蛙声爺の言葉の楽園

. 「グレース・オブ・モナコ」

 バチカン市国に次いで世界で2番目に小さな国モナコ公国。そこへ大公の妃として嫁いだハリウッドの美人女優グレース・ケリーの、伝記風の物語である。あえて「風」と書くのは、「事実とは異なる部分がある」という大公レーニエ3世の一部親族の主張があり、また、映画製作者側も「創作部分がある」と認めたからである。

 そもそも実在した、あるいは実在する人物を映画として扱う場合、フィクションが入るのは不可避なのだ。広義の「事件」やそれらの月日についての記録は押さえる必要があるのはもちろんだが、登場人物の私室内での会話や独白まで「ノンフィクション」を貫けるわけがない。「事実に基づいた物語」と或る種「言い訳」をしなければならない所以である。
 監督や脚本家にできることは、自らの見聞と史料によって確たる人物像を創造し、状況に応じて彼らの言動を具体化していくこと、だけである。したがって観る側もそれを前提にする必要がある。
 物語には「講釈師、見てきたような嘘を言い」という姿勢がつきものなのだ。
 すこし飛ぶが、この「嘘つき」に関して歴史小説の世界での名人は山岡荘八であろう。ご不審の方は、小説『徳川家康』で描かれる大阪城内での淀君の言動を精読されたい。まるで作者が傍に居たとしか思えない。

 話をもとに戻して、伝記風映画の名作を挙げる。爺が、というよりはアカデミー賞をはじめ世界が絶賛した作品だ。デビット・リーン監督の『アラビアのロレンス』と、リチャード・アッテンボロー監督の『ガンジー』がそれだ。
 「ん?」と思った。3人とも大活躍が終わった後で、あっけない死に方をしているのだ。グレースは自ら車を運転していて事故死、ロレンスは二輪車を疾走させていてこれまた事故死、そしてガンジーは、歓呼の声の中で公然、銃で「暗殺」されている。

 ところでヒロインのグレース・ケリー、ほのあたたかい笑みを湛えた気品ある横顔はどうだ。「クール・ビューテイ」の「称号」は伊達ではない。キャスティングで彼女の役に配せる女優はたしかに、西洋なのだからニコール・キッドマンしかいまい。画面いっぱいの「どアップ」で10数秒も耐えられる顔など、滅多にあるものではないからだ。爺の「偏見」で恐縮だが、若い時のという条件付きでエリザベス・テイラーとシャロン・ストーン、無条件でリン・チーリン、そしてニコールで終止符だろう。異論のある方は、目の前の壁に向かってどなってほしい、責められても困るので。好み、好み。

 で、物語だが、爺の早とちりで、と言うか予告編の素晴らしさで、グレースが、モナコ公国の存続の危機に際し、フランスのド・ゴール大統領やアメリカのマクナマラ国務長官などを相手に、政治的なネゴシエーションまでするのかと期待して観始めた。結果は、この二人を含む各国要人を招いた舞踏会で、「愛と平和」の大事さを心を籠めて説く、に止まった。
 「ま、そんなものかな」と、観終わってから納得をした。要は「効果如何」だからだ。モナコは現在も独立国として在る。

 その他の内容は、宮殿内の権力争い、ミステリーじみた情報合戦、跡継ぎに絡む陰謀など。家庭にも、会社にも、家元にも、国会にも、国家自体にもある、既視感溢れるあれこれだ。
 人間の「欲望」は洋の東西も、古今も問わないらしい。
 美しいのは、「グレース」の姿と、モナコの海と――

 

 

 


 

. ああ、消えたグレース

 かなり入れ込んで早朝からニコール・キッドマン主演の映画『グレース・オブ・モナコ』に絡む記事を書いていた。8時ちょうど頃に脱稿。さてアップ、というところで、ほんの1、2秒のクリックミスで、全文が消失してしまった。
 だいぶ前になるが、小説の7枚分ほどの量を1瞬で吹っ飛ばしてしまったことがある。
 電子文字は、「怖い!」
 少し前の執筆なのに同じ文章は書けない。内容は近づけて書けるが、呼吸が違うからだ。
「それほどのブログかよ」と爺の分身が嘲笑。
「はい、おっしゃるとおりです」。
 コーヒーでも飲むか…。
「まさかこの一文が代わりじゃないだろうなぁ。今日中に書き直せたら。さっきの台詞取り消してやるよ」とまた、憎たらしい分身。
「…」

 こういう日はせっせと行動。
 レターパックで『孤往記』単行本1冊発送。地元の書店本部に『岩漿23号』20冊納付。伊東図書館に立ち寄って別の単行本2冊寄贈手続き。おかしなもので、ぐるっと車で1周したら、どんより気分が吹き飛んだ。
「ちょっと文芸、したものね」
 
 

. 喪服のネコと犬のミルク

 おおげさに言えば生まれて初めて、猫と犬に同時に遊んでもらえた。もしかしたら、遠くから来たということで「ふたり」に気を遣ってもらったということかもしれない。
 葬儀で、暑さが有名な熊谷市に行ったときのこと。予定よりだいぶ早く喪主の家に着いた。かみさんの姉Mさん一家のお宅のことだが、関係親族揃っての夕餉までに4時間ほどの「心のブランク」が生じた。これを埋めてくれたのが、家族同然に室内で暮らしているペットの犬と猫だった。

 Mさんが寛いで横になるとヒョイと飛び乗って肩や腰を揉む、ちょっと可笑しげな「子」だが、この白い小型犬マルチーズの名がミルクだ。まずはミルクが爺のそばに来た。少し首を傾げて、ジィーッと見詰めている。右掌を近づけると左前足を載せてきた。これが「握手」か。顎をさすり、前足の「脇の下」を揉んでやった。「頭を押さえつけるようにして撫でてはならない」。幼児が可愛がろうとして犬にかまれたりする事故を巷間よく耳にするが、これは、犬が「攻撃」されたと錯覚するためだろう。何回かやって来ては爺の顔を凝視して、その都度5分以上も動かない。そのうちに手を出すとペロペロとなめてくれるようになった。いよいよ「ともだち」かなと、少し嬉しくなる。

 もともと犬は嫌いではない。むしろ「人類の友」だと評価もしている。警察・麻薬・爆発物探知・災害救助・軍用・狩猟・牧羊・救助・介助・盲導・セラピー…これらの単語に「犬」を付けると、彼らがどれだけ人間社会に貢献しているかが解かる。愛玩の対象というもっともふつうの「役割」だけでも突出しているのだ。
 何時間かして、試しに10メートルぐらい「遠く」にいるミルクを、視線が合ったところで手招きしてみた。もう「老犬」だというが、トコトコこちらに歩いてくる。家人がそれを見て「へーぇ、初めて、こんなの」と目を見張った。ちょっと得意げな爺。

 途中から若いクロネコももが部屋に放たれて、こちらも爺に寄って来た。体躯はミルクより大きい。長い尻尾の不思議な動きは何やら『ジュラシックパーク』のラスト近く、子供たちを襲う恐竜のそれを思わせる。肛門丸出しで動くから、恐竜でないことはすぐに分るが。この「子」もジッと猫の目で(当たり前)見詰めてくる。今度も右掌を前に出していくと、はじめからチョロチョロっとなめてきた。手に頬擦りしたり、握手にも応じてくる。何か不思議なものを感じた。ふだん他所から来た人にはしないと、飼い主は言うのだ。

 艶のある黒一色の毛並み。猫には失礼だが「カラスの濡れ羽色」とはこんな感じか。大昔の欧州では、黒猫は魔女に寄り添う「使い番」だと忌み嫌われていた。つまり黒猫にも魔力がある。この反対が犬で「邪悪を払いのける」と解釈されていたらしい。黒猫にしてみれば理不尽な話だが、しょせんその時代の人間たちのご都合主義の所産だから仕方がない。
 そういえば『魔女の宅急便』のヒロイン、子魔女のキキには黒猫のジジがくっ付いていた。そう、キキと人間の言葉で会話する「小生意気」なやつだが、寄留先の近所の可愛い雌猫に、後先考えずに恋をするところは憎めない。
 ま、それはともかく、葬儀を待つ少しく重い気持ちの中で、この「ふたり」に癒されたことは確かだ。
 翌日別れるときには爺も、照れもせず「じぁあな」と、手を振ってあげたものだ。
 「ふたり」はどうしたって?
 振るのは当然、尻尾しかない。

 
 
 
 

. 「ふしぎな岬の物語」

 お汁粉の甘さを堪能したいなら少量の塩が不可欠だ。
 本当の、輝くような若さから、齢を重ね、酸いも甘いも味わいつくした静かな「若さ」に変貌した吉永小百合が企画から参加したというこの映画。日本アカデミー賞の各部門賞に名を連ねたのは、「むべなるかな」なのだが、爺は鑑賞しながら少しく落胆していた。

 事実に基づいた森沢明夫の小説『虹の岬の喫茶店』がシナリオのベースだというのだから、根も葉もない「お話」ではないのだろうが、刺激の少ない「甘いエピソード」が連鎖していくのを観るのは辛かった。ストーリーの流れが浮世離れしていて、何か童話的なのだ。もともと挿話つなぎの映画は難しい。詰め込みすぎに陥る。脚本の大家倉本聰でも映画『駅』では、倍賞千恵子が出てくる最終章が秀逸だったので名画になったが、それまでは挿話つなぎの退屈さが仄見えていた。
 現実にはあり得ない「善人」ばかりの「地域社会」、「悪人」が出てこない分、彫りが浅くなったと思う。しかも「え、ここからのシーンを省略しちゃうの」という驚きが3回もあったのだ。

 期待が大きかったので少し「辛口」になったが、秀作は秀作だ。孤独を厭うなら人の中に入り、人間関係のある種の鬱陶(うっとう)しさに耐えなければならない。そこでの「甘え」の共有。この作品は「やさしさという甘え」の奥に潜む危険なものを、確かなものとして教えてくれる。
 武田鉄矢のヒット曲『贈る言葉』に、『人は悲しみが多いほど人には優しくできるのだから』という歌詞があった。悦子の優しさの奥に秘められた哀しさを、1シーンの台詞だけではなく、彼女に反発したり、ずかずかと彼女の心裡に土足で入ったりする人を登場させるなど、随所で掘り下げてほしかった。大勢の人に優しくすることは限りなく自分を慰めること。意地悪な視点をとれば、それもまた哀しい真実かもしれないのだから。

 もっともこの映画を鑑賞して「損」は一つもない。批判的に観た人も、考えさせられてはいるのだ。
 それだけは言えると思う。

. まるで「日記」だ

 ブログのカテゴリを「日記」ではなく「創作日記」にしたため、記事の調子が「親しめない」ものになったようだ。「…である」「…た」「…のだ」は禁物とされるブログだが、「創作」を冠したとたんに採用を余儀なくされた。「硬い」、「上から目線」、「偉そう」、「突き放してる」と想われるのだ。ちなみに「です、ます調」の文章は、かつて1回だけ試みている。
 いつか、閲覧回数がたくさん欲しくなったら変えようと思ってはいる。
 落語で言うとこれは「枕」、今回の記事がフツーの「日記」になりそうなので、ちょっと一言、なのだ。

 昨日朝3時に起きてブログを更新した。葬儀の帰途の心情をどう記そうかと迷った末、感覚の通りに、となった。

 ホームページ経由だと思うのだが、『岩漿23号』の注文メールが入っていて、喜んだ。めったにあることではない。すぐにお礼の返信をして、「本日中」の発送を約束した。

 4月半ばにGSでスタッドレスからノーマルタイヤに戻してもらったのだが、ホイールが一部変形していると言われたので、信頼できる河津の整備工場まで車を走らせた。数本取り外して精査をしてもらい、30分で終わった。変形自体は無かった。車は詳しくないが、帰り道でのハンドルからの走行感覚は、明らかに変わった。どんな職業でも「職人さん」は凄い。寡黙で手際がよく作業内容の説明が自信にあふれている。

 午後、amazonから荷が届いた。著者が価格設定に与(あず)かれないシステムだったため、高めだった自分の著作『孤往記』が1365円程度まで下げられていたので、4冊購入をした。ネット購入の仕方がわからない希望者もいて、対応に苦慮した経験から、自分の本棚に何冊かストックしておく必要があったのだ。もう1冊はパスカル・メルシェの『リスボンへの夜行列車』。前のブログでも書いたが、自分との約束で読むことにした。実のところ翻訳文はどうしても流麗になり難いので読むのが苦手だが、原作が哲学小説なので耐えてじっくり味わおうと思う。

 経済の本を読んでいて疲れ、64歳になる妹の短歌を再度、精読することにした。数は100首を超える。8人いる爺の兄弟姉妹の人生は、その誰のものを採っても小説になるほど波瀾万丈だが、この妹のは或る種群を抜く。なんども「立ち止まって」、五七五七七の裏側を見詰めた。「独白」と「文芸」はかなり違うので、そこは心した。文字や、意味や、歌の奥底に救いさえあれば、読む人の心は打てると感じた。

 「夕餉の映画館」は、スタジオジブリ高畑勲の『かぐや姫の物語』を抜いて、アカデミー長編アニメーション部門賞を獲得した『ベイマックス』にした。「これが高畑作品よりも上?」。落胆を超えて怒りを感じた。ただ子どもが喜べばいいのだというディズニーの高笑いが聞こえた。目指しているものが違いすぎる。
 それでもエンドマークまで、しっかりと「見た」。そう、「観る」価値は最後まで見出せなかった。

 疲れが出て、9時には床に就いた。

 
 

. 車窓を走る人生

 妻の母親が98歳で亡くなった。熊谷での葬儀の帰り、湘南新宿ラインの電車で、妻と向かい合う窓側の座席を得た。東京へ入る前は各駅停車。それが都内からは「快速」に変身する。
 平べったい家々が飛んでいた風景が、大都会のビル群に変わる。

 「家族葬」だったので、初めてじっくりと死出の姿に向き合った。1世紀に近い人生を終えた義母は、実母の時と同じように小さかった。人はみな決められた時間を生きて、導かれるようにして死んでいく。「なんて静やかな顔なんだろう」と、自然に言葉として出た通夜。

 燃焼し、魂魄が昇天し、真っ白な骨だけが目の前に遺される。
 『起きて半畳、寝て1畳、骨舎利になれば一握り』
 あと何年もしないうちにわが身もこうして「物」と化す。またいつもの想いが胸に迫ってくる。ひ弱だった自分が、68になってもまだ生かされているのは何故だ。何をせよと、何を遺せと命じられているのか。

 池袋。林立するビルが取り囲んでくる。昔、小さな会社で業務課長をしていた。日浅くして潰れた。後始末のため無給で3か月も動き回った…
 新宿…駅近くの自社ビルに「月に1度集まったっけな」。その、資本金80億の会社も今は無い。『これが男の仕事』。人生の中で唯一そう思わせてくれた会社だった。人も法人も、いつかは死ぬ。
 大崎は、機械油の記憶しかない。車窓から見上げると、天を衝くほどに高いビル。半世紀前の、あの、町工場の街が化けている。「気を付けないと手も首も一瞬で吹っ飛ぶからな、分かったな!」と、製缶工場の主任の声が聞こえてきた。独学のための薄給のアルバイト。「夢」がなければ自分で、作業中に首を飛ばしていたかもしれない。
 厭(あ)きもせず、猛スピードで走り去る景色を見ていた。

 東京、横浜という日本で1,2の大都会で過ごした半生。先が見えない真っ暗な中を、息を切らし、腹を空かせ、懸命に走っていた自分。或る日、足元を掬われ転げ落ちたところが、伊豆だった。
 山紫水明、澄んだ空気、海、そして日々の温泉。
 健康を取り戻し、癒され、「人間」というものをとことん学ばされた、「田舎」での30年。感慨は無量だ。

 外は雨になった。景色が濡れている。
 雨が苦手の妻が、傘の心配をし始めた。天気予報が「嘘つきだ」としきりに、つぶやいている。
 快速は平塚で終わり、乗り換えの連鎖が始まった。小田原で、熱海でと、しかも全て各駅停車だ。現実の「田舎」が、否応なしに戻って来る。

 伊東に着いた時には、何と、本降りだった。
 たしかに「予報は嘘つきだ」。
 

. 執筆動機の不思議

 昔、名のある同人誌作家から「いままで自分の書いた作品を全部読んでみろ」と、助言とも非難ともつかない口調で言われたことがある。もう20年も前のことになる。ときどき思い出しては、素直に自作を遡っている。そしていつも同じ衝動に駆られる。「書き直したい!」。或る映画の主役(小説家)は言った。『情熱で書き、理性で推敲する』と。そのたびにうなずく自分がいる。
 同人誌の枠というか、枚数は、少しく半端で400字詰め原稿用紙40-50枚、多くて90-100枚だ。長く書けば書くほど自己負担金がふえるという事情もあるが、各号で突出したページ数にならないようにとの、配慮も働く。書くものがこの「枠」で制約を受けるところから、「今回何を書くか、何を書きたいのか」で何カ月も費やすことがある。

 爺の場合、「実験的」にこんなものを書いてみようと先に決めて、物語を創ることにしている。執筆の動機づけが楽しくなるのだ。例を挙げてみる。
 創刊号の『色あせたデコイ』では、「出所した女が再び罪を犯す汚濁と大自然の美しさの対比」。4号の『タリオンに背いて』では、「知らない間に負の遺産を相続してしまった男の復讐」。6号の『ツール』では、「間接正犯で実母を殺しながら無罪を勝ち取る未成年の美女」。7号『薪樵(たきぎこ)る』では、「すでに死んでいる愛人と鎌倉を散策する男」。9号『心の音』では、「嘘も嫉妬も犯罪も、女の単なる心の音」。14号『心理の開鎖』では「機械設備を利用した完全犯罪の成功」。20号『閼伽桶胴(あかおけどう)』では、「家出お嬢さんとお寺の大太鼓」。

 きりが無いので羅列はこの辺でやめるが、プロの方があまり創っていないと感じたときは、ときめいたものだ。
 もっと楽しみなのは、「これは物語のキーになる」と、「或ること」を見つけたり、「或ること」がひらめいたりすること。
 これはプロの作家でも同じだと思う。
 洞爺丸事故の処理を調べてヒントを得た水上勉の『飢餓海峡』、戦争で焼失した戸籍は本人申請で再編することを知った松本清張の『砂の器』、同じくほんのわずかな時間しか遠くのホームが見渡せないことを時刻表で発見した『点と線』など、想像するだけでも笑みがこぼれる。
 小さな発見を何十、何百という枚数の物語に膨らませる興奮。「小説を書くって面白い」。

 変な「jijii」だろうか。

. 心の「立ち往生」

 もう明るくなった朝の道、土曜日なので日本経済新聞を買いにコンビニに向かう。ほとんど気づかないうちに30センチほどの背丈になっていたこの「子」。朱(あか)の可憐な花を咲かせていたのは「ひなげし」か。花びら、蕾、葉の全ての形状から見てポピーだとは思うが、品種や正式な名称はわからない。花屋で見かける大輪のアイスランドポピーとは明らかに違う。しゃがみこんで、しばらく観察していたが、「返事」があろうはずもない。帰宅した後で、まず何という色なのかを調べた。驚くなかれ赤系の色は62種類もあった。次いで、書棚にある花の図鑑を2,3当たってみたが、こちらも見つからなかった。あちこちに飛んで咲いていたので、野草の方も調べている。居なかった。
「ただ、かわいいじゃん」でいいではないか。そんな自分が顔を出した。

 かみさんが車で買い物に出たいというので、まとまった作業は先送りをして、気になっていた映画『リスボンに誘われて』を観始めた。『岩漿23号』に載っている本の紹介文(『リスボンへの夜行列車』 )の冒頭にあった引用『我々が、我々のなかにあるもののほんの一部分を生きることしか出来ないのなら――残りはどうなるのだろう』が、気になっていたためだ。
 ドラマが進むにつれて、何かいけないものを観ているような気がしてきた。初めに読書ありきの「物語」ではないのか。それは、まず安直な方からとDVDを手にしたことへの、ある種の罪悪感かもしれない。
 劇中アマデウ・デ・プラドが書いたとされる本の言葉の一つ一つが、全く別の世界のことなのに、爺の人生の曲がり角を思い出させた。選択の善悪とか正誤ではなく、もっと見えにくい「武器」を携えて追いつめてくるのだ。それはそれは息苦しいものだった。不思議な感覚だった。
 原作である哲学者パスカル・メルシェの小説を読まなければ、感想一つ書けない。書いてはいけない。
 道端のポピーの名を、適当に流したのとは別次元の話だからだ。

 この話は、人の心の醜さで、綺麗に着飾られていて、まぶしすぎる。
 

. 落選る(おちる)

  東野圭吾原作の『ガリレオ』の章名になぞらえて付けてみた当て字タイトル(失礼)だが、今朝初めてNHKの朝ドラ『まれ』を観たところロールケーキコンクールに落選したシーンだったので、何となく「落ちる」について考察してみたくなったので。

 誰でも落ちるのは嫌に決まっている。試験、検定からコンクール、オーディションの類、果ては恋の「競争」に至るまで。一番いけないのは落ちた際、自分を自分で「全否定」しまうということだ。選ぶ側には、いわばみずからの都合で創った「採用基準」というものがある。恋や結婚にすらそれはある。「落選」とは単に、その設定された基準の外だったというに過ぎない。一時(いっとき)萎えた心を建て直し、自分をさらなる努力・精進に駆り立てる「妙薬」は、この考え方の上に立てるかどうかだと思う。

 昔、観光ホテルの内務係の募集に応じて、元大学の助教授(現在は准教授と呼称される)という人が面接にきた。履歴書はきらびやかだった。当時総務課長だった爺は、彼が「何でもやります。耐えられます」と言い張る胸の内に、強い「自己否定」の圧力があるのを感じた。その原因に立ち入る必要は無かった。露わになっている「自暴自棄」だけで十分だったのだ。20数年前の話でやりとりの詳細は忘れたが、30分以上かけて説得したのを憶えている。そのときの彼にとっては「面接試験」に落ちた、ということになる、たかが観光ホテルの面接に。しかし会社側であった爺は、彼を全否定などしていない。ことわざで大雑把に言ってしまえば「過ぎたるは猶(なお)及ばざるが如し」に近い。ただ爺にできたのは、辞去するときの表情が、来館時より少し明るくなったことに「期待」をかけること、だけだった。彼のその後如何は知らない。

 ときどき「採用基準」には合致しないが、「会社(組織)として欲しいという人」が応募してくることがある。落選だが「別途採用」の流れだ。しかし、普通の総務採用では不可能に近い。面接会場にオーナーや経営トップ、最高責任者が居ないと難しいのではないか。それでも過去に数多あったのだ。
 黒澤明を助監督採用したのが山本嘉次郎監督の推しで、その黒澤が採った型破りの「俳優候補」が三船敏郎だったというのも、分野は違うが好例だろうと解する。この2例とも他の面接官には好印象ではなかったらしい。
 各種ミスコンでも賞を逃しながらも、目のあるスカウトに「拾われ」芸能界で大活躍に至った例も希(まれ)ではない。

 例示が極端になったかもしれない。
 以前も引いた言葉だが、今回も締めに使いたい。
 「バネは凹まされて反発のエネルギーをためる」
 背骨を伸ばして、どんなときでも前を見つめよう。

 

 

. 「希望」への道

 ホームページで「岩漿作家」の代表作を順次紹介したいと思い立った。ところが最近の作品はUSBメモリに入っているのだが、7年前から創刊号まで遡る作品データが不足している。しかも悪いことに、XPの保護がなくなった折に旧パソコンを処分してもいる。「あきらめるか」と一旦は企画を捨てた爺。ところが何日かして「あっ」と思い出したのだ、旧パソコン廃棄の際に、プロに頼んで旧ホームページに載せたデータを、言い換えれば保存可能な文書データのみを「バックアップ」として新しいパソコン内に収めていたことを。「しかしそのデータをPDF化して新しいビルダーで掲載できるのだろうか」。400字詰め100枚に近い小説たちなのだ。横書きのHTMLページそのままでは、いかにも読みづらい。
 以下は会員M氏の小説(平成14年「岩漿10号掲載)「エスペランサへの道」を現在のホームページで最初に紹介したいがための「悪戦苦闘」の記録(見つけた手順)だ。興味のない方には申し訳ないが、薄目で見れば「地図」のようにサラッと飛ばせるよう、活字を小さくして「お詫び」に代えたい。


  1、小説として通常保存するため(⇒「」は全て「開く」ことを意味する)
  ◇word画面を出す
  ◇「ファイル」
  ◇「ローカルディスク(D)
◇「back-up」
  ◇「Documents and Settings」
  ◇「newpage37」
  ◇「ページレイアウト」
  ◇全部指定して文字をMS明朝へ。活字を10.5Pへ。色を黒へ。
  ◇「ページ設定」 「その他」ヘッダー8、フッター8  「用紙」A5 「余白」上18、下19、左・右ともに20  文字方向 縦、2段  文字数と行数の指定 制限のまま。
  ◇「名前を付けて保存」 ポルトガル語なので無い活字が1つあって仮に ファイル名esperanca ファイルの種類 PDF 保存先 「デスクトップ」⇒ 「PDF化作品」

 2.ビルダーに載せる
  ◇「デスクトップ」
  ◇「ビルダー」アイコン
  ◇「ページを開く」
  ◇「HP-holda」⇒「sub9」(岩漿作家探訪のページ)
  ◇「ファイルの挿入」
  ◇「PDFファイル」
  ◇「デスクトップ」⇒「PDF化作品」
  ◇「esperanca」
  ◇「esperanca.pdfへのリンク」がHPのページsu9画面に貼りつく

 この作業をしながらつくづく実感したのは、パーソナルコンピューターのオペレーションソフトやアプリケーションソフトを「創る人たちの凄さ」だった。プロが今使用中のパソコンに旧データを流し込んだときの速さにも驚嘆した。「データを取って保存する時間は相当かかっています」と業者は言うが、「それにしても」だ。
 
 だからと言って、完全無欠ではないらしい。消費者からの「不具合」通報に対応し、年に何度かはダウンロードの形で改良が施されているのをみても明らかだ。今回も新製品なのにと首をひねったことがある。ただ爺のレベルでは、まず自分の処理能力や操作ミスを疑うことになる。そしていつも思う。
 「これが、パソコンが、若い頃に存在していたらなぁ」
 実感68歳。ま、「悪戦苦闘」もボケ防止と思えば・・・。

 ちなみに「エスペランサ」はポルトガル語で「希望」を意味する。





  

   

. 或る「戦」

 脳みそが透明になって溶けて鼻から流出しているのではないかとさえ思えた、花粉症のトロトロの鼻汁。それがようやく下火になったと思ったら、見事、風邪に捕まった。ふつうの鼻風邪か「インフル」か、シロウト判断は避けるが、喉の中に貼り薬を当てたようなバリバリの違和感、詰まって簡単にはかめない濃い目の鼻汁、けだるい筋肉、少しばかり痛む関節、カスミがかかったような頭の中、と毎日症状のレパートリーが広がっていく。

 対症療法でしかない風邪薬を飲めば、不断に眠くなり、まるで「嗜眠(しみん)病」。『ちくしょう、自分で戦うしかないか』と、弱った免疫力を回復させる作戦に変えた5日目。アロエヨーグルト、数十種類の野菜を混ぜたジュース、納豆、豆腐、チーズ、レモン、エトセトラ。勤務日でない日は、眠くなったらいつでも横になって寝る。高血糖はすべての傷病快癒の「敵」なので、ジャヌビアは毎朝欠かさず服用。かくして、発症から12日間の「戦」はついに、終わるに至った。そう、本日。
 消費したティッシュペーパーの量たるや、半端ではない。供養でもしたいくらいだ。

 「いったい何を書いているのか」、ですかな?
 ブログがちっとも進んでいなかった理由(自分への弁解)。
 誰かに訊かれたわけでもないのは、もちろんのことながら。クスン。

. 「岩漿23号」発送

 文藝同人誌「岩漿23号」を本日午後会員各位と公共図書館宛に発送した。
 冬並みの冷たい風雨にさらされている桜の花。文字通りの「氷雨」の中を、車で東伊豆町片瀬にある会員事務局に赴く。沢山の配布は後日の合評会で行うとして、とりあえず2部ずつ冊子小包として送付するためだ。
 今回はおよそ30カ所、最盛期の半分以下になっている。
 紙の雑誌は生きにくくなるばかり。そんな気がする。

 3人で2時間程作業と打ち合わせをして、片瀬海岸通りの簡易郵便局に荷を運び、解散となった。
 クロネコがいわゆる「メール便」を3月末日で廃止したのがかなり堪(こた)えた。2冊ずつの送料も昨年の約3倍になっている。
 これからの、郵便を使っての会員外送付・寄贈は、残念ながら縮小せざるを得ないのではないか。

 帰路、十足(とおたり)にある発行人の事業所に立ち寄り、割り当ての冊子を手渡して15時すぎには帰宅した。

 雨は冷たいままで降り続いていた。

 

. 千の風

 池に橋が架かり、芝が広い通路の両脇と真正面に敷き詰められていて、その先をきれいな植栽が飾り、彼方には高層の共同住宅がぎっしりと並んでいた。ドリームランドの跡地に造られた公営の霊園。爺の、上から二番目の姉は、その中の整然と並ぶ平たい石の墓標の下に眠っている。 
 高さのある墓石も焼香もご法度になっているので、フラワーアレンジメントの献花と読経、合掌、黙祷が「七回忌」法要の全てになる。このところ長く続いた春の暖気はどこへやら、吹く風は少しく冷たかった。

 順番が来て、文字が刻まれた碑(いしぶみ)の前にひざまずく。掌を合わせ目を閉じると、不思議なことに両の肩が、ほんの少しだけ重さを感じた。不安定な姿勢を亡き姉が支えてくれたのかもしれない。一分ほどの「つながり」が長く、長く感じられた。

 一団の後ろに下がって、次々と合掌をする親族たちを、老若男女を、和らかく見ていた。
 世間にはよく「自分の一生は無意味だった」と嘆く老いた母親がいる。しかし爺は想う。「女はいい。子どもを産めるじゃないか」と。その産んだ自分の「分身」が配偶者を得、子供をつくる。その子が配偶者を得て更に子供を…。「命の連鎖」に直截的に、具体的にかかわっている。その「仕事」だけでも、生きてきた、生きている証であり、「社会的な貢献」でもあるのだ。
 その点男は、どこか不確かな存在だ。寄る辺ない存在なのだ。この抽象性が、静かに発酵して「学問」「芸術」などに、爆発して「権力闘争」や「戦争」に向かわせるのかもしれない。

 亡き姉はほんとうに、ここに居るのだろうか。参列していて何なのだが、死者を知る人の心の中に眠っていると、爺は解釈している。そう、いつも起きているわけではない。その人は自分に何かあったときに、眠れる死者の魂を揺り起こして対話をするのだ。「こんなとき、母だったらどうだろう」「あいつだったら、こんなことはしない」等々、爺も心の中に故人たちの魂を眠らせている。だからずっと、一緒にいるような気がしている。
 『千の風になって』の歌ではないが、墓の中一箇所に眠っているわけではない。
 法事は大勢の心の中に分散した「故人」を、一旦一つに集める「行事」と言えるかもしれない。
 そうだとすると、姉はこの日、確かに墓碑の前に居た、と言える。

. 「ゴーン・ガール」

 朝、かみさんが、この4月4日で6歳になった孫のところへ出かけた。たまには一緒にと思わないではないのだが、昨夕から少しく体調が悪く、またもや独り、家に残った。
 朔日(ついたち)、3日と勤務、2日が小田原で映画、4日5日は泊りがけで横浜に出かけ姉の法要に参加と、車の運転が続いたのと、睡眠がこの間ずっと切れ切れだったためだろう。おとなしく、気になるDVDを鑑賞することにした。
 
 第72回ゴールデン・グローブ賞で監督・主演女優・脚本・作曲の各賞を受賞した『ゴーン・ガール』(GONE GIAL)がそれだ。先般「洋画離れ」と書いておいて何だが、監督がデビッド・フィンチャーということでレンタルをしてきた。しかも観だしたら嬉しいことに字幕スーパーが、はみ出すことなくTV画面に収まっていた。
 夫役のベン・アフレックという俳優はよく見る人で、名前はともかく「馴染み」は深い。驚いたのはロザムンド・パイクという初めてみる女優で、汚れ役と見紛うほどの体当たり演技に圧倒された。この人、無理やりたとえれば「シャロン・ストーン+司葉子÷2」という感じ。「外面如菩薩内心如夜叉」でサイコな役を、あきれるほど見事に演じている。

 この映画に関する絶賛や驚愕に満ちたコメントは沢山だ。反論のしようがない。爺もまた、2時間半ほどの「上映時間」、画面から目を離すことができなかった。
 まだ観ていない人への唯一のアドバイスはこれだ。
 「あなたが妻のそばでこれからも安んじて眠りたいなら、絶対に観ないことです」。 
 これ以外のコメントは本当に要らない。

 「観ちゃった君は、今夜からどうするって?」
 さあ・・・・・・。

. 「風に立つライオン」

 行きつけの映画館での上映最終日かもしれないと、少々慌てて小田原に向かった昨日。お目当ての映画は『風に立つライオン』(三池崇史監督・斎藤ひろし脚本)だ。主演の大沢たかおが、さだまさしに映画化を懇願したと言われている。この二人、ベーチェット病を扱った映画『解夏(げげ)』、死後の献体を絡めた映画『眉山(びざん)』でも「協力関係」を持っている。また大沢と言えば高視聴率を掴み続けたTVドラマ『仁(じん)』で、江戸末期にタイムスリップしてしまった医師の、医術への貢献と苦悩を好演している。この『風に立つライオン』は、これらの文芸作品の直線状に位置している秀作と、言えるだろう。叱られるかもしれないが『仁』のアフリカ・ケニヤ版の趣もある。『仁』での綾瀬はるかは、ここでは石原さとみ、同じく『仁』での中谷美紀は真木よう子になる。ただしこれは、爺が勝手のOL(オーバーラップ)に過ぎない。

 さて映画感想をしたためようとして、この映画は①訴えようとする内容に関する評価と②映画手法としての満足度を、峻別していくべきではないかと、生意気に分析をしてしまった。感動を覚え、一時(いっとき)目頭さえ押さえたのに、である。

 ①ケニア、ロキチョキオの赤十字戦傷病院に派遣された航一郎(大沢)が、全身全霊を込めて医療に従事し、なかんずく、麻薬と戦闘で心身が破砕された現地の子どもたちのPTSD(心的外傷後のストレス障害)を治癒させようとする流れには、心打たれずにはいられない。これを補佐する看護師和歌子(石原)も健気で心底美しい。この二人の献身の源泉が、シュバイツァーとマザーテレサというのも解かりやすくて、むしろ微笑ましい。
 9人を銃撃戦で「殺した」という現地少年と航一郎のエピソードも、この作品のテーマにピタリと合っている。
 アフリカの医療現場と、日本の「無医村」の問題を、航一郎の恋人貴子(真木)を通して対比させ、さらには「どこが違うのか」と問い詰める形も見事だと思う。

 にも拘わらず②爺の中で「残念」に思う気持ちが拭えなかったのはなぜだろう。帰りの車の中で、それははっきりと見えてきた。物語の「濃淡」が明確になっていない。登場人物それぞれに「葛藤」が足りないと気付いたのだ。広い意味で「いい人」、「理解者」しか出てこない。もちろん主人公を殺した「現地戦闘員」は「いい人」とは言えないだろうが。
 例えば荒涼とした戦傷病院で、航一郎と和歌子が、ある種の救いを求めて男と女にならないのはなぜか。あれほど慕っていた貴子が、航一郎への想いを断つ哀しみも伝わってこない。あたかもストーリーに流されるままに、あの名女優真木よう子が石のお地蔵さんのように演じているのが、痛々しかった。
 これら爺の不満の内容が、実話ベースの原作に縛られたためだとしたら。
 「映画」として残念に思う。
 しかしこれも、爺の、無いものねだりかもしれない。

 もう1点、指摘すべきかどうか迷うが、この作品は、主人公たちの人間性や生き方について観客が感動する「権利」を過失によって奪っているのだ。「劇中」で大勢の登場人物が、「これでもか」と言わんばかりに礼賛してしまっている。爺が鑑賞後に感じた違和感は、これが原因らしい。
 観客は「うん、そうだね」とうなずくしかない。「減殺された感動」を胸に…。

書き忘れたので付加する。この映画は上記①の視点で☆5つだと思っている。爺はよほどのことが無い限り、目頭を熱くしたりはしないのだ。


. プロフィール

蛙声爺

Author:蛙声爺
文芸同人誌編集をしています。
考えるフクロウが理想。
木内光夫のHPもよろしく。

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