモスグリーンに囲まれて、ようやく癒されていった。
 そのとき…
「たゞひとり湯河原に来て既に亡き独歩を思ふ秋の夕暮れ。この歌ね、詠み人の吉井勇が僕で、独歩があなただとすると、ちょうどこのとおりなんだ」
 急に物静かな調子で、男の声がそう言った。
「僕の人生は早々と秋だし」
 志津はゆっくりと振り返り声の主を見て何度も瞬いた。長身で、長袖をたくし上げ、黒いウエストバックを着けている。顔は細面、七三に流すように分けられた髪、淡い色のサングラスが若者風だった。
「もっともこうしてあなたは生きていて、びっくりして、こいつは誰だろうと警戒心むき出しのどんぐり眼」と男がほほ笑んだ。
 白い歯が形よく並んできれいだった。
「あの…」とたまりかねて志津は「どちらさまでしょうか?」と聞いた。
「やっぱり僕って印象薄いなあ。二か月前、椿ライン、脱輪、ケータイ。これでも?」
「あーっ、ごめんなさい、なんてことでしょ、わたし、すっかり失礼しちゃって」
 志津は頬を熱くして深々と頭を下げた。

  

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. 心の音(1)


「心の音」 (1)   ――それは物静かなミステリー。


 一

 舗装路をまだらにして見せている樹木の影が大きく揺れている。まだ濃鼠色のそれも昼中には紫が混ざり、陽の当たるところとの明暗の差も驚くほどに大きくなるにちがいない。朝聴いた天気予報によれば今日は真夏並みに暑くなるという。梅雨の長雨が育てすぎた沿道の木の枝や雑草が南からの風を受けて、もっとアクセルを踏めと言わんばかりに志津をあおった。時速八十キロ、今まで一度も出したことがないスピードに挑む。左小回りで側溝近くに擦り寄ると、タイヤが路上の木の実や枯れ枝を押しつぶすのだろうピキピキと不気味な音がした。
 夫の猛雄と何を言い争ったのかを正確に思い出そうとしたが、限りなく迫ってくるカーブに対応し、ハンドル操作を繰り返しているうちにそれ自体どうでもよくなった。その代わりに、命の意味や価値への疑問が急に志津の中に湧いて出た。たとえばたった今、反対車線を迫り来る黄色いオープンカーに向けてハンドルをきり正面衝突をしたら、シートベルトはしているが私も相手も即死だろう。 わざとではなく技量不足や過失でも結論は同じだ。それほど危険な瞬間を、何時間後かは分からないが我が家に帰るまで何十回何百回と経験する。しかしこのドライブに命を懸けるほどの意味がないことは百も承知の私なのだ。猛雄たち男はどうか。仕事は車をはじめ高速度交通機関を利用しなくては不可能だから、この身の危険を日常的に経験していることになる。家にいる女はそれだけでも感謝すべきなのかもしれない。
「あっ」と志津は急に口喧嘩のきっかけを思い出した。
「おふくろの嫌味が悔しかったら、妊娠して産んでみろよ、言っておくが俺の子種はちゃんとしているからな」
 子どもの産めない女は価値がないと志津に向かって言い放った姑を、今朝方志津が非難したときの猛雄の台詞だ。 
 胸の動悸が激しくなり志津は、「野鳥の森」の看板を目にして車を寄せ、息苦しさから逃れるようにして車外に出た。目の前の木の枝に白い尾を振る小鳥がいて小首をかしげた。
「車を置いていってやるから、こごめの湯にでも浸かって来い。俺のせいだって言いたいならほかの男と寝て、試してきてもかまわないんだぞ」
 思い出したとたん心が再び震え始めた。
 こごめは懐妊の意だ。猛雄に言われなくても三年ほど前から一と月おきぐらいには通っている。藁をもつかむ気持ちからだった。「お湯に浸かって本当にその場で妊娠してはたまらないでしょう? あなたの協力がいるわ」
 かつて性生活がお世辞にも濃密とはいえないことを皮肉って志津は言ったものだ。だから猛雄は今回仇をとったことになる。二十七と十九で、八つ違いの末広がりと周囲に祝福されて同棲を始めた二十年前には、紛れもなく愛があったと志津は思う。それなのに、いや、そうだからか二人は子どもを授からなかった。
「いつまでも二人は、いつかは一人」
 標語のような、呪文のような姑の言葉が重くのしかかってくる。猛雄は淡野家の一人息子、跡取りができないのは志津が考えている以上に一大事なのに違いない。
「女は出産するだけの機械かさ」
 志津はドアを勢いよく閉め、ゆっくりとルートに戻ると、若者のようにタイヤを鳴らして急加速をした。左右の緑が恐ろしい速さで後ろへと飛んでいき、センターラインがクネクネしながら生き物のように迫ってくる。半ば笑いながら志津は、つまらないことに命を懸けている自分を「バカだバカだ」と罵りつづけた。


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Author:蛙声爺
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