蛙声爺の言葉の楽園

. どこにもカウントされない訪問者

 「にほんブログ村」の画面からクリックして私のブログに来てくれた方は「OUT」カウントされます。私のブログに来た方が記事近くにある「にほんブログ村」のバナーをポチッと押してくれると、「IN」でカウントされます。1回10ポイントです。ランキングを見ると10ポイント未満の数字が累計されているのに気づきます。これは参加カテゴリが複数あって振り分けに割合がある場合です。この数字の週間累計が「ブログ村のランキング」に反映されることはご承知の通りです。
 私の場合、プロバイダがFC2ですから、「FC2カウンタ」というものを付けています。ところがこれ、「同じプロバイダのブログ利用者の訪問数」だと分りました。管理ページの「訪問者リスト」で数えた「合計人数/日」と一致するからです。
 だとすると、上記以外の「ルート」で私のブログに入ってきて、しかも「IN」のポッチを押さなかった人は、どこにも数として登場してきません。
 もちろん「拍手」してくれたり「コメント」を入れてくれると、当然数としても把握できます。
 何を言いたかったのか分らなくなりましたが、訪問してくださった方、どこかに「足跡」を残していただければ幸いです。
 どんな形でも結構です。うれしいのです。
 ブログの意義のメインは、表現、伝達、交流です。カウントやランキングは言わば「副産物」ですが、喜びや励みに直結します。
 いままで何か数値の意味が不明でしたが、やっと事情が呑み込めましたので、駄弁を弄した次第です。


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  編集手帳・『岩漿24号』
  10/29 歌集『媼空蝉』ルビ振り後の再校、レターパックで作者に送付しました。

 
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. 「ぬけがら」は成長の一里塚

 文芸誌『岩漿(がんしょう)』の同人に80歳を超えたZさんというご夫人がいる。伊東は一碧湖畔にひとり住む彼女はいま、自然と一体になって爽やかに生きている。今回はこの人を、一部その作品を交えながらご紹介したい。

  某歌人に師事した彼女が『24号』に156首の短歌を発表したいという。小さな「歌集」に匹敵する数ではないか。私は「大丈夫です、誌の中に歌集を創りましょう」と即時に承諾をした。昔ながらの400字詰め原稿用紙に手書きなので、入力は私が担当した。ついで版下までいったが、短歌には大きめの活字を使い、行間も広めにする必要がある。また、読み方が特殊なものにはルビが必要になるところから、15頁を割り当てた。
 『身辺雑詠』というタイトルは作者に相談したうえで『媼空蝉(おうなうつせみ)』に変えている。
 『歌詠まぬ心の隅に秘かにも心騒がす空蝉の鳴く』
 この、詠んだ歌の中の言葉を戴いての命名である。『空蝉』には、「虚しさ」とか「はかなさ」といったどちらかというと消極的な意味のほかに『この世に現に生きている人』という意味があり、これを拾ったのだ。

 『書を読みてペンと過ごさむ今日一日落葉時雨の音もなく降る』
 彼女は落ちた視力でも分厚い本に挑戦する。昨年はパスカル・メルシエの『リスボンへの夜行列車』を読破し、私たち同人に紹介文(『岩漿23号所収)を書いている。この邦訳小説、早川書房のハードカバーで何と、2段組み486頁もある。

 私が初めて彼女の作品に接したのは17年前、その時でもすでに65歳前後である。作品は『禅について―生と死―』という随想だった。筆致は論理的かつ男性的、文章がキラキラしていた(『岩漿3号』所収)。
 人の「耀き(かがやき)」とは何だろう。彼女の老後の歩みは、無目的に過ごしがちな私たちに、この単純な疑問を突き付けてくる。
 『五十五歳の四月、通信教育の文学部哲学科で勉強する為、慶応大学に入学しました。夫の了解のもと、六年後の三月に一二四単位を取得し、卒業論文の合格を目指して念願のニーチェに取り組みました』(「ニーチェにこだわって生きてきた私」から)
 そしてついにそれは『能動的ニヒリズムについて』という卒論として結実する(『岩漿22号』に全文掲載)。みごと卒業。
 入学しようとする妻も、それを応援する夫も、共に耀いてみえる。
 しかしその夫は、亡くなる。
 『優しくも百条の花枝垂れいるなどて哀しき今年の春は』(夫逝く)
 
 ひと月ほど前、『24号』の作品について電話で話し合っていたとき、彼女はまた私を驚かせた。
 『わたし今度小説書きたいんです。コンクールにも応募したい』
 彼女の耀きは当分続きそうだ。
 次の二首の歌が、いまの「媼」の心情かどうか。
 『華をすぎ燃えつきたりし桜草名残りの姿を惜しみ手にとる』
 『花と葉の逢ふ瀬なき身の曼珠沙華刈り穂の畦に追ひて葉の出る』


 
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. つまみ食い「山梨」

 ブログは執筆時間が無くて3日間のご無沙汰でした。
 10月25日早朝に伊東を発ち一路兄の住む山梨県北杜市へ。前回渋滞に巻き込まれた中央自動車道笹子トンネルも難なくクリアして午前9時頃には里山に到着しました。途中、「甲府南」ICから一般道へ。山梨大学病院の位置を確認してから中部横断自動車道「南アルプス」IC・「双葉JCT」経由で中央自動車道に戻っています。
 荷を下ろしてから、敷地内3角地の草刈り(実質は篠竹刈り)に係りました。前回の続きです。この日は昼食をはさんで午後まで。この篠竹刈りには兄の深慮が隠されていて、晩秋ではありますが協力をしています。
 本来の目的である翌日の大学病院行きに備え、夜は早々と床に就きました。

    竹かり・むかわ
           竹を刈ると岩が露出する。苔が朝日に「困」ると言った。

 26日、早朝から晴れ。午前7時45分兄を乗せて山荘を出発しました。富士山がこの上もなく綺麗でした。
 「本日の予約数1285人」という数字に、まずビックリしました。まだ8時半だというのに初診待合室はごった返しています。この立派な病院、正式には山梨大学医学部付属病院といいます。各科診療科目を網羅し、一般病床だけでも566という山梨県随一の総合病院なのでした。前回北杜市立診療所で、「山梨に大学病院て、あるんですか」などと失礼な質問をしたことを恥じたものです。
 兄の付き添いとして来院したこの日、たくさんの「勉強」をさせてもらいました。滞在時間6時間。ここ10数年、大病院に長い時間居たことがない私ですから、「驚いた」といっても、現在では「ふつう」なのかもしれませんが、「爺の目」をご笑読ください。

 眼科の待合廊下の長椅子も満杯でした。いわゆる「ぎゅうぎゅう詰め」にすれば座れるかもしれませんが、私は患者さん優先が普通だろうと思い、ずっと立っていました。前回に引き続き同行してくださった市の福祉課の方も、同じ思いだったのでしょう、午後になって患者さんが激減するまで、立っていました。職務とはいえなかなかできるものではありません。信頼に足る人でした。

 診察室が5つあり、そのすべてが使われていることにも仰天しました。高齢と眼疾、もちろん私とて同様ですが、いかに関係が深いか、また、マクロ的に観ればそれがいかに深刻であるかを物語っています。

 付き添いとしての長い待ち時間の中で、あちこちの壁にある掲示物を読みあさりました。その中で、心に当たったことがあります。この病院では30分ごとに看護師が待合場所を一巡するので、体調の悪い方は申し出てください、というのです。内心「ほんとかな」と意地悪な目で(こういうところ、いやらしい)観ていたら、ホントでした。それも形だけというのではなく、目を閉じてうなだれている人に優しく声を掛けていました。インターンの女性なのでしょうか。この病院は「研修医などの臨床学習」の場にもなっていると書いてありましたし。時間も確かに30分ぐらいの間隔でした。「すごいな」と頭が下がりました。「残念」ながら私は声を掛けてもらっていません。「きのう4時間半しか眠れなかったのに変だな」。ぐあい悪そうに見えなかったことを悔やんだのは初めてです(^^♪

 午後になって、診察から各種検診に移りました。長い廊下を3人で歩いているうちに、院内でずっと気になっていたあることに「確信」を持ちました。廊下が長いということは「壁だらけ」になりがちなのです、ふつう。ところがここは違いました。額入りの絵画、写真が空白部を随所で埋めていたのです。これは「一定の方針に基づいている」はずだと。
 ちょっと飛びますが、山梨県は戦前、といいますから70年以上も前になりますか、「文化不毛の地」と評されていたそうです。戦後これを憂えた県政が「文化的変身」を企図します。実施は各方面にわたっていたはずですが、その象徴が甲府市の「県立美術館」かもしれません。30年近くも昔になりますが、フランソワ・ミレーの『種をまく人』を購入、その後も収集を継続して「ミレーの美術館」と称されるまでになっています。10年ほど前には笛吹市に県立博物館もできた由です。
 そういえば、この病院の正面玄関のモニュメントも美的でした。
 暗くなりがちな病院の廊下を「画廊」にした感覚は称賛に値します。

 院内に「そば・うどん」をはじめ軽い食事ができる「お店」があったのには驚き、当然「拍手」でした。昼食時にまともに食事できない病院関係者や患者付添人など、おいそれと院外に出られない人のためなのでしょうか。病院敷地内、しかも正面玄関近くに喫茶店があったのと併せて、「配慮」の厚さに感じ入ったものです。

 まだまだいい意味で驚いたことは沢山ありましたが、病院や患者のプライバシーに関することに繋がるものは避けたいと思います。「つまみ食い山梨」なので、このあたりで失礼します。


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. となりのトトロ展PART2へ出掛ける前の話

 朝、女性は何でも「お」とか「ご」とか品物に付けて「やわらか言葉」にしますが、「果たして統一性はあるのだろうかと、そのあたりを突いてみるかな」と今回の記事プランを立てていました。
 「お饂飩-お蕎麦-お素麺」ときても「おスパゲッティ-おマカロニ」はありません。
 「ご飯-おにぎり-お寿司」とは言いますが、「おパン-おパスタ-おクロワッサン」とは言いません。
 「お酒」はあっても「おワイン」は無いのです。日本で「お酒」といえばもちろん日本酒で、種類を表しています。
 この辺りまでは、日本の食品に対する親しみや「敬意」と勝手に想定して「うん、うん」なのですが、「おビール」が出現するや、何やら区別があいまいになってきます。
 「お大根-お葱」があるからと言って「お人参-おホウレン草」とはなかなか参りません。その大根も乾燥加工してしまうと「お沢庵」とはされずに呼び捨ての憂き目にあいます。ところがひっくるめて香の物として扱うと「おこうこ(香香)」になって「お」が付いてくるのです。沢庵だけでは役不足なのでしょうか。
 ちょっと面白いのは短縮形、ニックネーム風だと「お」が付いてくるという例です。
 たとえば、「ジャガイモ」が「おジャガ」、「サツマイモ」が「おサツ」といった具合です。
 「どゆこと?」になるのは、固形物に限りません。
 「お味噌汁」とは言っても「おスープ」とは言わないのです。しかもこの味噌汁には最大級の敬意が払われていて、別名の「おみおつけ」には「御御御付け」と3個も「御」が付いています。「おかーさぁーん」なぜ?

 こんなとりとめのないことをパソコンの前で考えていたら、お膳のそばで急にかみさんが、「きょう晴れてるけど、どーする?」と声をあげました。グッドタイミングではないですか。
 そういえば、ここ1週間近く午前中から一緒に居るのは、今日が初めて。

 「となりのトトロ展でも行くか、昼飯は伊豆高原のガストということで」と、話が決まりました。
 10年以上も前に行ったのが第1回の特別展で、伊豆新聞の広告によれば、今やっているのは「PART2」だそうな。

 この手のミュージアムには珍しく「撮影できます」(ただしカメラの機種に限定はあります)なので、「よし! ブログ用に」と気持ちが盛り上がったのですが、さすが「蛙声爺さん」、デジカメにメモリが入っていませんでした。
 そうです、山梨行きの写真をパソコンに取り込む際にメモリを外したままだったのです。「あらま」
 それでも・・・、ぬいぐるみも然(さ)ることながら、沢山展示されていた童画に癒されました。

 と、いうことで写真はありません(*´ω`)┛


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. わたくしごとですが・・・

 私事ですが、(あ、ブログは私事に決まっていますかね)あと数回で、蛙声爺のこの創作日記がお陰様で300回を迎えます。我ながらよくここまで続いたものだと、驚いています。そこで、気持ちを新たにするといいますか、少し方針を変えるといいますか、装いも一新して再出発したいと思います。11月からになると思います。
 この記事は、もしかしたらこのお知らせだけで終わるかもしれませんが、ご容赦ください。



     机3
            抽斗(ひきだし)は全て、夢の引き出し


 編集手帳 『岩漿24号』
 10月21日-22日
  編集委員3名との第1回編集稟議が終わりました。
  送付した入力原稿の校正が進行しています。
  155首の短歌の作者と電話連絡が取れ、「歌集」のページ設定が決まりました。
  年末開催予定の「岩漿文学会創立20周年記念の集い」の日程アンケートが事務局から会員に送られます。
  24号の表紙と扉のデザイン、目次カットが編集部投票により決まりました。



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. 人は石垣、人は城

 老境に入ると誰しも、過去に出遭った人たちが、当時の姿そのままで、脳裏に浮かび胸に迫ってくることがあるのではないか。もう修正がきかない出会いと別れ、訂正も取り消しもできない言葉の数々。どこぞの建築屋の話ではないけれど、硬い「岩盤」に届かなかったために、自分という「建物」を狂わせ、歪ませている「杭」(悔い)。だからこそ人は頑なにもなり、寛容にもなれる。二面性どころか多面性さえ持てるようになる。自分が弱くなった分、人にも優しくなれる。そんなものかもしれない。

  武田信玄             
              山梨中央高速道路双葉SAの武田信玄像

 10月19日から21日にかけて北杜市の里山に住む兄のところへ出掛けた。
 山梨県内を車で走っていると『武田節』の歌詞が説得力を増してくる。四方を山々に囲まれて、侵略者が入ってくるルートが限定される。武田家は、防御の備えを極限まで小さくすることが出来たのだ。戦は領地内ではしない、外でするものだ。かくして家訓は、「城を造るな、外に討って出よ」となる。領内に敵が侵入してきた場合を想定しない「構え」が、最強の軍団を創り上げたのである。それはまた、武将たちの相互信頼と、心を繋ぐ鉄鎖の存在をうかがわせるものである。
 『人は石垣、人は城』
 この「ことば」の持つ意味は大きい。それは現代でもたぶん同じであろう。口で言うほど簡単でないにしても。
 
  白州道の駅
       北杜市、白州道の駅から遠く甲斐駒ヶ岳。兄の通う診療所はこの近くにある

 いつぞや報道されていたところによると、都会から地方に移り住む場合の「人気投票」で山梨県は、何と1位だった。たしかに東京に隣接していて、これほど地方色豊かな場所はないと言える。ただ、毎度思う。景色の良い所は生活が厳しい。とくに買物、医療、教育の3つが、元都会人にはかなりのハードルになるだろう。
 高齢者なら尚更である。
 これは地元の方も一緒で、ここでも『人は石垣、人は城』は、しっかりと、当てはまりそうだ。

  石空川から三山
         北杜市、石空川から南アルプス鳳凰三山をのぞむ

 
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. 場違いシンドローム

 こんな経験をしたこと、ないですか。<複数の人たちと談笑しているとき、急に自分だけが「浮いて」、その場を俯瞰(ふかん)するところまで舞い上がり、「自分は何でここで、何をしてるんだろう」と、「独り」になってしまう。地に足が着いていないわけですから落ち着かなくなり、一刻も早くその場から離れたいと思い出す。そういう「自分」に罪悪感が生まれ、当然居続ける本来の意味は消え、楽しさも無くなる。>
 私はこれを「場違いシンドローム」と、勝手に名付けています。若い頃からたまにはありましたが、ここ数年回数も増え、症状が進行してきた気がします。

 「場違い」という語感から誤解されると困るので少し説明をします。解説の都合上3つに分けます。
 A 自分の居る座標から「下」に居る人たちと、自分は違うという感覚。→「だから場違い」(以下同じ)
 B 自分の居る座標から「上」に居る人たちと、自分は違うという感覚。
 C 自分の居る座標と「同じ高さ」に居る人たちと、いまの自分は何か違うという困った感覚。 

 私の場合、「A」はありません。そもそも「下に居る人たち」が存在しないからです。(^-^)/
 「B」も経験した記憶がありません。いつも「上に居る人たち」からは「お前は不遜だ」と思われ、かつ言われています。( ̄^ ̄)ゞ
 ですから「C」なのです。突然これに憑りつかれます。(。>ω<。)ノ「病名」が不明なので未だ「症候群」なのです。

 今年、これが「発症」したとみられる会合を、自己検索して3つばかり挙げてみましょう。みんな意義のある、しかも最後まで楽しいはずの集まりでした。まずは同人誌『岩漿23号』の合評会で、喫茶店でした。次が仲の良い親族が寄り合った行事の2次会、場所はマンションの1室でした。さらには、恩師を囲む同窓有志の宴、中華料理屋でした。この時が最も重症でした。さぞかし皆を訝(いぶか)しがらせたことでしょう。この記事を読んだら、もう誘ってくれないかもしれません。(´・Д・)」
 まあ何です。やたらと周囲を怒鳴り散らして1人粋がるお年寄りよりは、静かに黙り込んでしまうこの「症候群」の方がましかもしれません。ただ、これがもし老いに伴う「心の劣化」だとしたら、大いに慌てなくてはいけません。
 上記の3事例での、せめてもの救いは、全ての当日につき、心に屈託があり、体調も良くなかったということ、でしょうか。
 
 もし読者の方で「心当たり」のある方は、また症状が出ましたら、「場違いシンドローム」と呼んでください。
 「わはは、わははで暮らしていれば、ほとんどの病気は逃げていく」そうな。
 遠い昔にラジオで聞いた、精神科のお医者さんの、お話。


      itoumine 0021
        流しましょう、流れましょう、行先の大きな海のために 


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 編集手帳 『岩漿24号』
  編集委員に、表紙、扉及び目次カット案各数種を送付しました。多数決で決定します。
  メール添付不可の編集委員に、入力済み原稿を送付。校正を依頼しました。
  東京四季編集委員に、『東京四季109号』の拝受・御礼の手紙を送りました。

 当会は校正をはじめ編集精度をあげるべく会員4人による共同編集を採用しています。入力と穴埋め原稿は分担です。共働することで目的意識も高まります。
  

. 『編集手帳』始める

    img0671.jpg   のっけから厳(いか)めしい書体で、「ちょっとびっくり」かもしれませんが、これが我が総合文芸誌『岩漿』(がんしょう)のロゴです。平成9年の創刊に際し伊東市在住の書家秋藤俊氏にお願いして頂戴した作品です。この先生は画家でもあります。この「岩漿」は地下のマグマのことですが、普通にワードで変換すると、こっちが出てきます、「岩礁」。これは海にある出っ張りです。で、創るしかないので「岩」と打ってから血液の成分である「血漿」と打って連結し、「血」を抜いてやると(「何のこっちゃ」ですよね)出来上がります。
 発起人4人が集まったのは市内の施設「石ばし庵」。囲んだのは本物の囲炉裏。依頼すると先生は、あっという間に4種類の書体で墨痕鮮やかな『岩漿』を並べてくれました。その中で一番逞(たくま)しかったのが「これ」なのでした。

 早いもので、今度の同人誌24号で「足掛け20年」になります。
 そこで、勝手に「記念」と、させていただいて、めでたく発行となるまでの間、このブログ記事の末尾に、本文よりも小さい活字でひっそりと『編集手帳』を付けることにしました。記事になるよう、ネタコメント(筆者独白)は入れます。
 こんな感じです。 




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  編集手帳 (敬称略・以降同じ)
 10月13日編集委員に入力済み下記原稿の校正を依頼。原稿はメール添付。
 財津『身辺雑詠』(短歌)・Chaco『母2』(短歌)・瀬戸『孤高の人』(随筆)と他2編。

  同じ短歌でも花鳥風月の中に人を織り込んだものと、実生活活写ものでは印象が全くちがいます。読者の好み次第だとは思いますが、いずれにせよ短文系の作品では特に、見えている文字の裏側をすくい取る作業が不可欠になります。
 実在する人を念頭に置いた作品にはプライバシーの問題が絡みます。著者の筆次第なのですが、万一忠告が要る場合はためらってはいけないと思っています。


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. 老いのリトマス紙・東京

 今朝、中断していた『夢の海』のブログ記事執筆を再開し仕上げてからが家事繁多で、気が付いたら午後。次いで文芸誌編集の事務をこなしていたら、着いた郵便物が詩の文芸誌『東京四季109号』で、これを早速全部拝読。ようやく落ち着いたところで何か忘れていないかと、お尻がモゾモゾ。
 という訳で、10月13日の東京行きの1人珍道中を描かなければと、本日の分のブログを思い出した次第・・・。

 ここ数日体に変調があり、くしゃみと水っ洟が突然ゲリラ豪雨のように襲ってくるようになっていました。周囲に人が居ればビックリするし、飛沫は突風よろしく飛び散るわけで、これはいかんなと思いました。10月13日は、東京のど真ん中紀尾井町にあるホテルニューオータニに出向かなければならなかったのです。風邪とは症状が違いますので気温差過敏と踏んでいましたが、とりあえず風邪薬を3錠、出発前の午前11時ころに服用しました。
 他所行きのカジュアルなど持っていない私のこと、(いえ、ファッションに全く興味が無いものですから)スーツにネクタイ、ちょっと新しめの靴でのスタートでした。往きは踊り子で東京まで、そこから中央線で四ツ谷です。
 券売機では往復乗車券が買えないことを知らず片道切符を購入したものの、往復の旅客運賃レシートが必要な私はとりあえず、自動改札機前に立っていた係員に質問。当たり前の答えでした、「みどりの窓口へ行ってください」。30年も田舎に居て車オンリーになった私はついに、切符の買い方も不案内になっていたのです。いや、単なるボケかも(^^♪

 自由席でも座れました。発車を待っていたところ、年配の6人のグループが何やらざわざわ。つまみ食いで会話を聞いていると一緒にまとまりたい様子なのです。「私、移動しますよ、どうぞ」。そうすればシートをくるりと回して万歳だと知ったのでした。ここまではいつも通りの?「健全な」私だったのですね、今にして思えば。
 身体の異変は、何度も何度も座席で居眠りを重ねた後で起こりました。まず頭がボーッとしてきたのです。目も霞んできました。東京駅での乗り換えあたりからはこれに、痛みさえ感じる喉の渇きが加わります。四ツ谷からホテルまでの、上智大学キャンパス横の舗道はきつい歩きでした。女子学生のハイヒールの靴音が異様に高く耳に響いてきました。「なんだこれは」(。>ω<。)ノ
 早くホテル前に着き過ぎたので、巨大なワンブロックをもう一廻りしたのも「おばか」でした。

 午後4時、ザ・メイン、アーケード階の会場にはいりました。「段取り」の打ち合わせ前に、審査員のお1人堺屋先生が受賞者の方々に自ら近寄って笑顔で親しくお話をしています。ずっとファンだったのに私は、それらを目の当たりにしながら、ひたすら呆としていたのです。傍にいらした先生に私が発した言葉は「ありがとうございました」だけでした。怪訝そうにして次の人に移る先生。「ドタキャンになったとしても、来るんじゃなかった」(*・`ω´・)ゞ「それにしてもこの症状は何?」
 この後も私は、式典に集中できず、自分の名前と似た響きで「呼ばれた」と解釈(実は難聴でか、聞き違い)、立とうとして隣の椅子のアシにつまずき、壇上でも自分の椅子が不明で係りの人に助けられたりしました。俳優さんが作品の文章を読んでくれたあと、作者がコメントをするのですが、これは何とかクリアしました。ダジャレ好きの私なのに、ユーモア一つ出せませんでしたが。
 閉会の後「隣室で」茶話会をと司会者のアナウンス。もう限界でした。「よろしければ・・・」という言葉を救いにして、ややよろけ気味に会場を後にしました。ところが玄関の外に出た私は気づきます。受賞者の赤い花のリボンを胸に着けたままだと。当然受付までの「退行大返し」、です。

 6時15分、すでに薄暗くなった上智大の横の道を、少しゆらゆらしながら駅に向かったものです。後から歩いてきた女性などさぞかし気味が悪かったでしょう。ときどきためらう靴音で解かりました。「具合悪いんですみません」

 混み始めた時間帯。乗り継ぎを重ねて伊東まで帰るという選択は出来ませんでした。東京駅で新幹線の特急券を買う方法を訊ねたあと、下りホームでポカリを買って、ゆっくりとボトルの半分を飲みました。(^∇^)ノ
 熱海近くまでシートに埋まって眠りこけていました(薬はたしかにくしゃみも水っ洟も抑止していましたよ)。

 伊東駅から家までは? もちろんタクシーでした。14日は4時起きの箱根バイトなのですから。「だいじょうぶかぁ」
 「やはり野に置け元都会人の爺!」。東京は私の「老い」を判断するリトマス試験紙でした。
 ちなみに、ですが、佳作賞金は10万円です。


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. 『夢の海』秘話

 平成24年11月発行ですから、私が馬場駿の名で推理小説風な愛の小説『夢の海』(250頁)を自費で上梓してからちょうど3年になります。サブタイトルは「愛をのせる秤(はかり)をください」でした。執筆開始から10年以上を費やして脱稿したもので、これは処女出版『小説太田道灌』(自費)に次ぐ長さになります。長時間労働になりがちなサービス業で、仕事の「合い間」をポツポツつなげて、でしたから仕方がありません。でもその遅筆という「障害」のお陰で、何度も推敲し小説として、いい意味での「脱皮」ができたのも事実です。何につけ物事、マイナスばかりではないんですね。実感でした。

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       表紙の絵は私の姉が手元の人形をモチーフにして描いたもの。装丁は著者自身です。

 ※体調が最悪だった2日間が過ぎ、今朝(10月15日) は顔に艶も戻って、比較的元気です。所用で「留守中」に訪問してくださった方々、ありがとうございました。とても嬉しいです。
 もう記事に戻ってご覧になる方も少ないとは思いますが、「秘話」などという思わせぶりなタイトルにした責任上、続けさせていただきます※

 『夢の海』は平成10年以前から書き込んでいました。当時の「賞」の正確な名称は忘れましたが、新潮社のミステリー新人賞だったと思います。大胆にもといいますか、生意気にといいますか、燃えたんですね。ところが、発足したばかりの文芸同人誌の2号原稿が極少だったため、悩み抜いたあげく同人誌の継続を採って応募の方をあきらめました。振り返ってみますと、良い選択だったと思います。結果、同人誌2号は何と210ページの「大部」の誌に変身してしまいました。
 このときの小説『夢の海』が、現在の本の原型となります。

 それから10年以上も経った或る日、私は交通事故に遭います。それからなのです、人間は老い(老衰や疾病)以外の理由で突然死ぬことがあるんだという、当たり前のことに囚われたのは。何か自分が生きていた「証拠」を遺したくなりました。すでに『小説太田道灌』は上梓していましたが、「さらに」という気持ちでした。そこで応募と違って枚数制限を受けないので、増補改訂を試みました。
 写真を掲げた本は、平成24年11月の発行です。

 この物語、実は「当方負担の出版も可能」という公募に応じています。甘ちゃんでした。返ってきたのは「残念ですが、最終選考に漏れました。ついてはご出版のお手伝いを」だったのです。何回もかかってきた男性の電話で私は気づきました、「この人、作品読んでないや」と。それでも、最初に電話をくれた女性の方だけは、2度目の電話の後で、ですが、お読みになったようです。電話の内容の変化で解かりました。1冊ぐらいは公募通り選んだのかもしれません。ただ、そうだとしても選考に漏れた私の出版費用負担が800部180万円というのには仰天しました。作者の手元に来るのは50冊ほどだそうで、本当に所定の部数を刷るのかどうかも不明瞭です。
 つい「そんな金を趣味に遣えるくらいなら苦労はしねーや」とつぶやいたものです。

 何事も意志次第で何とかなるものです。頭に来た私は「じゃ、自分でやる」と決めたのです。先ずブラインドタッチで入力できるプロの同人にベタ打ちを頼み、自ら校正を行いました。合わせて、長年水彩画を描き個展を開くようにまでなっている姉から、作品を1枚使わせてもらう許可をとりました。本の装丁は自分で、と決めたわけです。当然版下も手製。かくしてこれを印刷屋に持ち込みました。発行300部、印刷と製本費用だけで目的を果たすことが出来ました。総経費は24万円でした。

 もしこの『夢の海」を読んでみたいと思ったブロガーの方がいらっしゃいましたら、本代・送料とも無料で寄贈させていただきます。この記事をお読みになったということは、お訪ね戴いたということですから。感謝の気持ちの一つです。
 作品の読後感想をお読みになりたい方はこの記事の一番下にあります。
 また、ご希望の旨のご連絡は、管理者しか読めない形でのコメントでどうぞ。

 以前同人誌『岩漿』を私のホームページに申し込まれた方が、「本当に来るとは思いませんでした」とお便りをくれました。
 こんな世の中ですから仕方ないのですが、ホームページにはメールアドレスも出している当方です。
 そのホームページにはこのブログの「リンク」欄の一番上をクリックして入れます。
 

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 『夢の海』の読後感想集

. 日本の四季が消え去る日

 今朝久しぶりに旧知の俳人のブログを訪ねたとき、妙なことを考えてしまった。もし日本で四季が無くなったとしたら、季語は死に、季語を集めて分類、解説した『歳時記』は用が立たなくなる、つまり俳句が消えてしまうと。世界一短い文学作品が消失するのだ。現段階では妄想にすぎないが、昨今の、台風の変な進路、多発する爆弾低気圧、数十年に1度という集中豪雨、季節外れの雹(ひょう)、珍しくなくなった竜巻、関東を襲う1メートル超のドカ雪など、異常な気象現象を見ていると「杞憂」で済むのかどうか心配になる。

 地球規模で考えても温暖化によって、とうとう北極海の氷が解けだしたという。いつぞや見た報道によると、すでに太平洋側の国から北極海経由でヨーロッパへの定期船も運航できるとか。次に解けるのは南極の万年氷か。だとすると2004年のアメリカ映画『デイ・アフター・トモロー』の恐ろしい「現実化」につながってくる。地球温暖化-南極の「解氷」-海洋の変化-超寒冷低気圧の発生-平均気温10℃以下の「氷河期」の到来が、それだ。この連鎖の急襲は、少なくとも近未来には無いと踏んだとして、プロセスとしての四季の曖昧化や消失はありそうな気がする。雪-桜-蛍-紅葉などの「季節の移ろい」が無くなった日本。いや、「考えたくもない」というのが本音である。

 これを書いている間、ヴィヴァルディの『四季(FOUR SEASONS)』のCDをかけていた。4つの季節のそれぞれに3楽章ずつあるので計12楽章あるのだが、有名な「春」以外はまだ2度目という爺でしかない。飛行機に乗れないのでまだ行ったことはないが、どうやら生誕の地イタリアや彼が歿した地オーストリアには四季があるようで「安心」をした。ただ緯度は近いが、彼の地の四季が日本の四季と同じなのかは分らない。いずれにせよ、四季が人間の感性を豊かにするのは確かだろう。四季が無く森や湖沼の少ない国と近年の厳しい国際情勢との因果関係は、中近東の紛争報道に接するたびに、失礼ながら「絶対にある」と感じてしまう。

 上記映画もそうだが、まだ現実には見えない段階での「警告」は突飛に思われる。きたない言い方をすれば「ゲテモノ」扱いを受けるのだ。女流作家の故有吉佐和子が好意的に引用したアメリカはレイチェル・カーソンの薬害告発の書『沈黙の春』 もそうだったようだ。もっとも、特に「死後に」ではあるが。みだりな農薬の散布によって、いつか、春が来ても野の花は咲かず、昆虫も飛び交わず、野鳥も鳴かない、そんな時代が来てしまうというものだった。分野は違うが1981年の『銀行の消え去る日』(松田拓著・現在絶版)も物議をかもした。金融革命の行きつく先を予想して組み立てたものだが、読んだ当時、爺にはよく理解できなかった。憶えているのは、この本のことで筆名に使わせてもらっている銀行出身の故馬場駿氏と言葉を交わしたからである。

 たかが映画と思うなかれ。『デイ・アフター・トモロー』の世界の進行、もしこれを許すならば、消え去るのは「日本の四季」だけではない。
 とてつもなく恐ろしいことだが。

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. 「いのこ」とカラス

 「とにかくビックリして、面白くて、いや違うなぁ、微笑ましくて」。猪の子どもの背中にカラスが乗っかっていたんです。しかも、どっちもムシャムシャ何かを食べていて、近づいている爺にまったく気づかない様子。
 元箱根と湖尻の間の県道を車で走っていたときのこと、午前6時過ぎ、そう、通勤途上で見た光景でした。もっともこの「ふたり」だけではなくて、「猪子」のまわりには数羽のカラスが集まっていて、これまた「食事」に夢中でした。
 爺はやや興奮気味に停車して、常時着けているウエストバッグの中のデジカメを触ったんです。「ユーチューブいけるかも、これ」といった感じで。ところがドジなことに、シートベルトが邪魔になって取り出せません。外せばいいものを、目が珍奇なシーンに釘付けで左手が何とも、もたつくんです。「あーあっ、後続車!」。あいかわらず爺の車を無視し続けている連中にあきれながら、「ったく!」とアクセルを踏みました。真横を通っているのに、びくりともしない猪子とカラス。
「なんだこいつら」

 「後の車はどうしたろう」。カーブを曲がってしまったので、知る由もありません。
 「ウリ坊より成長してたな」
 何だっけなあの童話・・・・。「グリムだ、ブレーメンの音楽隊。ちょっと猪子とカラスの2段じゃさびしいけどね」
 自分の独り言の方がよっぽど「サビシー」と思いますけど。

 突然怒りの矛先が変わりました。ごみを詰めたコンビニ袋を、車の外に丸ごと捨てたやつがいるんです、だから食ってたわけです。「ここ、国立公園だぞ」。そういえば先月、何と国道1号線の「道の駅」の先でも発見した、丸ごとの廃棄ごみ。自分の車の中だけ綺麗ならいいんでしょうかねぇ。
 それにしてもあれほど鳥獣を夢中にさせる食い物は、いったい何だったのでしょうか。
 職場についたら、手当たり次第に話してあげようと思いました。
 信じないかもしれないけれど、驚きの事実なのですから。

 ちょっと「文芸」っぽくしたいので、1句引用をします。
 『猪の寝にゆく方や明の月』(去来)

 6時半近くなので月より「日の出」だったのですけど。
 そういえばこの日、10月9日、払暁5時に伊東を出てすぐに、三日月と金星(明けの明星)の「危険な二人連れ」も観ています(^^♪

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. パソコン前から城ヶ崎

 文芸同人誌『岩漿24号』の編集作業を始めました。
 入力済み原稿については各頁の「版下」に相当するものを創るため、ノンブル(ページ番号)は入れずに「ページ設定」だけを揃えていきます。明らかに作者の「推敲」や「本人校正」が必要と判定した場合は、編集部全員に校正原稿を配布する前に、作者に「版下」を添えて、その旨を伝えています。もちろん返信が「このままでいい」、なら確定です。手書き原稿については、編集部で手分けをして入力となりますが、今回は自由時間が比較的多い私の担当部分を増やす予定です。

 今朝は今号の表紙デザイン・扉カット・目次カットなど、小田原在住の会員で画家のM.K氏の労作を、編集部員が選択しやすいようにファイルしました。次いで、155首の短歌「身辺雑詠」の入力を開始し、3分の1程のところに達したところです。和歌でしかも80歳代の方の作品なので旧仮名遣いが主流、そのまま打つとパソコンがとんでもない変換をするため、思いのほか手こずりました。個人的には、相聞歌に限りますが旧仮名遣いのほうが、和歌が美しく感じられるので好きです。
 ここだけの話ですが、私はブラインドタッチではなく、仮名入力でポチポチと打ち込む、いわゆる「雨だれ」です。職場ではいつも「えーっ!」と仰天されていました。でも、これも内緒ですが、腹の中では「ベラボーめぇ、アルファベットで打ったんじゃー文章感覚が狂うじゃねーか」などと粋がっていました。

 目が疲れたのと、日々の運動は欠かせないのと、で「かみさん」の提案に乗り、またまた城ヶ崎海岸に向かいました。お天気もすこぶる良かったので。
 伊豆高原の「四季の花公園」駐車場からコースに入り、往復2キロ未満ですからハイキングとも言えませんが、台風の影響でしょうか、高らかな潮騒を耳にしながらの散歩はなかなかのものでした。明日は箱根で働く日ですから、ウォーミングアップにもなります。平日なのに、かなりの人とすれ違いましたよ。
 という訳で、写真三枚で締めくくります。「何を?」は今回に限りお許しを。テーマ性皆無です。

   山道

   城ヶ崎の樹の間から

   釣り橋
      台風のせいじゃないと思いますが、3枚ともピントが甘いといいますか、手ぶれしてるといいますか

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. 昭和の爺がたのしむ「絵」とは?

 68歳の爺ですが、この年になっても「絵心」は消えないようです。誰々の長電話につきあっていて、ふと気づくと手元の紙に親父の変顔や比較的可愛い女の子の顔を描いていたという経験はしばしば。絵を鑑賞するのも好きでよく美術館に行きます。アニメやイラスト好きのブロガーを訪問するのも楽しみの一つ。ただ本格的に絵に取り組んだ記憶はないんです。確かに、ひ弱だった小学生の頃は体育の授業に参加できず、いつも「お絵かき」でしたが、これは「取り組んだ」とは言えません。
 絵はいつの間にか「運動コンプレックス」と繋がり、その反動で中学で運動が解禁されるとすぐ柔道部に入っています。こういうところ「変人」です。それでも消防庁主催の六大都市防火ポスターコンクールで特選になったので、絵を密かに「自慢」にはしていました。何か自分の中に持っていないと寂しいですから。あ、「六大都市」という言葉、いまの人たちは知りませんよね。東京・横浜・名古屋・京都・大阪・神戸を指します。
 調子に乗ったわけではありませんが、美術の先生の推薦を受けて商業デザイン科に入ろうとしたことがあります。もっとも軽い赤緑色弱という「欠陥」を面接の先生に突かれて断念しましたが。これがかなりの打撃で、絵を描くことを止めてしまいました。
 話は飛びますが、カシニョールという画家がいます。この人自分のお気に入りの「彼女」を描きまくっているんですが、「赤緑色弱かも」と直感しました。くだんの工業高校の先生も「グラフィックデザインは無理だけど絵はいいんだよ、色弱でも」と言ってましたっけ。何の慰めにもならない台詞でしたが。
 伊豆に来て四半世紀ぶりに絵を描くはめになりました。文芸同人誌の編集を始めたのですが、童話が寄せられてきたのです。風の子「ヒュルルン」のお話でした。挿し絵が無くては寂しいので、ついつい手を出してしまったのです。

    
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          空を飛べるヒュルルン                   ヒロインの美里ちゃん 

  不思議なもので封じたはずの「絵」が私の中で蠢(うごめ)きだしました。とは言っても、あくまでも童画の「仲間」という狭い範囲で、でしたが。

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             田村春「ヒュルルンがとおります」(「岩漿2号」24頁・平成10年)

 同じ誌の4号には『けんちゃんのかさ、みーつけた』という童話が来ました。このときは編集上、物語に添って何枚も挿絵を描くというのは無理だと悟り、タイトル頁だけの挿絵にしました。こんな感じです。

          img0802.jpg

 画像の大きさがまちまちなのは、保存方法が異なるためで、大きさをいじると粒子がラフになってしまいます。なぜか原画が無くなってしまい、カラーではありません。ご容赦・・・。
 時間がいっぱいあるこの齢、自分の愉(たの)しみとして再々度「絵」の復活をと考えていますが予想以上に諸々忙しく、「パソコンで水彩画を描く」というソフトを兄からもらっているのに、なかなか勉強が進みません。
 いろいろ拝見しているブロガーのイラストがプロ並みに綺麗で精緻なので、気後れもします。 昔ながらの、つまり昭和の「絵のたのしみ方」でいいのかなと、そんなふうにも思っています。
 ではおしまいに「もういちまい」。

       img0711.jpg


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. 「繕い裁つ人」

 「この作品、結局中谷美紀一色だよね。ヒロインの市江を観るってことが、そのまま女優としての彼女を診ること。シゲル、それでいい?」
『ああ、ちょっと説明要るけど同感。愛子、コロンビアでよかったよなぁ、コーヒー。あ、DVD、デッキから出しといて』
「うん、わたしお手製のクッキー持ってきてる。でも大したものね、これ16日間で撮った映画だって」
『さすがに下調べしてんな。お金かけなくてもいい映画って創れるってことさ。これ、文化庁の文化芸術振興費って補助金もらってるだろ』
「そうなの、だからかどうか、ギャラ沢山欲しいって俳優さんじゃなくて、作品に惚れたから出たいって感じの脇役陣」
『おっとこぼすなよ。立場はそれぞれだけど、市江の理解者を演じる片桐はいり、中尾ミエ、伊武雅刀、母親役の余貴美子。当たりだよ。一番大事な役の、ブランド化して拡販を勧める若き営業マン藤井も三浦貴大だし』
「あ、最後の言い方、山口百恵さんに失礼」
『あはは、そうか息子は大物じゃないってことになるわな、ヤバイ』
「藤井の車椅子の妹役、黒木華もそういう感覚で出演してくれるタイプでしょ」
『俺はそうだと思うけど、山田洋次監督の【小さなお家】での出来観ててもね。それにしても、なんか俺たち勝手に映画製作費ケチってないか?』
「確かに大きなお世話、してる。クッキーどう? これも予算ケチってるけど(^^♪」 
『いただく。また経費でいくけど、オールロケなんだな、これ。安上がりと早いクランクアップに貢献』
「成功もしてるわ。南洋裁店の建物や内装、素敵だった。玄関や窓からの光がほんとに活きてた。とくに冒頭のシーンなんてもう、ファンタスティックよ。オープンセット造ったら大変だったと思う」
『この作品、人間のというか、人生のというか、光と影が織り込まれていると感じたな。誰一人大声をあげず、しかも全編言葉少な。表面上は起伏もなく、急展開もない。淡々としていて、たぶんレビューなんかでは退屈、駄作なんて言葉が出てきそう』
「金返せとかね。評価は真っ二つじゃないかな、きっと。わたしは名作だと思う。全編人々の善意だらけのように感じるかも知れないけど、市江に対する心遣いの大本に、自分の過去や現在への後悔とか迷いがあるの、そこが重層的」
『ほう、そうきたか。俺は根っこが不純だから、市江と藤井のプラトニックな恋心をずっと追って観てた。いつ抱かれるんだろうってね。そのシチュエーションとか、そのときの台詞とか予想しながら』
「抱かれちゃったらフツーの映画じゃん、恋の成就までがじれったいだけの」
『勘違いするな、無くて正解は俺もだって。ただ賭けてたんだよ。そんなシーンがあったらDVD止めるって』
「あはは、ムキになってる。【繕(つくろ)い】はおばあちゃんの遺志を継ぐ市江。【裁(た)つ】は市江のオリジナルの人生。裁ち鋏(たちばさみ)を市江に手渡そうとしたのが藤井。心でその鋏を受け取って最初に創ったのが、藤井の妹のウエディングドレス。なぁーんにも劇的なシーンが無いんだけど、なんだかとっても市江が羨ましい・・・」
『・・・なに涙ぐんでるんだよ、愛子らしくもない』
「わたしには裁ち鋏ないって、ふっと思っただけ。オリジナルな人生なんてやれない」
『わたしモカってことだから、今度はモカコーヒー淹れてやるよ』
「優しくしないで!」
『ハイハイ、めんどくせーなぁ。たしかに俺んとこには爪切り鋏しか無いよ。だけど愛子、君は市江でも中谷美紀でもないだろー』
「藤井もいないわよ。ハイ、ごめんね。取り乱しちゃった」
『そうそう、そうやって笑顔してろ』
「この映画のコピー思い出しちゃったのよ。肝心な人生を置き去りにしてお仕事に励む方に贈る。わたしにあるのかな、肝心な人生とか、それほどのお仕事とか」
『そういう女性は、出来れば観ない方がいい映画、で締めくくるか』
「自分には無いって気が付きたい人は観てください」
『ああ、そっちへもいけるか。とにかく、【利休にたずねよ】で利休の妻宗恩を演じた中谷美紀に匹敵する出来だった。コメントしろと言われたら、これだな。凛として美しく、己の役割を果たし、それでいながら自分の中にくぐもっている女の部分に、密かに悩んでいる。この女優以外の配役は考えられない』
「まとめたわね、ずいぶん。あ、わたしやっぱり、モカもらう」
『え?』

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. 青春とは無謀と見つけたり

 土曜日の午後、臨時の半日勤務を終えて国道1号線を芦ノ湖畔箱根から箱根峠に向かう途中、6人ぐらいのサイクリストのグループに出遭った。「懐かしいなぁ」が最初の二人を追い抜くときの感慨だった。自転車は高級で、身なりもきちんとしている。背負ったリュックのデザインがまた洒落ている。「お金持ち―ィ」と心の声。とたんにハッとハンドルをセンターライン寄りに切った。カーブを曲がってすぐにサイクリストの背中が目に入ったのだ。「おいおい、たのむよ」と今度は腹からの声。もう少し路肩寄りを走行しないと危ないのだ。この真ん中の二人の前を先頭の二人が走っている。慎重にこれも追い抜く。爺の鼓動は暫くの間落ち着かなかった。

 経験から言うと、キツイ坂を登るときは利き腕の方向へ自然にハンドルが傾く。例えば、右利きの人の利き足は左だが、登坂のときはハンドルを引く力が重要になる。思い出してほしい、競輪の選手は、太い脚は当然ながら腕・肩も盛り上がっていて凄い。ペダルを強く踏むときには同時にハンドルを力いっぱい引いているのだ。しかもこの青年たちは箱根山を登って「1国」の頂点、846メートルの箱根峠を目前にしている。足腰の疲労は頂点に達しているはずだ。爺はセンターライン寄りになってしまった「彼」をマナー違反者とは受け取らなかった。「あの人が一番疲れている」と判定しただけだった。
 本気のサイクリストは、急な坂でも降りて自転車を押したりはしない。停まって休むことはあっても、である。彼らはきっとそうして来たのだろう。プライドのあるサイクリストは路上のルールは守るものだ。
 目的地がどこかは知らないが、「がんばれ!」。

       img062.jpg
          10代の中頃、兄2人と富士箱根伊豆を巡ったときの古い写真

 兄たちに導かれたサイクリングへの道。爺はこの写真のころから魅せられ、10代の後半に入ってから僅かな資金を頼りに、1人で自転車のツーリングに出かける。
 横浜-箱根-三島-豊橋-名古屋-関ケ原-大津-京都-大阪-神戸-小豆島-高松-大歩危-高知。
 このあとは船で大阪、そして電車で横浜。出先でアルバイトが見つかれば、もっと続ける気でいた。いまにして思えば無謀でしかないし、はた迷惑な行動だったたろうと、首をすくめざるを得ない。ただ、これだけは言える。「やって良かった」と。
 「世の中、そんなに甘くはない」、「どこに行っても人がいて、生活をしている」、「ひとりでやれることには限界がある」。
 これらの実体験は、その後の人生の上で、と考えると、重要な収穫だったといえる。

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Author:蛙声爺
文芸同人誌編集をしています。
考えるフクロウが理想。
木内光夫のHPもよろしく。

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