蛙声爺の言葉の楽園

. ④酷評された小説から「道灌」へ

 勤務先のホテルの社内誌の常連M氏の紹介で東伊豆町「雲」の同人になったあと、名称が「碧(あお)」に変わった創刊号で、私の文章に関する天狗の鼻が無残なまでにへし折られた。当時の編集長F氏の拙作へ批評の要点は、文章がいわばノッキングを起している、というもの。それも編集後記で他の同人との比較という形がとられまさに完膚なきまでに叩かれて、だった。そのころの私といえば、同人誌など綴り方の会程度にしか捉えておらず、小説とは名ばかりの文章遊びの場でしかなかった。「碧2号」の「ちょっと一服」というコラムにこんな記事が残っている。『創刊号・「棺をひらく」を酷評した編集子を私は内心怨んだ。しかしその憤怒がエネルギーになり「時代小説大賞」応募作「道灌暗殺」(400字詰350枚)を生み出したのだから不思議である。半年以上かかったが、その執筆過程で私は気付いた。あの酷評は正しかったと。ものを書こうなどという輩は多かれ少なかれ自惚れ屋である。出来れば耳をふさぎ目をふさぎ自作を抱き締めるだけにしていたい。私もその例外ではなかった。あのテーマにはあの文体が似合うと抵抗した私だが編集子の言う文章の手触りは別次元であった』何となく殊勝な感じだが、私の彼と自分に対する怒りは、1年を経てもなお創作意欲を刺激し続けていた。
 創刊号の批評に接してすぐのころ、手元にある太田道灌の史料を引っ張り出した。次いで図書館に、書店にと関連書籍を漁りに出掛けた。その結果道灌が文献の少ない武将であることを知る。このことが逆に執筆の可能性を高めていく。学者じゃないんだ。小説を書くんだ。F編集子に一矢報いる。呪文のように日々唱えながら、集めた本に挑んだ。或る日「え、殺されると解かっていて何故主君上杉定正の館へ? それもたった7人の部下だけを連れて」と唖然とする。そんなバカな、嘘だろう。私はその何故に囚われた。道灌への興味がさらに加速したのを憶えている。
 調査の一方で、どういう小説にするのかで、方針を決めかねていた。
 そんなとき、と言っても正確な時期は忘れているが、私は「竜馬を斬った男」という映画に触れる。この映画は早乙女貢の原作で、1987年製作。幕末の志士坂本竜馬が中岡慎太郎と二人で京都河原町の近江屋で寛いでいたところを幕府側の浪士群の急襲を受け、その中の一人佐々木只三郎に斬られるという筋だ。実はこの浪士、竜馬がどれほど偉大な人物であるかを知らず、明治になってからこれを知って悔いたという。それはさておき、何故竜馬は命が狙われているのを熟知していたのに無防備だったのか。この1点で道灌と繋がった。私は若い頃アートシアターギルド1974年製作の「竜馬暗殺」を観ていた。「暗殺」、可視的で鮮烈な言葉だった。文章を読めばその場面場面が目に映るような小説にしよう。資料はそのためのものにすぎない。そうであれば、江戸城築城以前の史料が皆無と言う道灌でも小説化できる。しかも、史料がある部分は、その映像をナレーションするような気持ちで綴ればいいのだ。端的に言えば、頭でシナリオ、手で小説。そんな感じだ。ちなみに私は、30代の始めのころ、何を勘違いしたか、渋谷で開講された「シナリオ講座」に通い「卒業」している。かなり本格的なもので講師の中には新藤兼人や新井一もいた。
 執筆は順調に進み、脱稿したときはうっかり涙ぐんだ。拘束時間の長い観光ホテル勤務のなかで、正直なところ何度も止めようと思った。「素人に書けるテーマかよ、自惚れやがって」と自分自身を嘲笑したりも。そんなときに必ず脳裏をかすめるF氏の顔。その顔はいつも口辺に笑みを浮かべていた。
 伊豆北川の海を一望できる庵風のF氏宅。急階段を登る私の手には分厚い手書き原稿があった。
「こんどはバカになんかさせないぞ」
 しかし拙作「道灌暗殺」を読んだ後のF氏の言動は、大げさに言えば、それ以後の私の人生を変えてしまうほどのものだった。

. 文章のリズム

 文章のリズムがいいと記銘しやすくなり、再生・暗誦もしやすくなる。このことは小説でも随筆でも短歌でも、はたまた巷間で言い伝えられている囃し言葉などでも言えるように思う。
 漱石があまり好きではなかった自作と何かの本で読んだが、小説「草枕」の冒頭などはまずこれに該るだろう。『山路(やまみち)を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹(さお)させば流される。意地を通せば窮屈だ』句点までが短く調子がいいのだ。随筆では鴨長明の「方丈記」の冒頭、『行く川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし』爺は伊東の松川の傍を歩き始めるとすぐ、この文章が頭のなかを走り始める。むろん爺なのでこの先の方は記憶の確度が落ちるが。清少納言「枕の草紙」の冒頭『春は曙(あけぼの)。やうやう白くなりゆく山際(やまぎわ)』以下の文章などもその好例かと思う。川端康成がノーベル文学賞を受賞し「美しい日本」をテーマに演説した中にあった明恵上人(明慧/みょうえ)の短歌も、点を挿入して読めばこの中に入るだろう。『あかあかや、あかあかあかや、あかあかや、あかやあかあか、あかあかや月』ストックホルムでどういうふうに英訳されたのだろうか。心配ではある。
 読者の方は春の七草を諳(そら)んじていると思う。『せり、なずな、ごぎょう、はこべら、ほとけのざ、すずな、すずしろ、これぞ七草』と。実に耳の中で踊るようなリズムだ。では、秋の七草は。春のよりも馴染みが薄く詠うような並べ方の定説もない。そこで爺は『くず、はぎ、ききょう、おみなえし、おばな、なでしこ、ふじばかま』の詠み順をお薦めしたい。少し注釈をすれば、おばなはススキのことだが、此処の位置にススキと入れると調子が出ない。詠みを試していただきたい。またむかしアサガオを七草に入れていたが、これは漢字で書くと「朝貌」で、ききょうのことである。七つ草の内容は不変だ。
 囃(はや)し言葉的な言い回しは軽快で楽しい。いくつかご紹介したい。先ずはご飯の炊き方。もちろん電気釜ではなく竈(かまど)炊きだ。『はじめチョロチョロ 中パッパ ジワジワどきに火を引いて 赤子泣いてもフタとるな』ここまでは言わば全国区、この先はおそらく地域差があるだろうと思う。『そこにババさまとんで来て わらしべ一束(ひとたば)くべました これでむらしてできあがり』この例は某放送局「きょうの料理」から。料理といえば『あらまチョイチョイゆで小豆』なんてのもある。豆を煮たり茹でたりするときは、何度もふたを取って見張る必要があるからで、面倒をみるのが大変な相手をからかって言うこともある。ここで爺がいまだに暗記しているとっておきの囃し言葉をご紹介しよう。『聞いーちゃいないね鳩ポッポ、南京豆のつなわたり』意味不明だが小うるさい相手に突き返すには絶好だった。
 思想的なことは無関係にして、調子のいい響きで選んだ硬い文章を載せて締めくくろう。団塊の世代以前の方には懐かしいかもしれない「教育勅語」だ。新しい世代の人のためにと仮名はふることにする。『朕(ちん)惟(おも)フニ我ガ皇祖皇宗(こうそこうそう)国ヲ肇(はじ)ムルコト宏遠(こうえん)ニ徳ヲ樹(た)ツルコト深厚ナリ』40年以上も前だからカビが生えた話だが、爺(当時は青年)が居酒屋で友人にこの勅語を終いまで暗誦してみせたところ、カウンターに居た見知らぬ白髪のお客さんから、お銚子が2本贈られてきた。その真の動機は不明だが、お酒は友人とふたりで美味しくいただいた記憶がある。『拳拳服膺(けんけんふくよう)』しやすい文章で得をした唯一の経験だった。

. 貰い乳の話から

 初老をとうに過ぎた男3人のバカ話から始まった。兄弟姉妹が10人と多すぎて母親の乳が枯れ果ててしまい、近所の子の母親たちに乳を貰い歩いたという爺A。いまの若い世代にはまったくわからないだろうが、「産めよ増やせよ地に満てよ」の時代だ。堕胎や中絶は許されない。避妊なぞしたら非国民扱いされる世相の中で、できた子は必ず産む。しかも牛乳、ミルクなどが不足していたのだからたまらない。子育てのための母乳の「共有」は時代の要請でもあったろう。もっとも乳母(うば)の制度・慣習ははるか遠い時代にも存在していたのだから、意味内容はかなり異なるのだが。とまれ、爺Aの言葉に私も「終戦直後あたりの話だけど、俺もおふくろの乳が出なくて貰い乳(もらいぢち)だったらしい。其処此処の乳の張った母親数人のおっぱいを吸って育ったことになるんだ」。「いいね、それは」といくらか若い初老のB。「とうの本人にいい思いだって自覚はないけどね」と私。「そりゃそうだ、自覚してたら空恐ろしい」とAで、爆笑。ここまではいくらか爽やかな感じだが、次にきたBの台詞には度肝を抜かれた。話はこうだ。Bが乳呑児(ちのみご)の頃、母親の兄妹の集りに連れて行かれたのだが、その兄の連れ合いや叔母に授乳され「これでほんとの親戚になったってわけね」と微笑みあったというのだ。むろんこの供述は母親から聞いたもの。いやほんの冗談だったかもしれないのだが。授乳自体よりこれで親戚云々のくだりの方が問題だと私は思った。乳を吸う側が乳呑児でなかったらどうなるかを想像すれば、この台詞の危なっかしさがお解かりだろう。ドキドキ感に襲われる。ま、これは取り越し苦労でしかないか。しかし「フィガロの結婚」が書かれた欧州の時代、王や領主は花嫁を花婿よりも先に抱く権利があった(いわゆる初夜権)ことなどを思うと、世界のどこかにそんな掟もどきがあるかもしれない。遠くなった青年時代に、文化人類学者の本だと記憶しているのだが、未開社会の性の研究に接したときと同じ衝撃が走ったものだ。
 ま、それはさておき。(いま気づいたのだが、これを使うとどんな文章、いかなる内容の接続も正当化されることになって面白い)ちちが出るのは母だけで父にはちちは出ない。「父にちち(乳)なし、母にぼぼ(母母)あり」と不真面目に評される所以だ。言葉の妄想が許されるなら巷間よく耳にする「血を分けた兄弟」は、実は「乳(ち)を分けた兄弟」なのではないか。母は乳を分け、父は血血を分ける。古来「血統」は父方で問われているではないか。「男系男子」の血統、封建社会の家父長制も基本は父からの系統だ。本当に父から血を分けてもらうわけではないので、この解釈もまたありうる。の、ではないか。
 おおらかで温かかった肉親、親戚の「面影」は薄らぎつつある。早朝のテレビを賑わす骨肉の争いや殺人事件ニュースの数々、母の乳で繋がっていたはずの人間関係の輪。いまこそ頬を緩ませ思い出すべきである。

. ③肖像画・古文書との出会い

 何も知らずに宴会場の前にたたずみ、勝手に想いをはせた一文。その後だいぶ経ってから調べてみると、五つとも既に物故している高名な日本画家の名前だと分った。知らないままでいたほうが良かったと落胆した記憶がある。上から順に松林桂月、児玉希望、樫山南風、田中以知庵、鏑木清方。山吹は五つの小宴会場の総称なので画家ではない。道灌に因む蓑借り伝説から採ったものだ。このホテルには「道灌亭」と呼ばれる宿泊費がかさむ新館もあった。
 イベントは順調に進み、その準備過程で、道灌縁の寺院である神奈川県伊勢原市の洞昌院にも行っている。好々爺然とした太田道灌の肖像画に出会ったのはこのときである。しかしこの時点でもまだ、自分が道灌の新しい人物像を描くべく小説にしようなどとは夢にも思ってはいなかった。あれやこれや動き回ったのもただ仕事だから、というにすぎない。休止状態であった創作太鼓の「御伊豆太鼓」を復活させたのもイベントのためで、このとき熱川にはもう一つ「道灌太鼓」という一派が存在していた。太田道灌がいかに熱川と「結びついていたか」という一証左ではある。
 記憶が薄らいでいるが、文政三年脱稿上梓の「太田道灌雄飛録」全六巻の複写に接したのも同時期だ。編著は木村忠貞、画工は北尾美丸、勝川春亭、画図彫匠は加藤利助と記されていた。いまから193年前の文政三年の出版物である。道灌歌集の複写も同時に拝見している。これが後年、小説執筆の原動力の一つになる。

. いわゆる一つの「こわい」

 伊豆での最初の勤務先で社内誌の編集を始めた。昭和62年のことである。『季刊寿来(じゅらい)』という。4号目あたりで『初花』として70ページの特別号とした。その後『黎明(れいめい)』と名を変え、ホテルの援助を一切受けない形にして平成5年まで続けている。この中で一番厚いのが『初花』で、この号に私は埋め草として「こわい」という一文を載せている。

 「こわい。
 書こうとして書けないことが、
 書いてしまったことが、
 人に読まれることが、
 さらに誤解されることが、
 ついには発表してしまったことが、
 書くこと、それを発表することでしか
 いまを勇気づけることができない自分が。」

 20数年前の「こわい」はいまも不変だ。綴られたされぞれの行に自分の作品を当てはめてみる。
 2行目は、夢想国師と人足との心の交流を描くつもりの『疎石と虫』
 3行目は、亡母と私の複雑な想いを整理した『雪積む樒』
 4行目は、深層心理が透けて読み取れそうな『傾いた鼎』
 5行目は、皮相的に読めばゲテモノと受け取られかねない『夢の海』
 6行目は、史料不足を承知で歴史上の英傑を描こうとした『小説太田道灌』
 そして最後の7,8行目は、この「ブログ」がそれかもしれない。
 資料とすべく埃を払って引っ張り出した小冊子を見て、ふと考え込んでしまった私が、ここに居る。

. ②道灌イベントに係わる

 この看板、その後立て替えられて文言も変わっている。メモをしておく重要性があらためて解かったものだ。
 或る日銅像の近くの「道灌の湯」に入り、立ち尽くす。『番台もなければ管理人もいない。かなりおおらかなしくみになっている。料金50円も入口に高札があるだけ。さすがに男女の別はある。しかしそれも、厳格な仕切りといえるかどうか。誰も入っていない。湯はぬるい。塩分は強く感じる。薬効があり、地元の人がよく湯治に来るという。昔はかなり熱いお湯だったらしい』観光に利用された道灌、そんな感じを受けた昭和62年の秋。
 太田道灌について何も知らない私が一気にのめりこむ契機が、翌年の春にやってくる。
 私のいたホテルの経営者は道灌の末裔といわれていた。彼は太田道灌没後○○年記念イベントを企画し、当時管理主任でしかなかった私を、営業部、調理部、管理部の三部門をイベントに関しては統べる立場にある企画実行委員長に指名してきたのだ。仰天して不可能だと申し立てたが時既に遅く、イベント準備は各部の日程の中に組み込まれた。もっとも現実には支配人が指揮を取っていたので、私はある種イベントの象徴でしかなかったのだが。
 とまれ、太田道灌は一気に私の中で大きな存在になった。
 それにしても入社して日も浅い私を抜擢した理由が解からない。大分経ってから、経営幹部がアドバイザーとして招いたアドスタッフの人が私の次の文章を読み、推奨したからだと知らされている。
 館内の「庵」と付く宴会場の名を網羅して創った一文で、いま読み返すと生意気さが前面に出ていて苦笑を禁じえない。全文掲載を遠慮する所以である。
『伝説によると月の中には樹木があり、その名を桂(かつら)という。桂月(けいげつ)はだから月の別名となる。そういえば「月の桂」という名の濁り酒が京都にあった。あわてると佳月(かげつ)と見誤る。ちなみに佳月とは名月のこと。「月々に月見る月は多けれど月見る月はこの月の月」桂月はまた陰暦八月の別名でもある。つまり現陽暦の九月。中秋の名月もこの桂月という月の中にある。
 希望、それは人間におけるガソリン。新米の希(ねが)い望むことの一に円滑な人間関係がある。或る人がホテル内で気配りをする比重は、仲間へ六、お客様へ四、自分にゼロがよいと誰かに聞いた。いずれにせよ互いに支えあう「人」が全てだと。
 読んで字の如し、南から吹く風を南風という。しかしこれも四国中国以西の方言読みなら「はえ」である。宴会場にハエは困る。やはり暖かい「なんぷう」にかぎる。
 その昔、聖徳太子は以和為貴(わをもってとおとしとなす)云々と憲法に定めた。ではただいま以知(ちをもって)何と為すか、以知庵(いちあん)という名の隠し味は私の舌を超える。万一問われたら、知を以(もち)いる処ですから会議に向きますなどと答えようかしらん。
 行灯の前に立ち尽くし、ナゾ解きにくれた清方の名。ついにはたぶん日本画の巨匠鏑木清方のファンなのだろうと勝手に決めた。
「七重八重花は咲けども山吹の実の一つだになきぞ哀しき」五つに区切れる山吹が一つになって大宴会ともなれば実入りも多い。一重の山吹には実もなるならい。まさに山吹色は黄金色。そうそう山吹には清酒の意味もあったげな。宴が過ぎて夜も更けて、チリ一つだに無きぞうれしき。 (中略) この道に灌(そそ)ぐべきは五尺にたぎる情熱の血』

. ①道灌との出会い

 カテゴリとして「道灌への道」と別枠にしたのは、長くなると感じたからだ。
 じっくりと、拙作「小説太田道灌」を執筆し上梓する過程を記す必要が出たのは、日比谷図書文化館の太田道灌特設コーナーに上記拙作と東伊豆町の同人誌「碧(あお)3号」が並んだからである。この同人誌には「小説太田道灌」の「前身」である「道灌秘録・蛟竜(こうりゅう)の角」が著者本名で載っている。A5判2段組151ページの比較的長いものだが、その後20年以上に亘って推敲・加筆・校正・再構成を重ねたことでも明らかなように、はずかしいほどに未熟な作品なのだ。このことが、1998年から始まった1本の時代小説完成への道を、ブログで改めて検証することを私に命じている。
 東京・横浜での仕事で夢破れ、39歳で伊豆熱川に移った私は、大都会での人生を進んで忘れようとして、のどかに観光ホテルの管理課で働いていた。休憩時間や休日には観光地熱川の街を一人散策したものだった。或る日海岸に近い道端で、狩装束に身を固めた武士と野猿が並ぶ奇妙な銅像に遭遇する。この武士こそ太田道灌その人だった。像の傍らの古びた表札は云う。
『ここは熱川温泉の元湯です。この源泉は太古より滾々として尽きることなく湧き出て居る名泉です。熱川温泉は其の昔戦国の名将で江戸城を築城した太田道灌が狩の途中で発見したと伝へられて居ります。ついた鹿や獣を追って辿りついた所がさらさらと流れる清流の端に湯気を立てて湧き出ていた源泉、それがこの元湯です。以来熱い川の流れる郷、熱川と呼ばれようになりました。此の名刹曹洞宗自性院の開祖は太田道灌の子孫と伝へられて居り、又、近くには道の地名も古来より残って居ります』
 尚、文中青文字の箇所はかすれて判読不可能だったので、後日、太田重良著「私本太田道灌」により補完している。
 この日の私は、道灌の狩装束の名称さえ分からなかった。 

. 何の蜘蛛なく

ほんの小さなお話。職場の井水ポンプ小屋はまさに山の中なのだが、その入り口の扉近くに40センチほどの円筒型のゴミ入れが置かれている。或る日ふと覗くと10センチほど雨水が溜まっていて、底のほうは緑色になっていた。やぶ蚊が卵を産みボウフラが出るといけないので水を捨てようとしたとき、「うん?」となった。居る。水面から5センチぐらいだろうか、真っ黒い、中指の頭ぐらいの大きさの蜘蛛が、何の滑り止めもない垂直の「壁面」にしがみついているのだ。いつから居る? 濡れた足許でなぜ落ちない? 何を餌にして生きてる? それ以上登れないならなぜ水面に降りて楽をしようとしない? 早い話が中途半端に耐えている蜘蛛の意図がわからない。
 翌日も、翌々日も設備点検で通る度に覗いたが、姿勢は不変。見事な根性に私は脱帽したものだが、忙しくしているうちに蜘蛛のことはすっかり忘れた。何日経ったろう。「そうだ、あいつ」と覗いてみて驚いた。同じ位置に同じ姿勢で、居た。助けよう。私は感動を抑えきれずに近くの雑草を引き抜いた。蜘蛛が捕まりやすい枝葉のものを選んでいる。そっと垂らしていくと、あろうことか、蜘蛛はそっぽを向いて水面に逃げたのだ。ばか、なんでこっちの気持ちを汲み取らない。騙して助けたあと、何かする気だな? そんな猜疑心丸見えの態度じゃないか。長い間狭いところに閉じ込められていて、ひねくれたのかも知れないが。いや、もしかしたら葉っぱの種類が問題なのかも。私は違う草を取って水面に浮かぶ蜘蛛に下ろした。横を向いた「彼」。癪にさわる奴と、私の同情心は消え、「可愛さあまって憎さ百倍」の状態になった。その証拠には、足でゴミ入れを蹴っている。ゆっくりと倒れた器、こぼれ出る雨水。蜘蛛は?と見れば、私に尻を見せて低い雑草の中に姿を消した。奴の「戦略」?
「みごとだ」、してやられたと私は、肩をすぼめて苦笑いをした。

. 小説の賞味期限?

 小説は当然ながらそのストーリーともども時代・年代の制約を受けている。時代背景、法制度、社会風俗、医療レベル、家具調度など、枚挙に暇がない。たとえば先般「風たちぬ」のところで結核(これも古くは漢方の呼称で労咳と言った)があたかも不治の病のような扱いになっているが、これも映画の舞台が戦前のことなので不思議は無い。できれば「結核は現在、医薬、療法の進歩により不治の病ではない」などという注釈を映画のどこかでつけて欲しいところだ。ちなみに実際に松本清張原作加藤剛主演の「砂の器」では、父親が癩(らい。かったい。ハンセン氏病)であったことが和賀英良を殺人犯にする遠因であったところから、エンドロール近くで「ハンセン氏病」とわざわざ難病とは縁遠い印象の表記をして今は不治の病ではない旨タイトルを入れていた。これは医療の発達が物語の前提を無効化する例だが、卑近なところでは拙作「夢の海」で、平成24年に単行本化する際に、死刑の公訴時効が15年であることを前提とする部分を割愛している。刑法、刑事訴訟法がとうに改正されていたためで、こちらは前提となる法制度が変わったという例である。同様に岩漿掲載の「ツール」では、中で語られている学説や判例がいわば陳腐である旨の指摘を受けている。しかしもしその「非難」が不可避だとすれば、およそ小説は賞味期限付きだと言われているに等しい。ひとつには、小説のどこかに書かれた舞台の年や時代背景を明示すれば済むことかもしれないのだが。
 小説の台詞が実際使われている言葉になったのは、明治の言文一致からさらに相当の期間を経てだから、そう遠い昔の話ではない。以前は「 」は同じでもまるで地の文のような言葉で記されていた。しかしそれでは生き生きした会話など覚束ない。だからといって流行語を多用すれば、その小説は、賞味期限を短く設定したのと同じになるだろう。たとえば「だせーな」「しょぼい」「シャメする」などを入れて品が保てるという作家はいまい。識者によれば小説というジャンルは、まだ、かくあらねばならぬという形を確立していないのだ、とは言うが。
 書き手にとってはデリケートな問題だ。長いスパンで読者層をとらえるか短いそれでとらえるか。それともそんなことなど無頓着に、描きたいものを書きたいように書くか。
 ・・・いずれにせよ、とにかく書き出しますか。

. 朝の高血糖ロードHbA1c

 朝の5時半、散歩がてらに近くのコンビニまでサンドイッチを買いに行く。住いを出てすぐに松川に沿い、海岸に向かって文字通りぶらぶらと。川沿いの路肩にはススキ、ヘクソカズラ、ネコジャラシなどが無秩序に居並ぶ。すれ違った見知らぬ人が突然「おはようございます」と声をかける。「あ、おはようございます」と応える私。そうだ、ここは、ここの朝は「ごあいさつ道路」だったなと、うっかりしていた自分の頭をコツンと叩く。また前からトレーナー姿の初老の男性が、競歩でもしているようなスピードで迫ってきた。Tシャツの胸の部分が汗でスーパーマンのSマークになっている。「おはようございます」ヨシッ、今度はハモッた。しかし、なんでタイミングにまで気を使ってる? 産まれた疑問符はすぐに捨てる。「ま、いいか」それが糖尿道だ。「わはは、わははで暮らせば病気のほとんどは防げる」とは仄聞した精神科医の名言だ。私のかかりつけの内科でも「僕はね、あんなに必至で歩かないでも、楽しんで散歩、でいいんだといつも患者さんに言っているんだよ」と先生が首をかしげている。たしかに散歩が難行苦行では、帰宅後爺ならビール、婆なら饅頭に救いを求めるだろう。これでは逆効果だ。ある医師は言っていた「饅頭一つのカロリーを消すには5キロ歩いても追っつかない」と。ちょっと下を向いたらネコジャラシが大きくうなずいた。「あ、まただ。でもこんどは道の反対側。どうしょう」ちょっと具合の悪そうな顔色のおばあさんだが、おそるおそる挨拶を送った。え?と、不思議そうな顔。「はずれた、患者さんじゃない」朝の高血糖道路はある意味相当気をつかうのでご注意。
 かく言う私も5年程前に糖尿予備軍に「召集」された。空腹時116、食後223、健康診断の結果を受けて私は、糖尿に関する本を読み漁り、禁酒を断行、食餌療法と運動療法を自主的に行ってじつに72日間の闘病記録を作ったものだ。もちろん仕事は続けたままで。そしていまもなお、自己管理を続けている。要するに朝のロードを闘病の場としている方々とは心理的に近いものがある。聞かれてもいないのに弁解もないのだが、私は当時62キロ、腹も出ていないし、運動不足でもなかった。予備軍召集の理由が納得できなかったものだ。ところが最近ラジオで聞いた医師の言葉で腑に落ちた。恒常的な睡眠不足や、同じく恒常的な高ストレスは、体が自ら「異常事態」と判定し、乗り切ろうとして血糖値を上げるということを恒常的に行っているわけなので、結果として代謝異常を引き起こすことになる、と。
「わはは、わははで生きましょう」どうやらこれに尽きるようだ。
 この日コンビニで選んだサンドは、勿論、野菜サンド。手にしたカツサンドはもちろんカミサンのだ。念のため
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蛙声爺

Author:蛙声爺
文芸同人誌編集をしています。
考えるフクロウが理想。
木内光夫のHPもよろしく。

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