蛙声爺の言葉の楽園

. 寒い!

 病後のからだ慣らしに独り、散歩に出た。

 道端に居た大輪の椿が目の前で、ポトンと落ちた。
 よく見ると花びらの先が黒ずんでいる。きっと雪の後遺症なのだろう。

 鴛鴦(おしどり)に似た3羽の水鳥が川の水に浸した足を、そろってスリスリと擦(こす)りだした。
 水掻きもかじかむのだろう。

 対岸の竹林をボーっと見ていたら黄ばんだ一群れの葉が、黙ったまま大きく揺れた。
 きっと、ここだけは見るなと言いたいのだろう。

 苔むした桜の老木が蕾をいくつか、無理やり咲かせようとしている。
 斥候(ものみ)にされた彼らは、蕊(しべ)の先さえ見せようとはしないだろう。

 どこに行くのか見ていると猫は、道の真ん中に日溜まりを見つけて座った。
 迫りくる車に気付かないのは、私を睨(にら)んでいるからだろう。

 振り返ると、家々が攀(よ)じ登っている山の顔が、
 白癬(はくせん)に罹っていた。 

. 孤り往くの記

 病気に大雪による箱根の交通マヒが重なって9年ぶりの「大型連休」になった。もっとも最初の5日間は栄養も十分に摂れず、肝心な頭もほとんど「呆け」状態だったのだが。
 この間、或る一つのジョブが電子メールを介して進んでいた。同人誌『岩漿』に連載をしていた小説『孤往記』のネット販売のための「制作」である。この小説の舞台となった時代、つまり学生紛争華やかなりしころの昭和では想像もつかなかった通信手段。半死半生状態の身でもパソコンの前に坐りさえすれば仕事(こと)が進行するこの不思議は、瞬きを伴う嬉しさだ。もっとも13に分かれたこの小説を合体させ、PDFにし版下にまでしているのは「業者」さんなのだが、作者としての爺が味わう喜悦は半端ではない。
 この『孤往記』、当初から自伝と間違われる運命にあった。敢えてそうしたのだが、作者の名と主人公の名を同じにしたことに因る。作中の細部(ディテール)が実際に経験しなければ書けないほどリアルだという人もいて、当初懸命に自伝ではないと否定していた爺も終にはくたびれ、「自伝ではないが、確かに小説の中に私は居る」と軟化したものだ。ただ、読者が自伝だ思い込むと、この小説を嫌悪する方向に突き進むのを止められなくなる。主人公の向学心に関する描写は「自慢」になり、主人公が絡む愛に関する描写は「のろけ」とか「バカ丸出し」に写るからだ。逆に私の境遇だと誤解して同情し励ましてくれた読者もいることはいるのだが、これも作者としては落ち込む。それでも、原体験に根差したものは隠れないものなので、マニアックなファンもできてはいた。連載を支えたのは「小説」と理解して、文章表現と物語の底流を見つめてくれていた人たちだ。今度の上梓はだから、一つの「冒険」になる。おそらく毀誉褒貶は明確に分かれ、パワーで勝る「非難」の風の方が強く出るだろう。それもまた「反響」と真摯に受け止める覚悟はできている。
 正直なところ、読んだ人のほとんどが否定的な評価をしたとしても、誰かが(それがたった一人でも)この作品を読んで頑張る力を呼び戻せたらそれでいいと、そう思う。そもそも『孤往記』が見つめていたのは、自身を含めたそういう「誰か」なのだから。
 まとめて全編を読むと「ん?」と思うことがある。いわゆる「悪者」が出てこないのだ。主人公が社会の中でもがき苦しむには何か理由があるからだ。きっと誰かが彼に何かをした所為だ。そうには違いないのだか小説はそれを顕わさない。責めまくったりもしない。さらには主人公の真っ直ぐな未熟さに触れて、何かを感じ何かを思い出して救われ、それぞれに変化していく周囲の人たちも、自分たちにとっての「悪者」を探したりはしない。
 すべて読む人に解釈を委ねようとした結果である。
 そう、爺自身を含めた「読む人」に・・・。

. 連休破りの豪雪

 1日有休をとれば4連休にもなるという折角のチャンスが潰されガッカリしている人も沢山いるだろう。2月8日から9日にかけて台湾坊主(おっと今は、東シナ海低気圧というそうな)が東日本を襲った。想像を超えた豪雪に交通機関は麻痺状態、氷雪の上を歩くすべさえ知らない都会人は転倒を繰り返した。職場のある箱根からは、積雪が何と60センチを超えたとの情報が入った。当日公休をとっていた爺は、改めて部屋の窓から伊東の空をながめた。さすが伊豆と言うべきか。風雨は激しいが霙(みぞれ)状態が続いているだけだった(翌日、同じ伊東でも鎌田、荻、池などではかなりの降雪をみたという情報が入ってはいる)。たしかに、依頼されて今日ホームセンターを回ったが、雪掻き用のスコップや金属製のいわゆる「平スコップ」は全て売り切れていた。現地から緊急に「来るのは無理ですよ」と、交通の混乱を懸念しての助言をもらっている爺だが、愛車のスタッドレスタイヤがすり減ってノーマルに近い状態なので、行こうとしても不可能だった。一つ前の雪の日、あと30センチで追突という経験をしているのだ。たった1年でスノータイヤが駄目。これも1日106キロという通勤距離のせいだろう。この件も今日になって、4本ともスノータイヤを新しくして解決している。痛い出費ではあるが、生命と身体の安全には変えられまい。地団駄。
 不幸中の幸いとでも言うのだろうか、少しだけいいことがあった。3日間、外出を控えざるを得なかったため、同人誌の校正、編集に集中できた。さらには長時間の読書ができた。この2つ。
 いずれにせよ、人間、大自然の驚異の前では為す術がない。
 人間の心というミクロの世界をいじくる文芸に救いを求めた所以である。
 今回は何のことはない。ただの「日記」になってしまった。

. ガンバレ日本人

 年を取ると愛国者になる。と、いうのは嘘っぽいが、それに似た現象が自分の中に生まれているのに気付き、照れ笑いをするときがある。夕方かみさんと『和風総本家』というテレビ番組を視ていて「このごろ日本人の技術や活躍を見るのが好きになったな」とつぶやいた。豆助という可愛い柴犬で有名なこの番組、世界の思いがけない所で評価されている日本製品を紹介するとともに、それを使っている外国人と作っている日本人を実写で結び、双方の心を繋げるシリーズを持っている。とくに小さな町工場の職人を拡大鏡で見せてくれる回は秀逸と言える。『世界、なぜそこに日本人』というのもお気に入りだ。世界の片隅になぜか暮らしている日本人を訪ねるばかりではなく、かれらがそこで地域の人とどう繋がって、どんな評価を得ているかまでも紹介し分析をする。サブタイトルの『知られざる波瀾万丈伝』からも解るように日本人の内面にまで立ち入っていく。いろいろなパターンがあるが、驚くのは彼らがつねに現地の「雇用の創出」ということを考えて行動しているということ。なんと誇らしい日本人の特色ではないか。テレビばかりではない。1242で日曜の早朝に組まれている『日本人の底力』というラジオ番組にもはまっている。MCは菅原文太。著名な人物を招いて日本人の心の高さを語る。少し心に話が傾いたところで、創意・技術に話を戻そう。もともとNHK・BSの企画で地上波で再放送という共通点がある二つの番組『美の壺』と『イッピン』が素晴らしい。日本の文化や伝統技術が詳細に解説されている。もちろん海外での高評価も語られている。別にいわゆる「バンセン」をしているのではない。こういう番組に心惹かれるようになった自分自身の心境の不思議さを思うのだ。
 そうそう、外国人に日本に来てびっくりしたこと、すばらしいと感じたことは何、というアンケートを行った結果がテレビで紹介されたことがある。同様の記事を週刊誌で読んだこともあったが、それらがほぼ一致していた。「トイレがすばらしい」「街がきれいで衛生的」「飲み水や食べ物がおいしい」「安全で安心」。ここで特筆されていいのは「失くした財布がそのまま戻ってくる」というもの。二度三度と失くしたがそのたびに戻ってきたという話さえ紹介されている。実は爺もかつて二度も財布を落としている。同様に警察に届けられ戻ってきたのは言うまでもない。「電車やバスがきわめて正確」というのもあった。どちらかというと日本では普通のことなので、特には取り上げられないことばかりなのだが、外国人にとっては驚嘆すべきことなのだろう。『和風総本家』のキャッチコピーで言うならまさに「日本っていいな」だ。
 重ねて思う。日本や日本人がほめられると妙に嬉しい最近のこの感覚、いったい何なのだろう。
 いよいよソチでの「冬期オリンピック」が始まる。毎朝4時に起きる爺としては、出勤前の1時間を「ガンバレ日本」一色で費やすことだろう。高血糖や高血圧の薬を飲みながら?
 


 

. ひもの女ブレイク?

「年寄りの早起き」で5時に目覚めたのだが、起きて灯りをつけるのは何となく家人に悪いので、布団の中で二度寝ができないかとガンバッテいた。20分であきらめ、お腹についた薄手の脂肪をポニョポニョつまんでいたら頭が急に回転しだした。きのう観たドラマのヒロインが自室でおやじ然としたくつろぎ方をしていたのが面白く、過去のドラマをいろいろと反芻してみたのだ。なぜ多くなったのか、また、なぜ揃って視聴率がよいのか。もちろんヒマだからの設問だが、検討していれば1時間はもちそうな気がした。
「ひもの女」という呼称は綾瀬はるか、藤木直人主演のTVドラマ『ホタルノヒカリ』で初めて知った。その後「おやじ女子」だの、女の「オス化」など、無礼千万の形容がはびこり始める。もちろん爺の中でであって、世間ではずっと以前からの流行だったのに違いない。もともとがコミックのこの作品、ブチョーと女子社員が同居する、言わばドタバタ劇のカテゴリーに入るが、二人の間での時にオーバーな、時にビミョーな言動が実に見事で大いにはまった。誤解のないように付け加えれば、ヒロインは「仕事はできる」という設定だ。言い換えれば、いまも続く「男社会」の中で「できる」と評される女性だからこそ、かつての女性観から「ひもの女」とまるで「女を捨てた」ように語られてしまうのかもしれない。異性は仕事面での嫉妬から、同性は競争相手としての対抗心からそれぞれ侮蔑をこめて攻めてくるわけだ。
 この角度で思い起こすとかなりのドラマが「もしかしたらそれ?」と、爺の中でズルズルと芋蔓式に出てくる。読者にも確認してもらうために記してみる。篠原涼子(大前春子)と大泉洋(東海林)の『ハケンの品格』。もっともこれは30種以上の資格をもつ特Aクラスの派遣社員でフラメンコも踊れるという設定なので、かなりイレギュラーな「ひもの」だった。企業を信じられなくなったというトラウマが人間関係にまで影響を及ぼしている。上記男女の主役のやりとりは爺に言わせれば「芸術品」だった。同じ篠原涼子(奈央子)と元ジャニーズ赤西(黒沢)が主演の『アネゴ』も忘れがたい。人の面倒をみる、人のために身を引くというある種自己犠牲の天才といったヒロインの哀しくもある女心が随所に見られた秀作。林真理子の原作と聞けばなおさらに納得がいく。篠原涼子という女優さんは演技力もさることながら、よほどこのタイプの役にフィットするのだろう。比較的最近の『ラストシンデレラ』でも39歳の美容師になって恋愛下手な桜副支店長役を「怪演」している。ここでもまた言いたいことを言い合いながらも心の中で「絶対信頼」を共有している男女が描かれていた。小気味のいい「料理」は何度出されても小気味がいい。この意味では、さんざん褒めていたのに何だが、ヨーロッパロケを敢行した劇場映画『ホタルノヒカリ』はいただけなかった。最も大事な主役二人の心の通い合いの機微が表現されていなかったのだ。
 ここまできて、「え? それもひもの」というドラマを3作掲げる。1番目は「HERO」、木村拓哉(久利生検事)と松たか子(雨宮検察事務官)の大ヒットドラマである。型破りな検事に批判的だった彼女は、ガチガチの仕事一本でついていくいくうちに検事に魅かれ始める。恋愛下手な彼女の仕草の数々が視聴者の心に温かく積もっていく。次が『のだめカンタービレ』、上野樹里(のだめ)と玉木宏(千秋先輩)の間の現実離れしたやり取りで、「面白うてやがて哀しき」状態に心が導かれていく。この作品については少し前のブログで触れたのでそちらを見てほしい。最後が『ランチの女王』。ご存じ竹内結子(なつみ)と江口洋介(鍋島)のニアミス恋愛劇がそれ。ヒロインは、「心がひもの状態」になった女ということになるかもしれない。
 総括するに、自己表現が(とくに恋愛感情の表現が)下手で、その代わりに心の中は温かすぎるくらい。また人間としても本当は上等で仕事もきちんとこなす、あるいは才能がある、そういう女を描いた作品群と言っていいだろう。現実の社会、仕事、その他もろもろもきついという現状の中で、明るく笑えて、励ましもあって、どこかぬくもれるドラマ。爺は、これらのドラマが高視聴率を確保した理由の中に、視聴者の、癒しを欲する或る種の「さびしさ」を読み取るのだが、どうだろうか。
 こんな、しなくてもいい整理ができるのも、お休みだから?!
. プロフィール

蛙声爺

Author:蛙声爺
文芸同人誌編集をしています。
考えるフクロウが理想。
木内光夫のHPもよろしく。

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