蛙声爺の言葉の楽園

. 「宴」のあとの虚脱感


 朝5時半ごろに散歩に出た。土日、祝日の散歩は心も軽く背筋もピッと伸びている、ような気がする。普通の人が普通に仕事を休んでいるからだ。もう数え年70歳、いわゆる「古希」なので昔も今も「高齢無職」は自然なのだが、性格からか妙に尻が落ち着かないのだ、平日の散歩は。なまじ、外見が年齢より若く見えるせいかもしれない(^^♪

     松川中流


 松川の橋の上から川面を覗いていたら、鴨が3羽の雛を引き連れて川上へと泳いでいた。嘘のように小さい雛の体が水の流れに負けて右に左に大きく揺れる。ひどいときは50センチ以上も押し戻されている。親鳥は百も承知なのかどうか意に介するところがない。野鳥の子育ては根性がすわっていると見た。
 「ところで父ちゃんはどこに置いてきた?」

 カラスが路上に下りて何かを凝視していた。近づくと、小さく羽ばたいて白いガードレールの上に移動する。土塀の角を通り過ぎてはじめて見えたのだが、年老いた野良猫が丸くなって眠っていた。きれいでも美味しそうでもないのに、カラスは老猫が死んでいるのかどうかを確認していたらしい。私はキッとカラスをにらんだ。奴は微動だにしない。間合いを知っているのだ。根っから狡猾な「死体の掃除屋」だとあらためて思った。「おっ」前から白い野良猫。「おい、あいつ起こしてやれよ」とアイコンタクトを試みたが、通じたかどうか。

 昨日の同人誌『岩漿』合評会で、会員に承知してもらい「編集長」を降りた。今後はこの日から5人になった編集部の1員として続けていく。創刊から20年もの間担ってきた「しごと」だった。これからの人に新しい誌面作りを期待したい。
 それにしても賑やかな会合だった。夕方開演の野外ショーのためか、会場の喫茶店が超満員だったのだ。

 ふと見つけたマンホールの蓋、もったいないくらい綺麗だった。こんなところにも美術がねぇ。クールジャパン!     


       マンホール消防

          なぜマンホールっていうんだ? 人間と同じで裏側が真っ暗な穴だからさ


 原因は分らないのですが、アクセスカウンターが真ん中から裂けて機能しなくなりました。
 「もう数は気にしなくていいよ」と、これも何かの助言だと思うことにして、撤去しました。
 いえ、ほんとうは直し方が解からないからなんですが。



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. i とh の間のc


 「岩漿」を編集していて初めて高島京の筆名で2ページの穴埋めをしたのが、この二つの詩でした。「京」は「みやこ」と読み、仮想の女性です。本格的に詩を創っている方の逆鱗に触れそうな創作態度ですが、「なりきり川柳」ならぬ「なりきりポエム」ですのでご容赦ください。

 
   『 i と h の間の c 』

   肉のつながりの痕(あと)に
   ぽっかりと洞(あな)があく
   吹き荒れる風をなだめて
   逃げてあなたの向こう側
   心澄ませば細波(さざなみ)の音
   目を閉じて ようやく自分(すべて)が見えたとき
   わたしが消えて
   むかしみた夢



           狂った階段



   『リーベの炎』

   破り捨てたはずなのに
   いまも心で読めるなんて
   くすぶっているのが嫌で
   燃え尽きたと決めたのはわたし
   黒くした紙の端が ときおり赤く耀(かがや)いて反り返る
   恐る恐るそれに触れれば
   責めるように
   ああ 熱い

 

 雨で身体を鍛えるわけにもいかず、やむなく「心」のトレーニングに行きました。
 小田原の東宝シネマズへ、是枝監督の『海よりもまだ深く』を観に。
 演技派の演技は演技であることを忘れさせる凄い技。樹木希林、阿部寛、真木よう子、小林聡美、リリー・フランキー…見事に引 き込まれました。映画でなくてもいい映画、それが秀作の証。
「父の愛は山よりも高く、母の愛は海よりも深い」、家族愛についてあらためて考えさせられました。


 1番目のタイトルの心は「 ich 」(私)です。愛と性の間に何か入ると私(自我=イッヒ)になるという。謎解きのようなものが男女の関係に想えたのでしょう、20年近く前の当時。

 今日(5月28日)は、年に1度の岩漿文学会の合評会です。今回は10人ほど集まります。


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. 映画選びは心を映す鏡かも


 410回以上になる爺のブログには数10本に及ぶ映画の紹介記事がある。ところが確認してみると面白いことが分った。おしなべて読み手の関心度が小さいのだ。文章の巧拙もあろうが、自分が観ていない映画やドラマの感想記事がいいのか、悪いのか、判断できないのだからこれは当然かもしれない。だからと言えば妙だが、今回は自分がまだ鑑賞しておらず、ただ観たいと強く思った映画について語りたい。「なぜ選んだのか」の中に、自分の心が見えてくるかもしれないからだ。

 インターネットのブログやフェイスブックで作品の存在を知り、それが起爆剤になるという経過をたどった作品が二つある。 
 まずは『杉原千畝』(チェリン・グラック監督・唐沢寿明、小雪主演)。味もそっけもないタイトルで驚いたが、「千畝」は「ちうね」と読む。畝は畑の「うね」と一緒だ。第二次世界大戦下のリトアニア領事館で、ナチス(独裁者ヒットラー率いる国家社会主義ドイツ労働党のこと)に迫害されるユダヤ人難民6000人余にビザを発給し、彼らの命を救ったという史実に基づく物語である。このとき外交官杉原は、日本政府の方針に反していることを承知で、人道的見地から実行している。つまり自らの「立場」や「安全」を超えたところで決断したのだった。
 映画ファンは、S・スピルバーグ監督作品でアカデミー賞をとった『シンドラーのリスト』をご存じだろう。こちらは私も上映当時に観ている。シンドラーはドイツの実業家で、1000人を超すポーランド系ユダヤ人の命をナチスの魔の手から救っている。当時ナチスはユダヤ人に対する組織的な大虐殺(=ホロコースト)を行っていた。ただのちに、彼は人道的な行為をしたのではなく、自分の事業に必要なユダヤ人労働力を確保しただけだという説が彼の近親者から出てきたようだ。だとすれば、杉原の方がより称賛されるべきではないか。もうすこし詳しく千畝のことを知りたい。その想いが私を突き動かす。

 もう一つは『海難 1890』(田中光敏監督・内野聖陽、忽那汐里主演)。映画の筋などは、鑑賞後の記憶に照らしても、細部は歳月を経て忘れられ根幹部分だけが残る。そんな感じでこの映画を語るとこうなるのだろうか。「1890年和歌山沖で座礁したトルコ軍艦の兵士69名を必死で救った地元住民の物語」と。トルコ国民はこの恩義を忘れず95年後に返礼をした。戦地イラクから脱出する手立てを失った日本国民を、トルコ航空機が自国民よりも優先して救うのである。トルコ国民は陸路で脱出可能だが、日本人には空路しか無かったのだ。これも映画の中で扱われているという。1世紀近いときを超えた「異国人の間の信義と仁」、観てみたいと、そう思った。

 感動した映画に引っ張られ、関連作品として観たいというアプローチもある。
 『黄金のアデーレ 名画の帰還』(サイモン・カーティス監督・ヘレン・ミレン、ライアン・レイノルズ主演)がそれである。監督も主演俳優も知らない。名作と聞いたことも無い。ただひたすら名画『接吻』で有名なクリムトという画家の名前が私を引きつけたのだった。実はタイトルの「アデーレ」だけで、「もしかしたら」と思った。この映画は、ナチスに奪われた名画「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像Ⅱ」の返還を求めて訴訟を起こした婦人マリアとその手助けをする若い弁護士を描いていたのだ。そうなら観る。この場合は、単純極まりない。失礼な言い方をすれば、面白いかどうかなどどうでもいいのだ。
 私は何年も前に「Amazon」でラウル・ルイス監督の『クリムト』のDVDを買った。劇場での上映が終わっていたからだが、そのお陰で、この幻想的で癖のある、それでいて美しさに溢れた映画を繰り返し鑑賞できた。マルコビッチの曖昧で自己愛に満ちたクリムトと、ヴェロニカ・フェレの儚さと傲慢さを併せ持つクリムトにとっての「永遠の女」。圧倒的な「耀き」に酔いしれたのだ。
 
 極稀だが、監督の名前だけで観ると決めることがある。昔、日本なら黒澤明、ハリウッドならスピルバーグだ。そして今は小泉堯史とこの人「是枝裕和」。『そして父になる』、『海街diary』から…いま上映中の『海よりもまだ深く』へ。
 たまにはこういう選び方もいい。


  

        崖の苗木

            こんなところで、どうやって生きていくのよ


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. 祐親(すけちか)祭に想う家族というもの


 5月24日5時20分、松川水上仮設舞台(薪能舞台)の前に立った。イベントの中心を成す「薪能」はもう終わっているが、宇崎竜童の公演をはじめ関連する各種の舞台はまだまだ数日は続く。橋の上から写真を撮っていると3人ほど早朝散歩の人が通ったがそれだけで、何とも言えない静けさの中に佇めた。

    祐親まつり3

 源頼朝(みなもとのよりとも)は京から伊豆へと流された。「成人」していない彼の「保護者」(監視役)を平氏から仰せつかったのが伊東の豪族祐親だった。時は流れ青年になった頼朝は、祐親の愛娘八重姫と愛し合うようになる。二人の逢瀬の場は音無(おとなし)の森、やがて八重姫は頼朝の子を宿し千鶴丸(ちずまる)を産む。時代は大きく動き平氏は衰退の兆しを見せ始め、源氏の直系たる頼朝は、平氏との対立勢力の棟梁として担がれていく。極端なまでに平清盛に私淑していた祐親は、親戚たちの憂いをよそに「反頼朝」の姿勢を貫いていく。頼朝の嫡男にあたる千鶴丸は殺され、八重は頼朝から離されて他家へと嫁がされた。八重は祝言をあげたあと、頼朝への想いを捨てきれずに入水(じゅすい)自殺をして果てる。祐親はそれでも心変わりせず平氏につき、終には頼朝軍によって捕らえられ屠(ほふ)られてしまう。頼朝はといえば結局北条政子を妻にした。
 誰がいいとか悪いとか現代の価値尺度では測れないが、この大雑把な話からだけでも、時の「政治」「権力争い」に翻弄される「個人」「家族」というものの儚さや哀しさはしみじみと伝わってくる。後年、実の弟で且つ源平合戦の戦功著しかった源義経(みなもとのよしつね)を自らの疑心暗鬼で追い詰めていく頼朝は、もしかしたら自分がかつてよしとして実行した「家族」への仕打ちに怯えていたからではないのか。そんな風にも思えてくる。
 もう一方で、武士としては潔く、信義を貫いたかもしれない祐親だが、一族の棟梁、あるいは自分の家族にとっては、落第だったとも解釈できよう。人間としての評価はさておき、伊東祐親はいまもなお、「祭」の中心にどっかと座っている。

    DSCN1029.jpg


 


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. 里山、ベルガから山梨大学病院


 5月22日は午前5時に山梨県北杜市の里山に向かって出発。9時前には長兄宅に着きました。
休憩の後二人して灯油など必要品を購入に須玉へ。戻ってからパソコン室でちょっとした「技術談議」をして、14時半ごろに白州町にある宿泊施設ベルガに向かいました。この日は長兄の喜寿のお祝いのため横浜方面から親戚が集まってくるのでした。もちろん当日都合がついた人たちだけですが。18時開始から22時半まで、笑い声が絶えない盛会でした。
 翌朝7時に長兄と二人、メンバーと別れて山梨大学付属病院へと出発。昨年の暮れに手術した目の再検査のためです。

 今回の記事は、「留守中」にお訪ね戴いた方への「ご報告まで」という感じで失礼します。
 ちなみに往復の距離は440キロでした。

 伊東宅に帰ったところ物干し場に「物語」がありました。偶然なんですが、ちょっとご覧ください。
 


     DSCN1027.jpg

        ねえ、日に焼けちゃうよ、あんたたち 


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. 流罪の地からブルースの碑へ


 ときの鎌倉幕府を批判したため「流罪」にされた日蓮は、伊豆は富戸(ふと)の海岸に送られた。「伝承」では潮が満ちれば海面下になる俎岩(まないたいわ)に置き去りにされたが、川奈の漁師弥三郎がこれを見つけて日蓮の危機を救ったという。日蓮は赦免されるまでの3年間(1261-1263 )をこの伊東の地で過ごすことになる。いわゆる『伊豆法難』である。「観光地」の言い伝えはそのまま信じておく。
 薄曇りの下の法華宗蓮着寺(れんちゃくじ)に着いたが、私とかみさん以外誰もいなかった。駐車場の近くの電信柱の上でカラスが執拗に鳴いていた、「かー、かー、かあぁー」と同じ調子で6回も繰り返して。「車じゃねーよ、今日は歩き!」と見上げた私。洒落が通じたかどうかは定かでないが、結果としては鳴き止んだ。
 この寺の建立は日蓮赦免から250年近く経ってからのことで、開山(かいさん)は日云(にちうん)という僧侶だそうな。つまりこの人が創設されたこの寺の初代住職ということになる。これに対して寺院創設の経済的基盤を担った人を開基(かいき)というが、あいにく私は後北条の武将だとは推測できたが、まだ分らないでいる。
 GWは過ぎた、土日でもない、天気はいまひとつだ。しかも私らは2度目の訪問だった。あまりにも寂しいので、「戻ろう」と意見はすぐ一致した。

   日蓮・蓮着寺

 車は城ケ崎の吊橋近くのパーキングに停めていた。2700歩ほど舗装された道を歩いて寺に来たので、帰りはビクニカルコースでと決まった。より海岸に近い自然林の中を行くと、同程度の歩数で城ケ崎の吊橋に達した。途中で2人とも抹茶アイスを食べたが、これは内緒ということにしておく。(誰に?)
 つり橋を渡り切ると豪華な石碑があり、ロス・プリモスの歌で「大ヒット」した『城ケ崎ブルース』の歌詞が彫ってある。星野哲郎の作詩はうまいなといつも舌を巻く。何でもない言葉を使いながら、重ねていっていつの間にか人の心を摑みとってしまう。そんな感じだ。

 ♪『ゆかねばならぬ 男がひとり
   ゆかせたくない 女がひとり
   ふたりの恋の 城ケ崎  ・・・』
 のっけから、この2行で予告編をみせてくれている。恋はふつう2人でする。分っているのに『ふたりの恋』という。不特定多数人の恋ではない「このふたりの恋」なのだと、限定をしているのだから、凄い。
 ♪『いのちのかぎり 愛せたならば
   たったひと夜の 夢でもいいと
   わたしを泣かす 城ケ崎 ・・・』 
 2番の最初の2行、万葉の相聞歌の雰囲気を感じる人もいるだろう。
 撮影用の展望台があったので、帰り際に撮ってみた。…海まで薄曇りだった。
 帰ってから久しぶりにこの歌を聞いてみた。単語自体はありふれているのに、やっぱり「別れ」が切なかった。

       城ケ崎つり橋を遠景で
 
 まちがっても足腰が弱らないようにと、どちらからともなく5000歩以上になる「散歩」に誘う。この日もまた、その「作業」にほかならない。





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. 「和」を捨てることは「国」を失うことに


 「別の惑星にある理想の国」、美しい自然を保つ魅惑の国、大災害にもくじけず短期間で立ち直る強靭な民族、秩序と信頼を基盤とする社会、比類なき独創的先端技術の国、伝統文化を継承している稀有な先進国、小さな島国なのに世界三位の経済大国、世界一民度の高い国、自衛のみという制限を受けながらの世界四位の「軍事大国」、サブカルチャーの刺激的リーダー・・・これは一体どこのことか。海外から見る「日本」なのだ。
 ところが昨今のマスコミ報道から垣間見る「日本」は、少し怪しくなってきた。
 国政・地方行政を問わずに表面化する「政治家」のせこい不始末、世界的企業の会社ぐるみの不正とその隠蔽、かつて「準国家」とまで評された大企業の経営破綻と全部または一部の身売り、高速度交通機関で頻発する気のゆるみトラブル、伝統文化の継承者不足、弁護士・警察官までが犯す経済犯罪、弱者を襲う劇場型詐欺の拡散、肉体労働・職人を忌避する風潮、変質的犯罪の増加と相互信頼社会の危機・・・、これは筆者の誤解と偏見か。

 或る日ふと思った。いまだ「礼賛の嵐の中にいる日本」なのだが、上記の「ほころび」の原因はたった一つではないのかと。
 それは、「人様には迷惑をかけない」「礼を尽くす」「恥になることは、人が見ていようがいまいが、絶対にしない」「万一過ちを犯したときは進んで自らを罰する」という、おそらく日本人のDNAになっているはずの「和の真髄」の退化だ。昔ルース・ベネディクトが『菊と刀』の中で『恥の文化』と呼んだ日本独自の精神的支柱である。
 ほんの一例に過ぎないが、これさえあれば、血税を年間一億円近く国民に負担させながら国会審議を欠席して遊び惚けたり、警察官として現場検証をした後でその現場から現金を盗んだり、新幹線が自動運転中であることをいいことに運転手がスマホをいじっていたりはしないだろう。「分らないだろう」「見つからなければいい」が多くなったような気がする。

 しかしこの傾向は、残念ながら加速することはあっても、終息することはないだろうと予測する。
 昨今日本の「和」を礼賛し憧れているのは諸外国「洋」の目からだが、それは彼らが自国の現状の「洋」が失敗している、不満足だということにほかならない。ところがその肝心な「和」は何と「洋」を憧れ追随したがっているように見えるからだ。とくに個人主義ならぬ「利己主義」へ、自己責任ならぬ「責任転嫁」へ、多様な価値観から「金銭の多寡・有無という単一な価値観」へ、という傾向は顕著だといえよう。それらが、構成員が人間である企業、社会、国に蔓延すればどうなっていくは明らかである。
 『ずばり言って、日本は、アメリカの最悪の部分だけを取り入れ、自らの最良の部分を切り捨てはじめているんじゃないか。その最良の部分は、人生に対する完全な美という考え方だと思うんだ』(フランシス・F・コッポラ)

 人は社会的な動物であり、社会は経済が全てを支配している。さらに現代経済は全地球的な広がりの中にある。行ったことも無い国の経済破綻や、限定地域の宗教戦争や、たった一人の外国要人の「暴言」で日本の株価が暴落し、勤め先が危機に陥り、一家の大黒柱が整理解雇され、息子の大学進学が不可能になるといった具合に、国際的に小規模な「出来事」も食卓を前にして看過できなくなっている。
 よく言われていることだが、日本の株式市場で動いている金の四分の三は海外からのものだ。持ち株比率が高くなれば「洋」は自国文化の論法で経営者に立ち向かってくる。いわゆる『ものを言う株主』である。「洋」理論の投資家は、その会社を育てようなどと考えてはいない。「利益を株主に還元せよ。それが出来ない経営者は無能であるから、交代せよ」となる。長いスパンで会社経営を考えて研究・開発に経費をかけるという「社是」はこうして後退していく。彼らには目の前の自分の損得に関する数字が全てなのだ。過去幾たびか会社を救った貢献度の高いトップも、会社の創業者も、数字で尖った「洋」の刀の前では例外になりえない。昨今一体何人の創業者或いはその身内後継者が経営者の椅子を奪われたことだろう。数字のため、不正を指示し、隠し、終には会社そのものを破綻に追いやった経営者も数多くいる。どちらが悪かなどとは言わない。これはまさにグローバル経済のなせる業なのだ。社内の不正を暴く「内部告発」も上記「洋」の理屈からは当然すぎるほど「まっとうな」行為となる。かくして「和」の企業経営環境は「洋」に傾いていく。

 もろもろの公務員、準公務員の不祥事も、解雇されたり、降格されたり、減給されなければ何をしてもいいのだという感覚なのだろう。バレなければいい、損が無ければ何をしてもいい。こういう考え方は「洋」の文化の消極的側面と括っていいだろう。積極的側面はもちろん、貢献しただけの地位や報酬をよこせというビジネス的な正論ということになる。
 日本では積極的側面はなかなか取り入れてもらえない。消極的側面は簡単だ、「和」を捨ててモラルを下げれば済む。

 もし前述の仮説が納得できるとすればだが、「洋」文化の人を大量に長期間労働者として日本に入れるのは得策とはいえないように思う (これは大変失礼な言い方になるが、冒頭に掲げたように「洋」の人たちが「和」に憧れているという現状に鑑みての主張なのでご了解ありたい)。間違いなく「和」は「洋」に駆逐されてしまうからだ。経済面は致し方ないにしても、文化的、社会的には手痛いしっぺ返しを受けることになる。すくなくとも安全・安心な社会はおぼつかなくなるだろう。欧州の現状がこの論拠である。

 それでなくとも現代社会は「和」を捨ててかからなければ国際経済に太刀打ちできないと思われる節がある。どういうことか。
 資本の自由化・産業の国際化は不可避だが、これは共通語を不可欠にする。つまり英語力の強化だ。「英語が得意」から「普通に英語」の社会を目指さなければならない。政府は幼児ないし低学年児童段階からの英会話力を強化するだろう。それでなくとも漢字文化は衰退中だが、将来の「産業人」として育てるにはどちらを重点にするか、目に見えている。同時に推進しだしたのは小学校段階からのコンピュータ技能の育成だ。これは遅れをとらないために喫緊の課題になった二つのことに関連すると思われる。
 モノがインターネットに繋がれ情報交換することにより相互に制御するしくみ「モノのインターネット」(Internet of Thing →略 IoT)と、コンピュータ上で人間と同じ知能を創りだそうとする試み「人工知能」(artificial inteligence →略 AI)がそれである。
 このほかにもすでに実用化段階にはいった「自動運転車」も更なる発展を目指している。
 語弊を覚悟で言えば、これらは知的には「人間」を補完・超克し、量的には適正人間の代替を図ろうとしている。人間以上の知的能力を求め、省力化・経費節減を企図するのである。
 政府はきっと教育機関での「とび級」を認め、大学には産業実務にリンクした「効率的学習」を要請するだろう。
 さあ、これらの動きの中のどこに「和」を埋め込めるだろう。それを可能にしたとして「和」は国際競争力に貢献できるだろうか。それができなければ世界の国数二百何某分の一の国でしかなくなってしまうだろう。

 世界中でたった一カ所、一つの国だけで一つの文化圏を形成しているところがある。それが日本。単一民族、単一言語、単一国家。極めて高比率の中流層がささえている民度と独自文化。
 いつまで憧れてもらえるのだろう、「和」の国。いつまで輝いていられるのだろう、この日本。



 万緑や 善きも悪しきも 洋の風 (蛙声)

          渓流と森・松川

              いずれ汚れた大海に注ぐとも、それまでは美しくあれ



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. いまは夢・・・


 人の一生という長いスパンで見れば、ほんの一刹那すれ違っただけだと思える人に、熱くこころを燃やした記憶。それを最期まで自分の身体の隅っこで生かしながら、折に触れ手をつなぎ連れ出して来てみては、見つめてみる。それくらいのことはきっと、男でも女でも誰にでも許されているに違いない。
 なぜならそういうときは、当時と同じ年格好なのだから。



   「いまは夢」


   いまは夢 漂うふたり
   あなたの中の妖(あや)しさが
   重なる翳(かげ)に ゆれる丘
   静かな吐息 燃える頬
   永遠(とわ)の響きに 波打つこころ
   ああ何処(いずこ) 二人は何処
   崩れ流れて 朽ちゆく野辺に
   ただ密(ひそ)やかに
   ふたりは其処に
     


                  (もう見えないほどの遥か昔に、蛙声) 




     土管に花
         
         何が哀しくて そんなところで咲いているの



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. だんだん文字だけになっていく身の周り


 昨日4年に1度 の中学校1期生「学年同窓会」が横浜市内のホテルで行われたが、私は結局欠席となった。伊東に居ると「横浜」はかなり遠く感じられる。参加となると2日がかりになる。今回はさらに体調の悪さが重なった。次第に度を増していく難聴のことも理由としては大きい。
 かみさんと夕食をとっていたら、同窓会現場に居る仲間2人から電話が入った。それは嬉しかったのだが、会場の喧騒と、私の携帯電話の不調、さらには難聴がたたって、ほとんど聞き取れなかった。「やっぱりだ」、嫌な思いをさせてしまったに違いない。
 作家曽野綾子の言ではないけれど、徐々に「世間」を狭くしていき、「慎み」の中に身を置くのが老いの務めなのだろうと納得した。現実にいま私を取り巻く環境には「文字」しか無くなっている。手紙、ブログ、ホームページ、フェイスブック、パソコンの日記、創るエッセイ、詩、そして小説。さらには「日々の師」新聞も読書も「文字」だ。
 この頃では、肉体の老化現象や健康状態が教えてくれ用意してくれた環境に従おうと、積極的な捉え方をするようになった。うらんだり哀しんだりしてもはじまらないのだ。この世は万事『塞翁が馬』とも解せられる。「もう、1つことに特化し集中せよ」ということなのだと。
 とくに長編小説執筆については、「健康寿命」や「創作力寿命」を考えると、あと何年も残っていない。
 
 それにしても「行けばよかったかも」感はある。
 いつもは焼酎のお湯割り1杯の「晩酌」なのだが、電話の後でひとり台所に立ち、もう1杯をつくった。
 ・・・「同窓会に乾杯」



 午後急ぎ足トレーニングで6000歩ほど歩いてきた。コースの舗装路に落ちているゴミは一つも無かった。
 「海外の反応」で日本の街路が清潔だと絶賛されているが、あらためて「確かに」と嬉しくなった。
  
   槇と道
      生垣(行けガキ)とは子どものためのものかな(^^♪



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. 「しんがり」の担当者、世間には大勢いるかも


 1997年4大証券会社の一角をなしていた山一證券(以後山一と記す)が破綻した。いわゆる総会屋が暗躍し、その一方で一時は「嫁にやるなら証券マン」と世間でもてはやされていた時代のことである。WOWOWで放映された連続ドラマ『しんがり・山一證券最後の12人』は、2014年度講談社ノンフィクション賞を受賞した清武英利著の同名小説が源になっている。小説と言っても一部本名も含む事実と関係者証言を土台にしている本格的なドキュメンタリーである。

 「しんがり」は、戦国時代のドラマでよく耳にする。敗色濃い戦場から撤退する際、主力軍を比較的安全に退かせるために、敵の追撃に備えまた命がけで戦う一軍団のことで「後軍」と書く。 古語辞典的には1文字で「殿」である。全滅のおそれがあるが、成功すれば当時なら戦功の度は高かった。現代の「しんがり」はしかし、自らの胸に残る誇りのみで、そのほかには何一つ報われない貧乏くじだ。観終えて、また読み終えてふと思った。規模も業種もまったく異なり比較にならないにしても35年前の私がそうだったように、世間には廃業会社の「しんがり」役を担った人は数多くいるではなかろうかと。

 主人公たちが最初に知らされたときは、山一に2600億円の「含み損」があるということだった。「含み損」なら株価の上昇で減ったり無くなったり、さらには「含み益」に転ずることもある。しかし事実は違った。「金額が確定している帳簿外の債務」だったのだ。経営陣によって闇の中で生き続けていた債務はどこから生じ、どうやって隠蔽し続けていたのか。明治30年創業で100年の歴史を持つ山一を自主廃業に追い込んだのは「これ」だった。「自主廃業」とは「証券会社が大蔵省(当時は財務省ではない)に対して自主的に証券業の廃業届を出すこと」である。他の業種ならいざ知らず、透明性と経営情報公開を必須とする証券業で、その中でも一流の企業で行われた故意の法令違反だったのだ。ちなみに事件当時山一には何と「24兆円の預かり資産」があったという。

 山一はこういう場合に考え得る一つ一つの手立てを正式に拒絶された。
 ①会社更生法による救済→「簿外債務等の違反行為があると適用は難しい」(東京地裁)。また「適用するには会社が大き過ぎるし、財務体力もない」。
 ②銀行の支援→無い。旧富士銀行系芙蓉(ふよう)グループの一員だったのだが、無しは当然か。
 ③日本銀行からの特別融資→「会社更生法で生き残ろうとする企業は対象ではない。また不正行為をしている訳で論外」(大蔵省)。
 
 著作や作品によれば、当時大蔵省証券取引等監視委員会が株式の不正取引や総会屋との「癒着」を調査していたのは山一だけではなかった。4大証券会社の全てが対象だったのだが、廃業まで求められたのは1社だった。さらには東京地検まで本格的に動き、取締役クラスの逮捕者も大勢出している。それほど超高額の簿外債務の存在とその発生・隠蔽の経緯は「犯罪性」が濃厚だったと言えよう。ちなみにこの過程で、会社関係者二人が顧客に殺されてもいる。

 これは私見になるが、当局の「一罰百戒」狙いもあるのではないか。まさか不正のあった証券会社を「全滅」させるわけにもいくまい。不正の程度が受忍限度を超えた1社が山一だったと解される。
 決定後、山一は扱っていた株式や預り金を顧客に払戻し、適正に措置したと思うが、銘柄として山一自体の株を買っていた投資家はより大きな犠牲を払ったはずである。不正発覚以後株価はさらに暴落した。それでもなお山一復活を信じた顧客もいるだろう。彼らは終には0円になり紙きれに変わった証券を見つめることになったのだから。

 「しんがり」たちは、廃業が決まってからも、廃業当日が過ぎても、「社内の人間が正確な調査報告書を作り、公開すべきだ」との信念を曲げずに頑張り続ける。プライベートな部分を犠牲にし、再就職活動も遅れに遅れた彼ら。
 一方では、不正を始め、その不正を暴きにかかる者を斥け、不正を引継ぎ加担して大きくしていったほとんどすべての当事者が「会社を、山一を護るため」と動機を語った。発見され廃業となった結果からみればそれはまさに「自分の地位収入と生活を護るため」と同義になる。そういう人だからこそ転身も早く、犠牲もほとんど払わない。
 どちらも胸を張っての「自信家」だが、人としてどちらをとるかは、もしかしたら「自分の人生」に対する好みかもしれない。経済面だけをとっても「しんがり」選択者はマイナスでしかない。
 ドラマを鑑賞し、原作を読んだ後で、胸のうちで吹きまくる風の中、そんなことも想った。


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. 弱き者汝の名は男?


 「冥府魔道」(めいふまどう)

 これを書くと女性に睨まれるに違いないのだが。
 昔放火と言えばたいてい犯人は女だった。八百屋お七は想い人に会いたいからと火を点け、江戸を火の海にした。、昔一途に惚れて、相手が嫌がるのもお構いなしに付きまとうのは女と、相場は決まっていた。この場合男は半ば自慢げだった節はあるが。昔、刺し傷が数多(あまた)ある殺人は女の仕業と決まっていた。可愛さあまって憎さ百倍で、あるいは錯乱状態に陥り行為が止まらずに、である。さらには昔、死体を損壊するのは女と、これはそうはっきりとは言い切れないが、安部定(あべさだ)が相手の男の性器を切り取り、肌身離さず持っていたという事件が、この印象を強くさせている。
 と、ここまできて、昔ではなく今ではこの「女」が「男」に変換されていることに気づく人は多いだろう。男の女性化は「恋人化した母親」が創り、女の男性化は「母親化した父親」という「男」への反発が創ったと云われる。いずれにせよ、小説の中では面白いかもしれないが、連日テレビのワイドショウを賑わせている現実となると、背筋が寒くなる。男ならさらにどこかが縮こまる。
 これを書いている途中でお茶を飲んだのだが、テレビ報道がこう言った、「容疑者は妻に殺されそうなので、殺される前に殺したと」。まともな男はこういう場合、身の回りのものを抱えて家を出る。たとえマイホームのローンを完済したばかりでもだ。真の男は妻を殺さずに己を「殺す」。さらに『男は、自殺するかわりに旅に出る』(開高健)。
 そう、一見惨めに見える男こそ、真の男なのだ。

     擁壁の苔
         苔むして弱そうに見えてもどっこい、崩れさせるもんじゃねえ

 
 きのう今日、DVDで連続ドラマ『しんがり 山一證券最後の12人』をじっくり鑑賞しました。さらに今日からは、この原作にあたる清武英利著で同名のドキュメンタリー小説(430頁)も読み始めました。小説を完読したら関連ブログを書く予定です。
 会社の規模も職種も全然違うのですが、35年ほど前私も3カ月間無給で廃業会社の後始末をしたことがあるのです。ええ、たった1人の、恥さらしで泥まみれの「しんがり」でした。
 


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. おもひでの「自転車」


  「自転車」 

     わたしの中で回る二つの輪
     同じ速さ
     しっかりとつながって同じ向き
     回る力で倒れない。

     スポークが創る光の軌跡
     サドルが伝える大きな揺れに
     ペダルを失う足二つ
     あなたにしか傾かない「からだ」

     いいのですか…
     このまま支えてもらってばかりいて
     いえ…手を離さないでください
     もしかして1人で乗れると困るから。
     いいのです、わたしは
     このまま夜をむかえても。

                     (平成13年、高島京の筆名で)
 

 あの日の空はきっと晴れていた。そう思う。
 笑顔は一度もつくれなかった。あまりにも一生懸命だったから。

 戻ってこない青春だから、まぶしい。
 忘れてもいいことだったからずっと、忘れないでいる。



 
 きのう不思議なことが起こりました。訪問者カウンタがたった1日で170回も増えていたのです。爺のこのブログは過去最多記録が28回/日ですから異状です。それでいてブログ村Out数やFC2訪問者リストの人数は通常レベルなのです。初めての経験なのでキョトンとしています。カウンタ機能異常なのでしょうか。毎日これ以上のカウントがあるブロガーの方には屁でもないことなのでしょうが、ここまで急変しては原因が気になりす。


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. 身近なところに「ばけがく(化学)」あり


 報道によると隣国で起こったPHMG使用の加湿器殺菌剤による大勢の死亡事故についての責任を、販売会社がごく最近になって認めたらしい。こういった事例でよく問題になるのは、過失責任の所在だ。そもそもの製造元、許認可した国・官公署の判断や指導、危険を明確に告知しなかった販売会社や販売店、さらには用法・容量を過った消費者、のいずれなのかと。この商品、現在日本では流通していないらしいのと加湿器のシーズンが過ぎているので一安心だが、同様の問題は、この薬剤に限らずとして言えば、日本でも十分に起こりうる。

 かつて日本でも塩素系薬剤と塩酸系薬剤を主婦が、清掃中に混ぜて使用し、しかもトイレやバスといった狭い空間で換気も悪い状態下だったこともあり、発生した塩素ガスで死亡したことがある。市販の塩素系と塩酸系商品に「まぜるな」表示が必須となったのはこの直後のことである。
 具体的には、次亜塩素酸ナトリウムが入った塩素系「ドメスト」と塩酸が入った「サンポール」を混ぜてしまい有毒な塩素ガスが発生したという「化学反応」による事故ということになる。単独では別段問題がないのだが、以後これら商品を置かない店が出たという。結果だけでとりあえず買わないという典型的な消費者行動だが、すでに一般家庭の中にもたくさん類似のものが入っているので少しは知っていた方がいいかもしれない。
 反応は★塩酸+次亜塩素酸ナトリウム→塩素ガス+水+食塩

 我が家に在るものを拾ってみてもカビ取りスプレー、食器用洗剤、洗濯用洗剤、浴室用洗剤等々かなりある。そして商品のラベルには必ず品名の次に「成分」という記載がある。ここに①「次亜塩素酸ナトリウム」、②「次亜塩素酸ソーダ」③「次亜塩素酸塩」とあれば塩素系と考えていい。どう違うのか。実は①と②は全く同じで、ナトリウムはドイツ語、ソーダはオランダ語、米英語ではソジウムと言われる。③の「塩(えん)」がくっ付いているのは何か。これは次亜塩素酸ナトリウムだけではなく次亜塩素酸カルシウムなども含む表記になっている。後者は通常「さらし粉」と呼ばれていた。ちなみに昭和生まれの人は、水道水の味や湯沸かし器での臭いを表すのにカルキという言葉を使用するが、これはドイツ語のクロールカルキに由来し「さらし粉」を意味したものである。

 この漂白、殺菌、作用がある「次亜塩素酸ナトリウム」はどうやって作られるのか。
 ★水酸化ナトリウム(水溶液で)+塩素ガス(液中を通す方法で)→次亜塩素酸ナトリウム+食塩+水 つまり工場生産が可能なのだ。
 ★海水の電気分解   臨海の工場ならいくらでも作れる勘定だ。
 昭和35年に鶴見曹達(現在は東亞合成に吸収されている)が「ツルクロン」として生産を開始している。

 この次亜塩素酸ナトリウムは、現在公共上水道をはじめ専用水道などにも使用されている。綺麗とも思えない川の水を取水し清潔安全な水道水に変えているマジシャンはこの薬なのだ。さらに公衆浴場や温泉場で浴槽内の大腸菌をはじめレジオネラ属菌など各種の病原菌を滅菌しているのもこの薬である。ちなみに水道水の残留塩素の必要値は0.1から1.0ppm、プールでは0.4から1.0ppmとなっている。ppmとは「100万分の1」の分率なので、極々微量で役目を果たしていることが分る。
 ハスなど食品の漂白や水道に使う次亜塩素酸ナトリウム水溶液は「食品添加物」に認められているものに限られている。いずれも人の口に入れるものだからだが、だとするとプールに使うものも同様にすべきだと思う。
 (なお食品の中で白ゴマの漂白には使ってはいけないとされているので注意が必要)
 
 もう1点、混ざるのが酢(酢酸)でもクエン酸でも危ないので気を付けたい。一番簡単なのは洗剤が混ざるような使い方は一切しないと決めてかかることかもしれない。作業ごとに十分な水洗いがあればいいわけなので。

 すこし話がごちゃごちゃしすぎたかもしれない。家庭や調理場の清掃に絡む3点を短くしたためたい。
 油でギトギトになった台所の換気扇を掃除するのに水酸化ナトリウム(苛性ソーダ)またはそれを含む洗剤を使うことがある。過って目に飛び込ませると角膜だけではなく網膜もダメにする恐れがあるので要注意を。これは強アルカリ性の薬液に共通だという。もともとは業者が使っていたものだと思う。
 排水管が生ものや抜け毛などで詰まったときに水酸化カリ(苛性カリ)を使う人がいるが、強アルカリで危険なので扱いなれた人以外は避けた方が無難だと思う。排水口から噴き出したりして目に入れば、これも失明の恐れがある。業者でさえかなり用心深く使用している。鉄錆で持っているような老朽配管の場合、この薬の作用で管に穴が開くことすらあるのだ。
 市販の反応が穏やかなものにとどめた方がいいと思う。

 温泉成分を粉にしたものを家庭用のお風呂に入れてというのが流行ったことがある。硫黄泉の粉(硫黄)は注意が必要になる。
 ★塩酸+硫黄→硫化水素  
 これも火山近くの「地獄」でご存じの有毒ガスだ。もっとも塩酸入りの洗剤で洗わなければいいのだが。
 ここまで付き合ってくださった方に深謝。



 ※記事に誤りがありましたらご教示ください。5月10日ピンボケだった「まぜるな危険」の写真は削除しました。
    
   


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. 老夫婦の小さなGW


 かみさんが婦人服の「しまむら」とやらに行きたいと言うので市内湯川に車で出掛け、その後でなんとなく観光客でごった返す伊東マリンタウンで昼食を摂り、「旅行先」にいるような気分になりました。都会に住む人にとって「伊東」は、まさしく観光地なので当然といえば当然なのですが。

   伊東ヨットハーバー

       伊東マリンタウン2階からヨットハーバーを見る


    伊東港2
       5日の日に来た伊東港の手前の海岸まで


 海岸から一気に車で松川沿いをさかのぼり奥野ダムまで走って降車、ダムから2キロ山奥に入り同じ道を戻ってくる「松川湖畔ハイキング」を試みました。パソコンの前に座りきりが続いていたので、起伏のある道も快く感じたものです。途中十数人の人間と1匹の蛇に出遭いました。私は気の利いたフォトを撮ろうと周囲をきょろきょろ見回しかながら歩き、一方のかみさんは、路面で踏み潰された昆虫を発見して枯葉の上に「埋葬」したり、側溝で追いかけっこをしているトカゲ2匹を観察したりで基本下向き。個別にバタバタしているうちに「あっと言う間」の1時間4キロでした(^^♪ 

    松川湖
       伊東松川湖畔周遊路から湖を見る

    松川湖2
       奥野ダムの上から湖を見る


今朝、ニュースで知った、ネットでも確認した。韓国で消毒剤PHMG(ポリヘキサメチレングアジニン)が入った家庭用加湿器の噴霧が原因で95人とも100人ともいわれる死者が出たと。しかも命の危険があることは2011年に指摘され禁止されていたという。衝撃だった。家族の健康を害されないようにと日々使い続けた薬品が、家庭での愛情に満ちた行為が、家族の死という結果を招いてしまったことが。


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. 拝啓 GWなのにおひまな方へ


 巷ではゴールデンウイークといって「忙しそう」ですが、こちらは老人ですからのっけからこの期間もシルバーウイークです。でね、さらには「SILVER WEAK」って綴るわけ。そうWEEKの一字違いで、とにかくシルバーは「弱い」のです。

 ま、走り出しのいい加減さはともかく、中身もとりとめもなくで「おてがみ」します。何で手紙かと言いますと新垣結衣主演の『くちびるに歌を』の影響ですかね、「15歳の手紙」かなんかが隠れテーマでした。これ3回目の鑑賞です。そんなに凄い映画なの?ですか、いえ恥ずかしながらこの歳で「ガッキー」が好きなものですから。あとお気に入りは上野樹里ですかね、『のだめカンタービレ』、シビレましたね。シリーズ3回も観て、かみさんを呆れさせましたから。クラシックが案外好きなことも手伝っていますが。ただ年寄りの場合若い女優や歌手のファンになるには気を強くもたないといけません。以前歌が上手い知○里○に感心してファンクラブに入れてと申し込んだらクラブ側に無視されました(^^♪。冗談だと思ったのでしょうね、即納得でした。「陰ながら応援」が安全です。

 きのう強風で竹の葉っぱが空中で乱舞していました。ほとんど黄色でしたが。・・・そういえば「竹の秋」が少し前にあって、もう少し経つと「麦の秋」初夏が来ますね。日本語って綺麗です。ほとんど俳諧に本籍がありそうな言葉ですけど。うっかり私たち老人に「はいかい」などと言おうものなら「徘徊」と誤変換されてそっぽ向かれるかもしませんのでご注意を。私の場合仕事をしていたころでも自分から「もう爺ぃだから」「ボケが来ているので」と、明るい顔で自虐的に使っていました。そうすると不思議なことに若い人も「じじい」や「ぼけ老人」などと口撃できなくなるんですね。「自分から先に認められちゃあ悪口に使えねーな」になるらしいですよ。

 今年の正月もそうでしたが今回のGWも文芸三昧で連日パソコンの前に居ました。公募に応じる作品をつぎつぎに創っていたのです。わたしはこの応募を「頭を使った宝くじ」と称しています。どんな文を選ぶかは先様の勝手なので落ちてもめげません。公募の趣旨はしっかり捉まえますが、書きたいように書いて送り、あとは「あなたまかせ」。それにしてもWEBでの応募指定、多いですよね。これだとパソコンもスマホも扱えない人、最初から対象外ということでしょうか。テレビでも「詳しくはWEBで」というのが頻繁にありますから、「時代」ですかね。

 で、面白いことに気付いたんです。賞金というお金が絡む文に精魂をこめているとブログが遠のく、ということに。メールチェックすら忘れた日がありました。嫌ですねぇ「ゲンキンで」(^^♪。というより年寄りの頭のこと、数時間集中すると疲れて余力がなくなるんです、きっと。ということで、GW、ブログを留守にしてコウボに出掛けちゃいました、頭、忙しかったです。お陰様で目薬も減りました。

 そうそう、どこにも観光に出かけないので、頭休めにユーチューブの旅をしていました。外国人が撮影した美しい日本の写真、動画。事件別に翻訳されている海外の反応。全国の新幹線、その車両と速さ。自衛隊の装備と活躍。大震災の顛末と外国の反応。リトアニア、トルコ、イスラエル、イラン、タイ、インド、台湾に「過去の不思議な縁」によって感謝され、評価された日本という国・・・。途中でこれは「やばい」と自制しました。何時間でも視聴できそうなほど興味深くまた感動的だったのです。気がついたら2時間もぶっ通し観ていた日がありましたっけ。知らないことがあまりにも多い。それが大いにショックでした。 

 長くなってしまいました。これが私のGW、近況です。
 ええ、どっちかって言うと、「引きこもり」爺でした。ではまた。


 今回が私の創作日記ブログ400回目になります。

    伊東港

      子どもの日の伊東港



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. 歌詞を創るむずかしさにクリック


 昨晩と今朝と、かみさんが視ている歌謡番組を、パソコンの前で音が届くかぎりで聞いていたら、なんだか不満が募ってきた。歌詞が観念的でつまらないのだ。とくに最近の演歌はひどいと感じた。

 分野はそれぞれだが以前ヒットした曲の歌詞は、必ずと言っていいほど具体的な場面が語られ、そこから情や想いという観念的な世界へ導かれていたような気がする。だからこそ歌詞と聞き手の心の世界がシンクロできたのだ。男女の別れや未練などはその最たるものだった。『天城越え』(吉岡治作詞)のように観念的な情の世界で通した名作は珍しいかもしれない。著作権が絡むので歌詞の引用は控えるが、『勝手にしやがれ』や『津軽海峡冬景色』(いずれも阿久悠作詞)、『恋』(松山千春作詞)などを思い出してもらえれば、私見にうなずいていただけると思う。『雨やどり』(さだまさし作詞)のように具体的で且つ軽い物語にしてしまった例もある。

 偉そうに言ってるけど「あんたは創れるのかさ」と突っ込みが入るとは思う。無理、いいのなんて。創ってみると難しいのだ、これが。松山千春のように自分の恋の経験をベースに出来ればいいのだが(これご本人が言っている。全ての恋が自分を成長させてくれたとも)、若い頃から「恋日照り」だった爺には無理なこと。試しに創ったのが下記の詞だが、自分で批判していた観念的な言葉の羅列に堕している。駄作の見本みたいなものだが、これは「引用」できるので、誌面稼ぎに(^^♪載せてみる。ご容赦を。
 一番が男から、二番が女からで、必ずしも曲を意識していない(あ、これ弁解でなく)。

 ♪「恋の帳(とばり)」

     霧雨の静寂(しじま)をぬうように
     夜の雫(しずく)が落ちるころ
     うつむいたあなたの 震えを
     とめる術さえ知らないで
     ひとこと帰ると言えないで
     ただ歩いたね あの日
        あなたは石になったね
        あなたは家になったね
        開(ひら)かない門を構えて
        心の垣根を高くして

     いつわりの鎖を解くように
     泪(なみだ)が壁をこえるとき
     よろこびの泉に ふたりで
     溺れることもできるのに
     ひとこと抱いてと言えないで
     ただ歩いたわ あの日
        あなたも罪がこわいの
        あなたも過去(むかし)を紡ぐの
        描(えが)けない愛も知らずに
        心のモザイクはがして


            春の花



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蛙声爺

Author:蛙声爺
文芸同人誌編集をしています。
考えるフクロウが理想。
木内光夫のHPもよろしく。

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