蛙声爺の言葉の楽園

. 優しい姫鼠


短編小説 優しい姫鼠

 午前二時、寝静まったホテルの階段を、一階から三階まで、泥棒よろしく抜き足差し足で上がる。塗装のニスが長年月を経て光沢を失い所々剥げている手摺に左手を添えながら。いつものように、戻ったらすぐに眠りに入れるよう、頭や体を覚醒させない工夫をする。薄目を開ける程度で歩く。手足を動かす範囲を最小限に食い止める。
『おしっこするのも大変ね、毎日、毎晩』
 いつの間にか並んで上がっているココがクスッと笑った。細かな水玉模様のパジャマの上に、オレンジ色の綿入れを着込んでいる。指先だけが覗いている袖口が可愛い。
「ついてくるんじゃないよ、これでもまだ男だ」
『そんな心配してないもん』
 そう言いながらも、素直にココは消えた。
 踊り場に佇んで自分の短い影を見た。ついこの間までは、もう少し長かったような気がする。
「たしかにもう、放尿器官でしかないな」
 鼻先で自分の男を嘲(あざわら)ってやった。
 ようやく枠が歪んだ木製のドアに辿り着き、油の切れたヒンジが放つ異音に眉を顰(しか)めつつ、自室に入る。共用部を歩く際のマナーとして着込んだジャージ上下をのそのそと脱ぎ、下着のまま通信販売で購入した折りたたみベッドにスルリと滑りこんで、睡魔の再到来を待つ。引越当初は夜一回で済んでいたこの一連の「作業」が、このごろでは二回、三回と次第に増えてきている。症状が悪化しているということか。夢を見ているときは熟睡していないのだと主治医は言うが、いまは熟睡すること自体が夢になっている。一時尿瓶を使った。階段を昇り降りする手間はなくなったが、部屋のナツメ球の下で一物をつまみ、瓶にチョロチョロと音を立てて尿をしている自分の姿が侘しく、ほんの数日で止めている。
 幸いそんな場面をココに見られたことはない。ただ、見られたらと、その時の惨めさは十分意識した。
 小さな倉庫のような部屋に移って二年になる。著名な観光地に在るのだが、とりわけ辺鄙なところにホテルは建っているので、従業員はそれでなくとも住み込みが多い。加えて、若い力を借りて活気を出すという狙いから、辞めた従業員の補充は二十五歳未満と採用基準を変えた関係上、徐々に近隣から通勤している年配者が減って、独身寮の方が満杯になった。
 総務担当なので、空き室皆無の状態下で採用した若者二人のために、住み慣れた城を明け渡さざるを得なくなった。そういう事情だ。この二年の間には当然退職者も出て、何度か正規の寮に空きが出来たのだが、新人を補充すればすぐに来るであろう引越しの煩わしさが嫌で、部屋にトイレが無いという不自由に耐えている。

  しっかり閉じた目を時々開けて、周囲が暗いことを確認する。なぜか眠気を催さない。早晩永眠できるのだから無理に眠らなくてもいいはずだが、焦れて、傍らに置いた腕時計を手にする。針や数字が見えるわけも無く、結局起き上がってプルスイッチの紐を手探りし、部屋の真ん中にある灯りを点ける。午前三時。すでに一時間も夢現どっちつかずの自分の中に居たことになる。「よいしょ」と声を出して椅子に座り、机上のノートパソコンを端に寄せて、灰皿を引き寄せた。ホテルの名入りライターを手にしてから気付く。『ああ、やめたんだったな』と。それでも、残っている古い吸殻から長めのものを拾って、唇に挟んだ。火をつけた後で、無意識に首の付け根を揉んでいる。うっかりすると、コト、コトッと凝りからくる音すら聞える。次いで両の手を頭の後ろに回し、親指で耳の後ろのツボを圧した。これがすこぶる気持ちがいい。
『年を取るとみんなそんなことするんだ』
 ハッとして振り返った。回転椅子なのだが、頭が先ず背後の壁に向かい、揃えた足が少し後(おく)れて追いついた。またココだ。今度は声だけだが。
 半年前に亡くなった従業員の北島鼓のことを皆、「つづみ」と呼ばずにココと呼んでいた。
 

 
 辺鄙な場所にある観光ホテルで起きた18歳の女子従業員のココの自殺。愛情喪失の過去のある初老の総務の想いの中にココは現れ、「事件」がはっきりと見えてくる。「生きる」って何。彼もまた次第に自死に近づいていく。
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. 「月毎のべる」・冷川峠①


 短編小説『冷川峠(ひえかわとうげ)』①

 朝の八時半に、二階の物干しに日が差すのと同時に蒲団を干した。ご近所に「とうとうあの親父、寝小便か」などと思われては心外だが、パジャマがぐっしょりと濡れるほど寝汗をかいたので干さざるをえない。敷布団の濡れている場所が真ん中付近ではないので、まさか誤解はされまいと思いつつ気になって仕方がない。これが孫でもいれば、「お孫さん、泊まったでしょ、きのう」などと、先様が勝手に想いをめぐらせてくれるのだが、あいにく、先だった女房の畑に問題があったのか、私の種が弱かったのか、子どもはいない。だから孫もいない。「じぁあ誰のだ」と結局噂はそこに来そうだ。あの蒲団が自然に目に入るご近所は四軒、真後ろのしもた屋を除けば、金物屋、乾物屋、クリーニング屋、皆昔からの商いだ。しかも当代の主はガキの頃から知っている連中で、その分口が悪い。うっかりすると「悪事千里を走る」のたとえで、今日の夕食どきには、「いでゆ蕎麦の奴、とうとうボケた」と決めつけられるに違いない。
 ぐじゃぐじゃ考えながらゴローを連れて舗道を歩いていたら、「きやっ」と急に若い女の声がして、足元のゴローが「ワン」と吠えた。一瞬何が起こったのかと立ちすくんだのだが、ズボンから下が冷たくなってきたのと、目の前の女店員がヒシャクを持っているのとで、『ああ、水を掛けられたのか』と腑に落ちた。
「ごめんなさい、すみません」
 気の毒なほどあわてて彼女は、首からタオルを外すと、私の足元にひざまずいてズボンを拭きだした。
「い、いいから、そこまでしなくても」
 ゴローはと見れば、『いや許さん』とばかりに、何度目かのブルブルをして、しつこく彼女をにらんでいる。血統的にはいい秋田犬なのだが、いかんせんまだチビだ、犬としての修業ができていない。
 はたから見れば私が無理やりズボンを拭かせているように見えるはずだ。『まずいな、どこかのばあさんが二人こっちに来る』と私は困惑の度を増し、想いとはまったく逆効果になる怒鳴り方をしてしまった。
「もういいってのに! 恥ずかしいだろうが」
 拭く手を止め、顔を上げた彼女。その眼にはうっすら涙があった。
『くそ、なんて日だ』
 寝汗、打ち水、女の涙。今日は水難の相があると、私はほうほうの体で退散した。

 せかせかと店に戻ると、モッサンがバイクで出掛けるところだった。本名は長沢次郎、最初動きがモタモタしていたので女房がこのあだ名をつけた。この男、三十五にもなるのに独り者で彼女のかの字もない。蕎麦打ちの腕はいいし、気性も穏やかで、ややニヤケてはいるがどちらかといえば男前、「商店街に見る目のある女はいないのか」と、私がときどきぼやくほどのいい人間なのだが。
「あ。小説のお仲間から手紙来てました。そうそう親方、医者行った方がいいですよ、昨夜の咳、下まで聞こえましたよ」
 そんなことは分っている、と反発が先に立ったが、こっちの身体を心配してくれているのに怒るわけにもいかない。無視することにして、
「この先の花屋の店員なぁ」
「プチフルーの若い子、ちょっとブスちゃんの。タッバはかなりありますけどね」と言って、不満の代わりに空ぶかしでガスを吐いた。人の話はちゃんと聞けよという意味らしい。
「ブスじゃないだろ、あのていどなら」
 べつに怒ることもないのだが、そんなに簡単にブスだと言って一個の人格を切り捨てていいものか、と少しばかり感情的になったのだ。いや、きょうに限らず、最近、イライラが募っている 。たぶん体調が悪いせいだ。
「いや、僕が言ってるんじゃなくて、商店街の若い連中が」
 モツサンは、『まいったな』というように指先で坊主頭を掻いた。
「謝りたいんだよ、怒鳴っちゃったから、水掛けられて」
「あー、でもわざとじゃないんでしょ」
「わざとならこっちも謝らないよ。こういうときどうする? 相手、若い娘だし」
 聞いてから少し悔いた。道端の地蔵に歩けと言うようなものだ。
「花屋の子に花持っていっても何ですしねぇ」
 やっぱりだ。私は掌を団扇のように振って、出掛けていいよ、と合図をした。
「お店の床の間の花、枯れてますよ、十分。じゃあ、行ってきまーす」
 バイクの音が妙にうるさい。そろそろ買い替えどきか、しかしいま店にはそんな余裕はない、近頃の若い者は蕎麦を食わなくなったなぁ、と想いがあちこちに富んだ。

 さすがにゴローは店に置いてきた。この前の調子では、そう簡単に彼女を許しそうもないからだ。そうすることが私への忠誠心だとでも言いたげな犬だ。ま、そこが可愛いといえば可愛いのだが。
 プチフルーの店先に人影はなく、きつい花の香りだけが私を出迎えた。
「あのー、すみません。すみませーん」
 花の値段というものがわからないので、私の手は、胸のポケットの財布を何度かさわり、その存在を確認している。ここらあたり、まるで子どもだ。
「あのー、床の間に飾る・・・」
「はい」と不意に背中の方から声がしたので、後の言葉を飲み込んだ。 
 振り返ると、くだんの彼女がニコッと笑って立っていた。
「あの、花をね」
「先日は失礼しました」
 べそをかいていた前回とは違い、声が明るく前に出ている。
「いやいや、私こそ怒鳴ったりして悪かった。で、君に謝りたいのと、花を買いたいのと、それで」
 この前は気にも留めなかったのだが髪がショートだ。男の子のようにサッパリしている。ちょっとオデコで、眉のカーブは緩やか、しかも自然なままだ、眉墨で書いたりはしていない。目鼻立ちは決してよい方ではないが、相好を崩したときのバランスが際立っていい。スマイル美人とでもいうのだろうか。向かって左の口元に小さな笑窪ができる。それも加点材料だ。あらためて見ると確かに背も高い。私もかなり大きい方だが、目の高さがほとんど同じなのだ。ただ股下の長さは呆れるほど違う。私のベルトの位置に彼女の股間がありそうな…少なくとも二十センチは差がある。
「あの、どんなお花を?」
 彼女が少し焦れたように言った。
「店のね、この先の蕎麦屋なんだけど、知ってるかな、床の間に飾る花を、と思って」
「京壁ですか」と彼女は背中を見せて花の群れの中に入った。「…床の間の壁の種類なんですけど」
 おお、若いのに分っているらしい。何だか嬉しくなった。
「そう、いちおう本格的な和風にしてあるんで。違い棚もついてる」
「何か違うんですかぁ」
「あ。いや、べつに」と早すぎた採点を悔いた。
「これなんかどうでしょう」
 そう言って彼女が持ってきた花は、金魚鉢の水草を空中におったてたような葉っぱに、ピンク色した小ぶりの花。私の感覚では床の間に合わない。
「なんという花? それ」
 知らない花はイヤだという精一杯の抵抗だった。
「ボロニア、ピグミーランタンとも言います。案外日持ちがよくって、一週間から十日はもちます。延命剤をうまくつかえばもっと」
「エンメイ剤って?」
「花の命はみんな大体短いですから、少し薬で延命を図ります」
「ああその延命」
 花も人間並みに浅ましくなっている。そう思った。
「わたし思うんですけど、和風のお座敷だから日本古来の草花じゃなくちゃって、頑固に考える必要ないです。どこに行っても春なら梅、柳、桜、秋ならススキ、桔梗、菊っていうんじゃつまらないし。三原色が一気に使えちゃう極楽鳥みたいなストレリチアもいいし、黄色ならミモザアカシアがつぶつぶしていて面白いし、提灯いっぱいって感じのオンシジウムもいいし。形で人の目を引くなら狐の鬼火のイメージでグロリオサかな。生け花にタブーはないんです」
 意外に饒舌な娘なのでビックリしたが、それ以上に、花の名前を聞いていて頭が痛くなった。さらに長くしゃべると客向けの言葉遣いが崩れてくるのが気になる。「必要ないです」とは何だ。それはこっちが決めることだ。「つまらない」も同じだ。自分の価値観を押し付けているのに気がついているのか、いないのか。『タブーがないのは、むしろ君の言葉遣いだろ?』と、いじめてやりたくなった。
「どうします?」と、くだんのピンクの、なんとかランタンという花を胸に抱きしめて、彼女が私の顔をのぞきこんだ。
 可愛さが突然に前面に出た。なぜだろう。モッサンの評価はブスだったはずだ。とっさに女体というものから離れて何年になるかを数えた。けっこう長い。女の性的な香り自体には美醜はないらしい。のどが渇いてきた。
「いかんな」
 自戒するほどの妄想は抱いていないのだが、つい口をついて出た。
「はい?」と彼女がいぶかる。
「なに、西洋の花がだ。うちは日本蕎麦屋だぞ」
 だからどうしたと、言われかねないのが気になった。
「じゃ、ひとつ聞きます」
「な、なに」
「床の間に蕎麦の花を活けないのはなぜです?」
 私はうかつにも方向を見失った。蕎麦屋に必要なのは蕎麦粉だけだ。花の段階で手折れば蕎麦の実は絶望になる。蕎麦にそんな仕打ちが出来るか。そう思った。が、言葉となって彼女の前に出てこない。
「パン屋さんだって小麦は店先の花瓶に活けないと思います」
「だから、何?」
 私はついに焦れた。ここらあたりが、五十九という年齢なのか、どうか。
「ナンセンスです、お客さんの決めつけ」
 負けたと思ったのは、この後だ。



4月2日午後、伊豆高原桜のトンネルに行ってきました。8分咲きぐらいでしょうか、満開に近いです。天気予報が雨のち曇りだったせいか、いつもは渋滞する道路がスイスイ動ける状態でした。急いではもったいないので時速30キロで桜をたのしみました。

 この先は「続きを読む」で「縦組み全編」に入ってどうぞ。おせっかいな蕎麦屋のおじさんが若い男女の「キューピッド」になる軽めの、心温かなお話です。
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蛙声爺

Author:蛙声爺
文芸同人誌編集をしています。
考えるフクロウが理想。
木内光夫のHPもよろしく。

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