蛙声爺の言葉の楽園

. 美しくも切ない『秒速5センチメートル』

 
*映画オタクのシゲルと愛子が、大ヒットした『君の名は。』の新海誠監督がそれ以前に創った名作『秒速5センチメートル』(2007年・DVD)を観た後で、かなり盛り上がって話をしています。少しの間、付き合ってみましょう。この二人、久しぶりの登場です*

「えっシゲルがアニメを部屋で一緒にってさすがに驚いてさ、ネットたく゜って映画評いくつか読んでみたのよ。でね観終わって最初に聞きたいんだけど、遠野貴樹(タカキ)が初恋を引きずってウジウジしてるだけのアニメって書いてる人がいたんだけど、おなじ男としてどうみる?この作品」
『のっけから大上段に振りかぶったな愛子。うーん・・・だけど1人の女性を心の中で想い続けるのはバカとかだらしがないとかいう前提に立っての批評は次元の問題としてどうなのかな。この作品、人を、異性を想うということの実体を解析してるわけよ。そんなの1回じっと観てれば解かることだよね。俺も鑑賞後のコメントてやついくつか読んだけど、タカキから次の男に乗り換えて結婚て何?女は現実的に割り切れる動物だみたいに言って篠原明里(アカリ)を何となく責めてる奴もいて、少し引いたね俺は。そんな簡単な選択じゃなかったろ、アカリの選択は』
「へーえ、でもね、アカリは嫁ぐことを決めたあとでだと思うけど【1000回のメールを交わしても、心は1センチくらしか縮められなかった】って言ってたわけよ、タカキへのメールで。栃木の岩舟での最後の逢瀬、雪降る中でのキスと抱擁、寒さに身を寄せ合った記憶は何だったのかしらね。わたしなら数年会わなくたって忘れないわね、あの想い」
『それって別の女性だったと思うけど。ま、どっちでも通用するけど。忘れてなんかいないんだよアカリは、婚約指輪をしていても、たぶん式の前夜でも。もひとつ言えば口には出さなくてもタカキにも伝わってるんだ、アカリの気持ちは』
「もう少し説明していただきましょうか、シゲル先生」

『さっきの男の未練みたいな批評にもつながるんだけどね、女も同じだと思うんだ。もちろん人それぞれって突っ込みは甘受するけど、今はこの作品のタカキとアカリの話だからね。 中学1年3学期3月4日の雪の逢瀬の後、二人は共に相手の姿をネガに切り替えたんだ。写真で言う陰画ね、この反対は小学生の出会いから続いていたポジ、陽画ね、ちゃんと明暗や色彩がはっきり写っていて実物そのままの姿をしてる画像。つまり別れの直後からではないにしろ、ふたりはタカキ・ロス、アカリ・ロスの寂しさや空虚感の中で相手を見失わないように姿かたちをネガにしていたんだ。はっきり写っていては現実の寂しさに耐えられないからだよ。転校先の奄美大島でタカキは送信しないメールをアカリを宛名にして書き続けていたよね、書いては削除の繰り返し…。つまりふたりは成人してからも相手をポジに出来なかっただけなんだ、だから嫁ぐアカリも心に焼き付いたネガのままのタカキを連れていく。ウジウジしてると非難するならアカリも同じことになる。だからウジウジ作品じゃないと俺は受け取ったんだ。美しくも哀しい物語だよ』

「なるほどね、じゃタカキがさ、奄美で会った同級の女の子、一途にタカキに恋してた子に対する彼の言動は何なの、解説してよ」
『澄田花苗(カナエ)ね、健気だったねあの子。ところで何か怒ってるのか愛子、気のせいかもしれないけど』
「別にぃ、さ、はやく解説、解説。あのカナエを夢中にさせたタカキの思わせぶりは何なの」
『もともとタカキは優しいという設定なんだ。と、これじゃあ納得しないだろうから、いやだけど探してみるよ根拠』
「よしよし、いい子だ」
『アカリ・ロスの最中だったタカキにとってカナエはポジフィルムだったことは確かだよ。一緒にコンビニ、一緒に通学、遅くなれば家まで送るなどなど。周りも気づいてカナエは同級生にからかわれてもいる。カナエは言う【彼は優しい、時々泣いてしまいそうになる】』
「ほんとシゲルって台詞おぼてるわね。あ、ごめん、それで」
『好きだって告白できないで悩んだり泣いたりするカナエ可愛かったな。うん、ところがねカナエは気づいてしまうんだ。自分を見ていないタカキに。【遠野君は遠くを見てる】、このことば掛詞だったね、私を通り越して遠くにいる想い人、そして進学する東京の大学、つまり遠くを・・・。沁みたなあ、【お願いだからもう優しくしないで】』
「質問から外れてるわよ、ちょっと。このままだと浮気の1種で終わるよ、タカキ君の」
『カナエが自分に夢中な女の子と知りながら彼が、彼女にこう言わしめたものは何。タカキが一番彼女に優しかったのは、カナエをアカリの代用品にしなかったことなんだ。タカキは最後までカナエを下の名前で呼ばなかった、澄田(すみだ)と呼び続けている。だれだって自分に好意を抱く可愛い女の子には優しくする。だけどカナエはアカリじゃなかったんだ』

「罪だなあ、タカキ。だけど、カナエはいい女になるよ、きっと。人は異性という鏡に自分を映して初めて自分を知る。カナエにとってはタカキがこの鏡というわけだ。実はわたし、このエピソード【コスモナウト】の部分がいちばん好きなんだ」
『うーん確かに俺もかな。思春期の恋心の描き方がアカリを描いた【桜花抄】の部分より繊細なんだ。カナエが波乗りでサーフボードの上に立てたからと告白を決意、そのための「待ち伏せ」をする。好きと言えないでいるとタカキが【歩きたいんだ】と先になる。カナエがタカキの上着の裾を後ろからシッカと握る。振り返ってもらうがまだ言葉が出ない。感情があふれて泣き出すカナエ』
「シゲル、君も十分繊細だ」
『そうなんだ、このアニメ、正直なところストーリーは鈍くさいんだ。ありふれてるんだ。でもね、背景の美しさと精緻さで、自分がタカキやアカリやカナエになったような錯覚を起こす。青春にいる人はリアルに、年配の人は何十年もタイムスリップしてそこに。一緒にドキドキしたり、ためらったり、好きな人と歩いたり』
「抱き合ったりキスしたり?」
『さすがにそこまではね(^^♪』
「そこ狙いじゃなくて、まじめに創ってるからなおさらスクリーンの中に素直に入れるんじゃないかな、少し心や想いが錆びちゃった年代の人でも。だれだって青春のときめきは胸に仕舞ってあるだろうしね」

『なんか喉かわいたな、しゃぺりすぎ? どれ、ビールでも出すか』
「あ、わたしやる。それにしても中学1年の終わりごろのアカリ、よく長い時間寒いのに岩舟駅で待ってたね。恋の力はすごいや」
『愛子は待つのかな、雪で電車がめちゃめちゃ遅れて先が見えないあんなときに』
「待ち合わせた相手によるかな。このビールいつ冷蔵庫にいれたの」
『冷えてるよ、だいぶ前だから。愛子、俺が待ち合わせの相手だったら?』
「そのときのシゲルが恋人ならね、たぶんだけど待ってるかな」
『じゃあ、近いうちに遅れてみるよ』
「え、何それ、ちょっと」
『いいからいいから、ビールビール』

*********

『目の前を電車がかけぬけてゆく  想い出が風にまきこまれる  思いもよらぬはやさで
 次々と電車がかけぬけてゆく  ここはあかずの踏切り♪』 (井上陽水「あかずの踏切り」)
・・・・心の踏切りは自動的にはあかないよ、「遠野貴樹くん!」


    これ、何の連なりなの?  Q「カラス何羽隠れてますか」

     連なるもの
        *松川湖にて*
    

     


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. 名画『この世界の片隅に』への寸評


  私が観た『マイマイ新子と千年の魔法』とこの作品だけでは確信は持てないのですが、個人的には、片渕須直監督が巨匠宮崎駿の背中にピタリ追(つ)いていると感じられた長編アニメでした。
 公開からひと月以上の間小田原に来るまで待って鑑賞した『この世界の片隅に』に心揺さぶられ、大上段に構えて論ずることができなくなりましたが、これは戦争そのものの物語ではなく、戦時という背景の中での広義の「愛」を描き出した秀作だと思います。

 縁談相手の顔も知らずに広島から呉(くれ)に嫁いできたすずとその周辺の人たちに絞り込んで描き、ばらけさせずに観客の心に一体感を持たせることに成功しています。この映画は才媛とか女傑とか大きなテーマの映画を背負わせるに足る主人公にせず、普通の、といいますか絵を描くことが好きな少し呆(ぼう)とした娘を登場させます。その素直で心優しい子が、戦争が拡大していく中で右往左往しながら日々の暮らしをコツコツと営み、苦難に耐えて少しずつ「おとな」に成長していくのです。
 すずと実家や嫁ぎ先の家族との心の交流が変化に富んでいて、観るものをして退屈させません。
 そして随時挟み込まれる笑顔と笑い声・・・これが何よりの救いになります。
 また初恋の男性と夫とのはざまで揺れるすずの女としての想いも活写し、およそ「心」というものの不安定さを同時に描き切ってもいます。正直なところ、この関連シーンにはグサリと心臓をやられました。
 だからこそと、あえて言いましょう、本作は、戦闘そのものや戦争がもたらす悲惨さをこれでもかとばかりに声高に「叫ぶ」作品よりも、厭戦気分をかりたてて止まないのです。頻繁に「画面」に登場する鳥たち、昆虫たち。それは生きているのは人間だけではないということを訴えてきます。戦争は人間が造り出した「最悪の環境破壊」だと囁きもします。この側面からは、理性的に編まれた稀有な反戦映画とも評せます。
 爆弾に因って右の手首から先を失ったすずが家事をいつも通りにこなそうと頑張る姿は、戦後の日本人の姿を象徴しています。
 困難でも、以前と同じように、いつも通りに暮らしていくこと。それが庶民にできる唯一の戦争への「抗議」であり、かつ最善のものであることを、すずは知っていたのでした。彼女は言葉でも言い放っています。

 この映画は、どこの国が悪いだれが悪いと、直接には言ってはいません。もっと別次元の根源的な訴えなのです。ですからこの作品を政治的なとらえ方をすると的が外れてしまいます。もっと深いような気がします。

 強力にお勧めします。ぜひご覧ください。
 ヒットが予想されず63館と初冬に小さく出発したこの映画は、マスコミに冷たくされながらも「口コミ」でその良さが伝播し、今年に入って170余館の上映、さらに上へと伸び続けています。嬉しいことにキネマ旬報2016年度第1位の栄冠も獲得しました。アニメでのトップ受賞は宮崎駿監督の『となりのトトロ』以来28年ぶりの快挙だそうです。本作の脚本も務めた片渕氏は、宮崎監督がいち早くその才能を認めた人として有名です。
 原作は、こうの史代の同名人気コミック、主役声優はNHK朝ドラで「あまちゃん」を演じた「のん」。
 個人的には、間近に迫った日本アカデミー賞がこの映画をどう扱うかが実に楽しみです。



 それにしてもネタバレなしに書くのは難しい。
 今回は珍しく1人鑑賞でした。2回目の上映で1時間前にチケットを買ったときは6席しか埋まっていせんでした。小田原では初日でしたから少し落胆。ところが上映開始時には200人以上の観客。私には何の関係もありませんが、ホッとしてうれしくなりました。

       

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. 名作『言の葉の庭』に心遊ぶ


 雨の日都内の庭園の東屋(=四阿・あずまや)で、少し大人びた15歳の少年秋月孝雄と、訳ありの27歳の美人雪野百香里(ゆきのゆかり)は偶然に出会う。現実的な将来の職業として「靴職人」を目指し授業をさぼりがちな孝雄と、高校で古文の教師をしているなかでつまずき「出勤回避」が多い雪野。二人は雨の日に同じ東屋で会い、それぞれの現実の中を「歩く練習」を始める。これが理由で物語上孝雄の希望職が靴職人であることが必須だったのだろう。作品は飽くほどに二人の「足元」を登場させる。わけても雪野の下肢は妖しくもすこぶる麗しい。

「鳴る神の少し響(とよ)めてさし曇り雨も降らぬか君を留めぬ」(万葉・作者不詳/巻11-2513)と、和歌を口にした「おんな」。
 雪野はずっと「つぶやき」を繰り返す。それは彼女の心の流れ。言の葉(ことのは)・・・それだけで「恋」の流れ。
「どうせ人間なんか、みんなちょっとずつおかしいんだから」
「わたしね、うまく歩けなくなっちゃったの、いつの間にか」
「わたし、だいじょうぶなのかな」
「雪野さん、じゃなくて先生でしょ」

 こんなに美しい自然描写を成しえたアニメーションがあったろうか。これほど多くの撮影・編集手法を用いたアニメ監督がいただろうか。そんなことを想った。だからこそ言の葉(台詞)を極限まで削り取れたのだと。また「寡黙」だからこそ、一言ずつが皆、不可欠なものとして、重いものとして伝わってくる。孝雄のひたむきさが切ない。大人の女であろうとし、強がる雪野が痛々しい。

 東屋に二人が近づいていく鳥瞰。人の顔ではない、糸としての、また雫(しずく)としての、さらには樋から飛翔するものとしての雨の、クローズアップ。二人の「ためらい」を振り払う激しい俄雨の「やさしさ」。吹きまくる風は二人の心の叫び。聞こえない会話も、綺麗なバックのピアノも恋のエチュードか。大写しの歩行者信号が青から赤へと変わる「シャレード」。次のシーンの「危険」を教えている。二人は雪野の部屋で雨に濡れた全身を、着衣の上から拭う。
「いままで生きてきて、今が一番しあわせかもしれない・・・雪野さん・・・」
 そう「今」がね、と「観客」の私は「好きです」と告白した孝雄に心で語る。
「雪野さん、じゃなくて先生でしょ」と距離を置いた雪野の第1弾。
「四国に帰るの」で第2弾。
「今までありがとう」で必殺の弾(たま)。
 孝雄はやり場のない気持ちで部屋を出ていく。閉まるドアの大写し。「わかる。あのタイミングであれはない」と私。
 案の定雪野は、「真の自分」を裏切れずに裸足で孝雄を追いかける。外廊下で、階段で、危なげにもつれた走りが雪野の中の「おんな」の全て。その描写、見事というほかはない。涙が出ないのは爺だからだ。若かったらたぶん涙ぐむ。
 踊り場で孝雄に抱きつき泣き続ける雪野。
 ふたりの「恋」のカタルシスに遠慮するかのようにカメラは勢いよくその場から遠ざかる。

 タイトルローリングの後で、雪野が四国で教鞭をとっていた。一方の孝雄は、ひとり東屋を訪ね、雪野にぴったりするように創りあげた靴をベンチにそっと置く。
 フェードアウトして真黒なスクリーンはこちらに向かって言う。もうこの二人は、この靴が無くてもちゃんと歩ける。「大丈夫だ」と。
 新海誠監督、はかなくも美しい物語をありがとう。


 言葉には言霊(ことだま)があり、樹木には木霊(こだま)があるという。どちらも真だ。

     やんも
       *伝・樹齢千年の山桃(やんも)の木*
 


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. 話題の映画『君の名は。』を観る


 興行収入200億円! 308億円に達した宮崎駿『千と千尋の神隠し』に次ぎ歴代第2位に昇ってきたこの長編アニメを私は、何一つ見逃すまいとして楽しむとは程遠い「構え」で観続けた。エンドロールが始まったとき、これ、「おいてけぼり」にされる映画だなと思った。何度も観に行く人がいるとネットでは言っていた。そうだろう、「再見中毒」になるように編集されている。事実、うちのかみさんは帰りの車中で混乱に陥っていた。ただ、これは作品に対する非難ではない。観客への「謎かけ」「いい意味での挑戦」なのだ。理解できなければ「罰」として「もう1度観に行かなくちゃ」となるだけだ。
 もっともこの映画、理屈をこねて「理解」する性格のものではない。「日本人のDNA的な感性」に訴えた極めて感覚的な代物なのだ。そのはずなのに、すでに台湾、英国など数か国の拡大上映で大ヒットになっているのは興味深い。「絵」の驚愕的な美しさや展開の妙、可愛いキャラクターなど魅力満載なことをちょっと横に置いてその原因を考えてみると、「カルチャーショック」という言葉にぶち当たる。これからも世界のあちこちで「ふしぎちゃん、君の名は。」に翻弄される外国人が多発するに違いない。

 とにかく目まぐるしい。大都会東京と伝統的な田舎、男子高校生の日常と女子高生の日常、主人公瀧(たき)の体に入り込んだ三葉(みつは)と同じく三葉の体に入り込んだ瀧、太古の昔と現代の電子社会、三年前に死んでいる三葉と、隕石の落下で死ぬ前の三葉を三年後に追いかけている瀧。何度も対比し、さらに因果の順逆の流れで観客の目から頭へと実写を超える素晴らしい映像で襲ってくるのだ。観客は整理する十分な「時」を与えられないまま必死で「作品の跡」を追わなければならない。時系列が吹き飛び、頭の中で散逸し、終には「おいてけぼり」に気づく。

 過去(むかし)と現在(いま)、宇宙と地球、人と人、親と子、男と女、さらには心と心、心と体、生と死、死と復活、前世・現世・来世・・・・それらを一言で表現するとすれば「結び」。奥が深すぎて彼方が見えない。
 君は誰で僕はどこにいる? 君はそこにいるけどわたしって誰? 「今」の先に昔があるって何? 必死で君を探していた時の僕って死後の君を?そうなるよね。 僕に会いに来た君って生きてた頃の君?だとしたら当時の僕は中学生だ ・・・じゃあ東京で、電車でお互いに見つけて駆け寄った二人って、いつの僕で、いつの君? ・・・だいいち「君の名は。」
 このタイトルにあえて「。」つまり終止符を付けたところが、謎解きの鍵かも。

 かくして私、自称「映画オタク」の爺もつぶやいた。「もう一度観なくちゃ」
 それにしても組紐(くみひも)のシーンで「結び」の意義を説くおばあちゃんの一葉(ひとは)さん。何とも素敵だな。
 「あーあ、それにしても歳だなぁ、また理屈こねちゃった」・・・感覚けっこう錆びてるし(^^♪


  サルスベリのツルツルの素肌にチューをする花の唇。「あ、エロ」いいえ「アロエ」です。

       アロエたち
        *伊東・蓮着寺にて*

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. 綺麗なものを見ていたい、老いを得てなおさらに


 ビデオレンタル店で長編アニメを借りるたびに、聞かれもしないのに「孫に頼まれましてね」などと「弁解」しそうになって、首をすくめる。もともと好きなのだが、リタイアして時間が出来た昨今は特に、綺麗なもの可愛いものを見ていたい、観てみたいと思うようになった。写真、絵画、コミック、アニメーション、映画に至るまでそれは貫かれている。自分自身にそのわけを聞いてみると、「青春時代の想いへの回帰」だとすぐに答えが返ってきた。 

 この中で「コミック、絵画、アニメ、映画」が一体となっている芸術がある。長編アニメーション映画がそれだ。
 「崖の上のポニョ」「思い出のマーニー」「千と千尋の神隠し」「かぐや姫の物語」「風立ちぬ」などスタジオジブリの長編は劇場でほとんど鑑賞しているが、DVDになっているので過去に遡って鑑賞したものも多い。「風の谷のナウシカ」「となりのトトロ」「おもひでぽろぽろ」「魔女の宅急便」「もののけ姫」など挙げていけば20作近いのではないだろうか。
 大前提が「絵」なので、アニメというカテゴリでもオールCGの、ディズニーものは殆ど観ない。オール手書きは当節望み薄なので部分CGなら仕方がないと納得はしているのだが。ところでAKB48ではないが、今年「ジブリ総選挙」なるものが行われた。過去の全ジブリ作品の中で1つ選ぶとしたら何?と投票させた結果、栄冠はアメリカのアカデミー賞長編アニメーション部門賞も獲得している「千と千尋の神隠し」に与えられた。気持ち的には私も同作品に1票だ。10月に全国5館で1週間再上映されたという。ちなみに私はこの作品、劇場で1回、DVDで4回鑑賞している。ほぼオタクに近い。

 「風立ちぬ」のあと自らの高齢を最大の理由に「長編アニメ」引退を表明して1年経った巨匠宮崎駿が復活しそうだと、11月13日放映のNHK番組「終わらない人宮崎駿」がほのめかした。いや事実映像では彼がプロデューサー鈴木敏夫に「長編企画覚書」と題された文書を手渡していた。いったん解体させたジブリ組織が宮崎駿のために再生できるのかどうかは不明だが、彼は死ぬまで描き続けるのが宿命ではないかと思えてくる。

 少し話を跳躍させるが、いますぐ飛んで行って観たい劇場用長編アニメが二つある。
 すでにロングランを続けていて興行収入200億円も視野に入り「千と千尋の神隠し」の記録308億円に次ぐアニメ2位を狙う新海誠監督「君の名は。」と、いまだ数十館と劇場こそ少ないものの大きな注目を集めている片渕須直監督「この世界の片隅に」がそれだ。後者は主人公のすずの声をのんが担当し絶賛を浴びていることでも注目度が高い。

 私はこの2作品ともユーチューブで予告編各種を繰り返し鑑賞した。両作とも作画・背景の美しさが印象的で、どことなくジブリ作品を思わせた。もしやと思って資料を漁ると、確かに。
 「君の名は。」の作画監督安藤雅司は宮崎作品でも作画をやっていた。「この世界の片隅に」の片渕須直は若くして宮崎駿に実力を認められ、「魔女の宅急便」の演出補を担当していた。詳細に調べていけば、二人の「アニメ修行」の重要な部分で「ジブリ」が絡んでいたことが分かるだろう。いまアニメ業界で活躍しているアニメーターや映画作家が宮崎駿から学んだであろうもの、それは作品の完成度を高める執念なのではないかと、そう思う。
 知るのが遅すぎた。早く観たい。「どうせなら1日に両作品共」と胸が躍っている。 

 そういえば「エヴァンゲリオン」の総監督で「風立ちぬ」では堀越二郎の声優まで務めた庵野秀明も宮崎駿とのつながりが深い。今年ロードショー初日に観に行った庵野総監督の「シン ゴジラ」は、圧倒的に「美しかった」。「美」の感覚は実は「眼」だけでは感じ取れず、「心」が伴う必要があるのだと、遅ればせながら気が付いた。表現としての破壊や混乱や戦闘、はては会議にすら「美」がある。
 


  調べましたら「君の名は。」の直近の上映館は神奈川県小田原市の鴨宮、「この世界の片隅に」は同じく神奈川県湘南地区の辻堂 。私の居る静岡県の伊東からはかなり「遠い」。横浜に住んでいた昔と比べればホントに「田舎」。

11月23日、遠い上映館は少し先送りしてとりあえずDVDで、新海誠監督「秒速5センチメートル」(2007年)を夕餉の友として鑑賞した。タイトルは桜の花びらが地面に向かって落ち行く速度だそうな。キャッチコピーも「どれほどの速さで生きればきみにまた会えるのか」とおしゃれだ。映像美が半端ではない。スタートと同時に食事中なのに明かりを消した。
 私見だが、切なさのない恋は空疎でしかない。このアニメはそれを証明してくれている。これは大人の映画だ。もう一度芸術作品として鑑賞することにした。



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Author:蛙声爺
文芸同人誌編集をしています。
考えるフクロウが理想。
木内光夫のHPもよろしく。

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