蛙声爺の言葉の楽園

. 「ホットロード」逆走

『前を走るテイルランプが好き』、『…もう、ひとりはやだ』
 映画「ホットロード」は爺の涙腺を刺激してやまなかった。

 本当に強ければ柔らかくなれる。大雑把でも平気だ。硬ければ脆い。こわれそうだから繊細なんだ。
 コピーライター糸井重里はこの映画を、のーねんちゃんが『大丈夫かと心配するために』観たという。紡木たく(女性)原作のコミック「ホットロード」(集英社)を映画化するにあたってヒロインのキャスティングに、NHKの朝ドラ「あまちゃん」の能年玲奈(のうねん・れな)を当てたことでコミックファンは「騒然」となった由。しかも試写すら鑑賞しないうちに。爺はずっと楽しみにしていた。いわゆる「あまちゃん」ロスが全国的に蔓延していた半年以上の間、他の若手共演者たちがあらゆるマスメディアに露出していたのに、つまり最も売り時なのに、彼女が表舞台からほとんど消えていたからだ。本人の意志によるのか、プロダクションの作戦かは知らない。いずれにせよ「忘れ去られるリスク」を背負っての何か、その中身に興味があった。 この映画の主役14歳の「和希(かずき)」を、素焼きでありながらクリアな輝きで演じ、玲奈は満足のいく「回答」をくれた。

 コミックは未読だったので原作の「和希」に会いにいく。全てを描かないことで全てを超えた描き方をするこの画家の手で、壊れるほど抱きしめたくなる哀しい表情の少女は産みだされていた。ふつうならこの役を、底抜けに明るく元気な「あまちゃん」にとは発想しないだろう。「ゼッタイむり」というファンの叫びもむべなるかな、だ。しかし、ピタリと合った。映画化は不可能とされたこの作品。原作者は和希役が能年であることを絶対条件に許可したという。しかもその時機は「あまちゃん」ブレイク以前だとか。紡木氏の慧眼に敬服せざるをえない。
 
 爺はこの映画のなかに「沈黙の美学」をみた。和希もヒーロー春山も、唇で語らず目で語る。傷を負った心と心の粗野なぶつかり合いが見事だった。『沈黙には一度の後悔があり、饒舌には十度の後悔がある』。原作の心を大事にし、かつ観客の観る目を信頼した脚本家吉田智子に拍手したい。
 駄作だが爺が33歳の時に書きなぐった詩の一節を思い出した。
 『掌(てのひら)にわずかばかりの幸(さち)ゆえに
 汗ばむほどに握りたい
 言葉がそれを嘲(わら)うから
 黙(もだ)したままの愛がいい』

 この映画は、和希と春山の心の通い合いから観るのが大勢だと思うが、父親を幼児期に亡くし言わば「父親ロス」になっている和希と、望まぬ結婚をし相思相愛だった元彼との「焼けぼっ杭に火」状態の母親との間の心の葛藤から観る こともできる。圧巻だったのは、木村佳乃演じる母親が和希に問い詰められて、ひたすら元彼に対する愛情を叫ぶシーンだ。そこには「母親」は不在で「恋に溺れる女」だけがいた。和希は動かない顔で「絶望」を表す。この場面での母親の気持ちを代弁するに適した文章を紹介しよう。
 『何があったのかと問われれば、(彼女は)答えるだろう。最初に愛しすぎたのだと』 (森瑶子)

 映画の創り方の部分で少し語る。
 物語の進行中に、数秒ほど、海や江の島などのショットが突然入り込む。あたかも観客の深層心理に何かを投げ込むかのように。爺はこの手法、気に入っている。
 もう少しオートバイそのものの魅力や、暴走行為の動機や心理的効果について、映像で感じさせてほしかった。「族」経験のない観客には、物語効果の面で不可欠だと思うのだが。

 能年玲奈、登坂広臣、木村佳乃、最高の「演技」だったと思う。
 爺の☆はためらうことなく5つだ。



 

 
 

. 野垂れ死にの覚悟

小田原の書店で衝撃的な本を買った。作家曽野綾子とがん研究所医師近藤誠の対談集「野垂れ死にの覚悟」(KKベストセラーズ刊)がそれだ。表紙カバーと帯に記された言葉(寸鉄)からして人を刺す。引用しても高評価しているので出版社からは叱られないと思う。『年金も介護制度も行き詰まり 野垂れ死にが 普通になる時代が一度は来る。 その時、自分を誰とも比べず、 「私はこれでいい」と 言える覚悟―』、『大量老年難民時代を前に…』。もともと曽野綾子は好きな方なので、一気読みをしてしまった。『異色対談』の中身は目から鱗(うろこ)の連続で、時には頬を叩かれたような衝撃を味わった。見事の一言に尽きる。

 この本を選んだ動機の部分を深く探ると、自分の死もいつ来るか分らない、ということだった。伊豆スカイラインでのこと。対向車が野鳥を撥(は)ねた。爺の目の前にも白い羽毛が飛んできた。路面にいた野鳥が車に気付くのが遅かったためだが、このとき私は戦慄を覚えた。「もし運転者が鳥との激突を避けるために、とっさにハンドルを右に切ったとしたら」。死は確実にそこにあった。危険ドラッグに因る巻き込まれ事故死や落雷、竜巻、豪雨など頻発する自然災害もある。しかし、これらの被害は高齢とは直接には結びつかない。ここで問題なのは、普通の生の営みの中での、不可避な老化と劣化なのだ。上記の本はまさに、そのときの覚悟を問うている。あなたは「私はこれでいい」と言えるのかと。

 「高齢者」の仲間入りをしたいま、一番心が熟れているような気がする。だからこそ思う。愛おしき蒼さのなかへ戻りたいと。いい本を読み、きれいな音楽を聴き、素晴らしい絵画に接し、心を犯す映画に会いたいと。肉体はもう青春に還れない。だから精神を、心を連れ帰りたい。優れた人、賢い人、強い人、美しい人、優しい心根の人。自分の未熟さゆえにそういう人だと気付かなかった、解からなかった人たちにもう一度会いたい。もし叶うなら、若かりし頃の爺の心を揺り動かせる。そう思う。それさえできれば爺は、いまのこの現実に還っても、 胸を張って「死」と対峙できると思うのだ。

  いや、やはりこれは高齢者だけの課題ではない。突然の災害に出遭い、「死を前にして」なら、青年でも壮年でも同じではないのか。「私はこれでいい」と言い切れなければ、すぐにでも「その人にとっての何か」を始めるべきだろう。
 とりあえず爺は「何かの中身」だけは承知している。
 あとは歩き始めるだけだ。

. 花火のはかなさ

勤務先の箱根から自宅の伊東に帰ろうとすると、夏のこの時季、必ず交通渋滞、交通規制に巻き込まれる。熱海、伊豆多賀、網代、宇佐美、伊東の各所で五月雨(さみだれ)式に夏祭りや花火大会があるのだ。もっとも日程さえシッカリつかんでいれば、熱海峠から伊豆スカイラインに入り亀石峠まで一直線に走る手もあり、さしたる支障もないのだが、ついつい忘れて熱海峠から熱海市街へと下ってしまい臍(ほぞ)を噛む。

 ま、カタツムリの前進のなか、フロントガラスのフレーム越しに欠片花火を楽しめばいいのだから、実際にはさほど苦痛はない。花火の弾ける音や観客の喧騒もCDを聴いていると思えばいい。横断歩道を渡る浴衣の女性もまた、捨てがたい風情ではある。そうそうこの浴衣姿を見ていてバカなことを思った。浴衣は帯から下をすべて「足」にする、ということ。帯でウエストが強調され、相対的にヒップが広がって見えるが、これも着物、特に浴衣のご利益といえよう。浴衣姿が艶やかに見えるのは決して色柄の効果ではない。そう思う。さらに素足に下駄履きが相乗効果をもたらす。嘘だと思った人は、並んで手をつなごうなどとは考えずに、ちょっと遅れて歩いて一度後ろから見てごらんなさい。カノジョがいない人は、ある程度対象を選んでどうぞ。「ニッポンていいな」なのだ。
 「花火あがるどこか何かに応えゐて」(細見綾子)

 ところで花火にはこんなジンクスがあるそうな。「 カップルで花火を見ると別れる」。そのためかどうかは定かでないが、花火のデートの「マニュアル」もあるらしい。しかも男女別に。若い男女は花火よりも美しかろうに、手引きが要るとは少しくサビシイ。寂しいといえば花火そのものが「滅びの美学」を内包している。人生を歓喜すべきは必ず死が訪れるから。造花より生花が美しいのは必ず枯れるから。花火はそれらの理(ことわり)のシンボルなのだ。「…恋せよ乙女、あかき唇褪(あ)せぬ間に」という歌もある。恋は花火か、美しく弾けて咲き、はかなく散って消える。残るのは哀しいまでに漂う僅かな煙。
 消えない花火は「罪」を犯したことになる。
 「空に月のこして花火了(おわ)りけり」(久保田万太郎)

 スクリーンに綺麗に描かれた花火が静止画面で大写しになる。北野武監督が自ら描いたものだとか。数呼吸してもまだ消えない。このショットの意味をラストシーンの後で理解した。消えることのない花火の罪とその醜さを厭(いと)うこの作品の、狙いの一つだったと。刑事という身分が「悪」を抹殺する足枷(あしかせ)になっていた主人公西が辞職し、不治の病の妻と一緒に「死出の山路」を往く。つきまとう「悪」たちを無表情に銃殺したあと、海辺で妻と自らを撃って終わる。あまたの「悪」を殺す残虐なシーンはそのまま見せつつ、夫婦が心中する場面では銃声だけにした監督の意図は何か。そう、この配慮で、二人は観客の中では生き続けることができる。
 北野武監督が第54回ベネチア国際映画祭で金獅子賞を獲った「Hana-bi」は心が真っ赤に透き通る秀作だった。
 もう花火の玉が尽きたのでここまで。

. 想いあちこちの明け方

 まだ明けきらないうちにノソノソと起きだして、頬に心地良い風が吹く表に出た。見上げれば測って2つに切ったような月。まだお盆なのに、まるで秋霖(しゅうりん)のようだった日々に別れをつげる風情だ。青に近づきつつある空を辿って相模灘方面を見れば、もっこりと紫がかった雲が浮かんでいる。

 歩きだしてすぐ一輪の白い芙蓉の花にぶつかった。とたんに昨夜観たテレビドラマ「芙蓉の人」のヒロイン野中千代子(松下奈緒)の顔が浮かぶ。明眸皓歯とは彼女のことかもしれない。ピアノも能くする才媛だとも聞く。ところでこの原作者の新田次郎という作家は山岳に因む小説が多い。ちょっと思い出しただけでも「八甲田山死の彷徨」「聖職の碑(いしぶみ)」「劔岳(つるぎだけ)」と並ぶ。しかもそのすべてが映画化されている。テレビに顔を出したことがあり、謹厳実直な印象を受けた。「風林火山」で軍師山本勘助を扱ったところをみると山梨の人なのだろうか。

 5メートルも進まないうちに琉球朝顔の赤紫の「軍団」に挑む一叢(ひとむら)の芙蓉が見えた。こちらはピンクだ。根本は河床になる。一輪として観れば朝に開花し夕に萎(しぼ)む「一日花」だが、根を一つにする芙蓉として観れば次々に開花するので、ずっと咲いているようにみえる。もしかしたらこれは、人の集団である企業や家族の「理想像」なのかもしれない。また、朝に生まれ夕に死すとも可なりという「気概」から、武士の魂にも通じるものがあるのかもしれない。

 ふと目が留まった黄色い花。宵待草だ。本来はマツヨイグサか。伊東にも所縁がある竹久夢二の「待てど暮らせど来ぬ人を 宵待草のやるせなさ 今宵は月も出ぬそうな」が口をついて出る。モテモテだった彼にも想いかなわぬ人がいたのだろうか。興味深い。この花は夕(ゆうべ)に咲いて朝(あした)に散るので芙蓉とは真逆の花で「一夜花」という。じつに色っぽいのだ。古い話で恐縮だが、皇嘉門院別当の薔子(しょうこ)の和歌「難波江の葦のかりねの一よゆゑ みをつくしてや恋わたるべき」の「一よ」も「一夜」に掛けている。仮寝でたった一夜を共にしただけなのに、これからずっとあなたを恋していくのでしょうか。稀代の美女が詠む、これも「一夜花」。おっとりと、ゆったりと、雅(みやび)なものだ。

ここには居ないが、宵待草の親戚かと見紛う月見草もいい。違いは花の色で、白い。淡い赤もあるそうだが、爺は見たことがない。ちなみに野村克也は自身を「月見草」に擬(なぞら)えた。さしずめ長嶋茂雄は向日葵(ひまわり)か。
 しばし歩を止めていたその場所で、足先に何やら触れるものがある。目を落とすとネコジャラシが「二人」。きっと「ぼくらだって居るよ」と言いたいのだろう。猫の手ほど、私のは毛深くないし不審なのかも。
 松川の瀬音のなか、「あさひ橋」を渡り始める。まだ黒としか目に移らない川面に、水が創る「ほとばしる白」があちこちで揺れていた。
 もうすぐ、陽が昇ってくる。

. 爪から太く真っ直ぐな雨へ

 自室に居るから素足だ。しかも誰もいない。自分すら本当に存在しているのか不確かな時間だ。寝転がって首をもたげたら遠くに足先が見えた。よく見ると「足」の表というのはかなり「まぬけ」な顔ををしている。足裏の方がまだ凛々しい。そんなことを思って起き上がり、爪をじっくりと見た。先端が揃いも揃って歪み、ギザギザで白っちゃけている。縦に入っている筋は裂ける準備か。いつからだろう爪に皮膚を護る優しさが無くなって、肉を挟み、鋭く尖り、さらに突き刺してくるようになったのは。馬齢を重ねた自分を爪がとがめている。そんな気がする。「お前は何。いまの役目は何!」。むろん爪に詰問してもはじまらないのだが。

 30代はじめの頃武川村の里山に一人籠って受験勉強をしていた。電話も無く、郵便も届かず、もちろんテレビもない。言葉すら忘れそうな環境で、唯一の友は小さな携帯ラジオだった。雑音だらけだったが、或る一定の時間帯だけ音が鮮明になる。一日の「孤独感」はそこで癒した。「はじめてつけたマニキュアが もろい かける 割れる はがれる♪」 …耳に入ったこの詞は一つの衝撃だった。この曲「めぐり逢い紡いで」は、女性の側からの「愛の始末」だが、歌詞の行間に名状しがたい憂いがあって、遠い昔のことなのに鮮明に憶えている。作詞は「るい」(男性)、曲と歌は大塚博堂。いま、ふと思ったのだが、この曲をシャンソン風に歌ったら、印象がまったく違ったものになるのではないか。同じころにラジオで聴いた大橋純子の「たそがれマイ・ラブ」もお気に入りだ。愛や恋の歌はなぜか、女の側からの「視線」に限る。詞が美しく、心に沁みるからだ。私事だが博堂の歌に触れた翌日、なぜか持ち込んでいた中学時代からの日記のすべてを焼却している。
 
 「思えば、愛憎を織り込みて偽りの衣となし、仮縫いのまま喜怒の身を被いて過ごせし三年余の年月。過ぎし日は、みなそれぞれに意義あるものと、亦、邂逅の人は、みなそれぞれに我が師なるものと回想しうべきいま、私は追浜を離れ、遠く甲斐駒の麓へとたびだちます。
 願わくば、良き印象は純化され、悪しき印象は風化され、ただ懐かしさだけが皆様の心に快く残らんことを。
 本当にお世話になりました。
 再会を今から心待ちにしつつ。
 さようなら。」(昭和53年1月)

 台風11号の影響で降っていた太くて真っ直ぐな雨が、いつの間にかサッシ戸の向こうから消えている。
 目をパソコン画面に戻すと、その雨が文字になって連なっていた。
 「切ろう、今日こそ。どこだっけな、爪切り」

  

 

. アンデパンダン

 伊東アンデパンダン2014 (按針祭協賛美術展)に行ってきた。伊東観光会館で開催されることが多かったので、よく確かめもせずに車を走らせてしまったのだが、何やら工事中らしく、伊東ふれあいセンターの2階に変わっていた。近くの「リパーク」に停めて、かみさんと二人、徒歩で会場に向かう。

 絵をやっている人はご存じだろうが、「アンデパンダン」(independants)はフランス語だ。英語ではインデペンデント(independent)になろうか。独立(派)を意味する。手元の仏語辞典によれば、「1884年、アカデミーや官展の権威に対抗して生まれた独立派」ということ。伊東のパンフでは「入場無料・無審査・無賞・自由出品制の美術展」とある。言い換えれば、権威に媚びない自由で闊達なサロン絵画展ということになる。

 入り口で「こんにちは」と挨拶をして、住所・氏名を記し、中に入る。
 爺はあっという間に数十年前に「タイムスリップ」し、日展や院展を楽しみ、折に触れデパートの催し物会場での個展を観回っていた若い頃の自分に戻っていた。生意気に批評するのではなく、自分の感性にフィットする作品(心の友だち)をさがして楽しむ。それが美術鑑賞本来のあり方。爺は底に沈み、あるいは浮かび出て、美の波間に遊ぶ。
 見つけた「友だち」は4人。「生き・・・終える」(ミクストメディア)20号、「大村湾を見つめる廃屋」(水彩)10号、「冬晴残照」(油彩)F50、「ワスレモノ」(油彩)F30。因みにミクストメディアは「混合手段」と理解していいだろう。カンバスの大きさを表す符号はF、P、Mと3種あるが上記Fは、Figureで「人物型」のカンバスを使ったことを示している。
 来年は爺も水彩画で参加したい。「アンデパンダン」は、そんな夢も見させてくれた。

. 風薫るままに

エアコン直下の机で考えごとをしていたら素足の部分がかじかんできた。慌てて停めたら、その反動で上半身からじくじくと汗が滲んできて、気持ち悪いことしきり。「いっそ」と、サッシ戸を開けたら優しい風がそよそよ。そう言えば「風薫る」は夏の季語だった。その中途半端な吹き方に心もいい加減に揺れて、あちこちに飛ぶ「書き散らかし」をしたくなった。以前アップした「日日是好日」のように。

 肉体疲労が極限までくると積極的なことが何もできなくなるらしい。そんなときのためにレンタルておくのがDVDだ。スタジオジブリの製作現場をありのままに撮ったドキュメンタリー「夢と狂気の王国」。世界に冠たるアニメ工場に「狂気」は失礼だろうと一瞬思ったが、この映画の監督砂田麻美(まみ)によれば、夢を見ることと夢を追い続けることの「狂気性」だとコメントしている。そういえば世界の黒澤明が「トラ・トラ・トラ」の日本側監督を下ろされたときの理由が「クレイジー」だったっけ。アメリカの合理主義糞喰らえだ。話をもとに戻してこの映画の中でプロデューサー鈴木敏夫が、どこかの新入社員たちに語った言葉が印象的だった。「仕事をしているといろいろな人と出会うが、どの人と一緒にやるかで、自分の仕事人生が決まる」。まさにその通りだと思う。互いに尊敬しあい切磋琢磨している夢工場の人が羨ましかった。

 ネットに映画のレビューサイト(クチコミのようなもの)があり、なかなか面白いので結構覗いている。もっとも何をどう鑑賞するかは自分の特権なので、その評価如何で観る観ないを決めたことは一度も無い。アニメの場合、声優の良し悪しが槍玉に上がることが多く、爺は以前から少しく首を傾げていた。一例を挙げれば、「風たちぬ」の堀越二郎役の庵野秀明に対する口コミは酷かった。しかし故黒澤明の名スクリプトだった野上照代女史は何とこの配役を「最適」だと評している。爺に言わせれば、「そういう声の人」として目の前に現れているのだから、とやかく言わない。実社会でも変な声の人に出会ったからといって、「あなた声帯を変えなさい」とは言わないはず。

  ところでその「風たちぬ」のDVD版は、劇場公開版からみて数か所シーンがカットされているような気がしたのだが、爺のボケ(勘違い)だろうか。そこがすべてレビューで批判された箇所だったのが気にかかる。結論から言うとこの措置は家族で観るのが前提になるDVDなので肯定はできる。劇場で観た人は元々のを鑑賞しているのだし、さらに初めて観る人は文字通り初めてなので分からない。ただ、ヒロイン菜穂子の「命がけの恋」の印象が薄らいだのではと心配はしている(いや、むしろ爺の見間違いだと思いたい)。

 ついでだから「アナと雪の女王」(クリス・パック監督)へのクチコミの「非難」。もっともファンならではの「身内の愚痴」的な色彩は帯びているとは思うが。映像と音楽はいいが、ストーリーが「甘い」「手抜き」「ひどい」。爺も、けなしたくはないが「風たちぬ」を破ってアカデミー最優秀長編アニメーション賞をとれる内容だとは思わない。しかしながら、ディズニーアニメはこれでいいのだ。ジブリとはめざしているものが違うのだから。もし6歳児だったら☆5つで「よかったねー、かわいかったねー」で幸せになれること請け合いだ。ただ、ひねくれ者の6歳の蛙声爺ならどうだろう。「おねえちゃんのエルサってさ、氷のお城で一人ぽっちで、何食べてたんだろー。お風呂にだって入れないよねー。あんなうすいもの着てたらこごえちゃうよねー」。実に嫌(や)な子だね。

 何を書いているのか、「迷い道」に入ったらしい。実はデスクトップパソコンをメーカーに引き取ってもらう形で『廃棄』した。OSがWindowsXPだったのだ。遅きに失したのは処分法が不明だったからだが、メモリーは郵便局が来る前に自分で外しておいた。初めて熟視する512MB(メガバイト)のメモリー2つ。こんな小さなものの中に、気が遠くなるような分量の文書や写真が記憶されていたのかと、ついつい驚愕と尊敬のまなざし。ところが学者に言わせると人間の脳の総合力の方が上らしい。爺は何を思ったか椅子を離れて、姿見の前。視線は、そこに写っている自分の頭に。…「まさかねー」。
 このところ映画のブログが多いが、これは爺が極端に疲れている証でもある。それでも何とか広義の「文芸」につなげている。自分ではそんな感じでいる。ブログのカテゴリに関しても、近いうちに総務時代のあれこれを綴る「はーぃソームです」とか、せっかく伊豆・箱根で生活しているのだから「温泉あれこれ」とか、とにかく広げていきたいものだ。
 そうそう、挿絵をときどき、とかも。
. プロフィール

蛙声爺

Author:蛙声爺
文芸同人誌編集をしています。
考えるフクロウが理想。
木内光夫のHPもよろしく。

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