蛙声爺の言葉の楽園

. ⑥「蛟竜の角」が残したもの

 調査開始から約3年の歳月を要した「道灌秘録 蛟竜の角」380枚は、1991年7月、東伊豆町の同人雑誌「碧3号」に全編掲載された。19ページからラスト171ページまでを1作品で占めたこの号は、同人誌としては異例といえる。私は小さな興奮の中に居ながら、一方では未熟なまま活字が「世間」に出ることに、或る惧れを感じていた。それはとくに次の点が引っかかっていたからである。
 時代考証に自信がもてない箇所がいくつかあったこと。特に暗殺の場でもある当時の風呂の形状がどうしてもわからなかった。その分シーンの迫力が減じていたのだ。
 道灌と早雲の年代合わせに苦慮して、結局曖昧になったこと。
 序章部分が小説の中身ではないのに、あたかもそうであるような体裁になってしまったこと。
 終章の漢文の読み下しにもう一つ確信がもてないままで載せたこと。
 これらは後の10年でつぎつぎに解決していくのだが、このときの不安は半端ではなかった。
 この同人誌は狭い地域で販売ルートにのった。伊豆稲取の2軒の書店で店頭に出たのである。のちに「完全版」ともいうべき「小説太田道灌」を上梓したいま、どなたかに買っていただいたその店頭の数冊が自分の中では紙魚になっている。
 いずれにしろ、このあと何年か経って、暗殺の場となった神奈川県伊勢原市の上杉定正の府第跡や定正の居城川越城跡を実際に訪れるまで、私の中の太田道灌は何物かに覆われて、その姿を見せることはなかった。もしかしたら、或る種の重圧から逃れるために、忘れたかったのかもしれない。
  

. 漢字遊び

 たしか小田原文藝の同人だったころだと思う。「若い人にも読んでもらいたいという小説なら、漢字をいまの三分の一にしたほうがいいです」と女性同人からアドバイスを受けた。もちろん彼女は語彙(ごい)も豊富で、詩的な物語を創る人だったので、自分自身の希望を言ったのではない。その後同様の助言ないし苦情を各方面から再三頂戴した爺だが、ご存知のように同人誌の頁割りは1頁単価で決められているので、仮名を増やせばページも増え、したがって負担金も増えることと、文章には漢字込みの印象があることから、いまなお「改善」?はなされていない。漢字は小学生時代、貸し本屋通いの頃からの言わば趣味。変換ミス以外で漢字の誤用をすると一晩ウジウジ気になってしかたがないほどマニアックなところがある。
 と、前置きはともかく、少し遊びたい。
 『爪(つめ)にツメなし、瓜(うり)にツメあり』などと、標語的に紛らわしい漢字を区別したりすることがある。『巳(み)は上に、己(おのれ、つちのと)下に付き、已(すでに、やむのみ)中ほどに付く』で、間違わずにすんだ人もいるに違いない。さらにはこんなのもある。渡辺さんの「辺」が難しい「邊」だったとき、パソコンなどの変換なら容易だが、手書きでだと苦労する。これを『ミズカラのアナのホウにシンニュウ』と分解して憶えていると雑作も無い。同じ字でこの「方」のところが「口」になっている渡辺さんもいる。でもこれを前記『 』内に「クチ」と代えて記憶しようとすると、卑猥な感じが増してくるのでご注意。辺(へん)の代わり字が変になりかねない。
 PCがでたので我が「岩漿」について語る。「がんしょう」と打って変換すると「岩礁」が出てきて「岩漿」は控えに居ない。多くの方はたぶん「岩」の次に血液の成分である「血漿」を変換挿入してから「血」を抜いてやっと「岩漿」を得る。あとは常用語として保存すれば足りる。それにしてもマグマを意味するこの語、考えてみれば厄介極まりない。ご容赦ありたい。この「漿」の字の訓読みは「こんず」、はたしてパソコン変換で出てくるかどうか。興味のある方(ふつうは居ない)、お試しあれ。
 「お試し」で一計を案じた。古いノートを引っ張り出して見つけた『糸』という自作の詩。糸偏の漢字を使って創る、を自分に課して遊んだ記憶がある。ご笑読をお願いして終止符としたい。

『絡みし絲(いと)に身(いのち)も萎(な)えて
 縁(えにし)の悪戯(いたずら)そのままに
 綾(あや)なす恋を緋(ひ)に染めて
 単(ひとえ)を纏(まと)い死に化粧
 綺麗(きれい)とつぶやき火の中へ
 髪、炎もて梳(くしけず)り
 妖しく白き艶の舞
 狂おしきさま夜を紊(みだ)し
 男を統(す)べる鬼と化し
 黄泉(よみ)の国へと緩(ゆる)やかに
 僅かに残る淫靡(いんび)なる一縷(いと)』

. 車に挑んできた野鳥

 名も知らぬ、かなり大きな野鳥だった。午前5時半頃伊豆スカイラインを箱根に向かって走っているときの話だ。長い真っ直ぐな道が終り左カーブでハンドルを切った直後に、上り車線路上に陣取っていたその鳥が私の視界に入った。「ばか、轢かれるぞ」。私が心の中で発した台詞だ。パッと宙に浮いた鳥は、あろうことか愛車目掛けて飛んできた。こう書くとスローな感じだが、ほんの一瞬の出来事。鳥はフロントガラスに羽を当てて、後方に消えた。なぜ横に避けない。なぜ敵に立ち向かうような行動に! 私は再三舌打ちをした。こちらもこの『交通事故』を避けることは不可能だ。しかし、理屈や弁解とは次元で「罪」を感じた。バックミラーに映らなかったところをみると、即死ではない。おそらく力の続く限りはばたいたあとで、傷を抱えてうずくまるのだろう。勤務先に着くまで、後味の悪さを引き摺り続けた。
 対物にも人身事故にもならず、警察に処理を依頼する必要もない。保険会社への連絡とも無縁の『事故』。それでも「命対命」であることには変わりがないのだ。
 それにしても、なぜ?



. 「そして父になる」お茶話・1

 カンヌ国際映画祭審査委員長スピルバーグも泣いたという是枝裕和監督作品「そして父になる」を夫婦で観に行った。福山雅治演ずる野々宮の息子とリリー・フランキー演ずる斎木の息子が病院の看護婦の嫉妬から故意に交換されてしまい、数年経ってから知らされるというところから物語は始まる。自分の子ではないのに親として過ごしてきた時間の重みと血のつながりへのこだわりの狭間で揺れ動く二組の夫婦。突然ふってわいた親の交替に戸惑い、心乱れる二人の男の子。二つの家庭の温度差を随所に見せながら、太いラインとして野々宮の父親としての成長を少しずつ描いていく秀作だ。世界230の国と地域で配給されることが決まり、スペイン・サンセバスチャン映画祭で観客賞も受賞したのもうなずける。私も5つ星をつける。
 この作品は『子供さんたちに導かれて作った映画』(福山雅治)と言われているが、キャスティングされた男の子二人の体格や顔つきが好対照で、何も言わなくても性格や親が作り出した生活環境を推定できる。親の価値観を押し付けられ禁止と命令で育てられた野々宮の子は小柄で大人しく自分を出さない。一方の斎木の子は自由奔放に暖かい肌のふれあいの中で育てられ、同じ年齢なのに大柄で快活だ。監督の「主張」が撮影前の配役の段階で明確になっていた証拠だろう。
 かなりの昔ダステインホフマンとメリル・ストリープが主演したアカデミー賞受賞作で、離婚する父母間の親権争奪戦を描いた「クレーマー・クレーマー」を観て涙ぐんだことがある。今回も、父親の方にも、子供の方にも感情移入をして、知らず知らずのうちに目を潤ませてしまった。しかも照れくさく思うことも無く。
 「やはり幼児期は、父親と母親の愛情に包まれて育たないと。その後の人格の「骨格」とも言うべき部分を創るときなのだから」
 持論を再確認しながら、タイトルローリングを見詰めていた私。

. 料理する女

寸編小説「料理する女」
『流しの下を覗いてみた。ガスコンロの後も確認した。90リットルの冷蔵庫の両脇を視てから白い扉に耳を当ててみたりした。居ないし鳴き声も途絶えたままだ。
「何してるの、みずほ」
 突然の声に驚いて振り返ると、ハンドバックを抱えた母が小首をかしげている。
「うん、いま、ちちろ虫が鳴いててね、招かざる客ってとこ?」
 母は私の返事には応えず、ダイニングキッチンのテーブルの上を見て溜息をついた。
 向かい合ったご飯茶碗と汁椀、ペアの箸置きに夫婦箸、中央にすき焼き鍋。
「まだ切れてないの」と、母は卓上にあったコップを手にして匂いを嗅いだ。
「男? お酒の方?」
 たしかに妻や子に見放され別居されている男だ。ご他聞に漏れず他に女もいるらしい。会社ではそこそこの管理職だが、優柔不断な中年の典型といえる。いずれにしても私にはどうでもいいことだ。そう思っている。
「あ、そこ坐らないで」
「はいはい、だんな様の席ですものね」
「いやみっぽくない、最近特に」と、母に自分の椅子を勧めた。
「心配してるのよ、あなたの体と心。毎晩そうやって夕ご飯つくって待ってるんでしょ」
「そうよ、来ないって分ってるからアルコールを入れながらね」
「そんな陰膳みたいなことして、情けない」
 自分だってそう思っている。それでも人のぬくもりが欲しい。独りの平穏よりも二人の不幸の方がましなのだ。
 「だってこうして独りじゃないの、みずほはねぇ、不幸にもなれていないの、解かる? こんなあなた見たらお父さんがどんなに哀しむか」と目を潤ませる母。
「見られはしないわよ、死んでるんだから」
「そんな言い方しなくても」
 母の頬を涙が流れ落ちる。
「もう、うっとうしいから帰って!」 
 母の顔から血の気が引くのが分った。怒りからか若者のような勢いでドアに向かう母。その背の動きがスローモーションに変わる。
「お母さん、待って、ちちろ! コオロギ鳴いたぁ」
 母が止まって、振り向いた。
「だから、行かないで」
                  

 


   
 

. ⑤3分の1書き換える気はないか

 2週間ほど経ってから会いたいと電話があった。

 私を書斎に招じ入れると、合評会で見る好々爺から「文学者」の顔に変わっていた編集長F氏。
「茶話会にする前にちょっといいかな」
 そう言う氏の表情はそれでも穏やかだった。
 応接テーブルの上に置かれた私の原稿用紙。挟まれた色とりどりの付箋には、小さな文字が躍っている。
「読ませてもらったよ、よくここまで書いたね」
 心地良いねぎらいの言葉は長くは続かず、容赦のない批評、細部にわたる「改善勧告」が私を襲ってきた。
 
 「暗殺」は再考したらどうか。この作品、道灌の人間像にまで迫っているし。
 目次にある十数個の章のタイトルは、一定の方針の下で統一しなさい。これは読者を導く大事なものだから。
 時代考証を時間をかけてやってほしい。当時の衣装、部屋の構造、家具調度、武具、馬具にいたるまでだ。
 主人公と脇役をはっきりとさせて、記述の濃淡を図りなさい。誰の何を描きたいのかを明確にすることだ。
 地の文でも台詞でも、当時は存在しないと明確にわかる言葉は使わないこと。たとえば「平和」、これは現代になってからの言葉だ。ほかにもあるから捜してみて。
「何と言い換えればいいんですか」と、ここで私は氏を試しにかかった。完膚なきまで痛めつけられてたまるかという心の狭さが露だったが。
「甘えてはいかん、自分で調べて自分で悩みなさい、これは君の作品だ」
 完全にへこんだ。その通りだと思った。
 台詞の中にいま様の言い回しが散見されるが、これは時代物の要請にあわせること。
 城の位置などの理解のために簡単な地図が要るかも。人物関係図も欲しいな。
 人物の名が難しいね、いまの読者には。ルビはふれないだろうか。
 ・・・・・
 私はようやく気付いた。氏は批判も非難もしていないのだ、よりよい作品にと力を貸してくれているのだと。そうでなければ、これほど丁寧にビギナーの小説を読みはしないと。
 以心伝心なのだろう、奥さんが茶菓を持ってきた。遠慮なくいいだく私。お茶は心なしか苦かった。
「ところで、この原稿、3分の1ほど書き換える気は無いかね」
 菓子を落としそうになった。小説や脚本を書く人なら知っている。それは「全部書き直し」と同義だということを。
 何分かして、私は口を開いた。「わかりました、そうします」
 師が嬉しそうに微笑した。

. 五七五に蛇の足②

 またまた雲水氏の俳句の会報から爺が好き勝手に引いて、言葉遊びと妄想の嵐。
 本格的に俳句に取り組んでいらっしゃる方々、ご容赦ください。


「ビル群に羊の群れし残暑かな」炎火

 羊を数えて眠れぬ人と明日が怖くて眠らぬ人が、「陽」避けの白布を纏ってビルの内外に群れて漂う。彼らに猛暑と呼べるほどの「夏」はあったのだろうか。問えば答えだけは涼しげな風?


「さよならとおいでがまざる芒の穂」章子
 
 何かを亡くした草(芒)、溥(あまね)く広がっていく草(薄)。誰が当てるのだろう、漢字や国字の妙。ひとり咲いても群れて咲いても控えめで寂しい風情。黄色いセイタカアワダチソウが唯一のお友だちか。



「君の背に距離を保ちて大花野」正太

 「君」が男性でも物語があるがここでは女性。眼前に広がる秋の草花の中を歩む二人。並べない、手も引けない、前に立ち弱った背中も見せられない。自然に距離をおき後を追う、詩的な哀愁。


「廃線に凛とコスモス並びおり」豊春

 錆びて不要になった2本のレール。それでも目的地があるかのように遙か彼方へと続いている。コスモスは宇宙だ。赤でも白でも黄色でもいい、凛として君たちはその線路に、並んで立っているのだから。


「秋遍路打ち捨てられし三輪車」鼓夢

 老夫婦の遍路が目に浮かぶ。息子や娘や孫との心の距離を縮めたくて遠路をひたすら歩く。その先には仰向けに倒れている三輪車が。妻が立ち止まり、ボソリと言う。「これって、わたしたち?」


「雨雲の緞帳上がり望の月」雲水

 大きな句だ。私の通勤路からの眺望はパノラマだ。緞帳のような下端が直線の雲は何度も観た。濃墨色の幕の下から見える月は、句のとおり十五夜の満月がいい。「この世をば」などと詠みはしないが。
 
 
. プロフィール

蛙声爺

Author:蛙声爺
文芸同人誌編集をしています。
考えるフクロウが理想。
木内光夫のHPもよろしく。

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