蛙声爺の言葉の楽園

. マーニー、「あなたのことが大好き」


箒で空を飛んだり、波の上を走ったり、そういう世界を受け入れられない人は観に行かない方がいい。あれもあり、これもあり、そうそうそれもありの浮世から折角スクリーンと二人きりになったのだから、物語世界にどっぷりと浸りましょう。「思い出のマーニー」(米林宏昌監督)はそれを待っている。
 このアニメの「売り」は「水の表情」、それは揺れ動く少女の心にも似て。
 海、入江の静と動の描写はもちろんのこと、北海道が舞台という自然のスケッチが見事で、ついついうっとりとした。万一幻想的な物語は苦手という不幸な人が観ても、つまり登場人物全員抜きでも、「背景」だけで十分に楽しめると思う。

 12歳のヒロイン杏奈(あんな)は、「他人ん家の匂い」の中で「自分家(じぶんち)」を探す子。景色の中で捜し出し、ときどき見失いながらも寄り添ってもらった金髪の美少女マーニーは、杏奈の心の中に棲んでいるもう一人の女の子。それが「祖母」だろうが誰だろうが「心理学的に言えば」自分自身なのだ。マーニー、「あなたのことが大すき」は、だから「代代つながっている自分自身を大事にして、自分を大好きになりなさい」となる。ジブリが付けたキャッチコピーが文字面のままであるはずがないのだ。自分を好きになれない人が他人を愛せるわけがない。この理にたどりつく。それさえ感じとれれば小さな子でも理解できる。三重構造になっているストーリーを1回観ただけで「子供たち」に解かれというのは無理だ。うっかりすると大人でも目をパチクリしかねない。

 例によって「ネタバレ」は慎むが、「マーニーって誰なの?」という謎解きにかかせないのが、後半に出てくるデカメガネで好奇心の塊の女の子、彩香(さやか)だ。登場してから結末に至るまで、いわゆる「狂言回し」の役を務める。たしかにこの子がいないままでは、ドラマが「??」で終わりかねない。しかし自分で感じたり考えたりを楽しみたい観客にとっては、親切だけどおせっかいな「オバサン」かも?

生意気を一つ言わせてもらって爺の「レビュー」を閉じたい。前半でヒロインが喘息で苦しむ姿をもっと見せてほしかった。たとえば、人を疑ったり、罵ったり、恨んだりしたときに発作がひどくなるといった風に。杏奈の心のダークサイドを語るに適していると思うから。この作品は大都会でデスペレートになり虚無的になっていた少女が北海道に「疎開」し、徐々に心の闇から解放されて、普通の明るい12歳に還っていく物語だ。心に「障害」があり、それが「体・健康」にも及んでいることを観る人に刻み込んでほしかった。

 結論として、米林監督の前回の作品「借りぐらしのアリエッティ」よりも心に沁みた。
 なんとなくこの作品、高畑勲監督の「おもひでぽろぽろ」を彷彿とさせたのだが、ジブリファンの方、いかがだろうか。
 いずれにせよ、素敵な作品だと爺は思う。

. しばし、もの思い

朝早くからパソコンの前に座った。W8からW8.1へのアップデートに続き、エプソンプリンタの更新インストール、さらには新ホームページへの再挑戦と。午前11時には早朝4時起きの反動で急に睡魔が襲ってきて、吸い込まれるように床の上で仮眠に入った。

 自分のブログのテンプレート。なぜこれを選んだのだろうと、改めて沈思黙考。それほどしっかりした理由はないのだが、やはり「Thinking of you my dear…」という英字のタイトルが大きい。「あなたのことを想いつつ」…あえて「my dear」は訳さない方がエレガントというものだろう。それと3色のワンポイントアート。好みでしかないのだが。

 何か音楽をとCDを漁っていたら、美人のクラシックギタリスト村治佳織の『Amanda』を見つけた。3歳のころからずっとギターを傍に置いて生きてきた彼女。その輝かしい演奏家としての経歴。トップモデルをも震撼とさせそうな美貌。順風満帆だった彼女を襲った2011年の橈骨神経麻痺、そして2013年の舌腫瘍。長期療養に入ったあと、いまは回復しているというが、コンサート活動は控えざるをえないのではないか。通勤途上で何度も繰り返して聞いたその演奏。気が付けば購入したCDだけでも4枚になっていた。あとはレンタルだ。「過労だったんだろう、きっと」と意味もなくつぶやいた爺。「そういえば」が続くのだが、大黒摩季も久しく見ない。同じく通勤路の「友」だった彼女。やはり購入だけで4枚はある。爺にしては「大した入れ込みよう」だったわけだ。しらべてみると2010年から子宮疾患で無期限活動休止とあった。それでも2年半ぶりにオリジナルアルバムを出すところまで「回復」した由。何よりも嬉しい。あの元気な歌声はどれだけ多くの人を励ましただろう。爺自身、その中の一人だった。スポットライトを浴び、何千、何万の観客の前で「自分」を演出して魅せていた人が、ひとり病床に就いたときの寂しさと切なさを思うとき、彼女らの「復帰」を喜ばずにはいられない。

 ふと想う。走り続けた人は、どこかで止まってみるべきだと。佇み、沈み、前に進めない自分を、しっかりと見つめたとき、動き続け輝き続けた時には気付かなかった「自分」に会える。これからの自分も創れる。そんな時間も、人生にとっては大事なのではないか。そう思う。
 身の回りに起こることは、みなそれぞれに自分にとって意味がある。
 何度でも爺は、そう口遊むだろう。
 レベルこそ違え、いまの自分もそうだから。

. 文字だけのブログで、1年

 昨年の7月11日にスタートした蛙声爺のこのブログが、丸1年を経過した。記事は82。この数が多いか少ないかは別にして、公休日を使ってよく続いたなと、自分では合格点をあげようと思う。

 当初から写真をいれたらという助言をもらってはいた。ブログの大先輩の兄からは、絵心を利用して挿絵を入れてみたらと進められもした。どちらの意見にも爺は心でうなずいている。ただ、カメラや絵具といった道具の問題、パソコンやブログの技術面の未熟さ、自由時間の少なさなどから結局、文字だらけのパフォーマンスで「初年度」を終えている。

 創作にじっくり向き合える時間、つまり「小説世界」に身を置く時間を確保できないので、「文章の勘を失わないように」ということがそもそもの動機だった創作日記。「文字だけ」はだから、むしろ「やりとげた」と評価してもいいのではないか。そんな想いもどこかにある。いずれにせよ、続ける励みは「訪問者リスト」だった。FC2利用のブロガーが見てくれた時に記録されるシステムだが、何人かの方が継続的に覗いてくれている。それがどれだけ力になったことか。「拍手」の数や「コメント」も同様だ。地味すぎる爺のブログだが、2年目に入っても頑張りたいと思う。

 兄のヒントで白い基本形のブログからテンプレートの採用へ踏み切ったあの日の興奮。馴染みの読者の助言で文字を読みやすく大きくしたときの充実感。初回記事までさかのぼっての操作だった。「拍手」が1回だけ「5」になった日の手放しの喜び。「流れるような文章」と評してくれた読者の存在に目を潤ませた日。それらが思い出として押し寄せてくる。
 ブログを初めてほんとうに良かったと、そう思う。

. 勘違いか、シナリオ講座

 もう35年も前のことになる。「我が道」が分からなくなり、ある意味では心が脆弱化しないための処方箋として自分で選んだ。何か頭を使うことをしたかったのだ。働く者のための『シナリオ講座』と言っていいのかどうか、渋谷の金属労働会館まで通っての勉強だった。趣味で小説を書き、同人誌の編集している今を思えば、とてつもなく役に立ったと言えるだろう。

 手元に詳細な受講メモがある。諸先生には申し訳ないが、印象に残った言葉の数々を読者のために紹介させて戴こう。名前の後ろに1作品だけを掲げるが、どなたも数十から百以上も脚本を書かれた著名な方で、同時に映画監督の方がいるのは周知のことと思う。(文中敬称略)
 新藤兼人(「大河の一滴」) ・全くの素人の受講生を前提に講義をされ、私見ではもっとも熱心に脚本家を目指してほしいと訴えた方だった。「ドラマというものは青春が書かす」「ドラマ好きでなければドラマは書けない」。当たり前なのだがここにライターの原点があると今にして思う。ドラマを「小説」に替えても同じだ。また漱石の「私の個人主義」を引いて「自分というものは自分に始まって自分に終わる」と説いた。脚本に「女性を描いているのに私(男)なのだ」「私が書くのだから私でいいのだ」という言葉には、何か「苦悩」のようなものを感じた記憶がある。爺も同人誌小説で女が主人公という作品を数多く書いている。この言葉を思い出すたびに、なんとなく気持ちが落ち着く。

 池田一朗(「陽のあたる坂道」) ・記憶が正しければ確か、缶入りピースをレクチャーに置いてから話し始めた方だと思う。実際に吸った訳ではないので、きっと喫煙時のユッタリ感を醸し出したかったのではないか。「シナリオは文字で書くが、シナリオは文字ではなく映像である」「作品を目の前にして、映像として結べるように修練を積むように」。爺は何かを文章で表現する際に、これを最も意識する。見えるように、情景が浮かぶように書く、これが目標になっている。

 舛田利雄(「トラ トラ トラ」) ・映画の「企画は利潤追求から始まる」。映画会社が製作するのだから当然の理なのだが、真正面から断じた言葉に、当時の爺は衝撃を受けた。映画は芸術だという意識が強かったからだ。シナリオは映画が完成すると役割を終え、ある意味捨てられるのはこの理から?  これに我慢がならなかった倉本聰は、TVドラマ「北の国から」のシナリオを単行本化し、脚本が「文学作品」であることを「主張」していた。確か爺は少ない小遣いをはたいて、この本を買っている。

 新井一(社長シリーズ) ・「シナリオは五線紙上の音符である」と綺麗な比喩で講義が始まった。「映画には時間的な制約がある」。これが小説との根本的な相違点。作品が2時間半を超えると1日の興業が4回から3回に減ってしまうのだ。ここから2回3回の書き直しが常態という「現象」が起こる。だから「記者は足で書くが、シナリオライターは胃で書く」ということになる。ガマン、我慢。

 長谷部慶次(「にっぽん昆虫記」) ・講義の記録は十分にあるが実技的なので、この稿では記さない。
 この他にも印象的な言葉が上記講師によって引かれている。
 「シナリオは腕力で書くものである」(橋本忍)。

爺は受講後何年かの間に4作品ほどを創りコンクールに応募したが、3次選考通過が最高で終わり、「勘違いの時間」は終止符を打った。ただ、この経験は伊豆での同人誌活動や3冊の上梓の中でしっかりと活きているように思う。
 話は生きている現(いま)に移って、TVドラマファンのかみさんに観るなら脚本家で選べと勧めている。特にトレンディドラマならこの3人の女史だ。北川悦吏子(「ロングバケーション」) ・井上由美子(「きらきらひかる」) ・中園ミホ(「ハケンの品格)」。いま「実行」しているのはとりあえず、NHKの「花子とアン」らしい。

 

. 美しさにひれ伏すのみ

 公休日の午後、体をゆったりとさせながらDVDで『利休をたずねよ』を鑑賞した。
 この作品は、山本兼一の直木賞受賞作の映画化である。新しい利休像を創出したとの評価もあり、また、日本の美と繊細な文化を余すところなく表現したということで、モントリオール映画祭最優秀芸術貢献賞を受賞している。千利休に市川海老蔵、その妻宗恩(そうおん)に中谷美紀を配しての意欲作だ。

 観はじめてすぐ、この作品の脚本が「マヅルカ方式」であることに気付いた。簡単に言えば最初と最後が現実の場面で、その中間はすべて「回想シーン」ということになる。伝記ものなど長いスパンの物語で、作品上重要なところを摘出して編める便利さがある。特に興業面の都合から2時間前後で勝負する映画ではなおさらと言える。近年の大作でなじみ深いものといえば、モーツァルトとサリエリの絡みを描いたアカデミー賞受賞作「アマデウス」が挙げられる。秀吉の命に従わなかった利休の切腹の日に始まり、切腹して果てる刻をもって事実上終わる。言わせてもらえれば、利休の死後、城の中で秀吉が勝ち誇ってみせる醜いシーンは蛇足だと思う。この方式を採ったがゆえに『利休にたずねよ』は、シーンの糸撚りを楽しみながら、主人公たちと一緒に盛り上がっていくという形の鑑賞は無理になった。
 その代わりに、利休と宗恩が見せてくれる様々な美の世界は秀逸でため息が出る。映画作家が奈辺を目指して創作に当たったかを垣間見ることができる。カナダ・モントリオールの審査員がこの作品に与えた評価・賞賛の中身はまことに正しかったと思う。

 ところで天才利休を評価し擁護しながら、自らの複合感情で歪んでいき、結果死に至らしめる関白秀吉という「構図」は、天才モーツァルトに憧憬さえ感じていながら、自らの嫉妬心に狂い、その対象を死にいざなっていく宮廷音楽家サリエリという構図に酷似している。これは作品が似ているのではなく、「人間」の本性というものが酷似している、つまり殆ど同じだということであろう。ここでは秀吉について語ろう。この映画で秀吉は、自分を小馬鹿にしたとして利休の弟子を斬り殺させ、利休のもとで暮らしていた美形のおさんを側室に出せと迫って利休の娘を自害に追い込み、さらには利休が後生大事にしている香合(こうごう)を差し出せと利休に申し渡し、拒まれるや切腹を命じている。醜悪、傲岸、卑劣、狭量、あらゆる非難が可能な所業ではないか。思うに、秀吉は天下を取る前と取った後では別人である。出世の途上では、自分の力だけでは何もできないことを熟知し、これを出発点にして「人たらし」をやって見せた。言い換えれば自らを低くし、相手を尊敬して力を借りようと命がけで臨んでいたのだ。織田信長、竹中半兵衛、黒田官兵衛、徳川家康、さらには女房の寧々に対しても。自分の力だけでは何一つ成しえない男が、天下を取り昇り詰めたあと、劣等感を「職権乱用」で隠蔽し、猜疑を己を護る術としたのだ。利休もその犠牲者の一人でしかない。「人たらし」から「人殺し」へ。この時点で半兵衛も信長も故人。官兵衛はこのあと秀吉の嫉妬と猜疑心を警戒して如水と称し早々に隠居。家康はいっそうの面従腹背へ。寧々(北政所)はようやく秀吉から離れていく。映画はこれらの原因をあらかじめ、さりげなく伝えているのだ。

 美は創り出すもの。自然が創り出したものを「美しい」と感じたとき、利休は自然に対して「敗者」となる。それに耐えられるか。他者が作ったものについても同様だ。利休のもつ「怯(おび)え」とはそれなのか。彼は挑む。自分が見つけてしまった自然の中の美を、また、他者が創りし美を、そこにあるよりも、今在るものよりも、自らの手でより美しく見せ得たとき、自分は「勝者」になれる、と。「美はわたしが決める」(利休)
 爺は思った。「怯え」があるうちは「傲慢」ではない。「未熟」を感じる心が「怯え」を呼ぶのだから。
 久しぶりに美しい映画を見た。考えさせられる作品に触れた。

 懸命に鑑賞したので、心の方はしっかり「疲れた」。

 
. プロフィール

蛙声爺

Author:蛙声爺
文芸同人誌編集をしています。
考えるフクロウが理想。
木内光夫のHPもよろしく。

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