蛙声爺の言葉の楽園

. 「蜩ノ記」①黒澤映画へのオマージュ

 小説を書く環境が戻ってきたので、ここ何日か400字詰原稿用紙で1日8枚をめどに創作をしていたが、劇場映画を鑑賞したくて「蜩ノ記」を選んだ。小田原まで車で走るので相変わらず丸1日を費やしての「行事」になる。

 この映画、原作として葉室麟の小説「蜩ノ記」があり、脚本を古田求(もとむ)と監督でもある小泉堯史が担当している。いわゆる共同脚本である。古田求は、故黒澤明監督と数作に亘り共同脚本で関与した井手雅人に師事した人で、時代物のシナリオを得意とする。また「駄目な脚本はどう撮っても駄目な映画にしかならない」が持論の黒澤明が複数の脚本家と共同でシナリオを練りに練ったことはつとに有名で、黒澤組助監督だった小泉がこれに共感したとみることができる。
 さらに撮影スタッフの多くは黒澤組で、小泉は安心して本格派の時代劇を創れたこと、想像に難くない。とくに「カメラは動いてはならない。動くのは役者、人間だ」という黒澤の方針は、これを徹底して保持している。「役者に対して失礼だ」というのが大きな理由だ。役者の演技が絵としてもたないならカメラを動かすしかないのだが、自分が配した役者はそうではないだろうという信頼が、その根底にあるのだ。それは同時に自分の目への自信でもあろう。

 真似ではないが「オマージュ」と解釈できるシーンがいくつかあった。これから観る人に対して失礼かとも思うのだが、映画的には「小泉」で、感動もしたので記してみる。ただ、黒澤映画のファンでないと気づかないとは思う。
 冒頭の大雨、後ろに祐筆たちの動き、と「赤ひげ」の長屋の庇の下に並ぶ子供をバックにした沛然と降る雨。
 黒澤は、大雨、大風、嵐、大地震、烈日など、激しい自然を能く使った。
 戸田秋谷(しゅうこく)が世継ぎ争いに因る暗殺団を十人近く斬って捨てるシーン、と「椿三十郎」が門の中で息を止めて十数人を叩き斬る場面。
 檀野庄三郎が祭の中で百姓を助けるべく素手で十人ほど叩きのめすところ、と「赤ひげ」が岡場所でごろつき風の男たちを素手で始末するところ。
 秋谷が師で檀野が師に導かれる若者、と「赤ひげ」が師で青年医師保本が弟子。双方とも最初は師に偏見をもち反発、後にそれが尊敬に変わる。
 きりがないのでやめるが、観ていて爽やかさを感じるオマージュだ。小泉や撮影スタッフがいかに黒澤明と黒澤映画に心酔しているか。それを徹底的に知らされた作品だった。

 もう止めてもいいのではないかと誰もが考えそうな秋谷の切腹。10年を経て守る必要がある約定なのか。また約定はそもそも正しかったのか。己との対話の結論として死を選ぶ意味とは何か。
 このあたりは哲学とか武士道とか、諸々の要素があるのでここで軽々に語るのはよそう。
 もう一度、それら鬱陶しい理屈をゴチャゴチャ考えながら鑑賞した上で②を立ち上げたい。
 ☆は5つ。時代劇の本道をいく作品である。
 

. 「博士の愛した数式」

 名優宇野重吉の息子寺尾聰が第30回日本アカデミー賞優秀男優賞をとった作品である。彼が演じたのは64歳になる数学の元大学教授。17年前に義姉(浅丘ルリ子)とともに交通事故に遭い、その後遺症で新しい記憶が80分しか保てないという設定だ。そういう症状の出方が現実にあるのかどうかは浅学にして知らないが、映画はこのことなしには進まない仕立てになっている。博士の事情を知らされたうえで派遣されてくる家政婦杏子に深津絵里。あることから10歳になる杏子の息子「ルート」(長じて吉岡秀隆演ずる数学担当の教諭になる)が教授宅に出入りをするようになってドラマは深まっていく。

 この作品はいろいろなアングルで楽しむことができる。教授と杏子の歳の差を感じさせない淡い恋。教授と息子ルートの、祖父と孫のような心の交流。特に教授にとってのルートは「閉塞してしまった愛情」の出口になっている。教授と72歳になっている義姉との隠された愛の痕跡。最後に義姉の杏子に対する否定しがたい嫉妬。4回ほど観てそれぞれの絡みを精査するのも一興だが、トイレに行かないようにしてジッと鑑賞していれば、自然に沁みてくるように編まれている。したがって1回で大丈夫。

 編集と言えばこの映画の脚本・監督の小泉堯史は故黒澤明に師事している。というより現場で黒澤映画の心と手法を叩きこまれている。手元の『KAWADE夢ムック・文藝別冊・黒澤明』で確認してみた。名作『赤ひげ』でモノクロームをやり終えた巨匠黒澤は、『どですかでん』でカラー映画に転ずる。ついでソヴィエトに招かれて『デルス・ウザーラ』を撮る。ここまでは小泉の名は出てこない。しかしその後約28年に亘って黒澤映画の助監督を務めるのである。『影武者』、『乱』、『夢』、『八月の狂詩曲』、そして遺作となる『まあだだよ』。師匠亡き後小泉は相次いで名作を世に送る。『雨あがる』、『阿弥陀堂だより』そしてこの作品。爺はまだ未鑑賞だが最新作の『蜩ノ記』もそうだ。彼のこの「歴史」を見ただけでもこの映画の心が分かるような気がする。

 この作品、ドラマの説明役を勉めるいわゆる「狂言回し」が成功している稀有な例ではないかと思う。小川洋子著の同名原作本にはない設定の由。成長して教師になったルートが、生徒を前に黒板を使って数学用語と数学の面白さを解き明かしていく。その過程で母親や教授のことに触れ、自然な形で過去のストーリーに招じ入れる。小泉脚本の「勝利」である。観ている我々は知らぬ間に、難解な数学用語を受け容れると同時に、登場人物のやや複雑な心理にも負けなくなっていく。

 誰しもが思うことの一つ。こんな先生に習ってたら「数学、嫌いにならないよなぁ」。何を隠そう爺も、正解か不正解かしか「問題」にしない数字と記号ばかりの、冷酷な「数学」が大嫌いだった。答えにたどり着くまでのプロセスの楽しさと美しさが大事という考え方を知ったのは、独学生活に入ってからのこと。当時数学の啓蒙と教育に熱心だった矢野健太郎、遠山啓(ひらく)という二人の高名な数学者の平易な解説書のおかげだった。もう図書館で読んだ書名さえも思い出せないのだが。

 観終わった後に、心の中に温かい風が吹いてくる作品。☆は5つ。タイトルだけで尻込みしないように祈る。
 

. 「黄昏」(たそがれ)

 説明をしない映画だ。日本でこれを徹底しているのは脚本家倉本聰だが、観ていて気持ちがいい。登場人物の過去をナレーションでも語らず、台詞でも直接には語らない。観客に分らせようとすれば、必然的に一つ一つの台詞や細かな動きに神経を使って創ることになる。因みにこの作品、原作者とシナリオライターは同じ人物である。

 心臓病を患い記憶も怪しくなった偏屈な老人ノーマン(ヘンリー・フォンダ)。父親から嫌われていると思い込み、自分が男の子として生まれてこなかったからと沈み込んだままの娘チェルシー(ジェーン・フォンダ)。父母が離婚し父親についていたが、頼りの父が再婚するとなって自分が邪魔な存在だと、斜ななめになっているチェルシーの婚約者の息子ビリー。ビリーの父親はノーマンの偏屈さを際立たせるためだけの役どころなので省略する。それぞれ心にバリアを張って、心の外側だけを固くしている「家族」を何とかして融和させようとしている老妻エセル(キャサリン・ヘップバーン)。
 この4人が互いを想いながらも、身を固くして体ごとぶつかる「動き」の描写は見事に尽きる。

 ノーマンがビリーに辛くあたるシーンがある。エセルは言う。『ノーマンを怒らないでね。年老いたライオンみたいなものなの。まだ吠えられると思ってるの』と。このとき爺は想った。失ったのは若さだけなのに、人生そのものを否定され、失ったように感じてしまう。いまの自分と、比較してはいけない若き日の自分との、心理的な格闘の日々が痛い。
 釣りの楽しさを覚えたビリーが小舟の中で言う。『はやく大魚を釣らないと。ずっと居るわけじゃないし』。するとノーマンは返す。『わしだってそうだ』と。少年は別荘から去る日を、80の老人はこの世から去る日を、それぞれ言っているのだが、ここでも二人は自分の殻から出られないでいる。こういう台詞の行き違いを脚本家は、数十の単位で観客に提示してくる。ある種爽やかな「しつこさ」である。

 ビルとの新婚旅行から別荘に戻ったチェルシーは、父親とビリーが仲良くなっているのを見て嫉妬を感じ、自分が女の子だったからと、父娘不和の原因を確信する。エセルに励まされたチェルシーは、湖の桟橋で父を迎え、子供の頃出来なかった後ろ宙返りの飛び込みを成功させる。家族全員の拍手の中で、やっと「ノーマンの息子」になれた彼女は、父との和解へと心を向かわせて・・・。
 愛を失うよりも「老い」は哀しいのか。
 この映画は、それを問うているようにも見える。
 ☆は迷うことなく5つだ。

. 定価600円の「手塚治虫」

 先日ファミマに入ってすぐに『明日、人に話したくなる10本の手塚治虫』と題したコミック誌を見つけた。「2014年9月10日初版発行」とあるから出たばかりだ。発行所は、爺の子供のころから存在していた秋田書店。価格は何と600円だった。購入したのは言うまでもないが、『興味をそそる漫画を収録』で厚さ3センチ超、400ページ超の手塚治虫がねえ」と嘆息。この人、若かりし頃の爺の「神様」だった。医学博士で、コミック界の巨匠、常に扱う題材が異なり、自分自身の手で直接描く。ストーリー作家と絵描きの分業が盛んになっても、ひとり自ら物語を創ることにこだわる作家で居続けた。「はやり」に迎合することを嫌い、作品の裏には常に、強い背骨に支えられた明確な「主張」があった。
 『鉄腕アトム』、『ジャングル大帝』、『三つ目がとおる』、『火の鳥』、『ブラックジャック』、『ブッダ』…そのどれもこれもが爺の心を揺さぶった。大人になったつもり、教養はつけたつもり、目は肥えたつもりと、いくら胸を張っても、この人の作品は爺の自慢高慢の鼻を圧し折ってやまなかった。おかげで鑑賞眼も変貌を遂げている。手塚作品で衝撃を受けた作品を、いま挙げてみれば判る。『シュマリ』、『ばるぼら』、『奇子(あやこ)』、『きりひと讃歌』など、なのだから。

 昨日、例によって「見る価値がないようなテレビ番組の中でも少しは」というものを探していたら、「NHKアーカイブスシリーズ1964」なる番組を見つけた。『ガロ』を扱っている。とすれば白土三平が絡んでくると踏んで見入った。ここで手塚治虫でさえ「もう終わった」との世評があったことを知る。たしかに『カムイ伝』に代表される「劇画」の勢いは凄かった。物語よりも感覚重視の作品も氾濫した。しかしそれは、手塚治虫の世界とは「土俵」が違うと、当時から思っていた。ましてや当の巨匠が白土三平や後の水木しげる、矢口高雄にある種の「嫉妬」を感じていたとは思いたくはない。
 復活した巨匠、『ブラックジャック』で再生した手塚治虫をみれば、それさえ「とりこし苦労」にすぎないのだが。
 ちなみに手元の資料『手塚治虫­―地上最大の漫画家―』(河出書房新社)の中で手塚は、白土、水木両氏を「今でも通用するものを書いたカリスマ」と、評価している。

 最後に、冒頭の『10本の手塚治虫』を読み終えたところで、昭和新山誕生秘話とも言える『火の山』が一番心に残ったことを言い添えたい。短編10作それぞれに「へーぇ」と驚きはあるが、この選択には爺の中で「御嶽山」の噴火が絡んでいるかもしれない。

. 幻の映画

 ほんとうに幻になってしまったのかどうか分らない。爺のレベルで、レンタルビデオでなかなか見つからないという意味で使っている。「見つからない」と「もう無いから二度と見れない」は違う。マニアとかその映画のファンの方は販売時期にきっと買っているから、「幻」なんぞ笑止千万というところだろう。のっけから話が逸れたが、実は爺、ようやく自由時間が増えたのでその「幻」を追い始めた。古い順にいうと、 「いちご白書」(1970年・The Strawberry Statement)、「ジョー・ヒル」(1971年・Joe Hill)、「黄昏」(1981年・On Golden Pond)の3作品がそれだ。前2者は1度、「黄昏(たそがれ)」は2度鑑賞している。いずれも「遠い昔」のことだが。

 「いちご白書」は、日本でも盛んになった学生運動の嚆矢(こうし)がコロンビア大学のこの事件ということで興味を持った。ヒット時期は浅学にして不明だが、ビリー・バンバンの歌『「いちご白書」をもう一度』を聴いてお気に入りになったこともある。いや「嘘」はよくない。VHSの時代に観て、ヒロイン・リンダ(キム・ダービー)に「一目惚れ」したというのが本音だ。あの、可憐さ、愛くるしさは一つの衝撃だった。何十年も経っているが、映画の中の彼女はきっと、老けてはいないだろう。だからこそ「会いたい」、キム・ダービーにもう一度。

 「ジョー・ヒル」もVHSで観た。スウェーデンからアメリカに移住した実在の人物だという。貧しい放浪生活の中、歌で「労働運動」を展開したが、その故にか、冤罪(えんざい)で為すすべもなく処刑された「静かなるヒーロー」だ。映画監督は不幸にしてよく知らないが、この作品、いわゆる「省略法」が使われていて爺としては味気なかった。「ヌーベル・バーグ」の手法とも違うと思うのだが定かではない。これを「再会」して確かめたいのだ。気になる映画だったことは確かで、次の文章をメモしている。

 『私の遺書は短い。
 何も分けるものがない。
 誰も悔やんでくれるな。
 苔は転がる石にはつかぬ。
 私の死体は、できるなら、風に吹かせてほしい。
 焼いて
 灰にして、花の育つところへ
 しぼみかけた花が、また咲くかもしれぬ。
 これが、私の最後の遺書だ。
 諸君に幸運を! 』           (ジョー・ヒル)

 死刑にされると感じてからきっと、何枚かの遺書をしたためていたのだろう、たぶん長文の。全てを従容(しょうよう)としたとき、彼の刑死そのものが周囲への、将来への、「メッセージ」だと気づいたのだ。
 『最後の遺書』という件(くだり)を、そう読み解きたい。
 
 「黄昏」は心に沁みた作品だった。湖畔の別荘に住む老人ノーマンにヘンリー・フォンダ、その妻にキャサリン・ヘップバーン、二人の間の娘にジェーン・フォンダを配した、老父と娘の「愛の再生」を扱う名作で、たしかアカデミー賞数部門を受賞している。爺が最も魅かれたのは俳優ではなく「脚本」だった。こういうスクリーン的に地味な映画で観客をひきつけるには「ホン」の力が強くなければならない。銀幕上の派手さだけで観終わったあと、心に何一つ残らない昨今の映画を憂い哀しむとき、もう一度会ってみたいという衝動に駆られる。 

. 汝は花の如く

 詩人ハインリッヒ・ハイネ(Heinrich Heine)はベルリン遊学中に一人の美少女を救う。そこからドラマチックな何かがあったのかもしれない。彼は街を去るにあたり彼女に一篇の詩をしたためて贈る。『汝(な)は花の如く(Du bist wie eine Blume)』がそれだ。

『汝は花の如く
 優しく 美しく 潔(いさぎよ)し
 我 汝を見れば 愁(うれい) 
 我が胸に忍び入る

 我に求むるものある如し
 潔く 美しく 優しく
 神 汝を保ちたまえと祈りつつ
 汝の頭(こうべ)に両手を載(の)せよと』
 
 その場で紙切れに書いたといわれているだけあって、訳詩に「すごいな」は感じられないが、ドイツ語で聞くと流れるような調子で心地良い。少女が詞を胸に抱きしめている様子が目に浮かぶようだ。1797年生まれというから、今から217年も前の生誕だ。商人を父に持ち、行きつ戻りつあれこれ学んで、ヘーゲルに師事したあと作家に転じたらしい。最期は「詩人」だったのではと、また、看取ったのは彼の作品のファンの女性と、何気なくそう思う。詩文から安直に創り手の人間性や性格を炙(あぶ)り出すのは愚の骨頂だが、ハイネは「愛に屈折した詩人」のように感じる。無垢な少女への憧憬(しょうけい)はその一症状にすぎないのではと。
 有名な『ローレライ』の一節を付加したい。周知の如く「Lorelei」はドイツ語、「水の妖精」のことだ。

 『うるわしの少女(おとめ)の  巌(いわ)に立ちて   黄金(こがね)の櫛(くし)とり  髪の乱れを   梳(と)きつつ口ずさむ   歌の声の   くすしき魔力(ちから)に   魂(たま)も迷う』
 この抒情(じょじょう)的な詩に見られる「少女(おとめ)への恋」は、「成人女性に対する性を絡めた恋」と同義なのか。爺の私見は違う。恋の旧字体「戀」が説明しやすい。心を土台にして心の言葉で互いの糸と糸をつなぐ形の恋だと思う。「そんなのあるのか」とお疑いの貴兄や貴女に、日本の抒情詩人島崎藤村の「落梅集」の中の一節をご紹介したい。
 
 『口唇(くちびる)に言葉ありとも
  この心何か写さん
  ただ熱き胸より胸の
  琴にこそ伝ふべきなれ』

  もちろんこの意味での恋心が「おとなの恋」にも必要なことは論を待たない。
 最後に自分に一言。「朝っぱらから何言ってんだか」

 
 
 
 

. 「敬愛なるベートーヴェン」

 原題は「Copying Beethoven」だ。さらに映画の冒頭に出てくる人が原則として主役だ。つまりこの映画では、ベートーヴェン(エド・ハリス)が診(み)られる対象になっていると最初に気付いた。邦題に「敬愛なる」と付いてもいる。主役はアンナ・ホルツという23歳の女性(ダイアン・クルーガー)、言わば押しかけコピスト(写譜師)として登場するが、歴史上の人物ではなく、実際にいたであろう複数の男性コピストの「集合体」を一人に化体させた架空の人物である。身内がいる修道院に起居し音楽を学んでいるという設定のこの女性、実に清楚だ。それでいて男の卑猥な目など自然に撥(は)ねつけるだけの凛(りん)とした背骨を持っている。手足の先まで着衣で被いつくしているような彼女だが、ベートーヴェンが交響曲9番「合唱」を作曲する「助手」をしている間に、艶やかに変貌していく。この変化に爺などは圧倒された。この間ずっとベートーヴェンは聾(みみしい)に近い難聴に陥っているのも、「ドラマ」の信憑性担保の上で重要だ。

 音楽以外の面では下品で粗野、全くダメな大作曲家との間の、きわめて人間的な軋轢と心理的な抗争。女性音楽家になりたいという当時としては「夢」でしかないものを目指す彼女は、「夢」のために我慢を重ねているうちに天才ベートーヴェンの苦悩と孤独を知り、人間的にも大きくなっていく。この経緯は、観る者をして自然な形で納得させる。脚本と演技の「勝利」だ。

 アンナに身内の修道女は言う。『夢は危険です。危険だから素晴らしいのです』。レベルは違うが、夢のために人生設計の上で危険を冒してしまった爺にとっても、脳髄に直接響く言葉だった。 
 「神の意思」で逃れることができない天才の使命と、それゆえの涯(はて)のない孤独感。それから解放されるのは「死」を迎えたとき。彼、ベートーヴェンは言う。『孤独は私の宗教だ』

 好きなシーンがある。アンナが自作を大作曲家に見せると、彼は言葉を選ばずに「侮辱」で叩きのめす。曲を侮辱されたからではなく、侮辱の仕方に絶望したアンナはベートーヴェンから「離脱」する。彼は自分を見失うほどに哀しみ、恥も外聞もなく彼女を追い、真心を使って「引き戻す」。この後だ。『音楽は空気の振動だが、神の息吹だ』と言い、アンナの作品にコメントを加える。作曲のルールや形式に従いすぎると。
『流れるのだ。始めも終わりも分からん。自分の心の声に従うのだ』。
 これは、この言葉は、あらゆる創作に通じるものがあると感じた。
 鑑賞しながらずっと思っていた。
 「この作品、字幕スーパーが秀逸だ」。

 歴史に残る作曲家で、誰かいないのだろうか。経済的にも、肉体的にも、精神的にも「健康」だった人が。モーツァルトとサリエリを扱った「アマデウス」を観ても、映画化されたチャイコフスキー、シューベルトやリストを観ても、やはり思った。
 天才はいつも「試練」と二人連れだ、と。

もう重要ではないとは思うが、この映画の評点は☆5つと言ってよい。

. 「ウォルト・ディズニーの約束」

 先ず、いかにも気難しそうなオバサンが登場する。経済的にはどうやら窮地に陥っているらしい。この女性が、1964年ディズニー映画『メリー・ポピンズ』の原作者トラヴァース女史だ。天下のディズニーから原作の映画化承認を求められながら、20年近くも「袖にしてきた実績」がある。映画はこの偏屈な作家をウォルト自身とそのスタッフがいかにして口説き、契約を取り付けたのかについて語る。はっきり言い切ってしまうと、それだけの作品でしかない。アカデミー主演男優賞数回の名優トム・ハンクスをウォルト役で使い、演技派なのだろうエマ・トンプソンをヒロインに配しながらだ。

 たしかにこの破天荒に見えるこの「オバサン」は、ディズニー自慢のアニメーションやその愛すべきキャラクター、さらには夢の国ディズニーランドまでも虚仮(こけ)にしてみせる。ディズニー・プロに阿(おもね)って創ってはいないと、あからさまに、胸を張っているように。しかしそのために、もっと言えばそんなことのために、作者の真の姿が歪んでしまった。そんな気がする。貴重な「映画のモチーフ」を、『メリー・ポピンズ』の製作秘話ないしメイキングフィルムに貶(おとし)めてしまった「罪」は重い。

 ぶつ切りにした唐突な回想シーンで、観客を少しく戸惑わせながら、イギリスの女性作家の生い立ちが語られる。銀行員だった父親はアル中、母親は自殺未遂、辛く哀しい出来事がトラウマになり、長じても、老いても、複雑な心のまま。作家にとっての作品とは何か、原体験が作家や作品に及ぼす影響とは何か、ここにこそ重点は置かれるべきだったと、そう思う。映画はいいところを探して、学ぶ。それがモットーの爺だが、この作品はダブル主演に名優を戴きながらも脚本がいただけないので、☆二つがいいところだ。
 たとえ言い過ぎだとしても、この映画は「メリー・ポピンズ」をまだ観ていない観客を「おいてけぼり」にしている。すくなくとも独立した映画として、文芸作品に仕立てる気はさらさらなかったと、言わざるを得ない。残念に思う。

. 10月の声

 朔日(ついたち)2日と山梨県北杜市へ車で飛んだ。自分の用事だったが、里山に住む兄の冬支度の「一部手伝い」にもなった。伊東出発は午前2時、帰りの里山発は5時半といずれも「早起きな年寄」の面目躍如。早目の帰宅が目標だったのだが、途中、よせばいいのに御殿場から箱根ではなく三島に向かってしまった。案の定、曲がり角を何度か間違え、完全に道に迷ってかなりのロス。終には「人様に道を訊いてはいけない」とルールを決めてゲーム化を図る。エイとばかりに伊豆縦貫道に入って今度は狩野川の西に下りてこれまた混乱。自慢の土地勘は老いて頓珍漢に変質していたことを認識した次第。もうプライド、がたがた。2日目の日程は大幅に狂ってしまった。3日は嘱託仕事で箱根勤務だからまたまた4時起床。気が付けば「あ、ブログ3日空けちゃった」。もっとも、立っているだけで待っている人もいないポストのような爺のブログなのだが、出来るだけプラン通りに実行しようとは思っていた。「ま、こんなもんかな、やっぱり」。

 3日、20時近く仕事から帰ってメールチェックをしたら、要削除も含めて何と15通も溜まっていた。夕食後に、そのうちの返信が必要な5通に取り組む。350CCの缶ビール1本でやめていたので頭の回転は大丈夫だった。いや、この「評価」は返信を受け取った方が判断すべきこと(だよね)。

 今日4日の朝も起床は4時。久しぶりに中途覚醒のない睡眠で、気持ちがよかった。
 散歩道の脇に1000人ぐらい収容可能かと思える廃ホテルが聳(そび)えている。立ち止まって何となく見ていて「ん」と気が付いた。「植木が醜くない。雑草も…」。たしか廃業は、10数年以上も前のはず。元従業員の方か何かが荒れないように時々手入れをしているのでは、と想像した。何の根拠もないが、そう思っただけで心が温まった。

 この街。観光ホテルだけではなく、商店の廃業も多くなった。まあ、この現象はこの街に限った話ではなく、全国的な規模でのことなのだが、近隣で起これば多少は気になる。さらには「仕舞た屋(しもたや)」までが解体され、跡地が駐車場になっていく。そういえば「リパーク」(repark)という駐車場もあちこちに出来始めた。この接頭辞「re」はおそらく「再生」の意味だろう。空き地で再生とは素敵なアイロニーだ。「この街にこんなに必要なほど車が無いよ」と嘆く爺。ひょっとして、固定資産税絡みの窮余の一策なのかもしれないのだが。
 いい方向での「re」が、山紫水明この街に起こりますように。

 そういえば爺の「re」が始まって1か月、ようやくこの朝、4通の手紙を書いた。「筆まめ」が復活するかもしれない。
. プロフィール

蛙声爺

Author:蛙声爺
文芸同人誌編集をしています。
考えるフクロウが理想。
木内光夫のHPもよろしく。

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