蛙声爺の言葉の楽園

. 自作の化粧

 来年の春発行の『岩漿23号』に載せる予定の爺の小説『傾いた鼎(かなえ)・完結編』は、平成15年発行の『岩漿11号』に載せた未完の小説『傾いた鼎』を完成させるためのものだ。当初この作品は、大学に通う3人の若者、直情径行型でカメラマン志望の圭(けい)、難病を抱えた文学青年翔(しょう)、トラウマを持った画家志望の女子優布(ゆう)が、一定期間内に繰り広げる「青春という名の未成熟な混沌」を、3者別々の視点で語るというプランだった。ところが「圭の章」だけで30枚 に達し、いわゆる「ページ割り」の観点から完成を諦めて、「部分掲載」という形をとった。単純に3倍にすれば90枚になってしまう。読者の反応も性愛描写に関心がいくことが多く、爺の続編への意欲もようやくなくなっていったのだ(もっとも同人の一人と、他の同人誌の編集の人からは内容についての評価を戴けたが)。

 仕事に追われ、高齢化が進む自分を見つめていく中で、数年前から自作の改訂・増補、言い換えれば「自作の化粧」を始めた。二通りに分かれる。『小説太田道灌』、『夢の海』、『孤往記』の3作品は、出版という形になった。岩漿以外の場で発表した「桶胴」と「しきみのように・あとがき」は、視点も構想も新たにして『岩漿』で発表という形にしている。『閼伽桶胴(あかおけどう)』と『雪積む樒(しきみ)』がそれだ。
 この「化粧」作業は今回の『傾いた鼎』でいったん終える。
 時間がとれるようになった以上、新作に取り組みたいからだ。90枚の作品はこの秋の間にできた。来年は350枚以上の2作品を予定している。むろんタイトルも筋も決まっていてのこと。
 ただ「生まれた子」の出来が気になるのと同じ理屈で、『岩漿』掲載の中編小説『ツール』や『狗(いぬ)』など、気になって仕方がない自作は、まだまだある。

 あと4日で平成26年は終わる。
 来年はさらに時間を大事にして、学生のように、学び、書き、挑戦していこう。
 それこそが襲ってくる「認知症」への「防護壁」だろうとも、思う。
 

. 昔日の感

 あれあれっと思っているうちに前回から1週間近く空いてしまったブログ。待っている人もいないだろうから、年の暮れの時間経過の速さを実感するだけなのだが、やっと駄文をしたためられる日が来た。この間4日も出勤している。これも年末のなせるわざか。

 とくに強いきっかけはないのだが、アメリカの某大会社の経営者が同性愛者であることをカミングアウトしたというニュースに触れて、「そこまで来ているのか」と検索を始めた。『同性愛・両性愛であると自称、公表した著名人一覧』なるものに出会い、外国も含めこんなにもいるのかと仰天した。
 確かに以前から、歌手のエルトン・ジョン、作曲家チャイコフスキー、織田信長と森蘭丸等々、古今東西の著名な同性愛者については頭のどこかに入っていた。また昨今の「おネエ」たちのマスコミでの跋扈跳梁ぶり(失礼)に、「時代だなぁ」と嘆息していた爺だった。それでも彼らは「特別な存在」として認識していたような気がする。しかしネット検索が『同性婚』に及び、その是認ないし保護を法制化している国家、地域が数十という多さには度肝を抜かれた。ホモセクシャル、レズビアン、バイセクシャル、ゲイなどが「異常」「病気」「恥」などと感じたり、受け取られたりした時代は、すでに「昔日」になっていたのだ。
 「昔」といえば、爺にとっての「ホモ」は、長い間「ホモジナイズド牛乳」の略称でしかなかった。

 思い起こせば爺は「同性愛者」に対して、いわゆる「嫌悪感」は昔から無かった。もちろん自ら這入りこむ気はさらさら無いのだが。
 なぜだろうと探ってみると、卒論に選んだ「刑法175条(猥褻物頒布販売)の批判的検討」の基礎資料として相当マニアックな関連書にもあたったからだと、腑に落ちた。読んだ書物の中に「生殖に関係のない性的関係は最上の高等動物たる人間にのみ存在する」という記述があったのだ。上記一覧に記載されている人たちのほとんどが一芸に秀でているのもこの理の証左か。
 同性婚という法制度も、「生殖」を切り離し「宗教的な戒律」を除けて検討し、血統にともなう広義の相続関係に縛りを設ければ十分に合理性がありそうだ。「生殖につながらない性は悪魔的である」という古来の性道徳律は、どうやら消失寸前らしい。そういうアングルで見ると、日本の「婚姻」とて、受理条件に「性交(生殖)能力の存在」という項目は無い。

 これを書いている間に思い出した映画は『チャイコフスキー』。ホモのチャイコとパトロンであるフォン・メック夫人との「プラトニックラブ」。BGMに使われた『花のワルツ』がいまも耳に残っている。そしてフェリーニ監督の『サテリコン』。観終わって吐き気さえ催した淫靡な世界だった。アルパチーノ主演というだけの理由で、タイトルの意味さえ知らずに観た『クルージング』。狂気と喜悦は紙一重なのか。ハードゲイの世界に度肝を抜かれた。
 最後に、20代で読んだはいいが、「美学」の意味が皆目分からなかった稲垣足穂の『少年愛の美学』。40代に再読し「蘊蓄(うんちく)の度合」に改めて驚いたものだ。

 はて、日本は民法の「婚姻」の改正にまで、いつか行ってしまうのだろうか。

. 「ゴンゾウ 伝説の刑事」

 レンタルビデオを5本借りたが、1本しか観終わったものがなかった。これは、「上映」から30分以内に引き込まれなかった作品はその先を視ずに鑑賞そのものを止めるという爺の映画選別法に因る。その1本が、ついでに選んだこの『ゴンゾウ伝説の刑事』(第1巻)だった。
 御多分に漏れず1回分は「主要登場人物紹介」で始まったが、テンポがよく、また「ん?」という引っ掛かりもいくつか差し込んであり、2回ではさらにそれが拡がっていった。小気味のいい展開というのだろうか。ちょうど書き始めた企業小説が登場人物多数なので、「これは刺激になるかも」と連続鑑賞を決め、翌日、DVD5本を総借り換えしている。10週に亘っての連続TVドラマだったようだ。

 元捜査1課の敏腕刑事でいまは備品係長になっている「ゴンゾウ」の黒木警部補(内野聖陽)、黒木に駆け出し時代にしごかれ現在警部になっている佐久間(筒井道隆)、警察一家の落ちこぼれを自認しているアイドル刑事の遠藤(本仮屋ユイカ)、3年前の事件でトラウマを抱えている黒木の主治医で精神科医の松尾(大塚寧々)。そのほかにも憶えるのが一苦労という数で登場する追う者、追われる者、それらの家族の一人一人が皆、心の問題を抱えているという、爺好みの設定なのだ。
 とくに佐久間の黒木への「対抗意識」や、その底流にある「こころの闇」が本作を、刑事ものを超えて奥深くしている。
 3年の間に起きた連続殺人を解決する契機となる言葉、黒木の元恋人のエンディングワード『この世界に、愛はあるの?』は、そのままこの作品の統一テーマとして理解できるように思う。

 本作が原作を持たずオリジナル脚本なのも嬉しい。脚本家古沢良太氏に「拍手」を送りたい。この1クールが、卓越した台詞捌きで人間関係を活写し続けた脚本家の名を冠した「向田邦子賞」を受賞したのもうなずける。

 さて余談になるがこの「ゴンゾウ」、『能力や経験があるのに働かない警察官』という解説もあるが、手元にある久保博司著『警察官の「世間」』(宝島社新書)によれば、『組織運営の足手まといになる人』と説明されている。いずれにしても警察内部の用語、符牒の一種だとか。
 しかしこの2つからは内部の多義的な事情がくみ取れるので、「無能」の代名詞ではないことが解かる。この作品の黒木は、その具体的証左であろう。
 
 ちなみに『おろか者』という解釈もあるらしいので英和辞典で確かめたところ、こんな解説が出てきた。
 『ゴンゾウ・ジャーナリズム』(gonzo journalism)、刺激ばかりを求めて真実を語らない新聞記事。
 「ゴンゾウ」は、警察内部の符牒にしておくのは、もったいない言葉かもしれない。

. つかめなかった音程

 12月17日、勤務先の忘年会に出た。場所が箱根なので、車で行っての1泊という「イベント」になる。20時30分から湖尻の居酒屋、終了後にホテルのバーで2次会という流れだった。

 さてその2次会、のっけから爺のために、本人の現場了解なしに入れられたカラオケの曲は『いちご白書をもう一度』。爺が酔っぱらっても歌える唯一の曲だ。逆に言えば酔って歌うと必ずこの曲。いつしか会社では、「学生運動をやってたのでは」との噂が立った。以前にも書いたが、経済的に悲惨な青春時代を送った爺にはそんな余裕は全然無かった。
 やむなく『いつか君と行った(^^♪』と、いつも通り歌い始めたのだが。『なんか変、音程が狂ってる』。気が付いて治そうとしても、頭から唇への伝達が悪いのか、頭自体が変調なのか、不可能だった。屈辱感から2分ともたないでマイクを置いた。会場は引きまくっている雰囲気。初めて聞いた人は「彼は音痴」と決めつけるに違いない。この催しは最近入社ないし退職した人に贈る会でもあるらしい。もう音痴の評をくつがえす機会は無い。『ま、それもいいか、印象に残って』

 1次会でのビールが過ぎたのに違いない。『弱くなったもんだな』
 自分の「広義の能力」の低下を「客観視」した上で確知し、自分から求めた退職(引退)。その判断の正しさを再確認させられた「送別会」だった。
 1人ぽつんと泊まった深夜の洋室。
 極限の静寂には「音」がある。聴くのは、そう、心だ。
 自分の頭を目の前にして、じっと見つめているような気がした。

 翌日は、早朝にホテルを発つ。
 伊豆スカイラインで、車の中で歌った『いちご白書…』は、音程も正しく、きちんとしていた。
 それでも「再確認」の苦味はしっかりと、全身に残っている。

. 脳を守ろう

 いま左の耳の後ろが痛いので、メガネのフレームで擦れないように接触部に綿を巻き付けている。12月14日の日曜日、自宅のトイレでドアノブをつかみ、出ていこうとした際に左側頭部をドア枠の支柱で強打したことに因る。当初は頭の小さな傷の方が気になっていたのだが、翌日左耳が真っ赤になって腫れ、熱を持った。耳の後ろを恐る恐る触ってみると切れていて、すでに瘡蓋(かさぶた)ができ始めていた。

 爺にとって「頭」は鬼門らしい。若い頃から何度も頭部を損傷している。
 最初は20代の初め、文京区音羽で住み込みの牛乳配達をしていたころの「事故」。昼休みに近くの大学の職員室に牛乳袋を2つ下げて直売りに行く途中、校舎の角に顱頂(ろちょう)をぶつけた。頭のてっぺんから血を流していたのを消毒治療をしてくれたのは、体育関係の教授だった。なんでも著名な柔道家なのだとか。当時はCTもMRIもない時代。何よりも金がなかったので、医者にも行かずに済ませた記憶がある。いまになって考えてみれば極めて危険な話だ。

 二度目は伊豆に来てからの40代前半のこと。職場の庭のカナリア・ヤシに梯子をかけて葉を落としているときだ。切り落とした瞬間長いヤシの棘(とげ)が右腕に刺さり、反射的に手を離したため梯子伝いに頭から転落をした。後頭部打撲。たしか稲取の大学病院に車を走らせたが、結局順天堂伊豆長岡病院に回され、自分で運転して行ったように記憶している。このとき「CT」(computed tomography: コンピュータ断層撮影)なるものを初めて経験した。

 伊豆での頭部損傷はさらに続き、同じく40代でまた顱頂を強打している。創作太鼓で使う撥(ばち)を落として拾い、元の姿勢に戻ろうとしたその勢いで、鉄製制御盤BOXの角にぶつけた。このときも頭をタオルで縛っただけで、最寄りの病院に車を走らせた。たまたま居た院長が自ら緊急縫合手術をしてくれた。頭蓋骨のつなぎ目に角の先端が刺さっていたら命取りだった由、「一人で車で来るなんて無茶だ」と、本気で叱られている。

 最後は箱根でのこと。ホテルのドアの支柱に、荷を両手に持ち歩く速度そのままで激突した。振り返って車の位置を確認し、顔を前に戻したその瞬間の事故だった。このときは流石に、「脳内出血」の恐怖に駆られた。それでも伊東の専門医のもとに駆け付けたのは翌日。このときは文明の利器「MRI」(magnetic resonance imaging: 核磁気共鳴画像法) の凄さに驚嘆したものだ。聞けば頭部診断にはCTではなくMRIが圧倒的に良いという。

 さきごろフィギュアスケートの羽生選手が頭部に損傷を受けながらも演技を続けたということが、というより演技を続けさせたということが論議を呼んだが、しかほど左様に万一の場合が懸念される頭部打撲である。かつて爺がとった行動は、自傷行為に近い、「命を粗末にした」乱暴なものだったと言わざるを得ない。いくら動機が、自分の過失で人に迷惑はかけられない、というものであったとしても。

 20代のころ、つまり最初の頭部損傷のあとで、簡易な専門書として岩波新書の『脳を守ろう』(1968年-)を買って読んだ。調べたら、まだ「古書」としてはあるらしい。
 自戒を確かなものにするために、もう一度読みたいと思っている。


 

. あと1センチ

 今朝若者向けと感じられる「ニュースショー」を見ていたら、『あと1センチの恋』という新作洋画の紹介をしていた。解説を聞いているとタイトルの長さは「ミリ」でも「メートル」でもダメで、「センチ」にする必要があったに違いないと思った。「センチメンタル」(sentimental)の懸け詞(かけことば)として使うためだ。「わたしおセンチなの」とかいう、あれだ。もちろん爺の想像でしかない。

 恋はある種の切なさ、感傷を伴ってこそ「ドラマ」になる。古来、相聞歌(そうもんか)、歌詞、ポエムの類は、叶わなかった恋、失った恋を扱ったものが数多く、しかも美しく、哀しい。また、それらのほとんどは人々の共感を呼んでやまない。
 成就した恋の真っただ中では、「和歌」や「詩」を創る暇があったら普通、恋人のところへ飛んで行って「いま」を楽しむだろう。第一ほかの人の「恋の謳歌」に、だれがまともに付き合うものか。これは「ひとの不幸は蜜の味」にも通じる理(ことわり)だ。

 テレビの紹介が終わるころ、爺の手は自動的にこんな文章を走り書きしていた。ちなみにテレビやDVDを見ているときは、必ずといっていいほど手元に、紙とボールペンを置いている。
 大勢の人を乗せて走る電車のために、終着駅(死ぬ)まで交わらないことを強いられるレールのような恋。
 そんな映画を探し出して観てみたい。
 はたしてそれは「恋」と呼べるのか。「運命(さだめ)」の方が適切ではないのか。
 爺の拙い小説『孤往記』は、ハッピーエンドに見えるラストを含め、すべてこの彩りの底流で話が進められている。
 爺は思う。
 成就しない「恋」でも無いよりは有ったほうがいい。終着駅が近づく齢になるとそれが、「心の懐炉(カイロ)」になるかもしれないのだから。
 ただしその懐炉は、自分以外の誰をも暖めはしない。

. 師走の風

 12月7日に更新したあと6日間もご無沙汰をしてしまった。この間に3回の勤務日があり、さらに今月特有の「手仕事」である60枚の年賀状書きに時間をもっていかれたことが主原因。ほかにはホームページの追加補修というのもあった。何だか久しぶりにブログしているという感じが強い。
 ふと気づいたのだが、このところ映画紹介と一般記事が交互になっている。べつに意識しているわけではないのだが。カテゴリ「映画」の数も本家の「文芸」に並んだ。これも映画1本1週間100円のDVDレンタルの「福音」ということか。

 昨日、15時半ごろに家を出た。海に向かう松川沿いを歩き、橋で左折、キネマ通りから湯の花通りを経て伊東駅へ。文字通り寒風吹きすさぶ中、だった。岩漿仲間の奥ノ坊での忘年会が17時から。送迎バスがくるまでに駅前に集合していなければならない。見栄を張って薄着をしたので、待ち時間の「寒さ」といったらない。

 12月は皆それぞれに、また、あれこれあって気ぜわしい。今回は全員書き手、参加者8人となった。和の料理を食べ、ウーロン茶と酒、2種類の飲み物を楽しみながらワイワイ・ガヤガヤとやっていたら、3時間は瞬く間に終わった。
 『太田道灌を大河ドラマに』の要望署名にも協力をしてもらった。

 まるで中学生のように手を振って2グループに別れる。乗用車組とマイクロバス組に。爺は後者の組で伊東駅まで同乗し、改札口で解散をした。暗く寂しくなった街の中を、襟を立て、向かい風の中をひたすら歩く。ほろ酔いから素面(しらふ)状態に戻るのに数分で足りる寒さだった。さぞかし血圧も上がったことだろう。
 それでも想う。「あったかい会合でよかった」と。
 自宅に近づいてからセブンイレブンに立ち寄り、「おでん」を買う。
 もう一度温まるために。

. 「ストロベリーナイト」

 あなたは心の中に降る目に見えない雨(invisible rain)に打たれ続けていませんか。もしそうならこの作品はあなたにとって、たまらなく愛おしいはずだ。

 テレビドラマやDVD化された一連の「ストロベリーナイト」を観ていなかった人にとっては、もしかしたら「支離滅裂」に映る映画かもしれない。姫川玲子警部補(竹内結子)が事件に関係する龍崎組若頭補佐の牧田(大沢たかお)に捜査情報を流し、牧田もまたやくざとしての秘匿事項を口走る。あろうことかその後で車の中で「合体」。さらにはその現場近くに車を止めて、耐え忍んで待っている菊田巡査部長(西島秀俊)。

 映画「ストロベリーナイト インビジブル・レイン」は注視していないと見失うほどの、極めて重層的な造りになっている。
 画面に現れる「罪」の数々も半端ではない。実父と娘の近親相姦、誤認逮捕、署内での被疑者の自殺、復讐、偽装工作、やくざの抗争、盗聴、買収、特別公務員暴行、連続殺人、警察の隠蔽工作…。罪を犯す者、かばう者、追う者が入り乱れ、その一人一人が皆、「重いもの」を背負っている。これらの中でひときわ閃光を放っているのが、ヒロイン姫川の執念だ。彼女にとって、いまの捜査で、職をかけて、また「命」を懸けて向かい合っているのは「自分の中の闇」、いまも降り続いている心の中の「雨」。
 そんな姫川に愛情を抱いている部下の菊田は、その想いを「男の部分」を、頭と心で囲い込んでいる。姫川は菊田の気持ちを十分に知りつつも、自分が抱えている闇の中に連れ込むことを避けている。これも愛情のかたち。姫川と同じ闇を内に持つ牧田はスルリと二人の心の隙間に這入りこんだことになる。菊田の理性は「弱さ」だと確信したのだ。姫川は終に、内なる凶暴性と破壊された心裡を共有できる牧田に一種の「安らぎ」を感じてしまう。そう解釈しなければ、本来ありえない二人のセックスを、観客として納得することはできないだろう。

 かつての誤認逮捕など警察の失態を隠蔽するため、捜査方針を歪めてくる幹部の警視長。不承不承従わざるを得ない警視や警部といった中間管理職たち。姫川は、強権的に、あるいは部下に対する愛情から自重を求めてくる上司に逆らい、一直線に真相に迫っていく。この時点ですでに姫川は、退職を決意しているのだ。事件を解明できても、できなくても警察官としての自分は終わる。牧田との絶体絶命の単独「対決」は、その覚悟を前提としていたのだ。
 それほどに重たく暗い姫川の「闇」。

 「だからこの女はやだったんだ」と、路上牧田をナイフで刺しながら泣く川上(金子賢)。若い男は牧田をアニキと慕い尊敬もしている下っ端の組員だった。彼の動機は心情的ホモセクシャルだろう。刺す対象を一緒にいた「恋敵」姫川ではなく、牧田その人にしたからである。ここにも別の「闇」が潜んでいた。
 そして牧田は抗争の果てにではなく、姫川玲子のために、死んだ。
 姫川班が解体となったことは、言うまでもない。

 観終わると体中の筋肉がこわばっていた 。
 体力の要る映画というものに、久しぶりに出会った気がする。

. 年賀欠礼の便りから

 11月からのいわゆる「年賀欠礼」はがきが5枚になった。毎年友人・知人の親御さんの逝去に伴うものが多いのだが、今年は爺と同年齢の方の「永眠」が2通あって、いっそう悼んだ。お葬式があったことすら知らなかったわけで、長いもので10か月前の葬儀もあり、いつもながら世間法でどうしたらいいかは解かっていても、個別的に実際的にどうしたものかと大きな迷いの中に閉じ込められる。諫言すれば「知らされなかったこと」に対する解釈ということだ。さらに言えば、自分の親族が逝ったとして果たして、友人・知人に報せるかどうかという「立場の交換」の問題でもある。自分に置き換えてみると、「迷惑をかけたくないな」と結論しそうだ。
 とりわけ昨今は親族葬・密葬が多いように感じる。天寿を全うしたと世間も認める齢の葬儀ならなおさらかもしれない。
 爺も「故人の遺志で密葬に」と遺族が書けるようある種の「遺言」を早めにしたためておこうと想っている。

 健康上の理由で退職したその時点でも、たぶん10歳ぐらい若い人以上に動けていたと思っている。ではなぜ「健康上」なのか。あれから3か月、蓄積疲労というものは週2日勤務なのだから当然、ほとんど消えた。引きずっているのは、外からは見えない内臓の異状だ。何かが起こっている。そしてそれは自分の寿命を縮めるに違いない。杞憂ではなく自覚症状からの予測だ。だから「心静かに」となる。「やり残していることを急ごう」となる。

 考えようによっては「矛盾」しているのだが、体力を落とすまいとして散歩や静的トレーニングをしている。
 ブログやホームページで誰彼に、広義の「想い」を発信している。「ぼくここにいるよ」ではなく「まだ生きてるよ」と。
 先月は90枚の推理小説を練って仕上げ、応募ができた。
 昔ならわけなく出来ただろうと思うと、うまくいかない作業に、かなりこだわって頑張っている。
 前頭葉、海馬の衰えに我慢がならず、毎日漢字検定問題に挑んでいる。
 好きな晩酌もやめて、早1週間になる。

 爺が、自分自身という意味で「爺」であるためになのだが、こうやって書くと、いかにも滑稽にみえるから「不思議」だ。
 どうやら、やっぱり、「そういう年」らしい。どれ、景気づけに、加山雄三とザ・ヤンチャーズのCD『座・ロンリーハーツ親父バンド』でも聴くか。

 シャンフォールはこう言った。
 「離婚は、きわめて自然なものなので、多くの家では毎晩それが、夫婦の間に寝ている」
 これになぞらえるならば、
 「死別は、きわめて自然なものなので、多くの家では毎日それが、夫婦の間で話題になる」。
 
 

. 「飢餓海峡」

 内田吐夢監督で1965年に公開された東映映画だが、原作の小説『飢餓海峡』がモデルにしたとされる青函連絡船の洞爺丸事件が起こったのは1947年(昭和22年)で爺がこの世に生れ出た年と一致する。
 この内田吐夢はご存じ『宮本武蔵』5部作の監督、会社から現代劇をと依頼されたので力を入れ、全編183分という長尺で創っている。会社は興業上長すぎるとしてカットを求めたが内田は譲らない。そこで東映の社長は内田の了解なしに167分に縮めて公開をしてしまった。このためにか内田は東映を去っている。このあたり内田監督もかなり「武蔵」だ。爺が昔受けたシナリオ講座で舛田利雄は、「2時間30分を超えると1日あたり3回しか上映できず、配給収入に多大な影響を与える」からだと言っている。映画会社は芸術性優先ではなく利潤優先なのだ。いつも黒澤明を出して恐縮だが、こちらはもっと食み出して4時間余になったドストエフスキーの『白痴』のカットを求められて、名言を吐いている。「そんなに切りたければ縦に切れ」。もちろんフィルムをである。
 今回爺が鑑賞したのは、183分のモノクロのDVDだ。小説の方も既に読んでいる。
 長編なので「かいつまんで物語を」というわけにはいかない。例によって飛ばすしかないのだが、ここはやはり短くても綴ろう。

 犬飼多吉(三國連太郎)は北海道で強盗を働き、折からの台風で沈没した連絡船の騒動の中、小舟を盗み共犯者2人を海上で殺害、さらに船を上陸後に燃やして証拠隠滅を図る。その後大金を所持したまま、路上娼婦の杉戸八重(左幸子)に誘われて女郎屋にしけこむ。乗船人数と死者の数が違うことを不審に思った老刑事弓坂(伴淳三郎)は、大火災を引き起こした北海道の強盗事件との関連に気付き執拗に事件を追う。八重は犬飼がくれた大金で老父の苦境を救い東京に出て、結局また娼妓として十年余を過ごす。売春禁止法施行日が近づく中八重は、福祉目的の高額な寄付をした会社社長樽見京一郎の新聞記事を読む。この人は「犬飼さん」と確信を持って八重は関西の樽見邸へ。樽見は否定し続けるが、ただお礼を言いたいだけの八重は「人違い」だとは思わない。そして感謝と懐かしさで抱き付いた八重は、抱かれたままで犬飼に殺されてしまう。死に顔はほほ笑んでいた。
 この後映画は、地元味村刑事(高倉健)、弓坂の二人と、犯人犬飼の法的な、そして心理的な攻防が続いていく。

 これほど圧倒的に分厚い刑事ものは本当にまれだと思う。近頃は安直な刑事ものが幅をきかせているが、この作品は重すぎるほどに重い。私見だが、犯罪は人間性の究極の発露だと考えるならば、ただ事件を読み解くだけではいけないように思う。犯人にも、追い詰める側にも、迷いや苦悩が無くてはならない。言わずもがなだが、これは犯罪礼賛とは違う。犯人過保護とも違う。映画が犯罪ものだからこそ、そこには「文芸性」がなくてはならない。そう思うのだ。
 この意味で思い起こすと、傑作はあと二作、『砂の器』と『天国と地獄』がそれだ。

 自身二人の子供を抱え妻ともども貧しく生きてきた弓坂刑事の終(つい)の一策は、物証でも恫喝でもなく、社会福祉に寄付し続ける殺人者犬飼つまり樽見に、「心の証拠品」を突き付けることだった。
 弓坂は言う。「極貧を味わったものにしかわからねぇ」
 「理論武装」をした冤罪の主張を捨て、北海道への移送を望んで犬飼は、途上津軽海峡に飛び込み自殺を遂げる。
  最後まで一連の殺人の決定的証拠は何一つなかったのに。

 極貧といえば八重もそうだった。この「泥沼の中の蓮の花」のようなヒロインを左幸子が見事に演じきった。可愛らしく、明るく、優しく、色っぽく…貧しさの中で哀しくも真っ直ぐに。この役をこの映画のあと、舞台やテレビ映画の中で演じた女優の名をあげてみよう。中村玉緒、太地喜和子、藤真利子、若村麻由美…。
 この役がいかに難しく、重要であるかが分かる。 


. プロフィール

蛙声爺

Author:蛙声爺
文芸同人誌編集をしています。
考えるフクロウが理想。
木内光夫のHPもよろしく。

. 最新トラックバック
. アクセスランキング
[ジャンルランキング]
日記
3155位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
創作日記
134位
アクセスランキングを見る>>
. 2015年9月26日からのご訪問
. フリーエリア
. フリーエリア
. 検索フォーム
. ブロとも申請フォーム
. QRコード
QR