蛙声爺の言葉の楽園

. クロゴキブリの逆襲?

一昨日の朝5時頃、妻と私はそれぞれ仕事に出掛けようとしていた。「あーっ!」と台所で妻が大声をあげた。「何?」と見れば、小さなポリバケツでゴキブリを追い、ついには捕まえた様子。「必ずもう一匹いるぞ、ゴキブリは夫婦で飛んでくるんだから」と私。妻は何を思ったか玄関の戸を開け、折角逮捕したゴキを外に逃がした。「何だい、芥川の『くもの糸』ねらいか」と、私は呆れながら外廊下に出た。いる。これ幸いと逃げるどころか、再び中に戻る機会を窺っている奴が。私は怒りに震えて靴で蹴りまくった。とは言っても加減はしている。奴は仰向けに倒れて足をバタバタさせていたが、傷ついてはいなかった。
 夕方、53キロ走って漸く玄関の前まで辿り着いた。と、そのとき。手摺の上にいた黒いものが飛び立ち、私の顔を襲ってきた。左目の上に当ったのは、まぎれもなく朝の、あの、クロゴキブリだ。「おい、復讐された。朝のゴキに」「まさか、朝仰向けになってたから仕事に行くとき助けてやったんだから」「何。じゃ、俺狙いか。まいったなぁ」私は敵の根性に脱帽した。「たしかに顔はダースベイダー並みだけど・・・そんなことってあるのか」
 ゴキブリは蜚蠊と書く。別名あぶらむし。あのねのねの歌「アブラムシの羽を取ったら柿の種」は、たぶんチャバネゴキブリのことだろう。今回のクロゴキ野郎は間違っても、翅(はね)を取っても、可愛くはない。
 と、この実話はともかく、台所をウロウロする夫を揶揄する言葉がかつてはあった。「ゴキブリ亭主」がそれだ。思うに「男子厨房に入らず」に由来する表現だろうが、このゴキブリがじつは、自然界でも稀有な「一夫一婦制の信奉者かつ実践者」だということをご存知だろうか。夫婦の一方が不幸にして死んでも、決して再婚したりしないのだとか。若い頃法律専門雑誌で読んだのだから、これは与太話ではない。と、思う。だとすると、これからは最初の妻のみを愛し、決して浮気などしない夫が「ゴキブリ亭主」と評されるに違いない。
 不潔とされる彼も自身は保菌者ではなく、ただ徘徊している場所がたまたま不潔なだけだという学者もいる。
 ん? なんでゴキブリ野郎の弁護を始めたんだっけ??

. 掃除屋カラス

 通勤路伊豆スカイラインを早朝に突っ走っていると、悍(おぞ)ましい光景に出くわした。車に轢(ひ)かれた小動物の屍を数羽のカラスが寄ってたかって食いちぎっているのだ。たぶん遺体はタイワンリスだ。憎らしいことに黒ずくめの輩は、車との距離を正確に見計らってチョンチョンと数歩移動しただけで私を見送ると、挙(こぞ)ってまた食事に戻った。私の脳裏に、かつて観た今村昌平監督の『楢山節考』の鳥葬シーンがよみがえった。一農村社会の生産性に見合った人口の保持という鉄則が、老母を山に捨てるという辛い任を息子に強いる。山中に置き去りにされた老婆はカラスによって葬られることになるのだ。いや、この流血の現場はリュック・ベッソン監督『ニキータ』のジャン・レノの方か。背中がゾゾッとする。「掃除屋」、しかも人間社会がつくったものではなく、自然界がカラスに委ねた任務だ。彼らには罪はない。仕事を終え帰りに此処を通るころには、血塗れの肉片は全て処理され、乾ききった毛皮だけが路面にへばり付いているだけだろう。そう、道路管理者も知らないうちに。そう思った。
 同日夕方、速度を落としてゆっくりと私は遺体の脇を通る。「かわいそうだ」と同情してはならない。とり憑かれるおそれがあるからだ。「他者」の命を貪(むさぼ)って保つ「自分」の命。毎日毎回の食事で同じ事をしている人間、私・・・そのことをあらためて突きつけてきたカラス。
「おまえら、何が言いたいんだ!」
 急加速したあとで、自分が走り去った後の毛皮の行方を想う。夜、何台もの車がその上を通り、遺体から毛を奪いとるだろう。さらには一陣の風が残った皮を何処かへ運び去るに違いない。もし、現場に霊すら遺されていないとすれば、あまりにも命が哀しい。  

. 「あの人」と表現したあの人

「あの人が戻ってきました」と気象予報士が言い、それが「梅雨前線」のことだと分かった瞬間、むっくりと起きてテレビ画面と向き合った。依田さんという、人の良さげな顔の小父さんだ。ときには暖かく、ときには肌寒く、これが「猫の目」的に変化するが、おおむね鬱陶(うっとう)しい。文字通りのお天気屋で雰囲気も乱高下。雷を落として家庭内を真っ暗にするなんて『あの人』、確かにどこにでも居そう。たぶんそんな想いをこめた擬人法なのだろうと感心してしまった。
 お日さま、雲さん、雨傘さんで表示したり、日焼けに気をつけて、お洗濯日和ですよといった具合に、日頃天気予報の在り様が子ども向け化しているのを嘆いていたので、この小洒落た表現に瞠目したのだ。地球環境の激変で一向に当らない予想だが、この人が言うなら信じてもいい。そんな気になった。
 蛇足だが、一世を風靡した「不快指数」は、どこに行ったのだろう。ラジオの1242的にいうなら、この言葉も絶滅種か。「お洗濯指数」よりは知的な指標だと思うのだが。

. 村八分

 子どもの頃生来からだが弱かったので、家の近くのガキ大将グループから「仲間はずれ」にされていた。じつは走り回り、とんだり跳ねたりする弊を避ける趣旨で保護されていただけなのだが、齢一桁の私には被差別感がつねにつきまとっていたものだ。運動ができないなら本だと云うのではないが、貸本屋の厚意でコミックはよく読んでいた。そこで知ったのが「村八分」。十引く八が二で、その二が火事と葬式だと知ったのは大分経ってからのことだ。江戸時代の村落自治の制裁として機能したこの「共同絶交」。市街で行われれば「町省き/まちはぶき」というらしい。この制裁、何百年も経った今もなお様々なかたちで残っているのは周知のこと。「窓際」「リンチ」「ハラスメント」「いじめ」なども亜種だろう。この制裁の基になる掟の及ぶ範囲が小さければ小さいほど村八分の制裁は過酷になる傾向がある。ここで考えたいのだ。もし掟自体に間違いがあるなら、村八分にされた方が正しいことになるということを。多数決社会の異端児も、その全てが悪だとは言い切れない。
 盗み食いもしていないのに「皿をなめた猫が科(とが)を負う」ことが無いよう、祈らずにはいられない。
 今回は柄にも無く「真面目爺」で面白さに欠けた。反省。

. いらっしやいませ

 山間部の観光ホテルのロビーで起った「事件」だ。夕方7時、殆どのお客様はチェックインを済ませ、さらには夕食にまでいたっている。玄関の自動ドアが開いてお二人様が入ってこられた。担当フロントがインの手続きをしながら、ふとロビー入り口に目をやると、小太りの蛙がチョコンとすわっている。まさかお連れさまではあるまい。少しく心が動揺する。「ではただいま係りの者がご案内いたします」とお二人をカウンターから遠ざけると、その順番待ちの蛙が動いた(と、彼には思えた)。この場面で「お泊りですか」とは聞けない。相手は蛙(帰る)だからだ。事情が分からないときは「お客様」を立てるに如(し)くはない。はて、なんと声を掛ければ良いのか。そうだと、彼は掌を打った。「お名前は? 」案の定招かざる客はゲロした。「とのさまカエル」(殿様帰る)と。意に反してフロント氏は、その場で平伏するしかなかったという。
 この話、ロビーに入ってきた蛙がいた、ということ以外は創り話だが、連休二日目の朝、松川沿いを散歩しながら一人、ニヤニヤして考えた。ついでに同じ晩、この蛙を蛇が追ってきたとしたら話はどうなるのか。もちろんフロント氏は自動ドアの手前で蛇を食い止めるだろう。追っ手が「じゃ(蛇)帰る(蛙)わ」と言うまで。ついで話の中で、ロビーに蛇が、という事件は実際のもの、「爺は創り話ばっか」ではないのだ。
 こんなことを妄想しながら行く先はコンビニだ。お休みの朝は野菜サンドときめているのだ。ところでこのコンビニ、コンビニエンス・ストアの略なのは周知のことだが、「便利な店」かどうかは顧客が決めることじゃないのかな。24時間営業が自慢だというなら、顧客は生まれたときからずっと、24時間営業だし。

. 花の散り際

 昼過ぎにぶらりと近くの露天風呂に出かけた。道すがら、人さまの庭で恐縮なのだがクチナシ(梔子)の花を見つけた。一輪だけ文字通り純白で輝いていたが、あとはすべて茶色に枯れ果てて醜悪この上ない。受粉して結実すればその黄色い実の鮮やかさが、目の前の醜さを一過性のものとして許せるのだけれど。香り高い此花にしては、らしくないのだ。もっとも口無しだから弁解もできなかろう。たとえ実が熟しても口が開かないとも聞く。
 そういえば、昔あのシーボルトが自分の女の名「お滝」を学名に取り入れたとされる紫陽花もまた、花の始末が悪い。枯れてただれてもなお、茎にしっかりと付いて離れないのだ。その艶めかしい彩で『藪を小庭の別座敷」(芭蕉)にしてしまうほどの七変化の末路は哀しい。「おーい、誰かあいつの首落としてやれよ」優しい親方が言いそうな気がする。そうだ、確かアジサイは、花を落としてもらった時期を憶えていて、次の年の開花期を決めるのだとか。もしそうなら、醜さから助け出してくれた人へのお礼ではないのか。
 極めつけなのはツツジ(躑躅)だ。生垣や広い庭園に居るので、そのだらしなさの程度が違う。きれいな躑躅花は「にほふ」の枕詞にもされているほどなのに、枯れて萎んで枝葉に張り付いている様は、見るに耐えない。しかしとこの間思った。実際に開花時季が去って刈り込みをしたときのことだ。「そうか、醜くしておけば刈り込んでもらえる。そうしたら来年の花芽をつけられる」躑躅に備わった知恵なのかもと。
 もうお気づきのことと思うが、この話のいずれもが定かではない。
 ああ「たがために装いかえる七変化 ひとえの色のわが身哀しき 蛙声」

. 二階から目薬

スタートからつまずいたが、丸1日掛けてもろもろ調べ、確認は或る程度済ませた。結論としては、爺なのだから、勘違いや失敗は当然あると開き直って、それらを怖れずに試行錯誤しよう、となった。このファイル挿入もそうで、これが可能ならブログの幅が広がる。もし駄目なら、失敗事例そのものが記事として成り立つ。そう考えた。なにしろアナログ世代の66歳が冒険的にブログしようというのだ。ご容赦。
 うまくいかなくてもそのままにしておく覚悟でいる。第一自分の初めてのコメントが詫び状なのだ。もう失うものはないだろう。ちょっと「悲壮感」あり。これも滑稽ではあるが・・・

. 蛙声爺の言葉の楽園にようこそ

 「蛙声」という言葉、3000ページ程度の国語大辞典にも出ていない。気を取り直してもらって、漢和中辞典ぐらいのを披いていただくと、カエルの鳴く声とか、さわがしい声とか意味が出てくる。しかしこれでは若い人に「まんまじゃん」と言われそう。ところが転じて「つまらない者の言う言葉」とくるのだ。これに高齢者だから「爺」をくっつけてみた。この蛙声(あせい)を使ってホームページも出しているから、お暇な時間があったら覗いてほしい。
ホームページ蛙声庵
私の場合「つまらない者」そのままでいいのだが、こういう自虐的なネーミングは雅号なんかに多い。すぐれているうそぶくという意味で「嘯秀」(しょうしゅう)という人がいたが、これも「うそぶく」のだから秀れていない者と名乗っていることになる。
 とにかくその蛙声がなぜ「ブログ」なのか。とにかくこの世は住み難い。爺が口をきく場が無いのだ。職場でものを言えば唇が寒い。うちへ帰れば発言権が無い。では公園にでも行ってと、可愛い幼子に話しかければ誘拐犯と間違われる。スーパーでまともな苦情を言えば言ったでクレーマー扱い。やむをえず壁に向かって何やら話しかければ百パーセントボケ老人だ。文芸好きだからといっても「読み聞かせ」の場がそうあるわけも無い。
 と、いうわけで、お世話になるのがこのブログ?
 
. プロフィール

蛙声爺

Author:蛙声爺
文芸同人誌編集をしています。
考えるフクロウが理想。
木内光夫のHPもよろしく。

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