蛙声爺の言葉の楽園

. 「え好みすと」・生涯苦手です!


 べつに学問の話じゃないんです。そんな素養もありませんしね。広い意味での経済ネタと思ってください。じっさい若い時のことを思い出しても経済学は不得意でした。常にお金がなくて「腹っ減らし」でしたから、この学問は言わば「仇」だったんですね、きっと。自分を虐めるものを好きにはなれませんでした。そのお陰で「経済学」「会計学」が試験科目にある不動産鑑定士試験は、バカッと落ちて結局「宅地建物取引主任者」止まりでしたっけ。

 それはさておき。青雲の志だけは持っていた頃に手元に置いていたポール・サミュエルソン著『経済学』は比較的好きな本でした。平成に入ってから引っ越しの際に処分したくらいですから、10年以上持ち歩いていたことになります。その訳はたぶん、近代経済学なのに面倒な数式や計量数値が少なかったからです。その頃はマルクス経済学が国内でも大きな「力」を持っていましたから、サミュエルソンの本はそれに対峙する形になるんですね。国家試験はもちろん「近経」でした。尊敬に足る親友K君が学問的に「マル経」を熟知していたので、こちらはダイジェスト的に教えてもらいました。「マル経」は社会思想史の学問だと思った記憶があります。資本主義が貧乏人をたくさん創りだす仕組みだということに、妙に合点したものです。おなか空いてましたから(^^♪

 『財は投票のいちばん多いところ、いいかえれば、ドルにひかれて動く。貧しい家の子どもがクル病になるのを避けるために必要とするミルクを、金持ちの犬が飲むことになるかもしれない』(上記『経済学』)
 う~ん確かに、この平成の日本にもありそうです。こんな言葉が「近経」のサミュエルソンの本に在るのです。「マル経」に出てきそうでしょ、目から鱗です。
 『人間こそが、国にとって社会的資本のいちばん重要な形態であり、しかも、それはいわば高い利子を生む形態でありながら、われわれは過去において、それに対する投資を怠ってきた。才能はどこにあろうとも、それを探し出して育て上げる値打ちのあるものである』(同書)
 企業でも同じですよね。東芝さん、シャープさん、日本の頭脳・才能とその成果を国外に叩き売っちゃっていいんですかねぇ。資本主義の「必然的な企業原理」なんて括ってしまえば、それでいいんでしょうけど。
 
 数式や計量や統計を駆使する「近経」でも、「失業率」に関しては需要と供給という市場原理で説明がつかないのだそうです。これも興味がありました。ハローワークでも今現在悩んでいますよね。失業者が「職さえあればどこでもいい」、「どんな職種でもいい」なんて言っていませんから。「自発的失業」については、望ましい就職先を見つけるまで失業でよいと考える求職者があり、これを経済的に支えて可能にする「親」がある限り、学問でどうこうではないような気がします。
 だいいち近代経済学は、個々の人間の経済的行動を支配する「心」を数値化できているのでしょうか。株価の変動一つをとっても金銭欲の強弱と不安心理を抜きにして説明は不可能だと思うのですが。高名な経済学者が株で大富豪になったという話も聞きませんしね。
 経済学部の学生さんにお願いしたいのです。卒論にぜひ、「個々の人間の心が世界経済に及ぼす影響に関する一考察」なんてのを書いてください。
 もしかしたらこれ、文学部でもよさそうな気が・・・。

 「経済学が苦手な者は、裕福になれない」「たぶん私は生涯苦手です」→「では結論、わかってるね!」「はい」
 …コーヒーでも飲もうかな。



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. つまずけば前のめりに

 
 このところ「ブログ倦怠期」に入っていました。もしかしたら、相当数のブロガーが一度は陥るのではないでしょうか。コメントを交わしたブロガーで現実に突然更新が途絶えた人や、悩んだ末に新しい立ち位置で「ブログ再出発」をした人がいました。蛙声爺も出直しを図ります。もともと仕事が忙しく、メインの趣味「小説」が進まないという中で、「文章感」が鈍らないようにと、ランキングにも参加せずひっそりと始めたものでした。
 現在374回ぐらいになっているはずです。ランキングというのは励みにはなりますが、自分がブログを続けている動機や充実感とは必ずしもリンクしていないように思います。他のブロガーが「ランキング順位は実態に即していない」として撤退するというコメントをいくつか拝読しましたが、うなずけるところがあります。少し気にしすぎたなと感じたときがすでに「倦怠期」だったのです。
 「何のために」を失念していました。

 年度末を控えた今回は、目的を新たにするところから出発したいと思います。「脳の機能の保全と心身の健康を促進するために」がそれです。また大それたことを(!)、ですよね。早い話が「認知症年齢」に入ったわけですから、どうしたらその発症や進行を制御できるかを考えたのです。趣味と一体化しているのが特徴です。
 下記のブログプランを「できるだけ」忠実に守ることにしました。

 曜日によってカテゴリを「5-6字」で表記し、毎回の「記事名」は短めにその後ろにくっつけます。そのカテゴリ通りの記事を書くのに1週間の余裕があるのです。日々ネタをどうしようかなどと、悩むこともなくなります。七つもあるのですから、所用で書けない日が出来てきますが、それは来週のそのカテゴリ日に回します。つまりローテーションは守る訳です。
 さてできますかどうか(^^♪ 頭的にもかなりハードです。

       
月「どらまチクッ」 映画とドラマ。 DVDやTVを、記事を意識して鑑賞
火「デジカメ絵」  写真や手書きの。 外出する絵を描く歩く
水「ことだま」   感じ、言葉、詩、名言。 執筆に向けての調査
木「え好みすと」 広く経済とお金。 お金の挿話や失敗談も併せて反省。 
金「週刊じいじ」  1週間の時事ネタ。世の中の出来事に関心を
土「月毎のべる」 自作短編小説の公開。 4-5回で1作品を打つ「集中作業」。 
日「えせいすと」 自作エッセイ。  探し、想い、書く、推敲の段取り

 さあこれで「認知症」、防げるかどうか(^^♪

 


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. メジロの遺体、野猿との遭遇


 昼ご飯を夫婦で食べた後で、かみさんが洗濯物を干すと言って、ベランダのサッシ戸を開けました。とたんに「なになに、これ」と騒ぐので顔を出すと、黄色い野鳥が黒い荷物の上で死んでいるではありませんか。
 「メジロだよ、可哀想に」と私。羽根が2-3枚散らかっているところを見ると、大きい野鳥に襲われたのかもしれません。野鳥の写真がブログアップされていたのを思い出し、即パソコンで訪ねてかみさんにも見せると、「どうする?」と困惑顔。
 「埋めてやろう、柔らかい土探して」
 手に取るとメジロの首根っこあたりに小さい穴が開いている。「カラスじゃないな、ヒヨドリクラスかも、襲ったの」
 「わたし埋めてやるわ」
 メジロの可愛い目が掌の中でジッとこちらを見ているような気がしました。「…自然界も凄いな」

 午後1時過ぎ、体力保持のための「坂道散歩」に出ることに。目標は坂こみで5000歩です。
 葛見神社経由で瓶山分譲地へと回り急坂を超えたあたりで「ん?」と目を凝らしました。アスファルトを這うようにして何か来るのです。大きな野良猫かと思いつつ、進んでいくとこれが何と野猿(!)。特に私を意識しているようでもなく堂々と近寄ってきます。『勝負だな、これ』と、私も何事も無いように真っ直ぐ前を向いて進みます。さすがに2メートルほどの至近距離ですれ違う時は、心中「身構え」ましたが、無事にそのまま。
 背後から飛びつかれてはと、10秒ほど経ったところで振り向きました。のっしのっしと遠ざかる彼(ぜったい雄の体躯です)。文字通り真っ赤な尻でした。『白日夢か、これ…』

     


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. 記憶に残るこの10作、邦画と洋画


 資料を何も見ないでかつて観た映画を邦画と洋画で10本ずつ選んでみました。以前「小説」でやってみたことがありますが、そのときは「自分が見えてくる」とその効果を予想しました。今回は何も考えずに並べてみたんです。そうしたら偶然、選んだ作品には、「監督の入魂を感じる作品」「映画的なオドロキをくれた作品」という共通点がありました。ひとつの例外を除き、複数回鑑賞したという映画で、同じくひとつの例外を除き監督の名前がすっと出てきたのも面白い発見でした。映画好きの皆さん、試しにやってみてください。
 ちなみに今回は好みや評価の順位を付けるものではありません。


 【洋画】
 タイトル              監督                  鑑賞回数 
 『ガンジー』            リチャード・アッテンボロー        2
 『アラビアのロレンス』      デビット・リーン              2
 『地獄の黙示録』         フランシス・コッポラ            3
 『レオン』              リュック・ベッソン             2
 『ジュラシックパーク』      スピルバーグ               2
 『ディア・ハンター』        マイケル・チミノ              3
 『十戒』               セシル・B・デミル             2
 『クレーマークレーマー』     ロバート・ベントン            3
 『タイタニック』           ジェームス・キャメロン           2
 『サウンド・オブ・ミュージック』 ロバート・ワイズ              5
【邦画】
 『人間の条件』           小林正樹                 1  ※6部作9.5時間 
 『七人の侍』             黒澤明                  5
 『宮本武蔵』             内田吐夢                 2  ※5部作
 『赤ひげ』               黒澤明                 10
 『もののけ姫』            宮崎駿                  5
 『天国と地獄』            黒澤明                  5
 『千と千尋の神隠し』        宮崎駿                  3
 『復讐するは我にあり』       今村昌平                2
 『砂の器』               野村芳太郎               3
 『となりのトトロ』           宮崎駿                  3

 何とも不思議なことに、邦画の半分は黒澤明と宮崎駿で占められていました。アニメが3作品というのが何とも(^^♪ですね。数え切れないほど邦画を観ているのですが、また、良かったと思った作品も多々あるのですが、すっと思い出すのはこのとおりで、よほど印象が深かったのでしょう。
 洋画で言うと『アパートの鍵貸します』とか『人生の特等席』、邦画で言うと『生きる』『楢山節考』など「人間の内面」そのものを扱った映画が11番目以降になってしまうのは、驚きよりも鑑賞後の熟考で印象深いということだからです。観ている「そのとき」ではないのでした。映画通からは叱られそうですが(^^♪

 レンタルビデオのツタヤで売っている『シネマハンドブック』という年刊の小冊子があります。この2014-2016の3年間のいわば「エリート映画」(各界の映画好きが選出)には邦画がほとんど入っていません。思い浮かべるのに困るのは、どうやら私だけではないようです。とくに昨今の邦画は「間違っても損失を出さない」という方針なのか、人気コミックの実写化、人気若手俳優のオンパレードで、その中でも恋愛ものはどこを切っても同じ「金太郎飴」みたいになってきました。比較的秀逸だなと思ったのは『ホットロード』ですかね。いかがでしょうか。

             
 昨夜のこと、パソコンに向かっていた私は下唇に異常を感じて姿見の前に。なんと、そこだけ口紅でも塗ったように赤い、しかも腫れていて光沢すらある。少し痒い。あわてて「ムヒ」を塗った。変な味。蚊だろうか、冬でもチカイエカは生きている。ビルに多いのだが、ここもビルには違いない。それともダニ? 嫌ダニ。あれこれ詮索している間に腫れは増していく。口の中は薬の味でいっぱい。コップに水で、うがい三昧。歯っ欠けの次がこれかい!
 私は笑いだした。こういうときは自分の「ドジ」を笑い飛ばすのが一番いい。
 翌朝、真っ先に鏡をのぞいたのはもちろんのこと。やれやれ。


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. 木の芽時だからヘンなのか


 昨日、中学時代の同級生から、5月14日開催予定の学年同期会のお知らせ「はがき」が来た。偶然なのだが私たちは、近隣の人口増加に伴う新設校の第1期卒業生だった。6クラスしかなかったが、想い入れは相当なもので、現地横浜では有志が頻繁に集っているらしい。私はといえば、遠方であることと高齢になったことで、もうそろそろ「欠席」を常にしなくてはと思い始めていたが、そうならそうでさりげなく、その旨を皆に「伝えたい」と思いなおした。クラス幹事の彼女によれば、同級生がすでに6人も亡くなっているという。「だから必ず来て」と、こうなる。
 この「はがき」に呼ばれたように戻る二人の心の友の葬儀。あまりにも弔問者が多く、まるで「流れ作業」になっていた横須賀の現役教師との別れ。死そのものを信じまいとした青梅での、讃美歌で送る静かな別れ。どちらも忘れることはないだろう。
 1泊2日は「きつい」けれど、「今回は参加しよう」と決めた。そのとたんに頭の中に浮かぶ沢山の顔。揃いも揃って中学生のままだった(^^♪

 このところ、毎晩浅い眠りの中で、きちんとしたストーリーの夢を見る。頭の中の「誰」がシナリオを創っているのかは知らない。気味が悪いものが多いが、この傾向には何故か興味がある。見知った顔が殆んどないのも不思議といえば不思議だ。何日か前、古びた壁を押すとそのまま突き抜けてしまい、よろけながら壁の外に立つ。そこは周囲が暗いモスグリーンの森で木々が不気味に揺れている。この夢のときは逃げるような感じで目を開けた記憶がある。ここで例示しては僭越の極みだが、夏目漱石の『夢十夜』もあれば黒澤明の『夢』もある。それほどいけない「症状」とも思えないので、「木の芽時」のせいにして済ませている。

 就寝したのに1時間ほどでトイレに起き、そのまま頭が回転してしまい眠りに戻れないということもかなりある。こんな時は仕方がないので、起きていたときの服装に戻して、小さな灯りを点け過去の自作小説を読んでいる。同人誌に載せた短編が多い。24号分あるので「在庫」には事欠かないからだ。たいがい読み切る頃には眠くなる。そしていつも思う、「書き直したい」と。
 昨夜はやや長編の小説『孤往記』だった。薄暗い部屋の中で、主人公駿君の青春がまぶしかった。そのせいか、第1章だけで布団に戻れた。その後はめずらしく、6時間中途覚醒がなかった。

 はやく桜の花を見たい。これを書きながら何の脈絡もなく、そう思った。 
 

 3月の短文系の応募数が13になりました。「頭を使った宝くじ」と私は思っています。「楽しみです」


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. 数で並べるのがお好きなようで


 昔ドラマでヒットを飛ばす大山勝美というプロデューサーがいました。この人が日本のテレビドラマの3大特徴ということで、「①女性主導型、②情緒過多、③家族劇」をあげました。「なるほど」とうなずくのは昭和に「生きた」私たちだけでしょうかね。石井ふく子プロデューサーで橋田寿賀子作の『渡る世間は鬼ばかり』はまさにこの特徴の典型例ですが、トレンディ・ドラマは少し違ってきたようです。そうそうテレビの影響は凄いので、ことわざの試験問題で「渡る世間に鬼は無し」と元のまま答えられるか心配になります。映画の『危機一発』のせいでか、「危機一髪」と正しく書けない子どもが増えた時代もありましたし。

 今回はそっち方向のお話ではなくて、この3つとか4つとかいう数で例示するのって多いですよね。憶えやすくて、調子も整っていたりします。例えばもろに3つ並べて『一読難解、二読誤解、三読不解の税法」とか。これは法律全般に言えますけど、「特に」ってことなんでしょう、名前を忘れちゃったんですけど、「法律の条文は一つの外国語だ」という法律家もいます。昔の人は「法は由らしむべくして知らしむべからず」なんて訳の分らんこと言ってましたから、難しい方が好都合なんでしょう、きっと。

 では4つの例。ダイヤモンドの「4C」です。①カラット(重さ)、②クラリティ(透明度)、③カラー(色あい)、④カット(刻み技術)となります。あんまり縁が無いので私など知っていても仕方がないのですが、1カラットは0.2グラムだそうです。「金」と違って購入した時と同じ値段では売れませんよね、割りが合わないと思うんですけど。さらに知らない方がいいのは、婚約指輪の目安は、月給の3か月分だということ。誰が決めたんでしょうね。もっとも贈らない男性なら、そのままで「空っと」ですわな。

 5つは料理の世界です。この例は『五味五色五法』という言葉(教え)です。もう百も承知二百も合点の人には「お目汚し」ですが、①煮る、②焼く、③蒸す、④揚げる、➄生で「五法」。①赤、②白、③青(緑)、④黄、➄黒で「五色」。①苦味、②酸味、③地味(水の味)、④甘味、➄辛味で「五味」です。とくに和食でうるさく言われるみたいですよ(この言い方、モヤモヤさまーず的ですが)。そう言えば伊東にも、「五味屋」という行列ができる人気食堂がありました。ここから採ったんでしょうか。食べ残しなんかないほど美味しいんでしょうが、もし出たらやっぱり「五味出し」するんですかね(これが書きたくてわざわざ説明の順番を逆にしました、ハイ)。

 日本料理の特徴は包丁と水。今回もキレが悪かった訳ですが、水に流してください。
 ではお後が宜しいようで。
 おやすみなさい。

 3月23日、かみさんが孫のところに遊びに行きました。春の風邪+花粉症で私はまたまた遠慮。入学式前の孫にうつしたら大変ですから。昼飯は自分でラーメンこさえてズルズルでおしまい。終日新しい小説の「登場人物関係図」をいわゆる全紙大の画用紙の上で創っていました。散歩も筋トレもなしで、少しばかり体調優れず、でした。


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. お墓の無いお彼岸


 うちには墓というものが無い。
 父も母も、心の中の「墓」に居るだけ。
 遺骨を預けたお寺の宗派といまの宗派が別れた。
 仏さまとやらも俗っぽい。
 だから『千の風になって』のヒットには救われた。

 父母だけではない。彼岸になると墓参りをしたくなる人が「ふたり」いる。
 でもそれは無理、お二人の墓がどこにあるのか知らないのだ。
 そのかわり、何かあるたびに来てもらう。
 「あなたならどうしますか」と、お訊(たず)ねするために。
 …。
 私が死ぬまで心の中にと、無理を言うために。

 私も死んだらきっと、風になるだけ。
 骨になり、粉になり、微塵になって風になるだけ。
 私の風は「千の風」の中に入れるだろうか。

 つまり、「逢えますか、あなたたちと。
 …もしかしたら、もうすぐなんですけど」



 きょうのお彼岸にこの言葉を引く。
 『死んだ者は、もう帰ってこない。
  生きている者は、生きていることしか語らない』(埴谷雄高)   



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. 埋め草「おんな」の憂鬱


 「おんな」に変身して「埋め草」にあたるこの「詩」(つぶやき)を創ってから10年になります。不思議なもので仮想女の京(みやこ)さんも生意気に年をとるんです。18年ほど前から同人誌『岩漿』に姿を現わして、かなりアブナイ女を演じてきたんですが、「正直なところ近頃は少しかったるい(この言葉、全国区かな)」。「おんな」で埋め草をする必要性ですか? 特にありません。読む人が実在する同人だと思ってくれたらいいなとか、たとえ編集者でも一人でたくさん作品載せては「ズルしているようで仲間に悪い」とか、当初はそんな感じでしたかね。動機がそんななので、「じつは編集者の私です」と仲間にカミングアウトしたのは大分経ってからでした。
 蛙声爺(馬場駿)のホームページでもこの人の作品を集めています。もちろん全部ではありませんが。「わざと屈折させたおんな」です。本人とは無縁の人格ですから誤解しないでください(^^♪


『わたしのクランケ』

 小さかった頃のたった一つの既往症が
 もう少しで年金という歳の、今日のこの日まで
 あなたを苦しめてきたなんて、

 あなたから大事な子種を奪い
 あなたに一生落第、ぶっさがりの汚名を着せ、
 出世の道を阻み、
 あなたを臆病な老人に仕立てた病気。

 でも、そのおかげであなたに出会えた
 こどもが出来ないから家庭がもった
 そしていま、あなたにとって絶対必要な女になれた。

 順調なときは、
 あれほど誇り高く、自身に満ちて
 近寄りがたいほどの強さを見せていたあなた。
 それが、
 わたしでも抱えられるほどに、小さくなった。

 凍えた小鳥のように震えている。
 空を見失い
 はばたけもせず、
 いえ、その場から動けず、

 もうわたししか残っていないあなた。
 誰からも相手にされず、ふふっ、
 わたししかいないあなた

            高島京の名で『岩漿13号』(平成17年)の埋め草




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 この「みやこ」の作品ページ、ヒマです。もちろんレジ無しです。→   高島京の喫茶店へ

. ロボットASIMO、夢に向かうということ


  きのう、HONDAが取り組んでいる人型ロボットASIMO(アシモ)の研究成果(2012年現在)が発表されているのをネットで興味深く視た。人を上手に避けながら歩く。訪問客を迎い入れて案内をする。全ての指を人間のように動かして水をコップに注ぎ、それをテーブルに運ぶ。3人の女性が飲み物を同時に注文すると彼は、名前を呼びその人の方を見て注文内容を復唱し確認をする、しかも3人とも正解。廊下を走り、床面の凹凸でも体勢を崩さず、驚いたことに片足でピョンピョン跳ねもした。もちろん可愛い声で流暢に会話もする。「凄い。きたか、ここまで」と思わず微笑した。しかもこの映像は4年前のものだ。「いまはいったいどこまで進んでいるのだろう」と期待は膨らむ。彼はいまや1企業の技術レベルの発信者を超え、日本の顔になろうとしている。いつだったろう、アメリカ議会で大拍手をもって迎えられ壇上に登ったASIMOのTV報道に接したのは。安倍首相真っ青の人気だった。

 予想はしていたがHONDAのエンジニアはこう言うらしい。「鉄腕アトムを目指しています、あれ見て憧れたので」と。海外の声は言う、日本人は可愛くロボットを創るけど、アメリカはすぐ兵器にしようとすると。うがった見方だが遠くはない。企業の開発で多額の資金を要するのだから、個人の「夢」だけではことは運ばない。それでも思う。経営者や研究員の胸の中に手塚治虫の「アトム」が棲んでいないわけがない。だからこそ外国人までもがASIMOに「平和」や「可愛さ」を見るのだ。

 それにしても科学技術の発達には目を見張る。もし「なぜ長生きをしたいと思うのですか」と聞かれたとしたら、きっとこう答えるだろう。「自分では携われないけど、どこまで科学技術が進むのか、この目で見てみたいから」
 戦後七十年近くを生きてきた間に、「こんなのありえない、創りごとだ」と思っていたら、実現されてしまったというものがいくつもある。コミック、アニメ、映画は、空想と夢の宝庫だが、そこに出てくる「夢」さえ、「目標」から「実験」「実現」へと進んでいる。
 007『ゴールドフィンガー』(ガイ・ハミルトン監督)に、目指す車の位置がモニター地図画面に映し出され、それを見ながらボンドが自車で追跡する。敵車の姿が見えないのにだ。これはのちにGPSとカーナビになって「一般化」した。
 『エイリアンⅡ』(ジェームス・キャメロン監督)で、リプリーが会社の上司と完全なテレビ電話で会話を交わしていた。これはもう各種通信手段で可能になったと言ってよい。

 世界中を仰天させているスピルバーグも「夢」をくれる。『トランスフォーマー』では車が戦闘ロボットに変身したが、日本の若者が縮尺タイプで形も複雑ではないが、何と趣味でこれを創り上げ「夢」を現実にしてくれた(ネットに動画あり海外で絶賛)。
 「恐竜に会いたい」という子供じみた「夢」も、『ジュラシックパーク』で同監督が叶えてくれた。「あれは「特撮」ではない、本物だ」と思わせてくれたのである。
 いわゆるCG(コンピューター・グラフィックス)には功罪があると思う。これは私見だが、スタントマンの需要は激減したに違いない。特殊メークや大道具さんの仕事も先々減るような気がする。コンピュータは「妖怪」のように形を変えて産業にも影響を与えた。かつて映画にも「特撮」で登場していた空間の立体像。3D(スリーディメンション・立体)の映像やプリンタはこれも容易にした。世界に日本の名をとどろかせていた「金型製作」も、一部取って代わられたのではないか。前述の「特撮」も、縮尺して街を創り「着ぐるみ怪獣」がこれを蹴散らし破壊しつくすタイプのものでは絶滅しそうだ。 ああ、手作りの『ゴジラ』や『モスラ』が懐かしい。

 手書きアニメもコンピューターに駆逐されるのか。ご存じスタジオジブリは手書き主体の「アニメーター」だった。それでも『もののけ姫』の段階で、制作の遅れを取り戻すために「期限」の寸前にはコンピューターを利用したという(『もののけ姫はこうして生まれた。』DVD)。前年の米国アカデミー賞長編アニメ部門でノミネートされていた『かぐや姫の物語』が最優秀を逃した後で、高畑勲監督は、手書きアニメの「終焉」を嘆いている。たしかに完成までに8年を要したというこの作品、営利企業として診た場合には、金食い虫になったことだろう。これからはきっと日本もCGアニメが主流になり、手書きアニメ制作の方が「夢」になるのかもしれない。なにしろ「プロジェクションマッピング」技術が、建物や「街」そのものを映像スクリーンにしてしまった「時代」なのだから。

 「わたし映画創ってみたい」という「夢」も、ミニサイズではあってもすでにモバイル端末では実現している。スマホで動画を撮り、編集し、SNS(ソーシャル・ネットワーク・サービス)にアップすれば、質と評判次第で、全世界に数10万、数100万の単位で「観客」を呼べるのである。とりもなおさず、これは素人が1人で「映画」の撮影・編集・監督をしていることになる。

 「月に行ってみたい」という「夢」。人類はすでに数回、月面に人を立たせ夢を叶えている。アメリカのアポロ計画が途中から、ソビエト連邦の宇宙開発計画に対抗して、言い換えれば「米ソ冷戦」の軍事的警戒感から進展したのだとしても、その所産としてのコンピュータ社会は「平和的な土産」と言っていいだろう。現実に、こうしてブログを打っている机の上のパソコンは、初期のアポロに搭載したコンピュータよりも優れているらしい。
 この分野で後塵を拝していた日本だが、一旦はコントロール不能になった「はやぶさ」の無事帰還で、世界中から喝采を浴びた。
 こうしてみると「夢を追う」は、実は現実的なことだと言えないだろうか。



 きのうのこと、応募原稿を書いていたら、10日以上前からグラついていた前歯の1本が何もしていないのに抜け落ちました。眠っているときだったら嚥下してしまうかもしれません。綺麗に洗ってしみじみと見ました。歯医者に行こうとしていた矢先の出来事。「劣化」とはこういうことですね。笑ってしまいました。


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. ぬる~く雑な感じで心の散歩


 サッシ戸の向こうに朝の青空が見えたので中途半端な季節に合わせ、「テキトー」な冬支度で外に出た。頼みもしないのに花粉が押しかけて来るから中国製の安いマスクもする。一年前に俄かに「患者」になった。
 ちょっとうるさい松川の瀬音を耳にしながら、「最近難聴が進んだな」などとつぶやいてみる。マスクの中だから、まさに『くぐもり声』だ。
 河畔のソメイヨシノの花芽が少し膨らんでいた。そういえば、きのうネットで、野生のオオシマザクラと山桜系交配種エドヒガンの掛け合わせがソメイヨシノだとのコメントに接した。真偽は不明だが「野生の」という言葉が気に入った。この桜を中国と韓国が源(もと)はウチだとネット上で騒いでいるからだ。日本人にしてみれば、可愛がっていた娘を突然よそ者が「俺の子」だと言っているようで、はなはだ面白くない。これで太古の昔はどうあれ、綺麗な娘に育てたのは日本人ということになる。「よっしゃあ」
 またまたそういえば、「木の芽どき」とは今ごろか。心の「病」が亢進するのだとか聞いたことがある。何となくだが、あせい爺もそうか。いや、単なるボケか。いずれにせよ、くわばらくわばらではある。

 橋を渡って「無料、ご自由に」という足湯を横目に速足をする。利用時間前なので温泉も湯気も無いからだ。もっともまだ一度も足を浸けたことはない。だいたいがお婆ちゃんで満杯なのだ。若い女性など道路にもいない街なのでそれで「フツー」だ。
 大きな郵便局の前のポストに封書を数通投函した。中には短文公募に応えたものもある。まさか自分が「賞金稼ぎ」もどきをする境涯になるとは思わなかった。長編小説も含め文章は趣味でしかなかったし、お金を得たことも無かった。去年までは、だが。
 お金が絡むと文へのこだわりが一変する。テーマが決められ、長さが指定され、これに合わせて文体までが変わるのだ。長さが短ければ短いほど、文字ひとつが重要になり、選択が難しくなる。短文の極み川柳1句に数十分も費やしたことがある。今月のノルマ「短文で十箇所」は、九つ既済になった。後は中編一つの脱稿と、数カ月を要する長編小説二つという計画をはかどらせるだけである。あせい爺には「ヒマで困る」はあり得ないのだ(^^♪

 郵便局のすぐ前のファミマに入って日経新聞とチョコドーナツを買う。日経は毎日とらなくても「土曜を入れての週二回」でいい。かみさんも曰く「こんな分厚い新聞古紙で出すとき重い」。たしかに。
 散歩の終りに、ガラケーを見る。
 [1999]、何と美しい並び方だろう。この万歩計機能が現在もっとも使われている。休みでも夜でも朝でも、機械の中でもトイレの中でも鳴った「この子」は、完璧に静かになった。こうなってみると爺の携帯電話は、ほとんど仕事のためだけに使われていたのだと分る。…そう11年間も。「ご苦労さん」、でも最近は機能が劣化している。もう持っていなくてもいいのだが、突然の災害時など万一の場合の親族間の連絡のためにはと、どこに出掛ける時も携行している。
 昨日はかみさんとほたる鑑賞で有名な丸山公園まで徒歩で出掛けた。坂道が多く、しかも歩数計は[7568]だった。「効いたぁ」
 それはさておき、 「コーヒーでも淹れて、ドーナツでも食うか」
 独り言を言ったら、マスクの中の口の周りが冷たかった。
 やっぱりまだ、春は浅い(^^♪

 きょうのブログも浅い…

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お立ち寄り小説を開設1 自作の「冷川峠」

. 「嘘」で始めて「嘘」で締めくくる技


 こんなことって経験したことありますか。恋愛小説を発表したら、「ここに出てくるA子ってもしかしたらご近所の○○さんがモデルでしょ? あの人男好きのする顔だし。ね?」などと、登場人物を実在の人に合わせて「論評」されたり。あるいは、推理小説を発表したら、「あの人の本性、けっこう残虐なのよ。じゃなきゃ思いつかないもの、あんな殺し方」などと陰口をきかれたり。さらには、人間というもののダークサイドを追窮(ついきゅう)していく純文学作品を書いたら、もろに作者のカミングアウトと同一視されて、気が付いたら「友人たち」が遠ざかっていたり。・・・。

 これらは全て、小説というものが虚構(フィクション)で成り立っているということが忘れられているからなのです、少なくとも素人作家の場合。渡辺淳一の小説に出てくる不倫女がどこそこの誰それとか、松本清張の正体は狡猾な殺人鬼だとか、武田泰淳がほんとは人肉を食べたがっている人だなどとは、普通思いませんものね。アマチュア作家ならではの悲哀です。「嘘」で始めて「嘘」で締めくくるのがフィクション(小説)です。頭の中で創りだしているだけなのですが、そもそもプロ作家でないと、そんなことができるわけがないというのが「疑惑の発生源」なので、誤解の解きようがありません。

 解決策は簡単です。プロ作家になれば自然に誤解は解けます。疑惑の源が無くなるのですから。
 と言った後で何ですが、プロなのに家人に異常を疑われたというエピソードを昔読んだことがあります。推理作家の清張が包丁を使った事件を扱っていたときのこと、夜中にアイデアが浮かび細部を確認するために起き出し、薄暗い台所で包丁を観察していたのだそうです。そこへ奥さんがご主人を心配して見に来て、「!!」というわけです。ちょっとカッコをつけて、名文句を引きます。
 『小説の荘厳な虚偽は、細部の真実に支えられなければ崩壊してしまうだろう」(バルザック)
 …なので、清張は、見慣れた包丁でも微細に観察する必要があったのです。
 このタイミングで言うのは大作家に失礼ですが、私も凶器が出たり、人の生死に関する場面を書くときには、書棚に並んだ「法医学の本」や「科学捜査の本」を参照します。どこで誰が読むか分らないのが「作品」だからです。褒められなくてもいいのですが、嘲笑されるのは避けたいと、そう思いますので。ま、素人作家ですので、冒頭にありますように諸々誤解を受けるかも知れませんが(^^♪

 そうそう、登場する物や「背景」が出てきて、登場人物に関する名言が無いのは寂しい。そう思って探した結果がこれです。
 『頭でこしらえた人物は、本当にいる人物にかかったら、とうてい太刀打ちできない』(黒澤明)
 さらには昔から『事実は小説より奇なり』と言いますし。
 こうしてみると、小説を書くというのも難儀な話です、はい。
 「がんばりましょうね」
  


 


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. 人の思うことは防げない止められない


 良かれと思ってしたことが曲解されたり誤解を招いたりで、結果として、恨まれたり蔑(さげす)まれたり反発されたりすることがあります。これ、こちらの言動の直接の相手だけではなく、それを見聞した人にまで広がるので厄介ですよね。さらに説明や弁解をすると火に油を注ぐ羽目に陥るのでお手上げです。対策ですか? 自分の言動の意義を信じ、自分の背骨を真っ直ぐにして、右往左往せずに周囲の感情が溶けるのを待つしかないです。そう思います。

 でもね・・・
 昔、部下に19歳の女の子がいました。家庭環境から高校に進学できずに独り住み込み先を転々として観光ホテルにたどり着いた子でした。或る日、「高校の勉強をしたがっている」という情報を得て、すぐに相談にのり、通学しないでもそれが可能なことを教えました。文部科学省管轄の国家試験「高校卒業認定試験」です。やる気を出した彼女に、国語、古語、英和などの辞典を数冊手渡しました。もちろん心の負担にならないよう、きれいではあっても新品ではありません。それからひと月ほど経ったある日、彼女は全部返してきました。理由を聞いても言いません。中古はやっぱり失礼かと、反省したものです。のちに受験して3科目合格していますのでやる気が失せたのではなかったのです。孫ほどの年齢差なのに「下心あり」と誰かに邪推されたようです。彼女は「助言」されたようですね。その誰かは、私が「高卒認定試験」の前身である「文部省大学入学資格検定試験」の合格者であることを知らなかったのでしょう。そうなんです、私はその子と同じ志を抱いた「先輩」にあたります。愕然としましたっけ。
 男と女の人間関係は色恋一つしかないと妄信している人たちには敵(かな)いません。
 この子は1年半ほど勤めて退職しました。その後試験を受け続けたのかどうかはわかりません。

 20年ほど前に従業員100名以上という観光ホテルで総務課長をしていたことがあります。ご存じかどうか。当時は子連れで住み込んでいた仲居さんがたくさんいました。単身で幼児を抱えた母親も多かったのです。私は上司と相談して保育所の充実に努めました。保育所という現場もかなり頻繁に訪ねていました。3年近く経った頃、「リストラの嵐」の中で、あろうことか経営者に担当幹部として労働者側に立った異見を放ってしまい、辞職に追い詰められました。総務は会社側の立場であるべきポジションなのですからある意味当然かもしれません。退職前日でした。挨拶に行ったところ保母さんから涙ながらの非難を受けました。次の一言はたぶん一生忘れないでしょう。
 「そんなに簡単に辞(や)めるなら、いっそ夢なんか見させないでよ! 何が改善だよ…」
 「簡単に」ではありませんが、もちろん私は退職の真の理由を言いませんでした。総務でしたから。
 この会社ですが、その数年後に倒産しました。

 私の場合、こういった事例は枚挙にいとまがありません。
 この歳になって振り返ってみると、各方面での「想いの行き違い」、「志と結果のくい違い」ばかりが浮かんできます。
 ある人たちにとっての感謝と利益は、ある人たちにとっては迷惑と損害。個人としてはどう考えたらいいのでしょうね。どちら側に立って想い、また、どちら側を中心にして生きていくんでしょうね。

 それでも自分に真っ直ぐ生きるしかないと思っている、限りなく微細な「私」がここにいます。


 足腰の定期的トレーニングのため分譲地の坂道を今日の散歩コースに選びました。急ぎ足で登るとかなり心臓に来ます。野鳥やタイワンリスの声を聞きながらの40分でした。春です。それぞれのお宅の庭を拝見するだけでも明るい気持ちになります。雪柳の白、花椿の紅白、馬酔木(あしび)の白、柊南天(ひいらぎなんてん)の黄色、朱色の木瓜(ぼけ)、華やかなストレリチア…
 花粉だけ、ちょっと気になりました。


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. ファッションなぶる?

 
 原題は「ファッション嬲る」でした。この男二人が脇を固め女が真ん中という「嬲(なぶ)る」という字、①男が二人で女性をからかったりバカにしたりしているのか、②女一人で二人の男性をもてあそんでいるのか、ちょっとおもしろい漢字(感じ?)です。これからご紹介する高島京(みやこ)のエッセイは、私が岩漿の空白頁の穴埋め(=埋め草)のために、ちょっと若めの小生意気な女になりきって書いたものです。苦肉の策でしたが、これがけっこう文体的にはまって、後々も「埋め草ガール」役で筆名を使っています。気持ち悪がらないでご了解を。文芸雑誌の編集も大変なんです。
 予想通りです、「ファッショナブル(当世風)」をもじったタイトルなんです、これ。のっけから真面目じゃない? 確かに。今回の記事は拍手もポイントも戴けそうにありませんね(*_*)/


『ファッション嬲る』

 オトコと逢うために京急に乗った。蒸し暑い日で、ひんやりクーラーがうれしかった。吊革にぶら下がって何気に目線を下げると、座っているおばさんの胸が見えて、一瞬、気持ち的に凍えた。よせばいいのにひろ~く開けている。低いふくらみの間のラインが、裁(た)ち目かがり風に波打っている。要するにシワ具合が醜い。うっかり視線が合った。こっちの考えがスケスケみたいで、キッとにらまれた。たかが女の胸の肉、ほっときゃいいか。

 わたしは、寄せて上げてムリヤリ盛り上げてが大嫌い。胸のたるみがオッパイ、その程度の感覚。だから、お腹(なか)のたるみは目の敵にして削ったり隠したりなのに、胸のたるみは増やすのに躍起で、これ見よがしにオープンていうの、ムジュンだと思う。お腹からお乳は出ないけど、胸で胎児は育たないから対等だし、胸貸してもオトコをおとなにできないし。出すんなら両方、隠すんなら両方。差別はお腹に失礼じゃん? だって、大事な子宮やら何やら護ってるお腹の脂肪だよ。

 だいたい最近の女、露出度高すぎるって。もっともわたしみたいに、夏でも出すとこ顔だけっていうのも極端だけど。モモ出し、ヘソ出し、背中に胸と大開き。ノーブラ、ミニ、マイクロミニ? 容姿と両親に相談しろって。小顔ブームだって態度がでかい分の申し訳だろ? ま、それはともかく! ホテルとかカレんちとか、いざって時によ、そのオトコのためだけに見せてあげる肌の面積、あまりに狭過ぎね? ほとんど日常的に女の肌見てたらオトコだって、感激もコーフンもいまいちだと思う。はやりのキャミソールだって、ベッドルームでしか見れなかった女の下着姿の、無目的な公開でしかないじゃん。

 最近のセーネン男子のH回避傾向とか、精子の数の減少とか、個々の精虫の競争力減退とか、いろいろ言われてる原因も、もしかしたらその辺にあるのかもよ。『見せすぎて減退』から『隠して挑発』へ、な~んてね。試しにやってみたら?
 個人的にやるんなら、どこからも苦情来ないよ。これブームにでもなれば、街中露出度控えめの淑女でいっぱい。セイコーすれば、先々「少子化」に歯止めだってかかりそう。国のホーシンにもぴったり。
 あ、妄想で時間つぶしてたらいつもの駅。
 オトコんとこ、行ってきまーす。
 みやこ、でした。じゃ~ね。
                  筆名高島京で掲載(平成10年『岩漿3号』) 
 


 
 今日は、テレビもラジオもブログも、みんな東日本大震災の特集でしょう。黙祷しました。
 集中を予想したので爺の関連記事は、少し早めに、すでに出してしまいました。
 それにしても今日の記事、ちょっと不謹慎だったかなと、反省しています。

 3月11日 公募に応じて短文系を4カ所にだしました。ちょっと充実感。
 嬉しいことに『岩漿24号』で出した短編『現姥捨』に別誌編集者から「評」をいただいた。       


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. 捨てられない手紙、消去できちゃうメール


 私はいただいた手紙やハガキを捨てることができません。電子通信のメールは定期的に消去できています。この扱いの差を生んでいるのは或る「想い」なのですが、これは万人に共通するものなのでしょうか。また、世代によって異なるのでしょうか。

 メールやブログといった電子系の文章と、手書きの便りの「文」の違いを突き詰めると、書くという行為の「ぬくもり」の有無にたどり着きます。例えば手紙ですが、封筒、便箋、切手と揃え、筆記具で一文字一文字を手で書いていく。いたずらに急いだり、想いが先走ったりして書き損なえば、その1枚を書き直さなければなりません。「えっ?」そのまま字を消して「修正」すればいいじゃん、ですか。なかなかそうはいかないのが手紙なのです。人柄が出てしまいます。伝えるものを網羅書きして、宛名書きと切手貼付を済ませた封筒に入れるのですが、この宛名を書くときにさえ、心が熱くなる時があります。名前が名宛人の姿かたちを、さらにはその人とのあれこれを思い出させるからです。さらには郵便ポストまで歩いていって投函しなければ行為は完成しません。
 誰でも知っていて、しかも実行していることを仰々しく書くなと言われそうですね。はい、そうなんです。ですが、これらの段階的な行為のどのところでも「差出人」は、迷ったり、先送りしたり、止めたりできるのです。ここが「ぬくもり」の正体です。届いた手紙は、
このすべての段階を「差出人」の心が乗り越えたものなのですから。

 はじめて書いた「ラブレター」を思い出していただければ、うなずいてもらえると思います。上記の「ぬくもり」が端的に顕われる事例です。おそらく行為の連続のどこかで迷い、ためらったはずなのです。「でも、ドキドキしながら投函した」
 その道のりを想えば、時が経った手紙でも捨てることはできませんよね、その「人」を同時に捨てることになりますから。
 逆に言えばその「人」を自分の心の中から捨ててもいい、捨てたいと思ったときは処分できることになります。
 これを電子時代でのスマホに置き換えれば「削除した」になるのでしょうか。

 気持ちを文(ふみ)にして相手に伝えること。歴史が古いです。簡単に分類で言ってしまうと、「手紙」は「郵便はがき」に対する概念という、味も素っ気もないものになってしまいますけどね。
 大昔手紙は「玉章(たまずさ)」と呼ばれていたことがあります。「玉梓」とも書きます。いわゆる「結び文」のひとつですね。丸めた文を真ん中でひねり結びにして梓(あずさ)の枝を差し込み従者に持たせて妹(いも)、つまり恋人のもとに走らせます。「相聞歌」なんかもこんなふうに交わしたんでしょうかね。中身を読まれちゃうかも、ですか。いいえこの時代なら平気です。
 「文(ふみ)」と書くだけで、そこからは淡くも知的で、温かい恋が連想できます。ここが「メール」「ブログ」「ツイッター」などという片仮名英語の印象との違いです。恋文(こいぶみ)をはじめ、落とし文(おとしぶみ)、付け文(つけぶみ)、艶文(つやぶみ)と並べてみるとはっきりしますよね。

 「文に託し彼方(あなた=貴女、貴方とみて)に送る」。ちょっと夢がありませんか。
 いまはペンフレンドなんて流行らないかもしれませんが、やってみたら新しい発見があるかもしれません。   



 今日、地元伊豆新聞に『岩漿24号』と岩漿文学会の紹介記事が載っていました。先日取材に応じたもので、予想以上に掲載が早くて驚いたしだいです。反応があって書き手が増えるといいのですが。

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. 日本て、ほんとはどうなの?


 「まあ、何て偉そうなタイトルなの」と、どこかの女史が目を吊り上げそうな気がします。でもこれ、街のあちこちにチラホラする庶民の本音ではないでしょうか。「ヘタレ爺」になった私もご同様です。いまさら「政治経済の勉強」でもないのですが、少しばかり株をやりだしたので必要に迫られました。つまり現在の株価の乱高下の原因が上場会社の業績や将来性ではなく、日本経済の実態・価値でもなく、広い意味での世界情勢の「細動」にあることを思い知らされたのです。平たく言えば、食卓をはじめ生活そのものが影響を受けるから、なのでした。ちなみに日本の株式市場を動かしている「マネー」の4分の3は広義の外国資本なんだとか。ま、それだけ日本の市場が投資家やファンドにとって安心で、かつ儲かるという不思議な「現場」なのでしょう。出来高も動いている金額も私には天文学的数字ですから、実際のところは脳味噌が受け付けてくれません。つまり把握をひたすら拒んでいます。
 ただ一つだけ摑んだのは「日本は信じるに足りる」ということでした。
 そう信じ切ると、乱高下に対してイライラも、ジタバタもしない自分が生まれました。

 この1年間に読んだ本を挙げてみます。「いいよ、そんなの」と、今度はどこかの現役社員の男性に言われそうです。
 最近の本、「タイトルが長い」、「なぜか長いサブタイトルが付いている」ということに気付きます。この両方を読み取ると本自体は読まなくても分ったような気がしてきます。お試しください。
 そうなんです。私も仕事に追われていたときは超の付く「近視眼」で、会社のことしか目に入りませんでした。また、それで「生活」は出来たんですよね。これも頭脳的には不思議です。
 

『だから日本は世界から尊敬される』 サンマリノ特命全権大使マンリオ・カデロ著(小学館)
『日本最強論}』~subT以下同じ:中国、アメリカに勝つ!~ (文藝春秋2015冬)
『それでもなぜ、反日大国の中国人、韓国人は日本に憧れるのか?』~すべては中韓の精神文化に答えがあった~ 黄文雄著(海竜社 )
『ほんとうは気が小さい中国人』 SAPIO編集部編(小学館)
『世界経済の破断界』~世界に吹き荒れる後退とデフレの真実~ 若林栄四著(ビジネス社)
『米韓中日本包囲網』~平成ナショナリズムは日本人を幸せにするか (文藝春秋)
『戦後70年 日本を問い直す』 (中央公論2015/9)
『世界の自滅 日本の自立』~歴史プロパガンタに負けるな~ (PHP・VOICE2016/3)
『それでも、日本が1人勝ち!』~秘密は世界に誇る中流の常識力~ 日下公人・増田悦佐著(ワック)
『日本はどれほど良い国か』~なんどでも言う、「世界はみんな腹黒い」~ 高山正之著(PHP研究所)

 「本」の言いなりに自分の考えや意見を構築することはしませんが、これらの「本」の各視点と引かれたデータは、私が如何に何も知らなかったかを教えてくれました。
 もっとも身近な「教師」はネットで検索できる日本と日本人についての海外の反応でした。こちらは世界中の庶民の生の声ですから、率直です。とくに動画は印象的でした。特別頼まれてもいないのに訪日外国人が自分で撮った「日本」を世界中に発信してくれていたのです。また、日本発信の科学・技術・製品情報も半端ではありません。
 うーんと唸りました。毎日時間を決めて検索し続けたものです。
 いつしか株のための読書・調査のはずが、独り歩きを始めていました。




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. 日本アカデミー賞から、あれこれ


 日本アカデミー賞の発表がありました。私にしては珍しくテレビで授賞式を視ています。そこでしみじみ感じたのは「映画観なくなったなぁ」ということでした。前回の第38回受賞作及びノミネート作品では殆んど劇場かDVDで鑑賞済みでしたが、やはり難聴に因る「家庭でのDVD鑑賞」の激減のせいでしょう。その事実をさりげなく教えてくれた授賞式といえます。
 部門賞の全てに現れる作品数は数十に及びますが、その中で観たのは、『天空の蜂』、『海街diary』、『駆込み女と駆出し男』、それに外国語映画賞部門の『アメリカン・スナイパー』の4作品にすぎません。
 そんな私ですが、上記タイトルが太字になっている作品については、このブログのカテゴリ「映画」の中でそれぞれ「映画評」を書いています。興味とお時間のある方はお訪ねください。

 『駆け込み…』はごく最近の鑑賞なので、まだレビューをブログで書けていないのです。役者さんは、大泉洋、戸田恵梨香、満島ひかりなど皆良かったと思います。ところが、何を描いたかはわかるのですが誰の何をメインにしたのかが、ばらけてしまって今一つはっきりしませんでした。なので、「感動」も生まれませんでした。失礼ですけど「脚本(原作があるので脚色か)」が原因かなと思います。それと、劇場で観たかったというのが実感です、印象が違ったかも。
 もしこれが原作はあるにしても、映画として、戯作者大泉と駆け込み女で労咳患者の満島との肌一つ合わせられない恋物語だとしたら、切なくていいだろうなぁなどと妄想してしまいます。

 本当は本木雅弘がとった最優秀助演男優賞や、撮影賞、照明賞にも輝いた『日本のいちばん長い日』も自宅で観たことがあったのです。ところが私の頭の中には、リメイクである本作の原作品にあたる岡本喜八監督の『日本のいちばん長い日』があったため、冒頭30分でDVDを取り出してしまいました。テンポの悪さに耐えられなかったのです。これは私独自の鑑賞法なので一般的ではないのですが、「最初の30分で物語に引き込まれない映画は観るのを止める」のです。
 もう一度トライしてみようかなと思ったのは、やはり「受賞」のせいでしょうか(^^♪

 受賞が決まったからというのではなくて、DVDで観てみようと思っていた映画はいくつかあります。樹木希林が主演女優賞でノミネートされていた『あん』、二宮和也が主演男優賞をとった『母と暮らせば』、3つ目がアニメーション作品賞にノミネートされていた『百日紅(さるすべり)』です。
 観る数は減っても映画やアニメが好きなことは変わっていません。




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. もう「ブス」なんて言わせない


 きょうは女性には大変失礼な出だしになるがご容赦を。じつは、世間では容姿が良くない女性を「ブス」というが、どこから来たのか、出典はあるのかと、またまた調査癖がうずいたことに始まる。
 容姿に関する女性のマイナス呼称は、調べてみるとかなり多い。男性が「醜男(ぶおとこ)」程度であるのに比べて、「醜女」と漢字で書いただけでも、「しゅうじょ」「しこめ」「ぶおんな」と3種類もあり、全国区ではないかもしれないが「おかめ」「おかちめんこ」もある。少し上品に「不美人(ふびじん)」と表現したりもする。爺がなぜ「上品」と思ったのかというと、ここに「人」という字が入ったからだ。洋の東西を問わず、確か古来「人」「Man」は男を指した。さらに「美」という字は「羊」が「大きい」で立派な男の姿だった。その証拠に美しく立派な男子を「美丈夫(びじょうふ)」という。ところが「美人」はいまや女性にしか使わない(昨今は男よりきれいなオネエがいるので、ここは確信が無いが)。古くは「美形(びけい)」ではなかったか。

 話があちこち飛び散るので、ご覚悟願いたい。さらにこの記事のテーマを追求していたら(それほど立派な作業ではない)、「ぼ」という言葉を思い出した。その「ぼ」とは女偏(へん)に莫(ばく)と書く。ブログ上には引いてこられなかったが漢和辞典にはきちんと出ていた。「莫」は「無い」の意なので「ぼ」の漢字ひとつでも「女で無い」となる。最大限の侮辱だろう。解説では「=醜女」になっていたが、その度合いははるかに酷い。
 大部の漢和辞典に遊ぶと、古代の中国の伝説に黄帝という人がいてその4番目の妃の名が「ぼぼ(上記の「ぼ」という漢字に母で、ぼぼ)」といい、大変醜い女だったらしい。転じてその名が醜女の代名詞になったという。帝(みかど)といえばどんな美人も侍らせることができたろうに何でまた、という男性読者のために一言。美形を見飽きていたのでは。これは冗談だが、その「ぼぼ」さんはきっと、頭脳や性格などがひときわ優れていたのではないだろうか。

 これが言い切れるのにはわけがある。伊東市と中伊豆町を結ぶ修善寺街道に冷川峠というところがある。その地名に因み「冷川御前(ひえかわごぜん)」の話があるからだ。武家の名門藤堂高久公が徒然に山野に遊び、途中川で洗濯をしていた女(お光)を見て戯れに手を出したところ、お光は高久に川の水をひっかけて後ろも見ずに去っていった。当時無礼討ちされても仕方がないところを毅然・勇胆とした対応に高久いたく感じ入り、家を調べ、求めて妾室として迎い入れた。のち醜女ながら才覚を現し、内室となり、また男子も出産して齢80歳を超えるまで藤堂家を支え続けた。なお醜女だったためか、当時「娘」と呼ばれるのは18ぐらいまでで、20を過ぎれば「年増(としま)」といわれたのに、何と27歳で妾室として名家に「見初められた」ことになる。

 また横道だが、昨今の女子高生が22歳程度の女性を戯れに「ババア」などと呼んでいるのは、含蓄があると言っていいのかどうか。そう言えば徳川家康も初婚の亀姫(後の築山御前)の出自・性格に懲りて、側室は「既婚」歴のあるかなりの年増ばかりを選んだという。なかんずく才覚のある気立ての良い女性(にょしょう)を大事にしたそうな。
 そもそも容姿の良し悪しなど、ほとんどが遺伝ではないか。
 個人の努力は性格や才覚にこそ向けられるべきである。
 とか言って、迷走は終わりにしたい。


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. 今年もやってくる「3.11」


 5年も経ったのですが3月11日当日の記憶は全く薄れていません。ちょうど御殿場に仕事上の買い物に出かけていて、戦車の通行にも耐えられるという巨大な陸橋の上に信号待ちで停止していました。橋が崩れるのではないかと恐怖するほどの不気味な揺れ。あの日からの全てはそこから始まったのでした。
 1週間以上続いた東日本大震災に関する報道は、多くの日本人の意識を変えました。私も例外ではありません。すでに65歳近かった私は、原発事故が長きに亘って観光産業を蝕むと踏み仕事も終わると思いました。より「小さな生活」への移行を即実行したのです。夫婦そろっての第一次「断捨離」の実行でした。影響は生活自体ではない部分にまで及びました。一例でいえば、車で海岸近くのどこを走っていても必ず「津波」を意識し、背の高い建物を目で探すようになりました。自宅近くでも適正な「避難場所」を探し、夫婦で確認をしたものです。半ば意識していた「終活」も明確なものにしました。一番印象が強い「3.11」効果は、夫婦の絆が深くなったことでしょうか。

 先般、海外の反応というブログで、当日に被災者自身が携帯電話機で撮影した被災の「実況」動画を、あらためて視ました。大自然のパワーの凄まじさ。これに対したときの人間の、個の「存在」の無力さ。身震いがしたものです。
 5年。この歳月をもってしても、また技術大国日本をもってしても、現地はまだ復興しきれてはいません。福島原発もまだ「元凶」感を払拭できていません。逆に「日本」はこの5年あまりで原発の恐ろしさを忘れ、つぎつぎに再稼働をしています。そのたびにトラブルで一時停止をさせながら。「学習」を忘れたのでしょうか。

 2016年、正月に株価が暴落して大発会を終えたときからずっと、日本を取り巻く諸々。たよりない国会、先が読めない経済、キナ臭い国際情勢、手ぐすねを引く地震・火山・異常気象の大自然が、揃って「危険」を知らせてきています。それらが全ての人の命に、仕事に、食卓に直結している現代社会。私たちは無力で、ただそれを見ていることしかできない。耐えることしかできない。そうなのでしょうか。この大きな不穏の中でまた、「3.11」がくるのです。



 昨日かみさんと、近くの小室山の「つばき園」を訪ね4000本の各種椿を鑑賞したあと、山焼きを終えたばかりの大室山の麓にある「さくらの里」に向かいました。あいにくすべての桜が開花していない時期で、散歩が主目的でしたが。
 ふと思ったものです。小室山も大室山も伊豆の火山帯の「活火山」なのだと。お椀をふせたようなきれいな形を造ったのは、溶岩だったのだと。ついでに、伊豆に移り住んですぐに対岸に見た伊豆大島三原山の噴火と溶岩の流出も思い出しました。
 「伊東の温泉地も、当然マグマに近い」
 どうやら、つまるところ運を天に任すしかないようです。

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. 落選と落第は必ずしも同じではない


 昨夜テレビでジブリの長編アニメ『思い出のマーニー』(米林宏昌監督)が米国アカデミー賞の受賞は成らずと伝えていました。期待していたのでジブリファンとしては肩を落としたものです。3月は入試もあれば、各種文学賞の最終発表が多い時季でもあります。何となくで恐縮ですが、「落選」について考えてみました。いちばん声を大にして言いたいのは「落選といわゆる落第は違う」ということです。もちろん両者が一致する場合も当然あるでしょうが、必ずしも「意気消沈」することではないと思っています。

 およそ「選考」には「狙い」と「基準」があります。さらにはそれを確実にするための細かい「応募要項」もあります。例え応募者の文章力や創作の完成度が高いとしても、この3つのどれかに引っかかれば最終選考までのどこかで落選するのです。純文学作品の公募にエンタメ小説で応えれば当然落選しますし、これからの長期の作家活動を期待しての公募であれば、高齢者は少なくとも最終的には落選となるでしょう。また、400字詰め400枚以上とあるのに200枚では玄関口で、作品内容での「足切り」以前に排除されるでしょう。どの段階で外されても一括して言葉で表せば「落選」なのです。実際は上記の段階も、「限界事例」では微妙です。推理小説的な構成で純文学なら? 何歳から排除すべき年齢なのか、390枚ではどうなのか、と言った具合に。
 落選した応募者には形式的理由なのか、実質的審査結果なのかは知らされません。とくに一次選考落選では、自分で判断するしか無いでしょう。

 この仕組み、どこか就職試験に似ています。企業はどの部署でどういう経歴・タイプの人間が欲しいかを定めて募集するのが普通でしょう。面接試験で不合格ということの意味は、その応募者の全人格否定ではありません。企業が採用したい「枠」外だったというのにすぎないのです。前記応募要項での排除は履歴書選考に近いと思います。大きな会社でも全員の面接試験は無理ですものね。昔面接をして選ぶ側にいました。上記の理由で、欲しくても採れない人財はかなりいましたよ。
 文学賞の場合だと要綱での形式的審査をクリアしても次には「下読み」がありますよね、最終選考者である作家の方々に選考してもらう前に「下読み」さんが候補を絞り込んでいく作業です。地方の文学賞ですが実際にこれを担当していた人を知っています。大変な作業だそうです。この人のことではありませんが、実際に読み込む前に冒頭の数頁とラストの数頁を読むと実力が分るらしく、この「判定」で峻別することもあるそうです。「あらすじ」を読むだけで外したい作品が分るとも。これはあくまでも仄聞ですが。

 要するに目的をもったその賞の、そのジャンルの、その選考員の選に漏れたというのが「落選」なのです。
 創作意欲は一人独りの、個人の宝物です。創り続け、挑戦し続けましょうよ。
 『天才が簡単に創りだした傑作と同じものを、凡人が創り出すのはなかなか難しいけれど、その困難の中でも可能性のある一番優しい道は訓練である』
 著名な評論家小林秀雄の言葉です。
 もう一つ挑戦者にとって、素敵な一言があります。
 『くじける時は、成功の直前である』(岸宏子)


 
 私の小説応募歴の「最高位」は3次選考まででした。
 脚本では県の公募ですが最終2作品までいったのが1回。この5年間での小説は、募集要綱ミスも含めて玄関口落選が2回です。懸賞短文では佳作で10万ゲットというのがあります。ご参考までに。
 それぞれ10年をかけた別の2つの長編小説は、同人誌に一部投稿したので応募資格を失くし、両方とも自費出版をしています。コンクールのための『公募ガイド』があれば、いろいろ調べられたものをと、つい愚痴が出てしまいます。現在は購入して慎重を期しています。

 10年を費やした『小説太田道灌』は、ここから



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. プロフィール

蛙声爺

Author:蛙声爺
文芸同人誌編集をしています。
考えるフクロウが理想。
木内光夫のHPもよろしく。

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