蛙声爺の言葉の楽園

. ひとりしずか

 毎日何度か郵便受けを目でチェックする。同人誌の会代表だったころに染みついた習慣だ。20号からは編集だけを担当し、発行日前の数か月だけにその必要性があるにすぎない。しかも、電子メール時代なので郵便物は激減している。
 昨日新ホームページ制作のためにファイルの整理をしていたときだ。『岩漿10号』(平成14年10月発行)の前後に来た大量の郵便物を見つけた。もちろん封書あり葉書ありその他の通信方法ありで雑多だが、走り読みを重ねて感じたのは、書いてくれた人の様々な励ましの言葉に代表される熱い想いだ。当時を思い起こせば、この一つ一つの大事な温かさに、自分もきちんと応えていた。言い換えれば、だからこそ絶えずに「お便り」は続いた。ここ数年空のポストが訴えていること。「それはあなた自身に問題があるのでは?」ということだろう。原因は爺の身体の劣化、脳の衰え、こころの疲弊だ。悔しいが否みようがない。
 昨年心の籠った通信物をくれた姉に爺は、日々の多忙に追われて無沙汰を重ね、年賀状も差し出すのが遅れた。「筆まめだったのに」と嘆かれ、その後の通信が絶えた。一事が万事だ。きっとほかの人にも同様の不満があったろう。何人かの顔が脳裏を過(よ)ぎった。その積み重なりが「空のポスト」なのだ。消えた「手書きの温もり」。出てきた「お便り」の束は、その科(とが)の鉾先をこちらに向けていた。いまの爺には、それを躱して痛みを避ける楯はない。
 そういえば、そうだ。通信物の有無の確認はいつしか、「さびしさ」の確認に変化していたっけ。
『生きた 書いた 五十年 我百まで生きて 文学の鬼とならむ』(雅水)
 傘寿の祝いの際にしたためられたらしい小さな色紙の中の言葉だ。東北の同人誌の主宰だった故人。この人も「心温まる鉄槌」を自作の短編集と一緒に送ってくれた。母の自伝『しきみのように』を寄贈したあとの、長い長いお便りの中で。
「境遇への不満など、とんでもない思い違いだ。こんな立派なお母さんをもちながらなんだ」と。嬉しかったのを覚えている。
 兄が暮らす「むかわの山荘」に出かけた時だ。庭で生まれて初めて「一人静」(山野に咲くセンリョウ科の多年草)に出逢った。くるりと巻いた数枚の葉の間から眉掃き(まゆはき)のような白い「穂」を出している。清楚で静かな佇まいではある。ただ爺は、魅せる花びらもなく、ひっそりと生きる「老いの世界」を垣間見る想いがした。

. ちょこっと、陽水

 青春時代に付き合っていた女性(ひと)の弟君が持っていたLPレコード。それが井上陽水の「氷の世界」だった。当時学校で習った音楽以外全く無知だった爺には、その曲想の良さも、斬新な歌詞も、演奏の素晴らしさも解らなかった。そう、ほとんど無関心だったのだ。たしか「やかましい曲だな」と思った記憶がある。中年になり、老年になって漸く好きになったアーチストということになろうか。TSUTAYAに行き通勤路で聴くCDをあれこれ探していたとき、懐かしいモノクロの、サングラスをかけていない陽水に出会った。ミリオンセラーとなったこのアルバムには『陽水の金字塔』と記されていた。この人にも下積みがあったのだろうか。金字塔という単語に触発されて、一瞬そんなことを想った。そういえば「下積み」という言葉を使えるのは成功した人だけだ。また、成功した人に対してだけだ。「最後まで下積み状態で終わった人」を何というかは業界次第で、区々だろうが、この理(ことわり)だけは事実だ。この人陽水は紛れもなく「大成功者」と言えよう。
 所収13曲を3回ほど聴いた。歌詞を憶えているところは一緒に歌って。車の中はいい、よそ様の迷惑にならなくて(苦笑)。もちろん彼の作曲も、アレンジャー星勝(ほしかつ)も良いのだが、趣味の文芸の関係で、好きになる曲目の選考基準の一番は詞だ。数多い陽水の曲の中で爺が最も魅かれたのは『白い一日』。ところがこれ、作詞は小椋佳だった。そう知った後も歌は作詞者本人よりも陽水のほうが似合うと確信している。『ある日踏切りの向こうに君がいて 通り過ぎる汽車を待つ 遮断機が上がりふり向いた君は もう大人の顔をしてるだろう』これはもう、陽水の風貌と声でなければ歌詞の想いが響いてこない。彼女はなぜ踏切りの向こうに立っているのか。遮断機が下り列車が通過している間、彼女は何をしていたのか。こっちを向いていなかったのだ。ふり向いた彼女は、大人の顔をしてる(だろう)。女は突然に変わる。なぜ、だろうと思うのか。それは陽水が歌うから伝わってくるのだ。
 「氷の世界」からだけではないが、好きな曲はだから、こうなる。『おやすみ』『ジェラシー』『いっそセレナーデ』『少年時代』。納得がいくと思う、歌詞でピックアップしたのだから。特に『あやとり糸は昔 切れたままなのに』と続く『おやすみ』の歌詞は、深くて哀しい。
 CMのイメージソングだったからか、もうまったくマスコミでは聞けないのだが、『夢寝見』という陽水の曲が気にかかってしかたがない。摩訶不思議な曲想で、歌詞の記憶すら定かでないのだけれど。 

. 日日是好日?

 「ひびこれこうじつ」とも読むが本来は「にちにちこれこうじつ」のようだ。「決して同じ一日というものはない。こころして過ごせば毎日毎日が素晴らしい」といった意味だと習った。「岩波仏教辞典」によれば、雲門文偃(うんもんぶんえん)の言葉で『雲門広録』を出典とする。一般的には中国の仏教の書『碧厳録』から、と説明されている。
 別に硬い話をしたかったわけではない。比較的のんびり過ごせた今日のこの日に、最近身の周りに起こったこと、感じたことをそれこそ「そこはかとなく書き綴」ってみようかなと、キーを叩き出しただけ。こういう気持ち一つが「素晴らしい」ことなのかもしれない。
 通勤路伊豆スカイラインの早朝5時半ごろ、熱海玄岳(くろだけ)付近にさしかかると、私は期待に胸を膨らませ始める。さらに走ったところで「また居た」とハンドルを叩いて喜ぶ。これで4日間連続、なのだ。何が「また」なのかって?  赤い頬の飾り、ピンと凛々しく張った尻尾。オスの雉(キジ)が富士山側の路肩に立って、出迎えてくれるのだ。これを偶然と言ったら、「偶然」の意味が変わる。こんどから「行ってきまーす」と応えよう。
 この伊豆スカイライン、午前6時前に「熱海峠」ICのゲートを潜れば料金は免除となる。先日5時58分にゲート。あーぁと目をつぶったら何と「行け」のサイン。この「厳格さ」が何とも嬉しかった。
 かかりつけの医者にいき、血圧を測定したら119-70という結果。つまり薬で下がりすぎたことになる。処方を受ける結果となった2か月前の数値は180-90だったから、効果覿面(てきめん)。血圧が下がる夏を控えて「休薬」となった。「年齢+90」を高血圧如何の目安にすることにしたい。憂きことのもう一つ、HbA1cの数値が6.1に下がった。「6.7-6.5-6.3-6.1、うん、ずっと下がってきた。いいね」と言う先生の顔がほころんだ。前の基準ならもう「予備軍」でもなくなりそう。これも明るい。
 アマゾンで発売した拙著『孤往記』の3月分の販売実数が出た。発行日3月7日から3月31日までの集計で20冊ほど。次回発表は夏になる。読んでいただいた人たちに感謝したい。ただこの発行方式、手元に本を置いての寄贈方式とは違って、読者の顔が全く見えない。感想もほとんど来ない。この結果に少しく爺は戸惑っている。
 また、下手なウグイスが啼きだした。どうやら「ホーホケキョ」は難しいらしい。谷渡りもズッコケている。のどかだ、田舎は。ところで不思議に思っていることがある。よく「ウグイス嬢」という言葉を、声のきれいな女性の形容で使うが、鶯のあのきれいな鳴き声を出すのは、たしか「オス」だけではないのか。それとも鳥の世界にも「女形」がいるのだろうか。
 もう少し続けようと思ったが、「夕餉が近いのでここまでにしたい」。
 誰ですかこの言葉で、「拍手」にクリックするのは。微笑。
 

. 赤芽の不思議

 心ゆったりの、お休みの午後。昨年の10月から仕事、出版、編集など何やらずっとスケジュールに追われてきた感があり、自室からサッシ戸を通して見る崖の上の赤いツツジ一つで癒される気がする。『万緑叢中紅一点(ばんりょくそうちゅうこういってん)』といった風情だ。やや遠くの丘陵に目をやればこれまた『春の山は笑っているよう』(臥遊録)な、淡い賑やかさ。先般訪れた山梨の兄のブログをクリックすれば、山荘の屋上に咲いたシロバナタンポポの清楚な姿があった。里山といえば、頂付近に残雪のある三方の名山、南アルプスの鳳凰三山、甲斐駒ヶ岳、信州八ヶ岳を一か所から望めた。近くには初夏の新緑の立木が爽やかな風にのんびりと応えていた。俳諧ではこの季節の樹を「新樹(しんじゅ)」と言うらしい。ついでに書棚から『ことばの歳時記』(山本健吉)を引っ張り出して「新緑」の項を引いてみた。楽しい「冒険」が始まる。松の新芽の緑は「若緑(わかみどり)」と表すとか。春の柳の新葉は「浅緑(あさみどり)」。春から初夏にかけての緑は「薄緑(うすみどり)」。夏の滴るような緑を「深緑(ふかみどり)」…日本語は本当に奥が深いと、ため息が出る。
 緑の中の紅(赤)、といえば。常日頃から首を傾げていたことがある。一昔前に住んでいたRC構造の借家の生垣(いけがき)が、春先に赤い新芽を出すこと。それが広がり垣の全体を赤く覆い尽くすのだ。ところが、季節が進むにつれて赤が緑に変わっていく。緑から紅葉へ、の真逆なのだ。家人に聞くと「あかめ」と答えてくれた。結局そのままにして数年が経った。その木の名が「アカメモチ」(赤芽黐)と知るまでに要した歳月が「笑い」だ。ちなみに手短にある「大辞泉」によれば、赤芽とは『植物の赤みを帯びた新芽』とある。「アカメカシワ」(赤芽柏)、「アカメヤナギ」(赤芽柳)というのもある由。みな山野に自生しているという。ただアカメモチ以外は落葉樹だ。モチが生垣に選ばれた所以が分かる。
 ついでに調べたが、手持ちの何を繙(ひもと)いても名前が分からない「紅一点」的な木がある。隣家の庭に植わっている楓様の植物で、紅葉の一種なのだが、赤い新葉に始まって初夏のいまは「黄緑」、例年夏には緑に変身するのだ。名が何だ、薔薇(ばら)は名を知らなくとも美しい。「確かに」なのだが、名を知っていれば安心するし、親しくなれそうな気がする。
 人間だって、一緒でしょ?




. はてなの二乗

 IT・net系の解説書は基本的に「不親切」だ。と、言うより「専門家」が解説するので、初心者としては突き放された感じがする。FTPだのCMSだのアルファベットの略称の氾濫、英字でないものでもディレクトリなどカタカナ表記での専門用語の頻出、もうひとつ無礼を言えば「丸太ん棒」のような文章。もともとがテクニカルタームなので、伝達を正確に、と考えれば考えるほど他の単語や言い回しが使えないという事情はあるだろう、医学用語や法律用語がそうであるように。専門家が専門家に申し送りをするような記述になっている。若い人ならともかく、爺、婆では「キョトン」の世界だ。「ならばアナログで通しなさい」と言われれば、その通りなのだが、「売りたい・買いたい」なのだからもう少し懇切丁寧でもいいような気がする。もっとも、説明されればされるほど頭の中は「迷い道」に陥る可能性は高いが。双方の気持ちを汲むと、何のことはない、老骨ならぬ老脳に鞭打って、数倍の時間を費やしても頑張る、ことになる。頭に鞭をあてられては脳味噌はぐじゅぐじゅだ。目も霞んで、ドライアイから乾燥目クソにいたるは必定。こういうときに溜め息交じりに口にするのは「いい頭だったのになぁ、あのころは」のひとこと。そして仕上げはこれ、
「さあ、今夜も飲むか焼酎でも」。
 昨日もブログに合ったテンプレートを探し始め、いままでの記事が新しいブログにすべて移るのかを確認して「Go!」と叫ぶまで何と2時間もかかってしまった。この「屈辱感」が晩酌の「肴」だ。そして本日。懲りない爺は市販のホームページビルダーを購入し、解説書を読むところまで辿り着いた。今まで使っていたビルダーがXP搭載の廃棄パソコンに取り残されたため、現在アップ中のホームページが更新できなくなったからだ。プロに依頼してデータとしてのあれこれはW8搭載の新パソコンに移したもらったものの、アプリケーションソフト自体は移せないという。旧ビルダーはその中の一つだ。
「身の周りに起こることは全て自分にとって意味がある」。で、あれば、これを機会にまったく新しい機軸の「ホームページ蛙声庵」にしよう。今晩飲もうとしている焼酎は、そのための燃料補給と捉えよう。
「結局そっちか」…うん! 

. プロフィール

蛙声爺

Author:蛙声爺
文芸同人誌編集をしています。
考えるフクロウが理想。
木内光夫のHPもよろしく。

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