蛙声爺の言葉の楽園

. 心の音(10)




 家中の掃除と自分の荷物の搬出に二日を要した。
 予想通り猛雄は寄り付かず、電話一本よこさなかった。ビジネスホテルを梯子しているとも考えられる。どこかに居る女に鬱陶しがられたりして。
 淡野家を出ていく朝、志津は入念に顔をいじり紅を引いた。その行為は、志津が猛雄から分離するための通過儀礼にもなっていた。出直すなら形からというつもりだったが、これが予想外に心を高揚させた。鏡の中の自分が昨日までの自分を捨てていくのが分かる。
 そのための用意も周到にした。肩の少し下まである髪を丸め襟足を出すように束ねていたのを止め、前日美容院で一気に短くした。その足で、明るい色柄のワンピース、それに合うヒール、そしてバッグと、立て続けに買い物も済ませている。もちろん猛雄のカードでだ。
 学生時代のボーイフレンドに、つまり猛雄の恋敵だった男に連絡をとり、弁護士を紹介してもらった。猛雄の愛人には意地でも慰謝料などは請求しないが、猛雄にはきちんと財産分与をしてもらうつもりでいる。自分よりも元彼の方が猛雄憎しで燃えていたのがなんとなく嬉しくて、救われた。就職が決まるまでの一時的な住いを提供してくれたのもその彼だった。
 今日からは文字通り一人で生きていくことになる。遅ればせながら、戦う女に変身していかなくてはと思う志津だった。

 家を出て駅に向かう。
 少し熱を帯びた風が、沿道の垣に咲くノウゼンカズラの黄赤色を揺らしていた。数十輪の花が一斉に、別れを惜しむかのように首を振る。
「元気でね」
 志津は見送りに応えて、花に向かって小さく手を振った。
 途中で隣人と出会った。するとその婦人は大げさに目を剥き、掌で口を覆った。
「いったいどうなさったの」
 婦人の驚きは、日頃の志津が地味すぎた証拠でもある。
 志津は、微笑しながらくるりと体を一回りさせて「主人に追い出されたので少し派手なお仕事に就こうと思いまして」と言った。どうとるかは相手の自由だ。
「そうよ、まだお若いしお綺麗だし、ねえ、ご主人ばっかり若い娘といい想いさせるって手はないわよ」
 離婚されたとは受け取らなかったようだが、なぜ隣人が猛雄の浮気相手を知っているのかが気になった。
「若い子?」
「そうよぉ、この間茶髪の女の子とこの先の路地で顔と顔くっつけるようにしてヒソヒソ…あらいやだわ、わたしったら余計なことを。ほほほ、ごめんください」と婦人は口を掌でふさいでお辞儀をした。
「ん、茶髪?」
 まさか、と婦人の後ろ姿を見送りながら志津は、眉間に皺を寄せた。
 その女が水絵だとしたら…。その日時が事故の後だとしたら…「わたしがやった事故だとして猛雄を強請った? 確かに住所は金田に出した礼状から簡単に分かる。だとすればもしかしたら」警察から戻って話す以前に猛雄は事情を知っていた、だから離婚届を用意できた…
「あのー」と志津は婦人を呼び止めようとして、すぐに言葉を呑み込んだ。
「前だけを見るんだったわ」
 確かめていまさら何がどうなるというのだろう。
 せっかく幕切れを綺麗にしたのに、汚い愛憎劇として再演したくはない。
 志津は大きく息を吸ってから遠ざかる婦人に背を向けた。
 なのに足がその場に貼りついたように動かない。
 朝からずっと吹いていた爽やかな風が、志津の心の中でピタリと止んだ。
「前だけを…前? 事故の前? 水絵と猛雄がもしかしてあの事故の前から?」
 志津は両の掌で口を覆い、意識的に何度も首を振った。考えるだけでも恐ろしいことだ。しかし…
 金田に再会した日はこごめの湯に行くようにと猛雄に送り出されたようなもの。金田も万葉公園で営業と言っていたがあれは変だ。まだある、浮気相手は猛雄によればもう堕ろせない時期、水絵も刑事によれば六か月、胎児の状態はほぼ一致している。単なる偶然だろうか。
 志津は、取調室での水絵との面談にまで記憶をさかのぼらせた。そこには演技や嘘とは無縁の、剥きだしの哀しい女が居ただけ。そのはずだった。
「俊一、予想以上の出血で」…ああ、計画された事故だったのだ。さらに「あの旦那」の「あの」は? そうだったのか。
 志津は膝の力が抜けて、しゃがみ込んだ。
 にわかな風が水絵の高らかな嘲笑を運んできて志津の前に回った。
 目の前に志津の顔を下から覗き込む水絵の幼げな顔がある。その口元が小さく笑った。
 たしかに志津には見えて、背筋が凍った。
「フーテンだよ、演劇やってるとか言ってたけどな」
 猛雄の声がさらに、のしかかるように志津を襲ってきた。


                                 (完)




    伐られ、剥がされ、晒され、叩かれる。ミツマタの本当の花とは和紙のこと。

     ミツマタ



   
 
 
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. 心の音(9)


「やってないのに罠にはめようとしたんだよ、あたしは。何で張本人を前にして、そんなに優しい声で話できるのさぁ、信じられない」
「逆に教えて水絵さん、なぜわたしを仇みたいに思っているの」
 見ず知らずの十も歳の違う女性から、激しく憎悪されるほどの何かを自分が持っていること自体、信じられないのだ。
「そんなことも分からないの、俊一の心を奪ったからに決まってるじゃないの」
 水絵によれば、金田と水絵の間の亀裂と不幸は全て、あの日金田が脱輪した志津を助けたことに端を発しているという。淡泊に現場を去ってしまったこと悔いた金田は、礼状がきてからというもの、こごめの湯の休館日明けの偶数日は、朝から万葉公園をうろついていたらしい。会いたいと言っては期待をふくらませ、会えなかったと言っては次回を指折り数えて待つ金田の姿が、水絵の目にどのように映っていたかは想像がつく。「いっそ電話して会ったら」と皮肉を言うと、「バカ、偶然再会するから詩的なんだ。おまえみたいなガサツな女にゃ解かんねえよ、黙ってろ」と一蹴されたという。
「わたしとのデートなんか、いつも面倒臭そうにしている俊一がよ、頭にきちゃう」
「ゲームよきっと、彼の中ではね」
 志津はそんな気がしてきた。
「違うわ、あんたに憧れたのよ。俊一、ものしりだけど文学とか短歌なんか興味なかった。それがよ手紙を見てからたくさん本買い込んできて、真剣に読んで。あたしのために、あんなに真剣になってくれたことなんか一度もない!」

 水絵は不安が募ったらしい。入籍はもちろん、金田の両親への紹介もまだだったのだ。おなかの子は四か月をとうに過ぎて、日に日に大きくなっている。そう言えばあの日から一度もドライブに連れて行ってくれない。最初はおなかの子を気遣ってと思っていた水絵もようやく気づき、七月四日、金田にねだって富士五湖行きを承諾させた。しかし大観山を越えて芦ノ湖へ下る辺りで腹痛に襲われる。金田は腹を立てて元来た道を引き返したのだが…椿ラインを下る途中、水絵は下痢の兆候を感じて車を降り、道端の草むらに姿を隠した。水絵が戻るとなぜか金田は助手席に座っていたという。しかも志津からもらった栞をじっと見つめながら。 話しながら水絵の顔が再三ゆがんだ。

「あたしのことなんか、ドライブしてる間中、ぜんぜん考えてなかったんだ」
 水絵はそう言うと、その後の二人の会話を、涙をまじえながら再現してみせた。

「腹痛だの下痢だの野グソだの最低だなぁおまえは。俺はもう嫌だからこの先はおまえが運転しろ」
「冗談でしょ、俊一」
「ほらぁ早く。大丈夫だよ、オートマチックはバカでも扱える。だいいち下りじゃねえか、ブレーキだけ踏んでりゃうちに着けらぁ」
「あたし、免許無いから」 
「じゃあ何があるんだよ、おまえに。あーあ、たまには志津さんみたいな人に運転してもらって助手席から横顔見つめていたいよなぁ、ほんと」

「くやしかった。おなかの子は気になったけど、死んでもいいって思ったくらい。もしかしたら俊一、流産狙いかなって、そこまで疑った」
 思い出すだけでも哀しい言葉だったのだろう、水絵の目から大粒の涙が落ちた。
「それならやってやる。死ぬんならおなかの子もいれて三人一緒だって、そう思って」
 無茶だ。生まれて初めてハンドルを握ってカーブの多い急坂を無事に運転できるくらいなら、自動車教習場など一箇所も要らないに違いない。
「シートベルトは?」と志津は聞いた。装着していれば頭部損傷は考えにくい。
「あたしはしたわ、窮屈だったけど、俊一がしろって」
「彼はしなかった…」
「いつもよ、きらいみたい」
 志津は目を瞑った。カーブを曲がり切れずガードレールに激突するシーンが見えた。
「あんたが悪いのよ、幸せだった俊一とあたしの間に入り込んで、かき回して、メチャメチャにしてえ!」
 水絵が急に物を投げつける真似をした。
「とりあえずわたしは悪者でいいわ。でもね、わたしどうしても不思議なの。あなたなぜ彼を助けようとしなかったの、なぜ救急車を呼ぼうとしなかったの、彼が好きだったら、いえ、おなかの子が彼の子に間違いないならパパになる人をなぜ見捨てたの」
「俊一、予想以上の出血で頭も顔も血だらけ、あれ見たら誰だって死んだと思うわ!」
「そう思ったとしましょう、じゃあなぜ、愛してた彼の遺体を残して逃げたの、変じゃない、矛盾じゃない?」
 ここが事件の核心だと志津は思った。
「あんたが運転してた」
「え?」
「あんたが運転したのにあたしがそこにいたら変でしょ」
「その場で、すぐにそれを思いついたとでもいうの、あなた。怖くて逃げて、あとで自分とその子を護るために、じゃなくて」
「そうよ、悪い?」
 志津の体に再び戦慄が走った。
「なによ、その顔。それって恵まれた人のものよね、いい? 聞いて」と水絵は続けた。
 事故原因が水絵の無免許運転で、しかも金田が死んだとしたら、自分は罪に問われ、どこからも救いの手はこない。たとえ金田が生命保険に入っていたとしても、妻でもなく、違法運転で保険事故を起こした当の水絵におりる金など一円も無い。だとしたら生まれてくる子はいったいどうなるのかと。どうやら謀って示談にもちこむ計画だったらしい。
「わたしにお金があるとでも思って?」
「たとえあんたには無くてもあの旦那にはあるでしょ。車だって国産だけど高級車だし、世間体を気にするお金持ちなら可能性は高いと踏んだのよ」
 会ったこともないのに「あの旦那」はない。
「残念ね、わたしの元夫は私を護るためのお金なんか払わないわ、絶対」
 哀しいけれどいまでは確信に近い。
「元夫?」と水絵が聞きとがめた。
「離婚されたのわたし」
 半ば微笑しながら志津はさらりと言った。
「あははは」と笑いを発した水絵は、さらに苦しがるほどにしゃくりあげ始めた。
 志津は黙ってそれを見ていた。大笑いしている者はほかにもいるはず…猛雄、姑、猛雄の愛人…そして自分。
「それでも許すの、あたしを。そんなふうにお上品ぶって。お人好し、バカみたい」
 おなかの子は男の子かもしれないと、志津は、水絵の攻撃的な態度からそんなことを想った。
 いずれにせよ児戯に等しい粗雑な計画だったことは確かだ。しかしその児戯が、ものの見事に志津の偽りの安定を破壊し去ったのだ。これを不幸とみるか、僥倖とみるかはこれからの自分の生き方にかかっている。志津はそう思う。
 羽月刑事によれば、金田の快復は比較的早いのではないかとのこと、なによりの朗報だ。ただ、水絵の話を聞いているうちに見舞う気持ちは喪失した。志津は自分で勝手に美化した金田に心奪われていたのだ。そうであればなおさらに、水絵のためにも二度と金田の前に立つべきではあるまい。
 志津は結論を出したあとで、一つ深呼吸をした。
「ねえぇ水絵さん」
「何、あらたまって」と水絵は構えた。
「すくなくてもわたし、あなたにかなわないものが三つあるわ」
「今度は同情からヨイショかさ」
 志津は笑顔を作って首を振った。
「まずあなたは子どもができたわ。女なら当たり前って思わないでね、わたしはできなかったから離婚されたの。こんどのことが直接の原因じゃないわ。だから念のために言いますけど、気にしないで。二つ目は、わたしよりも九つ若いわ。同じやり直すにしてもこの差は大きいわ。三つめね、あなたは命がけで必死に生きてるわ。わたしなんか足元にも及ばない真剣さで」
 金田が日意識を戻したことを知ってすべてを自白したことにもそれが表れていると思った。水絵は嘘が警察にばれることを恐れたというより、その嘘が金田の逆鱗に触れるだろうことを、誰よりも良く知っていたのだ。
 善悪はこの際措いておこう。志津は思う、水絵が金田を愛するように強く、自分は猛雄を愛したことがあるだろうかと。同様に、猛雄を命がけで自分のもとに引き寄せようとしたことがあるだろうかと。
 志津は女として、目の前の水絵に大いに負けているような気がした。
「余裕よね」
 志津の言葉を皮肉にとる姿勢は相変わらずだが、心なしか表情が和んできた。
「虚勢よ、精一杯の」
 本音だった。
 水絵が大きなため息をついたあとで、唇を何度も噛んだ。
「あんたの手紙ぐらいくやしかったものはないわ。どうしたらあんなきれいな字が書けるの、あんなふうにまとめられるの…俊一が夢中になるの、無理ないわ…」
「水絵さん」
「もっとおどろいたのは俊一が、さらさらってあんたに手紙を書いたことよ」
 簡潔で、しかもユーモアがあって、志津も感心した覚えがある。
「あたしには一回もくれたことない…そりゃそうよね、バカなあたしに合わせてくれてたってことでしょ」
 水絵の瞳と睫毛がいっぺんに濡れた。
 戯れに引用した短歌、行間に淡い恋心や憧憬をにじませた文章、確かに最初から最後まで、自分がいかに出来る女であるかを誇示し続けた手紙だったような気がする。
 志津は、自分の一通の手紙が一組の男女に与えた苦痛を思って萎えた。
 黙って涙を落とし続ける水絵に会釈をして志津は、ゆっくりと廊下に出た。
「いろいろな意味でご面倒をかけました」と、隣室から出てきた羽月刑事が言った。
「あの、嘆願書を書かせてくださいませんか、虚偽の告訴の方で少しはお役に立つかと思いますので」
 自分にも罪がある。志津は本気でそう思い始めていた。
 羽月刑事がぱちぱちと瞬きをした後、薄くなった髪を丸ごと見せて礼の言葉を口にした。 
 


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. 心の音(8)


 刑事と接触したくなかったのか猛雄は、朝の六時には家を出ている。
 志津は朝食も作らず、見送りもしなかった。たぶん猛雄は、このまま志津が正式に淡野家を去っていくまで愛人の所に避難している気だ。車はガレージに置いてあった。これが思いやりなら嬉しいのだが、女の家に駐車スペースが無いから乗っていけないのだ。それだけの話。いまさらという気がしないでもないが、淡野猛雄は小さい男だと志津は思った。これで身も心も社会的にも独りになった。そんな気がした。
 午前九時、羽月刑事から電話が入った。
 刑事は、本署に出頭願いたいが車または電車で一人で来て欲しいと言い、ご婦人のことで支度もあるだろうから午後一時ころになってもかまわないと付け加えた。声音の柔らかさといい、鄭重さといい、だいぶ風向きが変わってきている。
 志津は、小田原で起こりうるあらゆる場合を想定して車に必要なものを載せながら、もしかしたら金田の意識が戻ったのではないかと思った。そうなら自分にかけられた容疑は即座に晴れるし、警察も一転して低姿勢になるのが道理だからだ。それにしても金田はどこに入院しているのか。できれば見舞いに行きたい。そうすればまた、金田の子を宿しているという問題の女性に会えるかもしれないのだ。別に、顔に唾しようとか、頬を殴ろうとか思っているわけではない。ただ、なぜ罪に陥れようとしたのか、その理由が知りたい。何度も自分の中で確認した、望んでいるのはそれだけだ。
 冷川峠を越えて、また伊豆スカイラインに入った。車はいい。「あらおでかけ」と不躾に行き先を聞かれることもないし、照ったり降ったりの話題に何度も愛想笑いをふりまく必要もない。とくに今日は、いまは、それが一番恐ろしい。拷問に近いことだから…。

「いやぁ奥さん暑いところをすみません、まったくまだ梅雨だというのに三十度超えてるんですからねえ」
 羽月刑事に招じ入れられた部屋は、取調室ではなかった。詳しくは知る由もないが、インテリアから見ても重要人物が執務していそうな感じだった。
「もしかしたら金田さんの意識が…」と、志津は後の言葉を濁した。弁解なら刑事から口火を切るべきと思ったのだ。
「ええ、まだ事情聴取ができる段階ではないんですが、医者の話では手術は成功したし、ちょうど奥さんを帰した直後ぐらいになるでしょうか、目も開けたということで、あとは時間の問題でしょう」
 案の定だった。
 志津はホーッと大きなため息をついた。犯していない罪は誰が何と言おうと犯していないのだが、それを証明しろと言われれば困難を極める。素人でも唯一それができるのが現場不在証明、つまりアリバイなのだが今回の場合、志津にはそれが無かった。金田に死なれでもしたら、志津は孤立無援のまま途方に暮れたに違いない。
「まさに急転直下なんですが…」と刑事が口籠った。
「わたしの容疑が晴れたならそうおっしゃってください、あなたがたもお仕事で取り調べをなさったわけですし」
 早くそれを聞きたい。そして金田がいる病院の名前も。
「じつは、被害者が助かるということを病院から聞いた藤原水絵が、あ、例の脱輪の際に金田さんの車の助手席にいた女性です」
「ミズエさん…」
 志津は、あの脱輪をした日、助手席の女がなぜリクライニングを倒していたのかをいぶかった。自分が彼女なら、恋人がほかの女を助けている、その光景自体を監視の対象にする。目を離せるわけがないのだ。
「ろくに寝ないで悩んだ末なんでしょう、明け方近くに署に来ましてね、すみません、ごめんなさいの連発だったそうです。呼ばれて来てみると彼女、自分がやった、あなたではないと。まあ自白したわけなんですが」
 刑事も内心忸怩たるものがあるのだろう、自然に頭を下げている。
「でも、なぜそんなことを」
「それが頑として言わないんですよ、あなたに会わせてくれたら言うの一点張りで。ま、しょせん僕らには解かりませんがね、今どきの若い女ってやつは」
「あの、わたしはかまいませんが」
 警察として許可できるのなら面談することに異存はない。
「僕らがいるんで危険はないと思いますが、なにぶん妊婦で、それでなくとも情緒不安定で」と羽月刑事は頭を掻いた。
「会うの、ミズエさんと二人だけにしていただけませんか」
 そうでなければ本音は吐かないのではないか。志津は女が求めているものが、おぼろげながら分かってきた。
「隣室で監視と録音をさせてもらって、ドアのすぐ外に署員を二名配して万一に備える」という条件で、異例の許可が下りたのは三十分後のことだった。
 確かに罪に陥れようとした女の動機如何では、部屋に二人きりは危険が伴うと志津も思う。




 取調室のドアを開けると、隈をつくり、そのうえ泣き腫らした目をした小作りな女の顔が真っ先に飛び込んできた。髪の毛の色を抜いていて、それが実際の年齢よりもずっと若く見える。見た目が幼いと言ってもいい。
 志津は会釈をしたついでに自分の服装をあらためて見た。車で来たことがわざわいしたかもしれない。取調室で転んだ時にスカート姿で惨めな想いをしたことから、きょうはパンツ姿で来ている。足の長さがもろに出るのは、若い女の前では少々辛いものがある。
 近くで志津を見るのは初めてのはずで、案の定水絵は急に目を凝らし、志津の全身を舐めるようにして見ている。
 志津は、椅子に掛けることで、点検される対象からやっとの想いで下半身を外した。
 言葉というものは思ったよりも不便なものだと志津は、二分を超えそうな沈黙の中でそう思った。
「何をしに来たの」
 水絵がようやく口火を切った。
「刑事さんはあなたが希望したと」
「そうじゃなくって! どんなバカ面な女か見に来たの、面会を承知した理由よ」
「聞きたいことがたくさんあって」
「あたしがあんたの立場なら絶対会わない」
「なぜ、の部分を知らずに終わらせることができないから」
「殺したくなるからよ!」
 顔を歪めての水絵の言葉の激しさに志津は、全身に震えを感じた。




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. 心の音(7)


 三

 警察は任意のままで終日取り調べを続け、結局逮捕はしなかった。
「自信がないからじゃありませんよ、奥さん。逮捕してしまうといろいろ時間的な制約を受けるんでね、それだけです」とは羽月刑事の言だ。こうも言った。「逃亡するとはこれっぽっちも思っていません。あなたはそんなやり方で自分の罪を認めるような人じゃないんです。これ、褒め言葉です」
 志津は帰宅するとすぐ、巻き込まれた事件の概要を猛雄に話した。
 長い取り調べの後だ。常日頃から「おまえは女のくせに理路整然としゃべりすぎる」と叱られているほどの志津だが、疲れで感情が絡みつき、お世辞にも分かりやすいとは言えない内容だった。しかし省略はあっても、嘘はないと、それだけは得心がいった。
 何時間も前から欝々と飲んでいたらしく、酔って漂うような目をしている猛雄が、話が終わるのを待ちかねたように出してきた紙切れ…それには夫本人のみならず保証人の自署捺印までが済ませてあった。
 いっそ警察の留置場で一夜を明かした方が良かった。猛雄が差し出した離婚届を前にして志津は、心底そう思った。一番信じて欲しい人に、一番信じて欲しいときに、この仕打ちはいかにも手酷い。
 自慢の高級ソファーが、猛雄の貧乏揺すりに合わせて小さく上下している。
「ずっと前から用意なさってたのね」
「ああ…」とまたグラスを干した。
「絶好のチャンスというわけですか」
「まさか表彰状を期待しちゃいないだろ?」
 志津は、猛雄のグラスに七分目までウイスキーを注ぎ、怒りの気持ちを表した。
「お義母さまはご存じなんですか」
「離婚届のことか、警察沙汰のことか」
「両方…」と志津は唇を噛んだ。
「離婚には拍手喝采だろう。事件の方は言えるか、病人だぞおふくろは!」
「すみません、でも濡れ衣です」
 志津は凛として言った。
「ああ、おまえは事故現場から逃げ出せやしないし、人を傷つけることもできやしない。ほかの男と寝るなんてこともな。まったくつまらない女さ」
「それがいけませんか」
 志津の静かな反撃に猛雄が目をむいた。
「心じゃ抱かれてたろ? その男に。そうじゃないと、俺にではなく自分に向かって言いきれるか、志津」
 志津は黙った。猛雄の言う通りで、それはそう感じた回数が少ないとか、実際に行動には移さなかったとか、そういうことで免罪されるものではなかろう。
 猛雄の酔眼が、内省している志津の心を覗き込むように一点に集中している。
「よせよ反省なんて」と猛雄が急に笑い出した。「心も愛も無しのセックスに走って遊んでた俺のたわごとじゃないか。その挙句に女に子どもができて脅かされ、おまえが今度のミスを犯さなきゃ、俺の方から別れてくださいって頭下げるところだった。笑えるだろ? おまえのバカ亭主も」
 志津の中で何かが崩れていく音がした。
「あなたの子っていつ生まれるんですか」
 それだけは聞いておこうと思った。
「もう堕ろせない大きさ…で、いいか」
 志津は目を思わず瞑った。 外に子どもをつくったという事実よりも、数か月に及ぶ裏切りの日々がおぞましかった。
「若い人なんでしょ」
 そうなら自分の傷が浅いように思った。
「はっ、わたしに欠けているのは若さだけと、そのほかには夫を奪われる要素はないと、そう言いたいわけだ志津」と、何度も鼻先で笑って見せた。
「何をしている人ですか、お仕事の関係ですか」
 聞いて何がどうなるというのか。それでも口が勝手に質問をしていた。
「仕事? ああ、それもお前には無かったっけな」
 別に自分に無いものを探しているわけではない。猛雄の解釈は、語るに落ちるものだった。
「フーテンだよ、演劇やってるとか言ってたけどな」
 志津は絶句した。
 猛雄がウイスキーをあおるとすぐに注いで元の量に戻す。アルコールで殺せればいいのだが。そんなバカなことすら頭をかすめた。
「おっかねえ、恐ろしいよ、女は男より一枚も二枚も上手よ、腹が突き出りゃさらに頑丈でしたたかになる」
 猛雄の手からグラスが滑り落ち、そのあとを追うように猛雄がソファーからずり落ちた。
「志津、俺って汚いだろ…」
 酔いつぶれた夫に向かい志津は、ゆっくりとうなずいた。その汚い男に養われている自分は何なのだろう。そんなことを思った。
 寝息を確かめたあとで志津は、二階からタオルケットを運び、頭の天辺から足の先までを包んでやった。
 猛雄が死体になったように見えた。
「いつまでも二人は、いつかは一人」
 姑の口癖が現実になる。志津は、夫の偽の骸を横目にしながら、離婚届の空欄にペンを走らせた。
 もう悲壮感も気負いもなかった。

 翌朝、地元警察の車を回されるのを覚悟して志津は、観葉植物に水をやったり玄関の水盤に花を活けたりしながらそのときがくるのを待った。
 見ようによっては派手な車だ、ご近所の目を避けては通れない。いよいよ、あのテレビでよくやっている醜い晒し者に自分がなるのだ。



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. 心の音(6)


 カチャッと音がして羽月刑事ともう一人の若い刑事が、出て行ったときと寸分違わぬ顔つきで入ってきた。そして若者は坐り、丸顔は檻の中の熊よろしく室内をウロウロとしだした。
「おい、そろそろいくか」と熊の方が言った。
 若い刑事がビニール袋に入った栞を、掌で延ばすようにして志津の前に出した。
「事故車にあったんだその栞。それに付いていた指紋とさっき採った指紋が一致した。運転していたのは奥さん、あなただですよね」
「栞はお礼状と一緒に郵便で送ったものです。わたしの手作りですから当然わたしの諮問は付いていると思いますけど。それとも事故車にわたしの指紋でもあったのですか」
 志津は表情も変えずに言った。
「皮の手袋でもしてたんじゃないんですか。常識の部類だよね、何かやる気なら」
「事故っておっしゃったばかりですよ」
「奥さん」と言ったあとの間が長い。
「はい? 何でしょう」
 まったく身に覚えがないというのは強いはずだと、志津は落ち着いて、穏やかな顔を羽月刑事に突き出した。
「観光会館の駐車場ねえ、車のキー、預けますよね」
「え、ええ」
「そのとき車のナンバー告げるでしょ、係の人に」
「はい、確かに」それが何だというのか。
「二十六日の日、三人のおばさんに会いませんでしたか? 被害者と一緒に万葉公園の独歩の湯に行く途中の散策路で」
「ええ、その前に紫陽花についても聞かれていますし、憶えています」
「その三人も実は車で来てましてね。それが口を揃えて言ったそうです。あなたと被害者は男と女の関係に間違いないと。偶然の出逢いなんてムードじゃなかったとね」
 志津はあきれて首を振った。
「あなたも運が悪い。ナンバープレートの下の数字だけでいいのに、おばさん、上も下も全部書き写して係に渡したんだなこれが」
 確かに志津は言われるままに大きな数字だけを申告している。
「ま、あなたほどの美人だ、年配といってもおばさんたちも女性、ジェラシーも手伝って強烈な印象を受けたんでしょうな。どうです、浮気してたんでしょ、被害者と。別れ話、痴話喧嘩、それとも旦那さんにばらすとか言われて脅かされた? もう言ってしまったらどうです、真実ってやつを。警察はねえ奥さん、事故じゃないって見方も捨てちゃいないんです」
 「女性」という言葉に志津は引っかかっていた。刑事は志津のことをモータースの主任から聞いたと言っていた。あの日、脱輪した車をミニクレーン車で引き上げてくれた男で金田の飲み友だちだ。しかし刑事は金田に出した手紙の内容をあらかじめ知っていた。金田自身が警察に手渡すことはないのだから、そこには誰かがいる。
「あいつ、三十八で独身、しかも一DKマンションに一人暮らしでしょ、酒飲むよりほかに暇のつぶしようがないんじゃないかな。あのルックスでそこそこ教養あるし、女にゃもてますよ確かに、ええ」
 料金のほかにお礼をはずむと、男は金田に関する情報を分けてくれた。そうか、一人暮らしの男には必ず女がいると発想すべきなのだ。志津は自分の鈍さに腹が立ってきた。
「刑事さん、わたしが金田さんにお出ししたお礼の手紙、いったいどなたから手に入れられました?」
 若い刑事が音を立てて椅子から立ち上がり、テーブルをドンと叩いた。
「奥さんは質問できる立場じゃないの!」
 志津はあえて若い刑事を無視した。
「たとえば現在は独身だとしても前の奥さん、急を聞いて駆け付けた彼のお母さま、あるいは妹さん」志津は戦いが始まっていることを知った、誰だかは知らないがよその女との間で。「それとも、四月二十四日の日、彼の車の助手席にいた女の方」
 羽月刑事がピクッと目尻を動かしたあとで、若い刑事に坐るよう促した。
「いいでしょう、あなたが上品なだけの奥様でないことは納得しました」
「その方の犯行という見方はなさらない」
「ええ彼女は妊娠六か月、その子はむろん被害者の子だ。しかも彼女の年齢は三十、僕らの感覚から言えば結婚前の女性としては一杯一杯の立場に立たされている。そういう女性が相手の男をあんなふうに置き去りにしますかね」
「でも事故はありうるでしょ、彼女が運転しての、現実にわたしも脱輪したくらい」
「彼女は無免許だ! それだけじゃない、車のハンドルすら握ったことが無いんです」
「なぜ言い切れるんです、そこまで」
「複数の人がそう言い切ったからですよ、いいですか奥さん、七月四日、あの車の運転席に居たのはあなただ、僕はあなたのその、きれいな顔に似合わない太々しいほどの自信を突き崩して見せますからね」
「夫に連絡していただけませんか」
「来てくれるかなぁ、こんな事件起こして」
 若い刑事がこれ見よがしに首を傾げた。
「弁護士を付けてくれます、きっと」
 来てくれない可能性の方が確かに高い。志津は情けなさでさすがに目頭が熱くなってきた。
「ああ、そうでした、その妊婦さんにあなたを確認してもらいました、椿ラインでの被害者との出会いと万葉公園でのデートの相手がまさにあなたであることを。いましがたのことです」
 万葉公園の偶然の出会いのときも? 彼女が身を隠しながら見ていたのいうのか。金田は仕事の途中だと言っていた。確かに平日の昼日中公園をうろついていて営業というのは変だ。彼女とのデート中に姿を見つけて追ってきたという方が自然かもしれない。その金田の後を彼女がそっと追う、そしてあの二人のやりとりを隠れて? 
 志津は頭が混乱してきた。
「あわせてください、その女性に。いったい何の恨みがあって」と立ち上がり、「まだ署内にいるんでしょ」とドアに向かおうとした。
「奥さん!」と事務椅子に座ったまま移動した羽月刑事が志津の左腕をつかむ。
 志津は前のめりの勢いを体の一点で止められる形になって刑事の足元に転がった。
 スカートがめくれ太股があらわになっている。
「羽月さん、まずいですよ」
 若い刑事が志津を抱き起そうとする。
「さわらないで!」
 それはもう、絶叫に近かった。



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蛙声爺

Author:蛙声爺
文芸同人誌編集をしています。
考えるフクロウが理想。
木内光夫のHPもよろしく。

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