蛙声爺の言葉の楽園

. かぐや姫の物語

 爺が子供のころから憧れ、「夢」にしてきた世界が、大型スクリーンに展開されていた。絵が好きで、できれば絵で糧を得たかった爺は、目をみはり、限界まで身を固くして物語の中に入り込んだ。淡い水彩画の優しさ。手のぬくもりを感じる人々の輪郭と動き。とくに赤ん坊だったころの無邪気で奔放なかぐや姫の描き方は、可愛くて温かくて、ため息が出た。どんどん育っていって美しくなる。ユーモラスなほどの成長はアップテンポで楽しい。高畑勲という作家の創作姿勢に頭が下がった。秀麗な手書き感、これは余人では叶うまい。また、志しもしまい。営利至上主義の製作からは決して生まれはしないものだからだ。

 物語のストーリーにあわせて語るなどという無粋なことは避けたい。日本人の誰も彼もが観て欲しい、こころからそう思う。まばゆいばかりの姫になったかぐやが京で、忌み嫌う「人間の汚濁」に囲まれ迫られ、つい『ふるさと』の月に救いを求めてしまった、その状況は現在の世の中のあちこちに氾濫している。温かな心、和の貴さ、貧しくとも自由闊達な、躍動感にあふれた日々。それらを映画は前半で執拗なまでに見せ続ける。そして京の都。姫を高貴な方に嫁がせることが自分の使命と曲解した竹取の翁によって、嘘と矛盾に満ちた環境が観客に提示される。これでもか、これでもかと言わんばかりに。姫が心の安らぎを求めて造った箱庭は、なんでもないように見える「景色」も視点を変えれば「ふるさと」という教訓だ。そう、心の。それでも耐え切れずに、物の怪のような超音速で傷つきながら疾走(失踪)する姫。辿り着いたのは生まれ育ったふるさと。しかしそこにはもう何も残っては居なかった。現実の京にもどり、暗く沈み続ける姫の姿は、現代人の実像とどこか重なる。

 この作品は、時間という概念を超え、空間という制約を設けず、天地の往来をも可能にして、ただひたすら人間にとって「もっとも大事なものは何か」を訴え続ける。その重さは時として耐え難い。しかしその先の方で観る側に、かつて誰もが持っていた「他のものに替えがたい温かいもの」を再生させるのだ。爺は足元から這い上がってくるような、感動を味わった。じわりと滲んだ涙は、結末が哀しいゆえではなく、そのことに気付いて心が打ち震えたためだ。

 真っ暗な館内にタイトルローリングの僅かな光が注ぐ。200名は超えているだろう現場の描き手さんたちは、自分の名前を見つけて小さく微笑むに違いない。「これわたしたちが創ったんだものね」と。
 声には出さず『ありがとう』と礼を言った爺。
 海外の人にも見てほしい。



. 鳩ぐるま

 小説の主役もポエムの「わたし」も女性にしていることが比較的多い。強いて言えば、客観的になれるからであり、また虚構の世界での解放を企図するからであろう。自分が男である以上、男のままでは縛られるものがありすぎる。とくにポエムは仮想空間での失恋が多いので、男では身につまされて哀しいということもある。言うまでもなく成就して現在進行形の恋からは詩は生まれにくい。いずれにせよ、ぴたりと一致する心もようの読者でなければ共感は期待できまい。さてと、そんな人、いるかどうか。


  『鳩ぐるま』

 さかさに吊るした鳩ぐるま
 そよ風といまもあきずに遊んでいます
 あなたのふるさと見てるから
 そのうちはばたくつもりでしょう

 二行目まででやめました
 白いばかりの便箋に
 木漏れ日もようがゆれてます
 このまま包んでポストに入れて
 あなたのところへ送りましょう

 お元気ですか
 わたし、いまでもひとりです
 バカな言葉をしたためて
 破いてばかりのこのごろは
 母もあきれて泣いてます

 あなたのあの字も出せないころの
 ふんわり雲の毎日が
 まるできのうのことのよう
 
 たんぽぽの毛が飛び交って
 ネコの昼寝を邪魔しています
 野良の帰りの夕焼けを
 縁に腰かけまどい見た
 あの日のような気がします

 心が優しくなれたから
 も一度行っていいですか
 あしたの切符が待ってます
 わたしの気持ちが決まるのを

 あなたの、
 ・・・夢がもどるのを 
 
  
 
 

. もみじ

 数十年も前の昔昔、手遊びとしてノートに書いて悦に入っていた「詩」。そのときどきの心の悩みや痛みを、女性言葉で自らをからかうようにしたためた「ポエム」。岩漿編集の際、ぽっかり空いてしまった頁を埋めるべく高島京の筆名で即興に創った「つぶやき」。それらをなぜか紹介したくなった。新しいカテゴリを設けた所以だ。言の葉が落ちて、うずたかく積まれ風雨にさらされ、すでに爺の大地の一部になっている思い出でしかないが、もしかしたら読んだ人のどなたかに、その人の今に、共通のものがあって、ひと時のやすらぎになればいいなと、思う。誰ですか、気持ち悪いなんて言うのは・・・うーん、たしかに。


       『もみじ』


 もうお会いしなくてもいいんです
 夏のカエデは秋にはもみじ
 色があせたら 離れたい
 わたしの待つのは 来春の夢
 そんなわたしを もう呼ばないで

 ほら、木枯らしの唄が聞こえます
 心が凍ってくるんです
 でもさびしくなんかありません

 ぼろぼろにちぎれたいのちを
 遠いあなたに捧げます
 ふたりのときの あの 心とこころのぬくもりが
 冷えぬ間に
 消えぬ間に

 もう お遭いしなくても いいんです

. ようやく決めた長編のタイトル

 いつ公開されるかわからない映画の広告のようで恐縮だが、どうしても言いたくて書き出した。もともとの動機は、少しずつ項目別に語っていこうとした『旅館さんガンバッテ!』という企画で、レジュメだけを発表していたものを小説の中で生かして耳を傾けてもらおうというところにあった。得意満面に、かつ説教風に何かを書いても結局、つまらぬものの言葉として受けとられ、ゴマメの歯軋りにしかなるまいとの反省からだ。それでも、兄のホームページに載った同作品につき、経費などについて研究している人から、「はまった」というコメントを頂戴している。この「激励」に応えたいとずっと思っていた。この春『錦秋』と仮題をつけてゆるゆると書き出している。ただ文芸作品的なタイトルがなんとなく気に入らずに、秋まで折にふれて思案投首をしてきた経緯がある。
 『キルリーの巣窟』と決めたのはごく最近のことになる。聞き慣れない「キルリー」については、お手元のパソコンで検索してほしい。寺山修司『書を捨てよ、町に出よう』が出てきて、『法は諸科学の中のキルリー鳥』という形で紹介されている。F.ローデルの言葉で、後ろ向きにしか飛べない伝説の鳥をいう。じつは爺、40年以上も前にこれを卒論で引用している。前々回でも語った刑法175条に関する卒論の下調べで、ゲルホーンの『言論の自由と権力の抑圧』、戦後資料『マスコミ』などと一緒に、フレッド・ローデル(Fred Rodell)著『禍なるかな法律家よ!』(Woe unto you lowyers!)に接している。じつに印象的な言葉だった。ブログにアップするいま、正確を期するために、書棚から古文書に近くなった論文のコピーに当った。もしキルリーで検索して出てこなかったら、このタイトルは諦めるつもりでいた。昨日ようやく確認したので使えると思ったのだ。
 いま、子供の名前が決まったように、といっても名付け親になった経験は無いのだが、とにかく嬉しい。



. まさに不二

 連休を使って山梨の里山に住む兄のところへ出かけた道中のことだ。晩秋の澄んだ空気に真っ青な空。たっぷりの日差し。ドライブ日和とはこういう日のことを言うのだろう。ルートを追って書けばきっと、「爺さんの旅行プランなんか興味なし」と逃げられそうなので、あっちこっち飛んでこの回を埋めたい。
 箱根の芦ノ湖スカイラインのメロディロードは通過すると音楽を奏でる。といっても、爺の場合速度が適切でなかったようで、何か唸っているなとしか思えなかった。曲は巌谷小波作詞の「ふじの山」。もちろん走れば走るほど富士が綺麗だったので、特段曲に不満は無く、乙女峠からの下りに合流してからの歌詞へのこだわりの方に「問題」があったのだが。『頭を雲の上に出し 四方の山を見下ろして かみなりさまを下に聞く 富士は日本一の山』の中で『四方の山を見下ろして』が気になって仕方がなかった。頂上付近の、つまり『頭』を雲の上に出したら、雲が邪魔で他の山は見下ろせないだろう。擬人法を使っている以上、富士は身長3776メートルの体だ。北岳(3192)だけならそうかなとも思えるが『四方の』はなかろう、と。しかしこの疑問も、渋滞しだした山中湖への登りで片が付いた。歌詞の一段、二段、三段は日が違うと思えばいいのだ。四段目が合ってるからいいや、と。いいかげんで、他愛も無いのが爺の特徴。というか、欠点。
 独りで車を運転しているとつまらないことで、退屈を紛らわせるものらしい。広大な裾野に真っ直ぐな道路。その、其処此処に揺れているススキが、陽を浴びて楽しそう。『富士には月見草がよく似合う』と言ったらしい太宰だが、爺は『ススキだってよく似合ってるよ』と、頼まれもしないのに芒の群を励ましたりした。しかも、声にまで出して。帰路、同じ辺りでのこと。完璧な勇姿にうっとりしながらハンドルを握っていると、富士の高いところに積もった雪の一部が風に吹き飛ばされるのが見えた。思わず「あ」と声を出したほどの「事件」だった。昔、短歌で『富士の高嶺に雪は降りつつ』と締める有名な作品を習ったが、当時からずっと、「見えるわけないだろ」と揶揄していた。もとより文学、文芸に誇張や修辞は付きものなのだが。しかしこの日、富士の高嶺から雪が飛ぶのを目の当たりにした。もしかしたら彼の歌人は、本当に見たのかも、と思えてきたものだ。
 そういえば富士は「不二」とも書く。二つと無い、という意味でだが、この意味で手紙の末尾にも「不二」と記す。二つと無いほどに拙い文で恐縮です、というへりくだった意味でだと記憶している。まさか「富士」ほどに美しく高貴な文と自ら誉めるわけが無いのだから。
 従来から『甲斐(嗅い)でみるより駿河(するが)よい』と静岡勢が頑張っているが、この「旅」では「甲斐で見て本当に良かった」と思う。秋の匂いを存分に嗅いでみたし。
 今回は富士山の全貌を東、北、西の三方から見ることが出来た。南だけが抜けているが、いつも皆見ているからいいとしたい。またもや爺の駄洒落で閉めてしまった。多謝

. え?そうなの、でもたしかに

 なんとなく見つけたホームページの紹介一覧に爺のHP「蛙声庵」もあったのでちょっと嬉しかった。それはいいのだが、驚いたのは18歳未満は開かないでというR指定がついていたこと。目が点になった。何故といぶかった爺だが、バイオレンス・性描写という理由なら「確かに」と納得がいく。サスペンスものには殺しがつきものだし、人の心を描くには男女のことも描かざるを得ない。とくに爺の基本方針のようなもので、人の肉体の部位を指し示す場合は、手・足・首などと排泄器官・生殖器官の名称との間で扱いに違いをもうけない、というのがある。その結果表現は「乾いたものになる」(岩漿会員)。いわゆるポルノとは違う。これは多くの読者が言ってくれたものだが、「基準」にてらせばやむを得ない。もっとも、予想はある程度していたので、「いりあいの鐘」「傾いた鼎」「色あせたデコイ」「淡(まみず)にあそぶ」などは「触れる」と診て削除している。
 また、いわゆる「犯罪」を小説のメインに据える場合も、人間の究極の状態を描き出すのに恰好だからだと理解している。「タリオンに背いて」や「夢の海」「心裡の開鎖」「ツール」「狗」などは皆この類なのだ。そう信じている。ちなみに爺の卒論のタイトルは「猥褻物頒布販売等の犯罪性に関する批判的一考察」だった。その後は発展させて自主的論文として「刑法百七十五条、その批判的検討」にまとめている。学術的価値のないことは言うまでもない。その調査過程で裁判関係文書から小説まで、かなりの文献にあたっている。
 いずれにせよ、表現の巧拙に帰する問題ではある。そうとなれば爺のは指定が不可避なレベルで異議はない。ただびっくりしただけのこと。そう、それだけのこと。

. 「舟を編む」から宮崎あおいへ

 何日か前、地元の書店で4000ページ近い国語大辞典を買った。文字通り清水の舞台から飛び込む心地でだ。店員さん二人が「売れたわねぇ」という感じでうなずきあっていたのが印象的だった。このこととは直接関係ないが、次の休みの日に三浦しをん著「舟を編む」を同店で購入した。2012年本屋大賞1位という本なのだが、もともと爺には賞取り本に飛びつく性癖は無いので、これは大辞典の「関連づけ」かもしれない。家事や家庭に絡む事務をこなすのに手一杯でまだ完読していないが、自然に入っていけた気がする。そうこうする内に、この作品を映画化した石井裕也監督作品「舟を編む」のDVDがレンタル開始となり、さっそくに鑑賞となった。
 最近の映画は録音の仕方が変わったのか、会話の部分だけが妙に小さく聞き取りにくい。もっとも爺の難聴が進行しているのかもしれないので、大きな声では言えないが。加えてBGM部分が「正常に」大きいから始末が悪い。それはさておき、映画は爺の苛立ちは斟酌せずに、あくまでも淡々と進行する。省略法が行き届いていて爽快なほどドラマに悩みが無い。この手法、平成のヌーベルバーグなのだろうか。この作品、次回のアメリカ・アカデミー賞外国語映画部門日本代表作品に決定しているという。もしかしたら英語等の字幕で鑑賞することになる外国での公開では、結構いけるかもしれない。爺の感覚では申し訳ないが、☆☆☆がいいところとなった。
 評価が低い原因を突き詰めていくと、主人公馬締(まじめ)の恋人香具矢(かぐや)役の宮崎あおいが活きていなかったことに突き当たる。彼女の演技力がほとんど無用な役なのだ。「これはないよな」と、隠れあおいファンの爺は憤懣やるかたない。
 2001年に主演した「害虫」で、若くしてナント三大陸映画祭コンペ部門で主演女優賞を受賞したあおい。因みに「ナント」はフランスの都市、「三大陸」とはアジア、アフリカ、ラテンアメリカである。清楚と狂気を併せもつ少女をナチュラルな演技で見せてくれた。爺などは、観終わってからもしばらくの間、感心のあまり呆然としていたものだ。2005年の「NANA」、2008年の「篤姫」などの印象は超絶・好感度だった。それが2010年「ソラニン」あたりから役に恵まれずに失速し始めている。たとえば「きいろいゾウ」「ツレがうつになりまして」などなど。別に彼女でなくてもという役どころで、折角の演技力が封印され続けている。「わが母の記」の琴子役はせめてもの救いか。
 そうそう、「舟を編む」のことだった。日を空けて、いや、小説を完読してから、もう一度観てみようと思う。 

. もう書けないのか

 或る日ふとそう言われているかもと、思った。別分類にしている太田道灌は15年を超えるスパンで上梓に漕ぎ着けた。「良くそんな長い期間をかけて完成させたね」とも言えるが「信じられねぇ、さっさと書けねぇのかよ」という嘆息もあるだろう。昨年上梓した「夢の海」も15年は「熟成」させている。しかもこの数年、以前創った小説の不備が判り、また不足が見えてきて、気になって仕方がない。個人的にはそのときどきの「手持ち資金」に影響されて作品の長短が決まり、我が同人誌『岩漿』の代表としては「発行費用の縛り」で総頁枠の影響をまともに受けていた関係で、作品から来る正規の必要頁数との食い違いが多々あったので、発表当時から「未熟さ」は当然意識していたのだが。
 最初に増改訂したのが「おだわら文藝・羅3号」(1998年)に掲載されている『桶胴』だった。台詞が一つも無い小説で馬場驥一郎という筆名を使った。ヒロイン京子の描き方が不十分なままで放置するのが嫌で、構成も新たに3倍の長さにして『岩漿20号』に『閼伽桶胴』として載せている。生れ変った京子が微笑してくれたような気がしたものだ。今の段階で「このほかに岩漿で」と挙げれば『ツール』、『狗』と、中編小説が真っ先に来るが、同人誌『碧』時代の『いりあいの鐘』なども治したい上位だろう。「治療」を誰が待っているわけでもないが、小説の主人公たちに対する礼儀のような気がしてならない。
「治したい」と表記して「あっ」と思い出したのは『傾いた鼎』(岩漿12号)だ。この小説、じつは若い人の文体で書いてみようという試みと、圭、翔、優布(ゆう)という大学生3人の男女が、一定期間に起ったことを三者三様の目で捉える形式にしようという試みの二つを目標に創り始めた。小説の視点を3つの章で別々に変えることになる。結果は圭の目で見た1章部分、つまり3分の1(2段16ページ)で載せているに過ぎない。前述した理由に因るが、この姿勢も主人公3人に対する裏切りだと言える。
 たしかに登場人物は作者である私が創り出した。しかし物語の進行に伴って、彼らは独立した人格を持ち、感情を露にし始め、相手の言動にも独自に反応するようになる。だからこそ作品は生き生きとしてくる。もしこれがいちいち作者の頭で捻られた言動であったなら、読者は物語に入ってきてはくれないだろう。そう想う。創作上の不誠実は過剰でも不足でも、読者と登場人物の双方に叱られるのである。辛いけれど、このことは真実。


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. この空を飛べたら

 またまた通勤路からの話で始めて恐縮だが、伊豆スカイラインを箱根から伊東方面に下っていると、色鮮やかな
「鳥」たちが空中で乱舞していた。数えるときの単位の名称は知らないが、10近くにはなっている。そのパラグライダーが自車の真上に来るたびに爺は思わず首をすくめた。不謹慎だとは思うが墜落してきたらその加速度も手伝って車に乗っていてもひとたまりも無いからだ。空が落ちてきたらと無用な心配をしたことが故事になって「杞憂」と言われているが、はたして今回のこれはどうか。楽しげに舞う「鳥」たちがバックミラーの彼方へと消えたころ、爺の心はようやく安定を取り戻した。
 たしかに鳥のように飛べたらどんなに素敵か。あのレオナルド=ダ=ビンチでさえ企図した飛行。それがいまは巷に氾濫しているフツーの人たちの娯楽になっている不思議。それでも爺は「夢」のままにしておきたい。
 忘れもしない昭和60年8月の日本航空123便の墜落事故。あの日爺は、肋骨3本に入れてしまったヒビを癒すため横浜の家に居た。テレビの報道は終日続いたものだ。ボーイング747便の乗務員15名、乗客509名、後日明確になった生存者、たったの4名。故障発生から群馬県上野村の御巣鷹山に墜落するまでのかなり長い間、ダッチロール飛行に陥った機内の阿鼻叫喚は想像を絶する。爺はこの事故の報道に接して以来ずっと、飛行機が飛ぶのは「嘘」だと固く信じて疑わない。十年以上も前になるが、社員旅行が出雲と決まり国内便で最寄の空港まで行くと誘われたときのことだ。爺はきっぱりと「参加しません」と言い、理由を告げている。「いまどき恐怖症かい」と笑われたのはいうまでも無い。『のだめカンタービレ』の千秋先輩と同じである。
 2013年のエジプトの熱気球事故でもかなりの死者が出た。人間が空を飛ぶというのは、それが飛行機であれ、パラグライダー、ハングライダーであれ、熱気球であれ、命がけであることには変わりがない。いると言われている造物主も人間には翼を与えなかった。命がけ、それでもよければ空を飛べ。そう言われているような気がしてならない。飛ぶための機器を創り、扱う側にもその覚悟は要るように思う。
 タイトルの『この空を飛べたら」は中島みゆきの作詞作曲だ。著作権上歌詞の引用まで禁じられているので、ぜひネット検索をしてみて欲しい。空への憧れと、人間の心に内在する根源的な哀しみが対峙させられているので。
  それにしても当日の空はジブリのアニメのように綺麗だった。
 

. 五七五に蛇の足③

 小坂氏主宰の「岩戸句会206 10月」から好きな句を選んで蛇足でかつ駄文を添えるコーナーで、今回は3回目。句から刺激を受けて自由奔放に妄想するコーナーとしてご理解を。


「老犬の目穏やかなり柿をむく」洋子

 犬は自分の老いた容姿を見ずにいる。一方人は、否応無しにそれを確認しながら日々を過ごす。これは、それぞれに幸なのか不幸なのか。静かな空間の中の微妙な感覚。
 目を剥(む)かず柿を剥くなり俳人なれば。「ワン」


「口開き弛緩の極み落ちアケビ」豊春

 アケビがアケビたる形であるのは、だらしなく口を開けているとき。人もまた老いて熟柿の落ちる様。惚けも放心もある種のカタルシス。
 黒澤明の「赤ひげ」は言う。「よく見ておけ、臨終ほど荘厳なものはない」


「人形にビロードの服秋深む」薪

 犬に着せ、人形に着せ、妻に着せ。温かくとは自分の「寒さ」から。すべからく「愛情の出口」の先には暖がある。人形のお礼の辞儀に「秋思譜」をみる。
 総ての物に心を与えるのは神ではなく人かもしれない。


「秋の蚊や居場所なくして我が甲に」章子

 ビルに棲むチカイエカは冬を越せるという。人の血を吸わなくても1回は産卵できるという。してみれば、寄ってきたのは神の命?  「身内」意識?
 叩くな動くな、待て飛翔。


「源氏名は櫻と申し柿落葉」歩智

 落ちてなお、自己主張するなんて浅ましいこと。いいえ、大地にひとときの装いをと、ただそれだけ。腐れば大地の糧にもなる身なれば。「櫻とどこか違いましょう」
 「余輩もまた画家なりき」(コレッジョ)


「約束が枯葉のごとく散りにけり」遊石

 約束は瑞々しいうちが全ての言の葉。枯れて散りゆくはさだめ。それでも軽んじてはいけない、枯葉の内に炎となりうべきものがある限り。
 口約束は朽ち約束に似たり。


「外道にも脂乗りたる神無月」炎火

 その魚とて人に食われんとして日々食し脂を乗せたわけではなかろう。非難は「道」を外したる釣り人にとは魚の言。ギャラリーの言。
 「嫌なら早く海に還して!」


「金木犀次は婆さま立ち止まり」雲水

 「次は」の一言で動画に変貌。その前は子供、前の前は爺。立ち止まらないのは雲水のみか。花が微細だからと精一杯香りを放つ「女心」。
 オバタリアン、まさかと、自分の肌を嗅ぎ。 


 

 



 

. ⑦再び道灌に会う

 様々な叱咤や激励を受けて十年以上が経った。自分の中でわだかまっていたものが前向きなものに変質しつつあることを感じた私は、道灌が暗殺された相陽府跡に出かけた。さらには川越城址にも。このあたりの想いや探索の結果についてはエッセイの『以訛伝訛』に詳しいので当って欲しい。

 

「以訛伝訛」
. プロフィール

蛙声爺

Author:蛙声爺
文芸同人誌編集をしています。
考えるフクロウが理想。
木内光夫のHPもよろしく。

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