蛙声爺の言葉の楽園

. アニメ、「おじさんめ」

 米国アカデミー賞長編アニメーション部門にノミネートされていた高畑勲監督の『かぐや姫の物語』が「落ちた」。爺に言わせれば「マジかよ!」だ。発表日の前監督は現地から「賞は運もあるから。いまを楽しみますよ」とコメントしていた。落選決定後は「平面画面のアニメは消失するのかな」と寂しげに語っていた。CGアニメ氾濫のアメリカで、ディズニー傘下の何とかいう著名なアニメ監督は、手書きかぐや姫を手放しで絶賛していた、「素晴らしい、ぼくらには絶対できない」と言って。多人数の投票だから仕方ないか。

 
 アニメといえば苦い思い出がある。伊東市八幡野に住んでいた頃だから、20年ほど前になる。横浜にいる姪が単身爺を訪ねてきた。目の前で、大学院まで出た子がアニメをやりたいと目を輝かせていた。20代後半になっているはずなのにこの姪は、女子高生のように可愛く見えた。父母の血統で「絵」をやるのは一番下の姉と爺だけだったので、聞いた時の感想は「意外だな」だった。今ほどアニメ需要が無い頃の話でもある。相談される「おとな」の回答はおおむね同じだ。「ものになるのか。食っていけるのか」と心の中で言ったものだ。詳細は憶えていないが、反対はしなかったと思う。ただ、年老いてから悔いている。なぜ、「いったん志したら、さいごまでがんばれ」と励ましてやらなかったのだと。それが聞きたくて遠路はるばる訪ねてきたんだろうに。伊豆高原駅舎内のレストランで一緒に食事をしただけで終わらせてしまった。

 姪は「Windows」なんかが出ていなかった当時に、コンピュータをやっていた。いまのアニメはコンピュータで創るのが主流だ。当時、手で描かないアニメなど誰が想像できただろう。
 それでも言いたい、「ごめん」と。
 言ってしまった後悔は、比較的早く色あせて消える。
 言わなかったという悔いは、歳月を経て次第に色濃くなっていく。

 齢を重ね、それなりに視野が広くなっていくと、過去の「失敗」が明確になっていく。若い頃は気づきもせず、「失敗」と認識していなかったことまで、「あぶり出し」のように急に見えてきたりする。
 そういう「想い」を深く刻んだものが顔の皺(しわ)なのかもしれない。
 『あのときは、ごめん』が、毎日増えていく。

. ちょっといい朝

 前日が勤務日で13000歩ほど歩いたことも手伝って21時半に就寝。熟睡できたので今朝の起床は4時10分だった。すこぶる目覚めが快い。毎度「いでたち」が上から下まで黒装束なので、暗いうちに歩くのは好きではない。自分が闇の中に埋没してしまうからである。2時間ほど西村雄一郎著『黒澤明を求めて』を読んでから散歩に出た。淡い曇り空だった。

 松川に架かる「あさひ橋」が舗装工事中で、車は通行禁止。橋の両側に警備員が配されていた。徹夜の保安勤務らしい。近づくと笑顔で「おはようございます」の声がかかった。慌ててこちらも同様に返す。渡り切って、反対側の係員とは、ほぼ同時に挨拶を交わした。なんだかとても気持ちがよかった。

 ふと左手をみると、桜の老木の1本の枝先に白いものが引っ付いて見える。「まさか」と思って確認すると、十数輪の桜の花だった。「まだ2月だよ」と驚く爺。ここ1両日の春の陽気で「起床時間」を間違えたのだろう。引っ込みがつくのかどうか、聞いてみたいと思った。

 散歩の帰路、また「あさひ橋」を通ったときだ。さっきの警備員がまた笑顔で「こんにちは」と言った。「おはよう」は済んでいるから2度目は昼用の挨拶。洒落が利いている。爺も笑って「こんにちは」で返した。なんだか可笑しかった。

 外階段を上がって2階に出たところでハッとした。外廊下の手すりの上に居る。市内の電柱に巻かれた「広告」で何度もお目にかかっていた野鳥だ。伊東市の「市の鳥」イソヒヨドリ(磯鵯)。遠い空を見ているようで、背後の爺には気づいていない。心ゆくまで綺麗な姿を見つめていられた。十数年も伊東に住んでいて、初めて実物に出会った。なんだか嬉しかった。

 

. 暗いのは映画か、爺か

 この頃一つ前のブログを引っ張って語ることが多くなってきた。書き手としては少しく忸怩(じくじ)たるものがあるのだが、「これもありかな」と思うようになった。のらりくらりと語るのが快感になってきたのかもしれない。
 我が家の「夕餉の映画館」で「途中下車」するDVDが多いことは前回触れたが、作品の出来とか好き嫌いではなくて、鑑賞を中止する場合もある。画面の暗さが原因であることが多い。これも「ゴジラ」で指摘した。

 或る晩、『ゼロダークサーティ』(2010年、キャスリン・ビグロー監督)を観ようとした。この作品ご案内のように当該年度の米国アカデミー賞ノミネート作品である。ところが冒頭の数十秒の真っ暗闇がいけなかった。『ゴジラ』鑑賞の翌日だったので「頭にきた」のだ。ようやくヒロインが画面に出てきたころには、どこからか「中止命令」が…。つごう10分で終わった。
 じつのところこの日の癇癪(かんしゃく)起こしは後悔していて、いつか機嫌のいい時に一人で「再挑戦」をしたい。
 以前「9.11」を描いた『ワールド・トレード・センター』(2006年、オリヴァー・ストーン監督)を観たときも同様の状態になったが、幸いそのときは観続けようという理性が勝っている。

 なぜ暗い画面が多いのか。少し冷静になって考えてみた。「自然な採光」で撮影が可能になったからではないか。それはフィルムを使わずビデオになったことと符合する。爺の若い頃は時代劇の夜のシーンなのに昼間のごとき明るさで室内が「描かれて」いた。照明をたくさん使ってのこと、さぞかし役者は暑かったろうと思う。「ロウソクや松明(たいまつ)しか無かった時代の夜がこんなに明るいわけないじゃん」と苦笑していた記憶もある。そのころ写真では、高感度ASA400のフィルムを使うと照度不足でも撮ることはできた。ただ粒子は荒れ気味になる。夜間の自然光では映画も同様だったはずだ。

 現在夜の場面は当たり前に「暗い」。では正解じゃないかと、自分の中の「誰か」が言う。
 ただ我が家の「映画館」は夕食を食べながらなのだ。暗い画面で映像を追えなければ、僅かばかり残しておいた灯まで消す必要に迫られる。毎日「闇鍋」は無いだろう。つまりそういうことなのだ。ご容赦。
 いつか誰かに「食べながらじゃ、映画に集中できないじゃん」と言われた。
 ご心配なく。優れていると評価した映画は、日を変えて、傍らに筆記具を置き、一人で観直すことにしている。

 「闇鍋映画」のストレスから爺は一計を案じた。かわいい女子高校生が数人出てくる1回15分のアニメ『YAMA NO SUSUME』(山ノススメ)をツタヤから借りてきたのだ。とても「よかったぁ」、明るくて。
 最後に「夕餉時にDVD映画」はなぜ?にお答えしておこう。もちろん誰にも質問されてはいないが。
 「一に殺伐とした刑事事件の報道。二に(ちょっとためらって)美味しそ過ぎる食レポの氾濫(はんらん)」
 どちらも、どちらさまでも、「食卓の敵」でしょ。

 
 

. 「ゴジラ」

 同人誌『岩漿』の最終編集に追われていて、ブログが「ご無沙汰」になっていたここ10日ほどの間にも、『夕餉の映画館』は続けていた。ただ鑑賞を始めたDVDの殆どが、爺のいう鑑賞基準「開始から30分以内に引き込まれる内容」に合致せず、「上映中止」になっている。
 じつはタイトルの米国製2作目の『ゴジラ』も情けない一作だった。

 「期待が大きすぎたな」と爺は、ため息をついたものだ。
 昨年2014年の7月18日の『夕刊フジ』が「ゴジラ日本上陸」と題して何と24ページの「ゴジラ」全面広告を出している。爺も320円を出して購入、後々の資料として書棚に保管しておいた。さらに素晴らしい2分32秒の『予告編』に遭遇し、まずはこの編集者の才能にビックリしたものだ。かつてどれほどの数の予告編を観たことだろう。おそらく千は超えているはずだ。不気味さを煽るショットのつなぎと、音楽。パニックの描き方。最新兵器と怪獣の対比。肝心のゴジラが最後に一瞬だけ顔を見せるという心憎さ。鑑賞歴最高の作品かもしれないと思った。

 ところがどうだろう。大変失礼な書き方になるが、他国での公開でどれだけ稼いだかは知らないが、「駄作」である。いや、この表現は客観性を欠く。「駄作だと思う」(主観的表現による客観化)。核兵器に対する思想の欠如。「どこの国よ」と腹が立つ現代日本の描き方。『ラストサムライ』では渡辺謙や真田広之の意見を聞いてハリウッドの監督が「日本」を描いたと言われているのに、この『ゴジラ』の監督は耳も貸さなかったに違いない。渡辺謙なら口を挟んだはずなのだ。安直なCGでの画面製作なのだろう、観ていて哀しくなった。その渡辺謙の役どころも失礼極まりない。まともな台詞が一つもないに等しい。最初はあったという原爆に関するコメントもカットされたというし。さらに、因果関係すら曖昧な「事件」の連続。テンポの悪さ。果てしなく続く暗い画面。明るい画面では映画の欠点が目立つとでも言うのだろうか。

 一言で括らせてもらうと、「既視感に溢れるアメリカの家族愛の物語」だ。ゴジラ映画としては、いいところ100点満点の45点。これでは東宝が、純国産の『ゴジラ』を製作すると発表するわけだ。きっと、「ゴジラの生みの親」たちも、「これではいけない」と深刻に受け止めたに違いない。
 日本の技術と心で、本物の『ゴジラ』を創ってほしいと、そう思う。
 ちなみに爺は、松井秀喜のファンでもある。

. 編集会議終わる

 本日2月15日、伊東市内のいつもの珈琲店で、『岩漿23号』の編集会議が終わった。所要3時間、熱っぽく、楽しい、有意義な会合だった。
 午前中、会員から最後に届いた原稿4作品を、ページ設定して午後2時を待つ。
今回の執筆者数は12名。作品のジャンル別の数は小説が4、随筆が7、詩が4となった。総ページに占める小説の割合は75%である。従来300部を発行していたが、今号は200部と決まった。
 平成9年創刊だから、当同人誌は18年続いていることになる。
 今週いっぱいかけて編集とデータ作りを終え、印刷業者に送付する。『岩漿』の春、到来である。
 とりあえず、ホッとしている。

. 究極の推理映画かも

  前回のブログで自分が語ってしまった内容の是非を検証するために、もう一度映画の「容疑者Xの献身」をDVDで観た。ことの性質上普通の「映画紹介」の手順は踏まない。
 この作品は推理を売りにする映画の、また人間の心の闇を描く映画の、最高傑作だと再認識をした。

 観客に誰が真犯人かを真っ先に映像で報せてしまう。手の内を見せておきながら観客を釘づけにしてぐいぐい引っ張る。これは作者の自信の表れであり、自分に対する「挑戦」でもある。報せたからと言って「席は立たないはずだ」という、作者の観客に対する大いなる信頼でもあろう。もちろんこの手法を採る映画、本作が初めてではない。映画史の中で「嚆矢」と言えるかどうかはわからないが、爺が知る限りではアルフレッド・ヒチコックの『フレンジ―』が何十年も前に創ってはいる。興味のある方は鑑賞されたい。むしろ新しさは捜査機関を脇役にしたのみならず、真犯人も主役にしなかった構成そのものが斬新なのである。
 
 派手なシーンがほとんど無いにもかかわらず、最初の靖子の事件の「解明」に向けた三方向からの展開そのものが派手なのだ。ぐうたらで凶暴な元夫を殺してしまった靖子に始まる「心」の捩(よじ)れ。天才数学者石神が犯す、靖子を庇うためのもう一つの殺人と論理的な隠蔽工作。石神を識る物理学者湯川が「こんなことで天才を失いたくない」という悩みを抱えながら謎に迫る推理。いつもなら湯川に援けてもらえる捜査本部の、思いがけない混乱。映画は、情念をたっぷり含んで理詰めに進行し、観客の心を乱し続けてやまない。観客がいつしか湯川に、「石神の証拠隠滅の謎を解かないで」と、言って拝みたくなるようなプロットになっているのだ。

 「心」を捨てて生きてきた石神が、自分の「心」を見つめてしまったことが、甘味な破滅への入り口だった。物理学者湯川が心底惚れ込んだ程の天才数学者から殺人犯に「転落」した石神。好きになってしまった子連れの女一人を護るために。
 「石神は、自分の容姿を気にするようなやつじゃなかった」
 久しぶりに会った石神の、湯川の若々しい格好の良さを羨ましがった言葉一つが、事件解明の契機になるところも憎い。「彼は恋をしている」と湯川が気づくのである。

 自室で首つり自殺をしようとしたときに、引っ越しのあいさつをしに訪れた靖子と娘。石神はいつしか、粗末な壁を隔てて隣室のこの母子を心の拠り所にするようになる。
 石神の自分の境遇・人生に対する絶望は、言葉では語られない。生徒の無関心な態度には興味を示さず、教室で独り黙々と高等数学の数式を板書する姿で見事にそれを表現したのだ。あまりにもそれは寂しかった。彼は自分の数学を生徒に解かってもらおうとは思っていない。同時に、自分自身を世間に、理解してもらおうとは思っていない。
 湯川が「友達だから」と言うと石神は、「僕にはともだちはいない」と説明なしに突き返す。「独りの闇」が石神の心の中で吹雪いているのが解かる、もう一つのシーンだ。

 「心」は映像化しにくい。俳優の迫真の演技と、観客の自分では診(み)えている「自分の心」が合体した時にのみ、それは理解され、はっきりと映像となって見えてくるのである。
 高等数学の「四色問題」で石神は、湯川に「あの答えは美しくない」と言った。学生時代に二人が出会う回想シーンだ。
 では、同じ「色」でも「恋」という難問に立ち向かった石神の究極の「解答」は「美しかった」のだろうか。
 この映画は観客のあなたに問うている。
 爺はそう思うのだが。

 

 

. 言葉少なの深さ

 前回「駅」の紹介文で、創り手が観る側を信頼して初めて「心に沁みる作品」になるのではないかと、「問題提起」をした。よく考えてみると、というか「思い出してみると」、この理は劇場用映画に限らないのではないか、との結論に達した。

 爺は上記の観点から先ず、いま全盛期を迎えているコミックを俎上にあげてみた。あだち充の『タッチ』がこれに当たる。朝倉南と隣家の和也・達也の兄弟の微妙な恋心を描く野球漫画だ。こんな風に簡単に言い切れない奥深さがある。一つ一つの台詞とこれに反応する相手の言動の間には、文字になっていない「心の部分」が挟まれているからである。「コミック、侮るなかれ」を教えてくれた作品なのだ。

 長編アニメでは『風たちぬ』(脚本・監督宮崎駿)の二郎と菜穂子だろう。もっとも劇場版では存在した二人の愛と病のシーンが、DVDでは一部カットされているようなので、悔しいのだが。おそらく、大戦中未だ不治の病とされていた結核を扱っていて、それが普通の疾病になったいまでは誤解を受けるというのが、その理由だろう。残念で仕方がない。「涙ぐむ観客の権利」を奪っていると思うのだ。

 TVドラマでは、『北の国から』(倉本聰脚本・杉田成道演出)がやはり一番か。北海道の富良野を舞台にした愛情物語だ。寡黙な父親五郎に田中邦衛、幼い長女ほたるに中嶋朋子、同じく長男じゅんに吉岡秀隆を配してスタートした。以後この家族の「成長」が長年にわたって描かれる。ただこの作品、台詞は少ないが、じゅんにナレーション的な独白をさせているので、この点「説明が無い」の括りには入れにくい。後年のドラマ『優しい時間』(倉本聰関連)での、父親勇吉(寺尾聡)と息子拓郎(二宮和也)の寡黙な交流の方が、選び方としては適切かもしれない。

 映画は「駅」の高倉健と倍賞千恵子で決まりだが、爺は、『ガリレオ』劇場版の『容疑者Xの献身』(福田靖脚本・西谷弘監督)を別途で推してみたい。ご存じ推理作家の雄東野圭吾の直木賞受賞小説が原作である。主役である物理学者湯川(福山雅治)、殺人犯の靖子(松雪泰子)、靖子をかばう数学者石神(堤真一)の主要人物3名がこぞって寡黙を通す。黙っている部分の集積が、この映画の心髄なのた゛。稀有な作品と言える。
 最後にこれだけは付加しておきたい。1960年に公開された新藤兼人監督の映画『裸の島』は、何と台詞が一つもない。質的にも、モスクワ国際映画祭グランプリなど各国映画祭で受賞している。しかしこれは全く無いのだから「寡黙」とは言わないだろう。

 「台詞の量が増せば増すほど、個々の台詞も作品も軽くなる」
 そう言い切ってしまうのは不遜だろうか。
 「最初に書いたシナリオから台詞を削れるだけ削っていく。その作業が良質の映画を創ることにつながる」。昔シナリオ講座で講師の新藤兼人監督が、そんな意味の言葉を残したのを憶えている。
 

. 「駅 STATION」

 なぜタイトルが1文字の「駅」なのか、さらに大文字の英語で「同じ言葉」をくっつける意味があるのか。そんな疑問は放っておいて、この台詞が極端に少ない男女の愛の名作の中に入ろう。
 この映画は観客の鑑賞力を信じ、役者の演技力を信じ、スタッフの各種技量を信じて出来上がっている。波や雪や風までが「演技」に参加しているのではないかと見紛う。

 脚本は『北の国から』の倉本聰、監督は『夜叉』の降旗康男、撮影は『劔岳』の木村大作、音楽は山口百恵の楽曲を変えた男宇崎竜童。このメインスタッフの顔ぶれだけでも期待は高まる。
 倉本のドラマは台詞で「説明」をしない。『渡る世間は鬼ばかり』脚本の橋田寿賀子とちょうど真逆である。彼女は何かの折に、テレビの向こうで「長台詞」で何でも伝えきってしまう理由をこう言っている。観ている人に解かってもらえるかどうか不安だからと。もっとも、TVドラマを考えながら見るなんて嫌という世代や視聴者にはこれが福音で、視聴率は高いのだが。わざわざ脚を使いチケットを買ってスクリーンに集中する映画とは事情が違うという人もいるだろうが、倉本は『前略おふくろ様』、『風のガーデン』などTVドラマでも同じ姿勢を保っている。この脚本の寡黙さが主演の高倉健、倍賞千恵子を得て、基本的に刑事ものでありながら、奥深い「男と女の心の世界」を創りだしている。

 事件に絡む男女のエピソードは多岐にわたり、物語の底を流れるテーマを見失うと、「オムニバスドラマ」ではないかと勘違いしそうになる。冒頭で別離する英次(高倉)と妻直子(いしだあゆみ)のトラブルは1回だけの妻の浮気。実家に帰った英次が味わう妹(古手川祐子)と義二の「別れ」の不思議は幼馴染の悲哀。立てこもり犯人の息子とその母親の間には甘やかしの闇。赤いミニスカ女性ばかり襲う五郎(根津甚八)と妹のすず子(烏丸せつこ)には異常なまでの兄妹愛が。さらにすず子は遊び人の雪夫(宇崎竜童)との子を中絶。警察官英次と居酒屋のおかみ桐子(倍賞)には寂しさの共有があり、桐子の元カレにあたる指名手配犯森岡(室田日出男)と英次とは運命の遭遇。警察官と犯人の間で心揺れるおかみの女心。
 それぞれのエピソード、事件が、それにかかわる人間たちの「独り」を描き出していて、胸を打つ。
 最も秀逸なのは桐子の章だろう。手配犯森岡に頼られた桐子が、深い仲になった英次との「将来」を期待してか、警察に森岡の所在を通報してしまう。通報しつつ匿(かくま)ってしまった矛盾を刑事に突かれて桐子は言う、「男と女だから」と。英次は桐子宅を訪ねた際、正当防衛で森岡を銃殺してしまうが、初めて英次が警察官であることを知った桐子は、その現場でぼそりと言う、「そういうことか」と。英次に好かれていたのではなかった、「張り込み」だったのだ。夢を見た自分が可笑しくて、情けなくて…。こんなシーンでも、高倉と倍賞の二人は説明ではなく、極限まで短い台詞と持てる演技力で「勝負」しなければならない。これらが邦画の名作と言われる所以だと思う。
 二人が別れる居酒屋のシーンと、独り最終列車で街を去る英次の姿が、すこぶるつきで、哀しい。

 しばらくぶりの「夕餉の映画館」は、132分と長かった。




. 外のどんより雲を見つめながら

 このところ爺にしてはハイペースでブログ記事を更新してきたのだが、だいぶ滞った。同人誌『岩漿』の編集が始まったのも一因だろう。『傾いた鼎・完結編』を脱稿し、会員の手書き原稿を入力し、また、入力原稿の校正もした。経済の「勉強」もあり、文藝本も読んだ。DVDで映画を観る余裕もなく、日々動く凄惨な事件から心乱されもした。気がついたら5日経っていたという感じなのだ。
 それにしても昨日の臨時出勤は凄かった。きょう万歩計をみたらなんと、18000歩を超えていたのだ。しかもその3分の1は階段と脚立だった。それでも軽い筋肉痛のみ。伊東での高速散歩のお陰だろう。
 老いた体は、甘やかすと劣化スピードが上がる。精進精進。

 地元の書店で買った『文藝春秋スペシャル・日本最強論』を読んでいくうちに、鈴木敏夫プロデューサーの『アジアで日米アニメ戦争が始まる』と題した一文に巡り会った。宮崎駿が『風たちぬ』のあと、引退宣言をしたことは承知していたが、ジブリが制作部門を解体し「小休止」しているとは「初耳」だった。ファンとは言えない体たらくなのだが。もちろん、2001年にも同様のことをしていた由、ホッとはしている。アニメ制作は、「ソフト産業」ではなく、「モノづくり」だと捉える時代がきたと喝破する彼。アニメを大昔のイギリス一航海事業になぞらえることも出来よう。その都度企画を練って、資金を集め、船乗り(アニメーター・職人)を募る。航海から戻って利益を分配して解散。数十億も経費が必要になる長編アニメ。時代の趨勢だろうか。何か寂しいものを感じる。そういえば彼もプロデューサーからゼネラル・マネージャーに変わったとか。

 爺はいま、アメリカアカデミー賞の長編アニメーション部門にノミネートされている高畑勲監督の『かぐや姫の物語』に注目している。2月のはずだから、あとすこしで決まるのだ。すでに海外の映画祭で数種の賞を受けているので確率は高い。
 CG全盛のアニメ業界の中で、8年を費やした手書き中心のアニメ。「この作品を世界一にしないでどうする」といった気持ちでいる。海外はいざ知らず日本では、「漫画が動くものがアニメーション」(前掲書)なのだ。

 「何か、明るい話題がほしいんだよね」

. プロフィール

蛙声爺

Author:蛙声爺
文芸同人誌編集をしています。
考えるフクロウが理想。
木内光夫のHPもよろしく。

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