蛙声爺の言葉の楽園

. 難民受け容れの障害となる事件

 連日のテレビ報道を視て「この事件は難民・移民の受け容れをより一層むずかしくするな」と感じた。平穏な地方の地域社会で起きたペルー人男性による邦人6人殺害事件のことである。偶然だろうが、政府はシリア難民の救済のために900億円を超える資金提供を国内外に向け発表した。難民の受け容れについては触れていないという。この凄惨な事件は、政府の金で解決を図る「難民救済の方針」を支持する国民の力を強めることだろう。それでなくとも日本は、他民族の文化をそのまま受け容れる土壌を持っていないのだ。精確な知識でなくて恐縮だが、ものの本に依ると世界には9種類ぐらいの「文化圏」があるらしいが、日本文化は日本1国だけでひとつの文化圏なのだそうな。単一民族、単一言語、単一文化、文盲率の低さ世界一、新旧文化の平和的な混淆、多宗教の共存、アンチ銃社会・・・・。だからこその、稀有な、このある種無防備で平和な社会は、ぜひとも護りたいものだ。
 突然理不尽に奪われた6人の命。この地域では家に鍵など掛けて生活をしていなかったのだ。地元警察も平和に慣れ過ぎて対応が甘かったとは思うが、「相互信頼」をメインにした日本の社会に警鐘を鳴らした事件だと重く受け止めなければならないだろう。それが残念で哀しい。日本のあちこちの地域社会で外扉と心の双方を施錠する音が、絶え間なく聞こえてくる。

 終戦後間もない昭和20年代半ばの日本。横浜市内にあった、廃木材で親父が造ったボロボロの生家。まだ混乱の跡が著しく、駅には白衣の傷痍軍人が立ち、「お乞食さん」が何人も徘徊し、家の裏のアパートでは引揚者のオバサンが大声をあげて鶏の首をひねっていた「時代」。それでも我が家は鍵など掛けなかったし、警戒心もなかったようだ。隣家の夫婦が喧嘩をして、我が家の縁側から玄関に二人して走り抜けていったこともあった。「醤油貸して」「お味噌借りていい?」という隣家との交流もあった。
 もう戻れないのだろうか。貧しくともほんのり、ゆったりして、比較的人を信じあっていたあの頃には。
 そんなことを想った。

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. 先立つものは魔女

 『リンゴとミカンを足すことはできない。貨幣だけがそれを可能にする』。この名言、誰の言葉かは忘れたが若い頃に読んだ分厚い経済学の本からの抜萃だ。「貨幣」とは「金」だ。これを「○○と○○を○○することはできない。金だけがそれを可能にする」 とタイプ化すると面白くも現実的な遊びになる。それぞれ助詞は変更できるとして。たとえば「アメリカは中国を愛することはできない。金だけがそれを可能にする」のように。これ、時事ネタのつもり。
  と、いうことで今回はお金にまつわる自作のエッセイを記したい。

「先立つものは魔女」

たしかサミュエルソンの『経済学』に載っていた。
フイッツジェラルド「ねえ、アーネスト君、金持ちはぼくらとは違うよ」
ヘミングウェイ「知ってるよ、あいつらはぼくらより金持ちなんだ」 
 それ以外何が違うと言うんだ、という意味でうなずいた。
 たぶんキネマ旬報の黒澤明特集号だったと思う。もし世界中のお金が黒澤さんのものだったら何を創りますかと外国人記者に質問されて、黒澤明「映画なんか創らないで、世の中を変えます」。
 これを読んだときは若かったから、うっかり感動してしまった。年配になったいまは自嘲気味にこうつぶやくしかない。
「いまもっている金が俺の世界の全てだ」
 いったい何を書きだしたのかと自分自身、めまいがしてきた。どうやら多少の無理は承知で「金なんか何だ」という結論に向かって走り出したらしい。それならそれで、もう少しの間気取って、いい話を思い出そう。
 これも前記『経済学』だ。もしも「手にとる何もかもが金と銀で作られているなら、粗末なシロメが欲しくなること請け合いだ」
 シロメは銀と鉛の合金で白鑞(びゃくろう)のこと、現代表記では白目とも書く。たしかに目の黒いうちの発想ではない。この話だけでは、金は金の価値だし。むしろグレゴリーペックだったか誰だったか、とにかく映画のラストで吐いた台詞、
「もし地球が金で被われていたら、人々は、一握りの土塊(つちくれ)のために争い、死んでいくに違いない」
 この方がカッコイイし、分りやすい。

 余談だが、おっとこの一文がまるごと余談みたいなものなのだが、それはさておき、金本位制度をカネ本位制度と読み、管理通貨制度をカネがどこぞで管理されて自分のところに回ってこない制度と誤解したのが青春時代。これが誤解ではなく正解だと確信するのに十年とかからなかった。ほとんど姿を見せないでこの理(ことわり)を教えた聖徳太子や福沢諭吉は、まことに尊敬に値する。恋い慕っていると言い換えてもいいくらい。うっかりすると、涙さえこぼしかねない。
 世の中でお金のやりとりぐらい難しいものはない。貸しても借りても、やっても貰っても、援助しても援助されても、である。これには二つの原因がある。一つは誰でもお金は必要だし欲しいということ、もう一つは誰にでもプライドや体面というものがあるということ。大胆に単純化すれば、「勘定と感情」のせめぎ合いということであろうか。

 私事で恐縮だが、お金にまつわる体験談を三つほど披露して、結論を炙(あぶ)り出したい。

 ある勤務先でのこと、あまりに庭が荒れているので雑草を刈り、庭木を素人ながら刈り込んであげたことがある。それを見ていた社長夫人が、あろうことか、二階から汗まみれの私に向かって千円札を投げてよこしたのである。わたしは涙が出るほどに憤(いきどお)り、お金を拾うと二階に駆け上がって「お金が落ちましたよ!」と、馘首(かくしゅ)覚悟の皮肉を言い放った。

 二昔前、文芸雑誌を発行する費用が足りなかったときのことである。或るご婦人が五万円を援助してくれた。問題はそのお金の手渡し方である。私の知人二人と女房が居る席上で、しかもむき出しのお札を畳の上に置いて私に拾わせた(と同じことになる)。私も自分のためだけなら意地でも突き返すところだが、深々と頭を下げ、笑顔を作った(これにより雑誌は発行可能となった)。ただし屈辱感は長く尾を引き、二度と同じ思いはしないと心に決めた。

 独学を重ね食う金にも困っていた若い頃のことである。これもご婦人だが、「独りで頑張っているあなたに対して失礼になることは分っていますが」と当時二た月は食べられるほどのお金を差し出されたことがある。そして「私に返そうなんて思わなくてもいいのよ。あなたに力が付いたら、後からくる誰かさんに返してあげて頂戴」と微笑した。今に至っても貧乏だが、誰かのために動くときに有償無償を問わない姿勢は、このご婦人の、この言動に出会ってから育ったように思う。

 そういえば、某デパートでの「片岡鶴太郎展・蝉時雨」を観ていたら、こんな言葉に出遭った。
「いくらお金を持っていても高い地位にあっても、そして良い環境にいても、人は必ず死ぬ。そこから人生を考えなさい」(チベット84歳の僧侶)
 単純だが、いい教えだと思った。

 (本名で執筆『つみき33号』2004年掲載)

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. 命の保護膜のこの薄さ

 9月25日山梨は朝から雨。里山にある山荘の草刈りの続きが出来ないため、予定を早めて9時半ごろに帰途につくことに。国道20号を下り横浜に帰る姪を韮崎駅前で降ろして、ひとり中央高速に入る。
 若い頃はそれほどでもなかったが、高齢になったいま、雨天の高速道路はどうにも苦手だ。
 最高時速の制限が80キロから50キロに下げられ、道路標識的には安全走行が図られている。だが、これを守っていると後続車から常にお尻を突かれるので、メータ80近くまで出す羽目に陥る。それでもなお、爺の後ろに迫った乗用車や大型トラックが、ウインカーを点けたと同時に車線変更をして追い越していく。「ノロマ、どけっ」とバックミラーから「声」が聞こえてくるようだ。「危機」が去るとまた減速。遵法もさることながら恐怖心から、の方が強い。
 追い越し車線は呆れるほどにフリーウェイで、120キロ以上は確実に出している車が、右のサイドミラーに映り、あっという間に横を通り過ぎていく。
 「こっちは急がねぇんだよ」と爺は、「いのち知らずがぁ!」と腹の中で追い打ちをかけてみる。
 甲府から勝沼に向かう途中だったと思う。
 大型のトラックに挟まれてしまった。降り続く雨。前の車の後輪が巻き上げる微細な水しぶきが目の前に来る。後ろには先を急ぐ仕事車。まさにスピルバーグの『激突』の恐怖そのままだ。胸の中でフッと死を思った。強力なブレーキを備えている「前のトラックが何かの都合で急ブレーキを掛けたらどうなる?」 爺の車の制動装置では絶対間に合わない。愛車はトラックの尻に文字通り減り込み、殆んど100%の確率で爺は死ぬ。この「命の防護膜の薄さ」はどうだ。おそらく1秒とか0.5秒とか、そういう時間とも言えない「時間」で人生が終わる。しかもそれを目の前にしながら、ブラックブラックガムをせわしく噛んでいる自分がいる。この空間の、いや、時の狭間の、「不思議」・・・。 
 確かなのは、ハンドルを握っている掌の湿った感覚だけだ。あきらかに心が震えている、という。

 富士吉田線を走り、篭坂トンネルを抜け御殿場市内へと進む道で、実際の事故車に出遭った。これは記事の途中で創った効果狙いの与太話ではない。横倒しになって腹を、道脇の2台のパトカーに向けている白い自家用車。救急車はすでに行ったのだろうか、姿は無かった。どんな運転をし、何があるとこんなふうに横転するのか。前方を行く車たちの姿が、気のせいか怯えているように見えた。爺はといえば、フーッと大きくため息をついた。

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. わたしも「花」です。トップ未満の素敵さ

 イタリアはルネサンスの頃、いわば時代の寵児だった画家ラファエロの作品を観て、同じ国の同じ時代に生きたコレッジョが「余輩も画家なりき」と言い放ったといいます。「俺だって画家だ」と、レオナルド・ダ・ヴィンチに多大の影響を受けた二人ではないか、「どこが違う」との対抗心が剥きだしになっていて面白いですね。二人とも聖画に代表作が多いのも、それが原因でしょうか。
 陽の当たる華やかな場所に居る人と、その人の陰に勝るとも劣らない活躍をする人がいる「構図」。トップの輝きに自分の健常な目をつぶしてしまう人もいれば、トップを黙々と支えて密かに矜持を誇る人もいます。さらにはトップに怖れられて排斥される人もいるでしょう。人間のそういった緊張関係、力関係の中で結果が良かったのは、トップ未満の人が或る意味でトップより勝れていた場合ではないでしょうか。
 中共創成の毛沢東には首相周恩来、ソニー創始の井深大(まさる)には当時副社長の盛田昭夫、関東管領上杉定正には家宰太田道灌、天下盗り豊臣秀吉には軍師黒田官兵衛、ブラックジャックにはピノコちゃん(おっとこれは別)と、例示にはことかきません。演技でも同じで、若いアイドル主役よりベテランの脇役の方が素敵だったりします。一つ逆に表現してみれば、斬られ役の好演技が主演の侍の殺陣を立派なものにしていることもあるのです。これも示唆に富みますね。
 
 話は飛びますが、今朝は、だいぶ日が高くなってから散歩に出ました。外に出たとたん、どこかで嗅いだことがあるソフトクリームの香り。いえ、違いました。いつの間にやら隣家の金木犀の花が咲いていたのでした。3日前は匂っていませんでしたから、その開花スピードには驚かされました。金がトップなら、銀木犀はこれに劣るのでしょうか。まさか、ですよね、どっちが好きかはあるでしょうが。
 今日は花に見えないけれど、どっこい「私も花です」という野草を探しました。じつはそういう花の方が繁殖力が強いんです。それが長所なのでしょうが、花が綺麗でないばっかりに邪魔にされています。それでも文句ひとつ言いません。心根が素敵です。
 まずこの花に出遭いました。

 私も花1

 ヤブマオという名です。藪真央と漢字を当てたらフィギュアスケートしそう(「嘘!」)。 穂の上の方に雌花、下の方に雄花がつきます。
 本当のところは、朝鮮朝顔、琉球朝顔、酔芙蓉など見栄えのいい花々が目に飛び込んでくるのですが、きょうのテーマは違うんです。ひたすら地味に迫ります。
 秋分の日で祝日ですから、すれ違う人も多いのです。怪しく見えるでしょうね、爺のこと。デジカメの狙いが、いまいち不思議なので。「あ、これもかな」

 私も花2

 風があったので、白がぶれましたかね。それとも日差しが白を輝かせすぎて・・・いや「うでですね、いわゆる後ピンです」。
 名前はこれから調査します。「本人」に聞いても、お地蔵さんに道聞くようなもので無駄でしょうから。もしかしたらですけど、オオイタドリ。
 3つ目でおわりですが、これはきちんと撮りたかったですよ、「絵」になりそうなので。

 私も花3

 でもこの花、2番目のと同じ種類かもしれません。日当たりが違いすぎて花の成熟度がちがうだけとか。(イタドリのような気がするのですが)
 なんにせよ、この野草たちも言うでしょうね、「余輩も花なりき」と。
 トップ未満でも素敵な「人」はたくさんいます。
 きっと「ブログ」もそうなのでは。そんな風に思います。

 はげみになります
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. 何とは無しの敬老の日

 ずっと続いていた日課が狂って、「早朝ブログ」がこのところ消えている。散歩重視のせいで「午後ブログ」が多くなった。今朝も3500歩ほど松川(伊東大川)沿いを散策した。数日前に、彼岸の入りには満開になっているはず、とブログにのせた道端の曼珠沙華は「約束」をしっかり守っていた。

 曼珠沙華

 何か大きな力の存在を感じさせる花だ。「さすが天の使い」

 ススキが急に花を開き始めた。別名尾花の通りで動物のしっぽに似ているが、よく見ると無数の蕊(しべ)が顔を出している。種子とか実とか意識して見たことがないので分らないが、昆虫が尾花にたかっているところを見たことがないので、たぶん虫媒花でなく風媒花なのだろう。いかにも秋の風を友だちにしていそうな風情だし。
 『山は暮て野はたそがれのすすきかな」(蕪村)

 巷では5連休とか9連休とかかまびすしい。その名もシルバーウイークだとか。その中の1日がきょうの「敬老の日」で、なんと国民の祝日だそうな。敬(うやま)われたのでは旅行には出掛けず、家にジッとしているしか手は無い。
 爺の場合、別にひがまなくてもいい。ここはジオパーク伊豆の伊東温泉、過度の列車乗り継ぎも車の渋滞も無関係で、そのまま居るだけで観光地なのだ。「秋の七草」をご存じだろうか。「葛、萩、桔梗、女郎花、尾花、撫子、藤袴」で7つ。このうちキキョウとフジバカマを除けば、家の付近をうろうろするだけでお目にかかれる。流れの絶えない綺麗な川があり、野草が花を競う河畔があり、少し歩けば白い波頭が見える海があり、濃淡の緑が活きる山並がある。有り難くも68歳でこの日を迎えられたのは、この自然環境のお陰といえるのだから。「空気がうまい。それだけでもいい」
 
 例によってパソコンの前に坐って、いろいろと調べ物をしていたら、少しひんやりとした風が流れてきた。タイワンリスの「グオッグオッ」という鳴き声が、それに乗って聞こえてくる。遠くの空は淡いながらもブルー。これらも「老いの日」を感じさせてくれて嬉しい。なによりも難聴の耳にも優しい「静かさ」がいい。あれほど賑やかだった市議立候補者の連呼が無い。今朝来た新聞に当選者の名前が出ていた。爺の投票も活きていて、これもなにより。そういえば、いつの間にか、行く夏を惜しむ蝉の声も絶えている。
 『ことばの歳時記』を読んでいたら、なぜか眠くなった。のどかなものだ。「9連休が何だ」。シニアのブロガーのタイトルをちょっとパクれば、こちらは「365連休なんだぞ、いいだろ」。

 郵便受けからかみさんが封書を持ってきた。短文のコンクールで佳作になったとの、正式な知らせだった。自分の文章が初めてお金につながった。きわめて世俗的だが、そのことに、感慨はひとしおだった。

 午後3時過ぎになってから近くの「立ち寄り湯」に出かけた。もちろん温泉である。
 市民割引で500円を払い、フェイスタオルをお礼に100円で買って入場する。なぜお礼になるかはタオルの仕入れ原価にかかるので、「お口にチャックだ」。広い内湯で温まってから、空が真上に見える完全野天風呂に移る。4人の男性が半ばぷかぷか浮いて寛いでいた。誰もしゃべらない。ここもひたすら静かだった。あがるときにすれ違った4歳ぐらいの男の子とパパ。
 「小さい子は可愛くていい。これから大きくなるのだから」
 爺は? 「聞くかなぁ、それを」。
 帰途、図書館の敷地内に群れていたヒガンバナ。斜めに花を見上げる形になったので、天に向かっている炎のようだった。

 夕食後、カマンベールチーズをつまみに、小さめの缶ビールでかみさんと乾杯。何の祝いかって? 「敬老の日」。
 虫よけの網戸の向こうから、秋の虫たちの協奏が聴こえてきた。
 山本健吉の本によれば『セミは虫の声楽家、スズムシやマツムシは虫の提琴家』だとのこと。

 いい一日だった。
  
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. 映画放談「天空の蜂」

 「愛子が、毎回英子と観てきた話するの大変だから、1回替わってって頼んできたから、お前さそって男同士の映画になったんだけど、アベどう? きょうの天空の蜂」
『まてよシゲル、お前英子の彼じゃなかったの』
「ああ、たのしいよあの子も、可愛いし。だけどちょっと食い足りないんだ」
『恐れ入りました。・・・良かったんじゃない、川内原発再稼働とかテロも念頭に置いた安保法案の国会通過とか、偶然にしろアンチも観たくなるタイミングでの上映だし。そんな物騒な応援射撃無くても、原作東野圭吾ってだけでも観に行くさ、ファンならみんな』
「おい、配給会社のコメント聞いてるんじゃないんだけど」
『俺は原発推進賛成派じゃないけど、この映画、原発のメリットについては口をつぐんでいるよね。社会派ドラマとして捉えた場合、隣で上映してた作品名じゃないけどアンフエアな感じがしたなぁ。ま、2時間ちょっとじゃ無理か、それは』
「うーん、そうきたか。原発不要論ないし反対派に寄りすぎてたってことか。お前、原発要るって思ってる? 3.11以後次々に安全性再検討に入って何年もの間、全部停止してたという事実を踏まえてさ。つまりこの映画の犯人の要求通りの結果になってたわけじゃん」
『リスクを考えると要らない、かな。再生可能エネルギーでいいわけだし。足りてた証拠には、震災直後をのぞけば電力使用制限も無かったし。火力、水力、風力、地熱、潮力、日本人ならそういうのをみんな総動員してやれると思うし』
「オレさあ、3.11や福島原発を経験しているのに何で原発再開にこだわるのか、経済面じゃなくてとくに政治面で考えてみたんだよ」
『へーえ、お前らしいな、御苦労さま。で、何かでたの』
「うん、唐突なのが一つ。日本が核兵器保持を必要とする危機状態への備えかなぁとか」
『はあぁ、どういうこと。解かんねー』
「数十億もするジェット戦闘機とパイロットのどっちを救うかの二者択一のときにね、現在でもパイロットにすぐに飛びだせ、つまり落下傘で命を護れの指示、だってことさ。戦闘能力と操縦技術にたけたパイロットはそうざらには居ないそうだから、金には換えられないんだ」
『だから?』
「原発の全廃は、核関連人材の喪失につながる。そんなことなのかもって。現実に核を持っていなくても、その潜在的な製造・管理能力そのものが戦争抑止力になるという・・・実際いまも隣国には、日本は短期間で核武装可能な国という実力評価をいただいているらしいよ、どこかで読んだ。もっとも実験できないからそうはならないだろうけど」
『どうもお前は話が飛ぶなぁ、天空の蜂だから飛んでいいのか、ははは。米国の核の傘だけで十分だよ、第一米国が許すもんか日本独自に核兵器を造るなんて、そんなこと』
「たしかにそうだ、国民も許さないしね、杞憂、杞憂。とにかく、天空の蜂みたいにある種危険な話を映画にして公開できる。日本はいい国だなってことだな」
『江口洋介扮するビッグBの開発責任者湯原の息子がヘリの中に閉じ込められたけど、本当は湯原の同僚の子が、だったらしいね。つまり脚本で変更された』
「だとしたら、元の方がよかったと思う。湯原の真の人間性を引き出すために。ちょうど映画天国と地獄の製靴会社の重役、権藤さんみたいにね。自分の子だから必死に助ける、ではインパクトが弱い」
『たぶん2時間強で納めるために、あれもこれもって複雑にできなかったんだろうなぁ」
「ああ、それはあるよ。500頁もある原作をだろ、敢闘賞ものだよ、若干不満はあるけど」
『シナリオに? 聞きたいな』
「もう少し台詞を抑制的にしてほしかった。つまり役者の演技力を、ライターがもう少し信じてもよかったと思う。映画は映像が台詞の何倍もの力で、語っているんだから。そうそう、音楽もだったな。やたらとバックに流していて、いい加減にしろよとか、考えて音楽を使ってよとか、だいぶ心中おだやかじゃなかった」
『むずかしい男だなぁお前は。迫力あったと思うけどな、俺は』
「ほんとうの迫力は、台詞の量とか、音量で出すもんじゃないよね」
『あ、ハイハイ。じゃ、話題を変えよう。誰が役者として印象に残った? 俺、原子力技術者三島役の本木雅弘』
「だろうな」
『何その若干見下した言い方』
「おこるな、人気投票的には絶対そうかなって意味だよ。オレは犯人の中の一人雑賀役の綾野剛。それと出番も台詞も少ないけど、三島に惚れた事務員仲間由紀恵。色っぽかったなぁ」
『そっちかよ、この女好き。綾野剛はあの風貌だけで、台詞ゼロだったとしてもはまってたねー、ダントツ』
「そうかぁ、アベも江口洋介は挙げないか」
『ガンバッテはいたけど、ダメじゃないけど、脇役勢が渋くて、役柄もぴったりで、だから印象が今一つなんだよね』
「國村隼と柄本明、よかったねぇ、特に、だけど」
『きょうは何かお前司会者みたいで、多くを語ってないな、珍しいじゃん』
「うん、深みはあるけどアクション映画には違いないから、そのまま楽しめばいいと思う。帰りにこんな風にちょっと原発のこと、一緒に観た人と話したりするだけでも十分意味はあるし」
『お、まとめちゃったよ。じゃ最後に天空の蜂の総合評価を、なんちゃって』
「まちがいなく今年の邦画のトップクラスに位置すると思うな。今日のお客さん、エンドロールになっても誰一人席を立たなかった。この事実だけで、この映画が、いい意味での衝撃作だと分る」
『俺、はやくトイレに駆け込みたかったんだけど。たしかに、立てなかった』
「ところで、そろそろ運転代わろうか」
『いいよ、いいよ、ファミレスでめしおごってくれれば🎶♬』

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. 突然の虹は同人誌24号の吉兆か

 箱根のバイト先からの帰途、伊豆スカイラインを南へ下っていたところ、目の前の空に突然現れた大きな虹。実際には七色の輪の右下の部分だけだったのですが、その異様なまでの極彩色は私を興奮させるに十分でした。時刻はすでに午後5時半過ぎ、空の大部分を覆っている薄墨色の雲も手伝って、急速に暗くなっていきます。まさに『秋の日は釣瓶(つるべ)落とし』で、私はあせりました。カーブをきるたびに右に左に移動する虹。デジカメで撮りたいと思ったのですが、展望が利く場所が見つからないのです。
 やっとそれなりの場所に車を停めたとき虹は、かなり色あせていました。雌雄の虫が相重なる形だとして虫に工で「虹」になったといいますが、消え去る寸前のそれは空にまっすぐ立っている虫でした。

  突然の虹

 昨夜、岩漿文学会の同人誌『岩漿24号』(創刊20周年記念号)の原稿受付を開始した旨を、執筆会員諸氏にメール連絡しました。すでに表紙デザインやカットは、小田原の画家М.K氏から届いていますし、80歳を超えている婦人会員K.Z氏からは今号最初の作品原稿として、短歌100首以上が届いています。なんとも勝手な解釈ですが、この虹、なぜか今号充実の「吉兆」のように想えるのです。
 それにしても、虹が遠くて小さいのが惜しいですねえ。肉眼では、もっとずっと大きかったのですが。

 同人誌『岩漿』をまだご存じない方は、私のホームページをぜひご覧ください。
 ちなみに蛙声も馬場駿も高島京も木内も同一人です。「ひとりで4つも名前を使っているなんて」と叱られそうですが、執筆のTPOで何となく、こうなってしまいました。

  →  蛙声爺と同人誌岩漿

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. 懐かしむだけならいいかも

 若いころ、20代でしたかね、勘違いをして歌詞の公募に応じようとしたことがあります。どちらかというと「言葉遊び」みたいなもので、口にアーモンドチョコか何かを放り込んで腹這いになり、こちょこちょっと書いた感じでした。いま眺めてみて、応募しないで良かったと、今更ながらに胸をなでおろしています。少し黄ばんだ紙から、懐かしさだけが香りとなってこちらへ流れてきました。
 爺の「詩人気取り」のカテゴリはみんな似た様なものですが。・・・さすがにいまは、恥ずかしいので創りません。若い頃の、ということで許されているだけですから。
 メリットはありました。ふだん何気なく聞いている歌謡曲ですが、作詞って「けっこう大変なんだな」と気づいたこと。作詩とも違うんですものね。それにしても3番の「赤電話」は、笑いました。「昭和」を感じます。

 
 「ダ・カーポ」(da capo)

 見えない あなたがいない
 隠れた こころはどこに
 まさぐる 愛の手ざわりで
 きょうも涙のまどろみに
   ダ・カーポ 初めに戻って
   木漏れ日 出遭いのときめき
   ほとばしるながれのままに
   くちづけ 潮騒の声

 解けない あなたの糸が
 いつまで ひとりの朝を
 帰って 愛のいら立ちに
 いまもこころはすりガラス
   ダ・カーポ あの日に戻して
   めくるめく 白夜のひととき
   降りしきる美雪に二人
   寄り添い 永遠への誓い

 行けない あなたのもとへ
 わたしから 戻ればいいの
 ちっぽけね 愛のつまずきに
 すぐにためらう赤電話
   フイーネ きっともう終わりね
   哀しみに いのちのざわめき
   濃い色のよそおい避けて
   ほおづえ 窓辺に小鳥

 
 お疲れさまでした。これに懲りずにお訪ねください。

 P.S.  そうそう昨日、伊東市議会議員選挙の期日前投票をしてきました。愛車のデミオですが、投票のあとで、タイヤ1、ホイール1、ホイールキャップ1、パワーウインドースイッチシステム一式の交換作業に入りました。エンジン・架台間の緩衝部品の交換とやらも加わっています。引き取りは、本日のお昼です。ちなみに交通事故を起こしたわけではありません。ツキが無いくらい、諸々重なっただけです(トホホです)。
 現実の厳しさを記さないと、記事から日常に戻れない気がしましたので、追記しました。 

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. 伝統的な「和」の後継者は外国人?

 最近とみに日本人、日本国、日本文化の素晴らしさを「語る」テレビ番組が増えた。爺も大好きで良く視ているのだが、この頃は「心配」の方が勝ってきて困っている。このままでは和の伝統技術は、ほとんど外国人に持っていかれるのではないかということだ。鎖国が終わり、西洋のものは全て優れているから日本のものは要らないと、浮世絵など現在なら「国宝」級の美術品が、ノーチェックで国外に流出したあの時代に似てはいないかという不安だ。また当時、日本の芸術品の価値を真摯に評価し、これを世界に紹介したのも、多くは外国人だった。この点も酷似している。

 前記の番組で知れただけでも、庖丁の鍛造(たんぞう)、刀鍛冶、和の染色、和紙の漉(す)き、盆栽、和の焼き物、日本庭園、石工(いしく)・銅工(どうこ)・大工(だいく)、家具製造の各技術など枚挙にいとまがない。それも興味本位ではなく、学を置き、本職を捨て、国を離れて本気で「修行」しているのである。それだけ日本の美に強く憧れたということだろう。こういう外国人を自らの後継者として認めている親方も多いそうだ。
 一方、高卒者の半分以上が大学に進学する日本は、若年の頃から徒弟制度の中に入るなどという選択肢を、殆んど考えていない。仕事としても「きつい・危険・汚い」という3Kはもとより避けられ、ましてや「厳しさ」を伴う徒弟制度など選ぶ者はほとんどいないようだ。先が見えないという職業的な不安定さもネックと考えられるが、いずれにせよ、高齢の熟練技術者が激減した後の「和」の匠(たくみ)不足は目に見えている。

 国宝、文化財の木造建築物、神社仏閣の修繕も心配だ。つまり「宮大工」の行く末である。25年ほど前の話で恐縮だが、リゾートホテルに「古代檜(ひのき)」で大浴槽を造ることが流行った。商品名であって当然ながら本当の「古代の木材」を使ったものではない。多くはほとんど節(ふし)というものが無い米檜(べいひ)などが使われていた由だが、ここで驚いたのは釘をはじめ金属を一切使わないで浴槽を組み立てる、魔法のような技術だった。浴槽水の漏れなどは一切無い。さらには檜の表面が劣化したら解体して削り、再組み立ても可能だと言われていた。その作業員の一人に話を聞くことが出来た。
「宮大工だったんだよ、俺たちは。いまどきそう仕事はないからねぇ」
 何と、彼らは生活のために、その持てる技術を風呂造りに使っていたのだ。誤解しないでほしい。それを批判しようと言うのではなく、技術を惜しむのだ。たしかに本来の仕事が少なくなれば、先々も危うく、後継者も何もない。

 「言うだけなら大阪の城も建つ」から言わせてもらうが、日本政府直系で「国立文化財監理院」のようなものを創り、日本の伝統技術者を保護育成して、少なくとも指導者、各種熟練技術者を末永く確保すべきではないだろうか。
 いつの間にか「与太話」のように膨れたが、こころからそう想う。

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. 変われるって、ドキドキしませんか?

 お馴染みたけしのテレビコマーシャルからタイトルを頂戴して、当世ぼやき節の開演である。
 たけしの名が出ればタモリも必須だろう。ご存じ1242ニッポン放送の番組で、コンビニやスーパーのレジ嬢の言葉が変だと、オモシロオカシク憤慨していた。「1万円からお預かりします」の「から」は何だというのである。お嬢さん(多くの場合おばさん)、あなたにお金を預けたのは俺であって、お札は人間じゃない。それとも俺の名前は「1万円」か、という論法だ。常日頃から不審に思い買物をする先々で同様の対応を確認していた私は、思わずハンドルを叩いて狂喜した。変に感じている自分が変なのかと、自信を無くしていた矢先でもある。大勢が間違えればそれも正解? いくら言葉は生き物といっても限度はあるはずだ。
 
  ついでだからこれも言ってしまおう。コンビニさん、弁当を買った時の「あたためしますか?」はやめてほしい。何語なの? 私は頭の中でこう言う。「し、いらない」と。しかし相手は「便利な店」と自ら名乗る厚かましい所、現実に私の口をついて出てくるのは、情けないことに「いいですよ、そのままで」。いいわけネーダロ。「違います?」

 言い出したら止まらないのがこの手の愚痴。この前病院ドラマを視ていたら、医師役の若手歌手が、口の中の物をの飲み下すという意味で、「えんげ」と言ったので、「ええっ、いつから?」と辞書に飛びついた。こういうところ、かみさんに言わせるとフツーじゃないんだそうで。とにかく私はずっと「嚥下(えんか)」と信じてきたので仰天したのだ。最近の、厚さ10センチはあろうかという辞書を引くと、本来扱いで[えんか]、それと同等扱いで[えんげ]とあった。しかし時事通信社刊、老舗の『家庭の医学』では後者が正で、嚥下性肺炎、嚥下障害などすべて[えんげ]と読ませている。うーんと、立ち往生状態の私は、救いを求めて、辞書の旅に出た。 

 まず「初孫」。これはもともと[ういまご]だったはずだ。しかしいまは、辞書的にはどちらでも可だ。マスコミは言うまでもなく[はつまご]の独壇場。それならばと「初産(ういざん)」を確認すると、これまた[はつざん][しょざん]でも可、なのである。こだわった私は[はつ]に犯されていない言葉をあさった。あった、「初陣(ういじん)」、「初事(ういごと=初潮)」「初冠(ういこうぶり)。…結果は古い言葉だけだった。そういえば『初孫(はつまご)』という日本酒もあったわ、な。

 しつこい私は、最後の砦たる法律用語を自説の裏付けにと頑張る。これもテレビで恐縮だが、ローン物件たる自宅を裁判所により競売にかけられている婦人が街頭に立ち、「どうか競売(けいばい)をやめさせてください」とビラを配っていると、アナウンサーが再三再四[きょうばい]と言い換えて、画面に解説をかぶせていた。これは逆である。素人は[きょうばい]と言い、プロは正しく[けいばい]と言う。最近のテレビ関係者が日本語にかなり無頓着なのは周知の事実だが、なんとも腹が立ったのでまた辞書に向かった。「いったいどうなってるんだ」と。ここでも私は事実上の敗北だった。辞書に曰く『法律で競売(きょうばい)のこと』。現代国語では読みが[きょうばい]であることを前提にしている。昭和54年に「競売法(けいばいほう)」が廃止され、民事執行法に吸収されたのが遠因かなどと、ブツクサ言って、自分を慰めてみた。そのうち「相殺(そうさい)も[そうさつ]で可になり、意味も殺しあうことに統一されるに違いない。うっかり債権債務の当事者なんぞになれない時代だ。いっそこっちの方が、迫真の読み方かもしれない。

 漢字でうまくいかないから、という訳ではないと、あらかじめお断りしておいて、次に進む。もっとも何のため? と問われると、笑って頭を掻くしかないのだが。
 最近になってAD+CD=ATMであることを知った。代数の問題ではない。現金自動預入機と現金自動支払機が一体化すると、現金自動預入支払機という図式である。ここで腹が立つのはアルファベット略語の氾濫ということだ。
 この前も大恥をかいた。看板に『PC&AV』とあったのでいたく感銘を受け、「ADULTVIDEOも市民権を得たんだぁ」と口走ったところ、AUDIO&VISUALの間違いだった。前後に文章が付いていれば、こうした勘違いはない。しかし機械や商品の名前、看板などに略語をそのままでというのは困る。第一「知っているはずだ、知らないあなたが可笑しい」と言わんばかりの「態度」が気に入らない、何となく。
 いささか文字に敏感な私らでも、辞書-事典の類をリュックに背負って街中を歩くわけではない。ましてや、と思うのだが、世間の人は違うのか。(なんと昨今の電子辞書は、このくされ文句までも木っ端微塵にしてしまった)。あーあ。

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. 塩漬けの株は食えませんね

 じつはきょう、体調がいまいちだったので、更新無しにしようと思っていました。朝は朝でタイヤがパンクしちゃうし、ホイールも凸凹だし。ひたすら午前10時を待って、天下の伊東MAZDAさんちに歩いて行ったものです、「なんとかきょう中に直してくれませんか」と。帰ってから何気なくブログチェックをしていたら、訪問者の方のハンドルネームが6つ並んでいたので、「やっぱりなんか書こう」と気持ちを立て直したしだいです。それでも何やかやと用事をこなしていたら「こんな時間!」。

 本日の「落伍者?」の「まくら」はこのくらいにして、演目のお噺(はなし)に入りますね。ちょうどきのうで株式の「勉強」を始めて1年になります。「取引」なんていえる金額じゃありませんので「勉強」。全財産を注ぎ込んで背水の陣、なんて人がネット上にたくさんいますが、自信家ですねぇ、羨ましい。私は「小心者」ですからせいぜい5分の1程度。それも、現在12銘柄のみで全部低位株、しかも最小取引単位の100株ずつ。もともとボケ防止が動機ですから、慣れるのを目標に気楽にやってたんです。それが『会社四季報』を見、日経新聞を読み、ネットで政治経済社会の動きと株価の変動を関連付けて考えているうちに、その「奥深さ」に背骨が真っ直ぐに。
 「こりゃ、生易しいもんじゃねえや」と、半ばビビった次第です。それでも何とか食らいついて、やっと業績の良さで買い揃えて、「さ、これから勝負!」と構えたところへ、「ギリシャ問題」が暴発しました。日本株の底力を信じて微動だにしない、と決め込んだんですが、ハイ、中国株大暴落ですよ次に来たのは。1回目の暴落は沈着冷静。2回目、3回目あたりの反落から、まったく動きが分らなくなったんです、参りました。会社の好業績には関係なく日本の殆んどの銘柄が、諸外国の下げ相場に引っ張られて株価が下がっていくんですから。少し反発すると、すぐまた下がるの繰り返し。
 ただ、ご存じのように下がっても売らなければ「含み損」にとどまり、損失は現実化しません。約1か月売買の一切を停止して、ただ株価変動を記録し続けたものです。「日本株は絶対に強いはずだ」が、その我慢の支えでした。予想では、安定するまで今年いっぱいかかりそうです。
 それでも日本の投資家はきっと、日本株を信じていますよ。これも素人診断ですけど。

 素人が困惑している日本株価の乱高下ですが、プロにとってはこういう荒れた相場の方が「面白いほど儲かる」のだとか。カラで高値で売っておき、株価が下がったところで買うと、その差額に株数を掛けた金額が儲け、だというのです。ちなみに1株200円の低位株を100株持っていて10円株価が上がると1000円の儲けだけですが(実際は税とか手数料が控除材料としてあります)、これが100万株持っていたら、2億円の投資となり、株価が210円になれば利益確定して1000万円です。1秒1クリックで、です。これって、本来の株式の意義や目的とまったく離れているとは思いませんか。爺は昔、不動産会社で1取引1000万円の利益を出すのに1か月もかかりましたよ。投機目的も元よりあるに決まっていますが、実際は持ち株数も株価も単位はもっと大きいはずですから、結果として単なる「マネーゲーム」に見えてきます。
 資料あさりで最近「兆」とか「億」ばかり目にしているので、現実の生活「世界」が「ミクロの決死圏」的になってきました。
 
 きのうの日経新聞1面にこんな記事が出ていました。『日本株売買シェア外国人7割超』と。本来的には外国人株主は日本株の3割程度の保有だと言われています。『売買シェアが大きいのはコンピューターで高速、高頻度に取引する海外勢が増えたため』だとか。こんな状況を見ていると、アベノミクスが「株価上昇」を経済成長の特効薬としてきた意味さえ疑いたくなります。
 一部の高額投資家と外国ファンドが富を拡大し、汗水たらして働く国民が窮民化していく経済政策って何なのでしょうね。
 ボケ防止どころか、ボケが増しそうな気配になってきました。
 きょうは、文体のせいもありますが調子が出ません。きょうもが、適切かな…。
 「さて、車引き取りに行こうっと」

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. 彼岸花は天からのメッセージ

 道路脇の何ということもない片隅に、数日前までは居なかった筈のヒガンバナが蕾をつけて佇(たたず)んでいた。

 ヒガンバナ

  ヒガンバナは彼岸花と書き、曼珠沙華(まんじゅしゃげ)ともいう。「この花は不思議だ」と子どもの頃から思っていた。カレンダーも寒暖計も持っていないのに、なぜ毎年お彼岸の頃にサッと出てこられるのか。さらに大人になって付け加えている。俳句の季語は秋だが、当然「歳時記」だって読んでいないだろうと。「誰」が出番を教えているか。もう一つ、いつも茎と花だけで葉っぱが無い。毎年出てくるには蓄えた養分が必要なはずだ。葉が無くては光合成ができないではないか。さりとて、ナンバンギセルのような寄生植物ではない。そう、なにかこう、神秘的というか、黒魔術的というか……草刈りでも彼岸花だけはそのままにしておくのは、なんとなく「畏(おそ)れ」を感じるからだった。

 大袈裟な話だが、今回、ようやく本来の調査癖に火をつけて「謎」に挑んだ。
 「彼岸」は文字通り「かなたの岸」だ。では何の彼方なのか。仏教は言う。「煩悩(ぼんのう)の激流、煩悩の海」、つまりこちらがわの「此岸(しがん)」から見た彼方だという。「輪廻(りんね)を超えた涅槃(ねはん)の境地」(『岩波仏教辞典』)をいうのだそうな。余計に難しくなってしまうので、ザックリ国語辞典的にまとめると、「生き死にの迷いの世界から見た対岸の悟りの世界」が「彼岸」になるらしい。日本でのお彼岸は、3月の春分の日と、9月の秋分の日を中日(ちゅうにち)として各々前後3日を併せている。「彼岸会」は遠く聖徳太子の頃からあったというが、年中行事になったのは江戸時代だという。
 
 話を花に戻そう。別名「曼珠沙華」はもともと梵語(ぼんご=サンスクリット)で「マンジュシャカ」、漢語訳では、花の外形からか「円華」、色の方からか「赤団華」となっている。爺は、「柔軟花」とも訳されることもあることから「まどかのはな」と解し、「円華」が好もしいと感じる。前記仏教辞典によれば、この花は釈迦が法華経を説かれる際の瑞兆(ずいちょう)としての天からの使いであり、見る者の心をやわらげる」ものだとされている。なるほど、である。だから、摩訶不思議な出現の仕方が可能なのだ。やはり彼岸花はただものではない。

 もう一つの謎は、爺が知らなかったというだけだった。花の時には葉っぱは無いが、花が消失したあと、晩秋に水仙の葉を細くしたような葉っぱが出て越冬し、春に枯れるという。しかしこれもまた、普通の花々とは異質なもので、やはりミステリアスである。さらに興味深いのは、この花、地下の鱗茎にリコリンという毒を蓄えている有毒植物だということ。日本の別名「しびとばな」は、あまりにもストレートに怖さを教える。お墓に似合う野草だからか。
 知れば知るほど、摘んだり切ったり、機械で刈ったりは、したくなくなる。
 仏の露払い的な「お使い」だからこそ、期日に遅れないようにきちっと現れ、彼岸には必ず開花するのだろう。
 きょう写真に撮ったこの花も、9月19日までには見事に咲き誇っているに違いない。
 そうそう、もし他の時季にヒガンバナの姿に接したいのなら、そっくりな花がある。花屋にたずねられたい、「洋花でネリネという花は無いか」と。きっと、同じ仲間だと思う。
 この花を見て墓参りを思い出す人、意外に多いのでは。とりあえず、合掌。

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. 「わが愛の譜(うた)」プラトニックの凄さ

 「この映画、ほんとの主役は中野ユキだったね、鷲尾いさ子。こら、ひとの家に来て何食ってんだ? 英子」
『映画にはポップコーンでしょ、定番。でもサブタイトル滝廉太郎物語ってなってたよ』
「1人で食うなよ、分けようって気にならない? フツー。あ、普通ね、最初にスクリーンに現れてラストにも居るって役が主役なの」
『ふーん、じゃ何で最初から中野ユキ物語にしないの、変じゃん』
「誰も知らないだろーそんな人。わかった、例を二つ挙げてやろう。どっちもDVDを二人で観てるからね。まず[アマデウス]ね、天才モーツァルトをメインにしながら実は、彼に嫉妬する宮廷作曲家サリエリが描きたかったの。二つ目が[敬愛なるベートーヴェン]、ここでも天才作曲家を扱いながらその実、清純な写譜役つまり女性コピストのアンナ・ホルツを描きたかったの。ま、映画作家のこだわりってとこかな。人間として、ドラマとして、面白いのは脇に居る人なのよ。アカデミー賞主演男優賞はサリエリ役の役者エイブラハムだったでしょ」
『日本アカデミー賞でこの映画、主演男優賞は滝廉太郎役の風間トオルだったもんね』
「あれ、20年も前の受賞、よく憶えていたね、見直したぁ」
『愛子だけが映画ファンだと思うな。ま、たまたま知ってただけー』
「たしかにこの映画、11部門で受賞してたね。たしかに名作だわな、きょう再会した感じでも」
『もういいわ。愛子、食べる?』
「こねやろ、…。恋心が行違うというか、交差するというか、けっこうきめ細かいのよ、この澤田信一郎って監督。廉太郎とユキのほかにも、廉太郎と藤谷美紀演じる貧しい家の娘芙美、天宮良好演の学友鈴木と浅野ゆう子がはまり役のおとなの女美佐子の関係、とにかく心の絡みが良かった」
『この監督のWの悲劇は、見た』
「おー、来るなぁ、きょうは。監督だけじゃないぞこのプラトニックラブ映画は。撮影が木村大作、音楽が佐藤勝。どこか黒澤映画を感じるんだよねー、色彩も衣裳も、重厚さっていうのかな」
『うっとりするなら、鷲尾いさ子の衣裳だよ、スタイルはモデルなんだからもちろんだけど』
「そうそう、棒読みっぽいセリフも、所作がぎこちなくて女!を感じさせないところも、かえって明治時代後期の上流社会のお嬢様感が出てて、雰囲気あったしねー。滝廉太郎の棒読み感は「性格」を引き出してたのか、ちょっと違うけど。どっちにしろ演技力旺盛な役者さんでは、この二人の童貞処女感は出ないわなぁ」
『何それ、あははは、そこに行くかぁフツー。でも、あんなに男と女が近距離でいてセックス無しってありかなぁ』
「ああ、あのドイツの館で、二人でコンクール用のピアノを特訓するシーンね。これまた練習している曲目がピアノソナタ熱情だもんね。でも、あるよ。もし二人がプラトニックじゃなかったら、あの情熱的なレッスンそのものが生まれないと思う。沸騰する恋心を抑え込んでいるからこそ、出るエネルギーなんだ」
『ふーん、実体験ありそう』
「あるか、バカ。…ざんねんだけど」
『あ、血っていえばさあ、ユキがベッドで待っている感じのあのシーンでね、廉太郎がトイレで吐く血が嫌だった』
「その君の血の連想すこしヤバイ。ま、それはともかく、さんざん監督褒めてたのに何だけど、わたしもあれは血、出しすぎだと思った。絵的に汚いだけじゃなくて、あれだけ喀血したら普通歩いて帰れないもの。もっと言っちゃうと、洗面器の中ぐらいなら水に流して後始末も要らなくなるけど、床まで血だらけにしたら、家人や使用人にあとで事件として把握されてしまうって。ユキはほとんど最後の方まで廉太郎が突然帰ってしまった理由が解からないっていう、ドラマ設定なので、無理、不自然」
『やっぱ、オタクだわ愛子って。それにしても、吐く血ってあんなに赤いの?』
「肺からの喀血はね。胃からの吐血はもっとどす黒い感じ。廉太郎は胸の、当時としては不治の病なので真っ赤なのよ」
『一つ聞いていい? 東京音楽学校ってどこのこと」
「いまの東京芸術大学、芸大よ。入学した明治28年以降で廉太郎が23歳で亡くなるまでの時代背景だから、それはもう大学生なんて数えるほどしかって感じよ。特に女学生なんていったら特別な人種でしょ。だから二人ともかなりのお宅の御子息、御令嬢。廉太郎が革新的な唱歌運動をきっかけに創った曲の詩も、[荒城の月」が土井晩翠(つちい・ばんすい)、[花]が武島又次郎、[箱根八里]が鳥居忱(とりい・まこと)ってぐわいに皆んな学者レベルのインテリなのよ。その同じ環境の中にいるのが、映画でも登場したわよね、有名な文人の幸田露伴とか島崎藤村。ヒロインのユキは幸田露伴の一族なの」
『はーっ、恐れ入りました。それなら処女だ。プラトニック万歳』
「またそこへ行くか、君は。ところでもっとないの? ポップコーン」
『ていうか、フツー出すよね、お客さんが自宅に来たらお茶とかコーヒーとか』
「あ、ごめん。おねがい、キッチンにある」
『昔処女、今は侍女。わかんねーだろうなぁ。じゃカップ借りるかんね』

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. こころ豊かに創る「老い」

 先日「ブログ村」からOUTして初めてお訪ねしたご婦人のブログで、「やっと食べていけるような生活の中でも心豊かに何かを創りだす、そんな人の作品が大好き」という言葉に接しました。常日頃からの自説に援護射撃を戴いた感じがして大いに喜んだものです。もう広義の欲や怨念で生きる齢ではないし、そんな熾烈な世界で争闘する体力もありません。
 で、「心豊かに」ってどういうことかと沈思黙考したのです。結論は、自分の愉(たの)しみでもありながら、それが何らかの形で人様の役に立つ「自分の世界」、ということに落ち着きました。もちろんちっぽけな定義で、異論がある方も多いでしょうけれど。
 とりあえずシニアに限定しますが、ブログの世界を、こういう「心豊かに」もあるよと発表する場として捉(とら)えると、特別の意義が生まれてくるかもしれません。

 1枚の写真をご覧にいれます。中学の同窓生だったK君の奥さんの作品です。もちろん有償で譲ることもあり、私もフリーマーケットで購入しました。ところがお話を伺うと、作品のほとんどを各種「施設に寄贈しているの」だとか。ちなみに複数求めたこの作品の一つを知人に分けたところ、行きつけの居酒屋の女将にねだられ、結局とられてしまったとか。
 思わず微笑んでしまいました。

  布地の目指し

 デジカメ撮影にあたり、布地のイワシ君の目玉を揃えようと思っていたのですが、右端の一尾がシャイなのか少し脇を向いてしまいました。「めざした」とおりにいかなかったという「落ち」です。こんなオシャレなメザシが居酒屋にあったら、「皆さん食べます?」
 私が一番「驚いた」のは、K君が奥さんの趣味に協力すべく、行く先々で「和の布きれ」を譲ってもらっているというエピソードでした。中学時代の彼からは想像もできないことだったからです。
 その彼もまた、天然の竹を伐り、根気よく乾燥させ、長目の靴ベラとして削り、何回も塗りを繰り返して、見事な作品にしていました。寄贈が主目的なのは、奥さんと同じで、その創作動機が泣かせます。「年をとると靴を履くときにしゃがむの、キツイじゃん」。
 彼はまだ、現役の社長として作業現場で汗を流しているそうな。

 「年をとる」って、悪いことばかりではありません。
 最近つくづく、そう思うようになりました。

 いつもお世話様です
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. ことば尻はエロいか

 「秋の夜にひたすら学ぶ六法に恋という字を見出さざりけり」とは、憲法学者でのちに大阪府知事になられた黒田了一氏の若かりし頃の嘆息である。ただし「恋」は無いが「故意」はある。ついでだが「故意又は過失」(民法七○九条)という文言を「恋・股は過失」と記すと一気に人間味が増してくる。しょせん恋もセックスも過ちだと合点がいくからである。それに因って他人の権利を侵害すると損害を賠償する羽目に陥るのは、前記条文の通りで、くわばらくわばら。
 
 そうそう六法にないのは恋だけではない、「愛」もないのだ。これはいくらなんでもヒドイ感じがする。(いや、絶対無いかと念を押されると、ゴマンとある法律のこと、少々心もとないのだが、ぐらつくとこの後の接続詞が不接続詞になるので、突っ張ることにする)もっとも、法が現実の社会でうごめく人間を対象にしていることを考えると、その存在を誰一人として確信していないであろう「愛」は、さすがに条文の中に取り込めなかったのであろう。その意味では十分にうなずける。

 私事で恐縮だが、「好きだ」というのは感覚的に解かる。「気に入っている」というのも同様だ。『かわいそうだってことは惚れたってことだ』(漱石)の「惚れた」も、何となくではあるがオーケーだ。しかしこの「愛してる」は、解らない。洋画をこれまでに二百以上は観た。銀幕の中で日に何回も口にされるこの言葉の実体は何なのか。暇さえあれば確認する、確認しなければならない「愛」って何? 愛しているから離婚する。愛しているから殴る。愛しているからそばに居て、そうできないなら別れましょう。ついてはお金をいくらいくら頂戴。そして極め付きは、愛しているから殺します…。何も外国だけのことではなさそうだ。「いま彼と愛し合ってたの」がセックスをしていた意味だったり、「もう私のこと愛してないのね」が、プレゼントをもらえなくなったことだったり、「もっと具体的に愛してよ」が、お金の要求だったり、エトセトラ、ケセラセラ。

 そういえば、フリーセックスとやらが、もう少し後ろめたいものだった頃、マスコミは「セックス」を単独では取り上げず、必ずと言っていいほど「愛と性」といった具合に「愛」の字をくっつけていた。昨今の誤用の遠因は、こんなところにもありそうだ。あちこち跳ねてご迷惑さまだが、ものはついで。「アルファベットだってH(えっち)はI(愛)よりも先でしょ」とは、けだし名言である。古来わが国には「夜這い」(婚い=よばい)というはなはだ結構な風習があって、同様の効果をもたらしていた。「結ばれる」なんてのも、このあたりの機微か。え、もう字数いっぱい? 「穴」埋めの話なのでこの辺が潮時か。

 と、「穴」の「埋め草」を締めくくろうと思ったのだが、タイトルとの絡みで何一つオチがないのに気づいて少々慌てた。「エロチカ」なら、好色本、春画なので関連性はあるのだが、はて。ちなみに「エロイカ」は、イタリア語でベートーベンのシンフォニー第三番「英雄」のことである。結局オチないので「おしまい」にするが、こんなことでは最後の編集後記も危ういので、今号は逃げてしまおうか、などと急に思い立った。御免。

    *********

 昨日の報道に、司法試験委員で60代の高名な憲法学者が、20代の教え子に試験問題を漏洩したというのがあった。日本一公正で最高の国家試験でこのザマは嘆息しきりなのだが、爺は不謹慎にも教えてもらった若い彼女の「美貌」を妄想した。晩節を目いっぱい穢(けが)してしまった先生の人間味にも、どこか許せる可笑しみがある。平静、いや平成16年『岩漿12号』掲載の、この「埋め草」を思い出した所以(ゆえん)である。単なる掲載の「きっかけ」であって、拙文が事件の内容に符合しているわけではない。

   
 「またぁ?」と嘆かれそうだが。つたない俳句と写真で締めてみたい。ちなみに「蔓(つる)たぐり」は秋の季語。
 「蔓たぐりどんな実になる白い花」(蛙声)

 野草の花

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. 死ぬ者にとって注意など意味はない

 タイトルで引いた言葉は、恋愛小説で一世を風靡し昨年物故した渡辺淳一の小説『無影燈』で、主人公の医師直江庸介が吐く台詞だ。周知のごとく渡辺淳一は北海道出身で、札幌医科大学卒で医学博士だ。爺は初期の頃の、社会派的な色彩を持つ医療現場を扱ったこの長編小説が好きで、3回ほど鑑賞している。好みの延長で、奔放な女子大生絵梨子をヒロインにした『北都物語』も愛読したが、愛欲ドラマ的に作風が偏ってきたころに、ぷつりと読書の縁を切っている。

 のちに映像化したものも鑑賞したが、とくに直江に田宮二郎、その女の一人志村倫子に山本陽子を配したTBS制作の連ドラには、はまった。経歴も医学知識も手術の腕も抜群だが、裏面では麻薬を常用し、手あたり次第に女と関係する謎めいた直江医師。そんな男を心から愛し、直江のダークサイドに翻弄される優秀な看護婦倫子(当時は看護師制度は無い)。流れがミステリアスで、読み手の爺は、直江に魅了されながらも、ラストまで倫子に同情をしていた。

 避けられない死と向かい合い、麻薬で痛みを抑え込まなければ「生きられない」直江の心が言わせる、絶望的な台詞の数々。
『どんな死だって、死んでいく本人が納得できる死なぞはない』
『医者は、本来殺し屋なのだ。人間誰しも避けられない死を、いかに納得させるか。その手伝いをする職業なのだ』
『われわれは助けてなんかいない。助かったのは、その人達に助かる力があったからだ。医者は、その生命力に手を貸しただけだ』
 直江は自分がこの世に生きていた証を残すために、機会さえあれば誰だろうと女を抱いた。死を想うことは、生を想うこと、そしてそれは性行為なくして叶えられるものではなかった。ただ彼は最後の手紙で倫子に伝える。「もし自分の子を孕(はら)んだとして、産んで育ててくれる女(ひと)があるとしたら、君(倫子)だけだろう」と。極めて勝手な言い草だが、ズシリと心に響く。それが、直江が入水自殺したあとで読んだ言葉だからだ。

 爺が珍しく数回も読んだのは、死を見つめる直江の心情を理解したかったから、かもしれない。
 いままでに何度も、死についての、それはつまり「生きること」についての、書物に接した。きっかけはもちろん『無影燈』。その解析の最中では、直江庸介と渡辺淳一は、不確かながらもダブっていた。
 ただし、いまだに爺自身の中では未解決だと告白しなければならない。

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. 「花とアリス殺人事件」

 今回は蛙声爺の脳味噌に巣食っている比較的若い「デコちゃんという子」に「頭」を切り替えて、映画レビューを手紙形式で書いてみます。決してふざけてのことではありません。

 Dearあせい爺
 おはよう、すぐにみたよ「花とアリス殺人事件」のアニメ。アニメファンだなんて日頃言ってる割にはダメじゃん、こういうのでめんくらうなんて。まず「悪口」から言っちゃうね。物語は「花とアリス」の前日譚てネットに書いてあったけどね、後日譚(ごじつだん)なら知ってるわけ、意味も。けど、いつごろできたのこんな言葉、辞書にもなかったよ。ま、いいか、話それちゃった。

 結局何が言いたかったのかなぁ、この作品。有栖川徹子と新井花が親友になるきっかけになる、子どもじみた殺人話で、殺されたはずの男子生徒ユダ(湯田君)をドタバタと二人で探し回るだけだよね。正直ストーリーはつまんなかった。セリフを先に収録しちゃうプレスコで創ってるから会話が自然だけど、何かモゴモゴご言ってる感じが時々して、何カ所か「マッテヨ」はあったなぁ。それと、先生とか、タクシーの運転手とか、哀しいおじいさんとか、食堂であった若者たちとか、とにかく「いい人」だらけで「うっそー」だよ、可愛い女子中学生二人で昼も夜も、街をうろつき回っていて危険ゼロはありえないって。ドラマが安っぽいよ。全体的には着飾ったマシュマロ作品てとこかな。
 でもそのていどかな、不満は。

 本音はね、ショック受けたの、ジブリアニメにはないものがたくさんあった。みせてくれて感謝。
 家の中、学校の中、街中、ほとんど背景はコンピュータ処理だと思うけど、配色よ、目をドーンと見開いちゃった。とくに光が当たる部分のどぎついまでの色鮮やかさ。色を取り込んだガラスの器の向こうから日光が当たってる。そんな感じ。あとマチスの絵的? 見ながら思い出しただけだけど。とにかく「魔法画面」て名前付けちゃった。
 ファッション雑誌から飛び出て来たような花とアリス、アリスの母親もだけど、雰囲気あったわぁ。刑事まがいに「事件」の跡を追う時の花とアリスの服装が、最初の二人のイメージと反対になっているのも楽しかった。二人が駐車場で車の下に潜り込んで話をするシーン、とっても素敵だった。アリスが変なおじいさんとブランコするところもね。あ、ここではね、ずっと前一緒に見た「生きる」を思い出した。こういうふわぁーっとしたあったかいとこ撮るの、この監督、岩井俊二て人? 得意みたいだね。うっかりだけど、胸がジーンとしちゃった。

 アリスがバレエを習っていたという設定がずっと活きていて、時々見せる「演舞」だけじゃなくて、歩き方までが柔らかく、絵的に見えたわぁ。それでなくともこの映画、中学生の女の子が、ほんと以上にそれっぽかった。ずいぶんと実際に見に行ったんじゃないかな。そんな気がする。これって、発想、ファッション、動き、言葉遣い、全部に感じる。
 もういいかな、くたびれちゃった。
 なんだか細かいことばっかしだったけど、カメラアングルっていうの? 中学生を撮るには成功してるって思った。新しかった。子豚を撮るには子豚の目線、カマキリ撮るにはカマキリ目線。これよ、すごかった。「うん?」
 蒼井優のアリスの声も、ぴったりだった。
 じゃ、こんなとこで許して。
                 爺の頭の中に居る「おでこ」より


 読んでいただけたところで、爺の下手な句と写真を1枚。
 「ネコジャラシじゃれない猫の大あくび」(蛙声)

ネコジャラシ

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. いのち

 今朝散歩に行こうとして外に出、何気なく視線を落としたところ、足元にまだ子どもらしいクワガタムシが転んでいた。摘まんで手すりの向こうの金木犀(きんもくせい)に投げ落としてやった。彼らは不思議なことに、羽があるのに空中で飛行に切り替えない。「まあ、ハッパのクッションで大丈夫だろう」。この虫、実は昨日も拾って駐車場のサツキの上に載せてやった。今朝の虫の2倍ほどの大きさだ。当然ながらどちらからも礼は「言われていない」。

 ブログをやり始めた頃、「クロゴキブリ」という記事を書いた記憶がある。当時驚いたのは、うちのかみさんの特殊ともいえる感覚だった。台所を徘徊していたゴキブリを叩き殺さずに丸い屑籠を使って閉じ込め、何と「出ていけ、ほら」と言って外に放ってやったのだ。この感覚は今なお不変で、今夏は、仰向けのセミを助け、黒と黄のボーダー蜘蛛をサッシ戸を開けて外に逃がし、台所に闖入(ちんにゅう)した小さなトカゲをティッシュで摑んで(これもかなり離れ業)、今朝の私のように同じ植木に向かって投げてやっている。何となく金木犀には迷惑な話だろうが。
 生来生き物を傷つけるとか殺すとかできない性質(たち)なのだろう。これには私も影響を受けている。
 で、今回は大袈裟だけど「いのち」。

  ススキと野鳥
      散歩の途中野鳥が川魚を捕えていた。鳥は捕れないので写真に撮った。遠すぎて小さかったが。

 「いのち」

 昔志賀直哉の短編『城之崎にて』を国語の教材で読まされた。当時は彼が行った、小さな生き物の死と拾った自分の命との対比や、不可思議な生死(しょうじ)というものへの洞察が分らなかった。「頭だけは坊主だったけどね」。
 この頃たくさんの死に出遭う。払暁の伊豆スカイラインで見た子狸様の小動物の交通事故死。カラスが数羽で執拗に遺体処理をしていた。「お前ら始末屋か」。職場の小さな池の傍で、殿様蛙が蛇に食われていた。頭がまだ蛇の口に入っていないのに何故か、鳴き叫びもしていない。従容として死に臨む姿が凄かった。「来世で生きかえる?」。
 客室に侵入してきたスズメバチを専用のジェット噴霧殺虫剤で吹き飛ばしたところ、ヒクヒクと痙攣(けいれん)して、ほどなく絶命した彼。針という武器を携えていたために敵とみなしたのだ。万が一にも蜂毒をアレルゲンとして誰かがアナフィラキシーショックを起こしては困るのだ。この蜂はバカなのか利口なのか不明なところがある。女王蜂が本家と分家、二つの巣を造った。専門業者が分家で女王を殺したところ、高所に在って無傷の本家も、たった一日で空き家になってしまった。「君たちも女無しでは生きられないのか」。また、空き缶の山に群がって中のジュースを啜る。その知恵に感心していたら、これ見よがしの甘い汁の罠にはまり、次々に溺死をしてしまった。「甘い罠は男の命取り」。
 賢そうな獣もしかりだ。ウリ坊から成獣への途中ぐらいか、猪が三頭、センターラインを跨(また)いで仲良く散歩をしていた。交通事故死の予測は、彼らには無い。「あ、これは人間も大同小異」。
 とにかく慎重に、真っ直ぐに、生きるしかない。
(「み」の名前で執筆『岩漿20号』2012年・埋め草に加筆)
   
 
  暖をとる野良猫
          「のら」も知恵で、頑張って生きろ。マンホールには温かい温泉排水が流下中。

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. カムイ伝の正助か

 今日は「前説(まえせつ)抜きで爺のエッセイを読んでみてください。


 「蚕棚」(かいこだな)

 白土三平の名作「カムイ伝」のラスト近く、百姓一揆の首魁(しゅかい)だった正助(しょうすけ)は数人の謀議指揮者と共に悪代官に捕えられるが、何と悪代官は正助の命だけを助けて百姓たちのもとにその身を送り返す。首謀者全員が処刑されたと思っていた一同は先ず驚き、次いで正助が裏切ったのではと疑いだす。しかも問い糺(ただ)しても正助は何もしゃべらない。猜疑は確信に変わり、それは集団的な憎悪と怨嗟(えんさ)に変質して悲劇は頂点に達する。百姓たちの無数の鍬(くわ)や鎌が正助を襲うのだ。実は正助、悪代官の手でしゃべれない程度に舌を切られていたのである。悪代官は、自ら殺したのでは正助を英雄にするだけだと分っていた。二度と指導者を作らせまいとする彼の策は、見事に奏功したのである。私はこの顛末で思い知った。人望、人徳でなったリーダーを屠(ほふ)るくらい簡単なものはない、と。

 もう二十年の前の話になる。私はN県のSスキー場にあるKホテルにアルバイトに出かけた。そこで、規模も質も違うのだが、この正助の話とそっくりな事件に遭遇することになる。しかも若かった私が演じたのは、こともあろうに「鍬」を振り下ろす役であった。
 問題のホテルの従業員宿舎は、一メートル幅の通路を挟んで、間口一・八メートル、奥行き二・二メートル、高さ一・五メートルの小部屋が向かい合わせに並んでいた。その高さから想像がつくと思うが、本来天井まであるはずの「一部屋」を真ん中で上下に仕切って二部屋にしてある。その狭隘さは滑稽なほどであった。立ってパンツがはけないのである。当然ながら万年床で、男の「部屋」はどこも同じような悪臭がした。汗と体液と酒と黴(かび)と。それは孤独と諦めの臭いでもあった。人間の感覚はよく出来ていて、なれてしまえばそんな中でも熟睡できるから不思議である。応募してきてこの宿舎を覗き、そのまま帰ったアルバイトも数知れないのだが、オーナーは一向に気にしない。労働基準法系の寄宿舎の法条も、それを具体化する規則もどこ吹く風の、まさに「治外法権」の空間であった。

 学生を中心にナチス・ドイツのアウシュビッツを引き合いに出すものが多かったが、一人だけこの宿舎を「蚕棚」と言い表した男がいた。一見して農家の出とわかるその中年Aが、のちの「正助」である。彼は人一倍よく働き、若者の愚痴を辛抱強く聞いて励まし、オーナーから責められている者があれば必死になって庇(かば)う、そういう男であった。彼に対する評価は日増しに高まり、いつしか働く仲間のリーダー的存在になっていた。私も彼の一挙手一投足に注目し、尊敬の念を強めていった。もちろん期待も強く、「人間らしい宿舎をと会社側に要求できるのは、あなたしかいません」と迫ったりもした。管理職を除く働き手のほとんどが団結し署名して、彼、Aが交渉の任に当たった宿舎改良案が通ったのは、それから間もなくのことである。
 とりあえず二ヶ所中仕切りが撤去され、そこだけは蚕棚状態が解消した。間口・奥行はそのままだが、天井までの空間が広い。
ところが改修工事は、二部屋分が済むとピタリと止まった。そしてそのまま、一週間、二週間と経つに及んで団結が崩れた。それもそのはずで、広くなったのはAと古参の板前の部屋だけだったのだ。
 Aを私は涙ながらに詰(なじ)った。なぜ自分の部屋を一番最後にしなかったのだと。
 私はこの後すぐにホテルを去った。Aが「修行してくる」と言って山を下りたのは、それからすぐのことだという。
                 (「小田原文藝9号」掲載・1999年)
※ちなみにこのホテルは現在、残っていない。

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. 人間は自動車を運転するのに向いていない


 
  モータリゼーションの時代に、このタイトルにある驚愕の文章に出遭ったのは、『ホワイトカラーの職場はロボットに奪われる』(『文藝春秋』2014年8月号所収)と題された国立情報学研究所の新井紀子教授の解析論文でだった。この記事は例示も多く理路整然として真っ直ぐに頭に入ってくる。機会があったら是非にと、お勧めしたい。 
 「ロボット」の最近の注目株は「全自動運転」だ。日本でも高齢者の自動車事故が多発していることから出たのか。いや、日本の自動停止装置のように、運転者という人間のミスを補完するものではなく、人間の運転を完全に排除し、これに代わる「自動運転車」が米国では指向されていると記事はいう。しかし、コンピューターの基盤は一滴の水でも狂いを生ずる。臨機応変にパニックに対応できないコンピューターが街中を「闊歩」する図は、恐怖でしかない。「顔が見えない運転席」の不気味さは想像を絶するものがある。第一、事故った場合に一体誰が責任を追うと言うのだろうか。

 すこしばかり株をやっていると、政府がロボット成長戦略を掲げただけで関連株が注目されていくのが分る。それでなくとも工業界での活躍は周知の事実なのだ。人手不足がコンピュータ化を促進しているのか。それともコンピュータ化が進んで雇用の減少が目立ってきたのか。産業の部門別で回答は異なるのだろうが、いずれにせよ電子化の勢いは止まらない。
 飯も食わず、トイレにも行かず、不眠不休で働かせても法に触れないロボット労働者。データを与えられ、処理過程を完璧に記憶した「ロボット」機器がこなす超高速の事務処理。経費節減を重視する経営者が「ロボ、コン」を愛する所以である。
 或る日街を走っていたら、見慣れた社会保険労務事務所がいつの間にか閉じられていた。
 各種公的申請の電子化が進み、申請を行う企業は、税務・財務にしろ総務事務にしろ、各種のアプリケーション・ソフトが市販され、それがまた完璧に「編まれて」いる関係で、事務員を削減しても、また専門家への委託をやめても、十分にやっていけるようになった。まさに「先生方受難」、「事務職希望者受難」の時代到来と、いえるだろう。
 
 長崎ハウステンボスのフロントに人型ロボット嬢が坐ったのにも驚いた。ものの本によると、人型の嚆矢「アシモくん」のようなロボットは日本が最先端だそうな。これはもう爺が憧れた手塚治虫の『鉄腕アトム』の業績だろうと思う。もちろん『鉄人28号』や『サイボーグ009』などの愛読者もきっと、人型ロボット開発に情熱を注いだに違いないのだが。
 こうなってくると、映画の中の話でしかなかった「こころ」を持った、いや広範囲な「感情」を持ったロボットが出現する日も近いかもしれない。育児ロボット、疑似恋愛ロボット、介護ロボットなどが氾濫する時代が、である。

 冒頭で紹介済みの論文の中で、文芸を趣味としている爺が微笑んだ部分がある。
 いまのところの話だが、『コンピュータは「文脈」が苦手なのです。また、当然人間の感情や情緒、機微などを理解することもできません。(中略)この辺りに、人間に残された仕事は何かというヒントが隠されているように思います。』(前掲書160頁)
 発達したコンピュータにも出来ないものがある。それが「これ」なのだ。
 ・・・嬉しいことしきり。

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Author:蛙声爺
文芸同人誌編集をしています。
考えるフクロウが理想。
木内光夫のHPもよろしく。

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