蛙声爺の言葉の楽園

. 心静かな日々を

 畏敬の対象である中学の同窓生(現在医師)が言った。この年齢になれば「一病息災、二病息災で、無病息災はない。病気と上手に付き合うことだ」と。この1年、といっても自覚症状が出てきたのはいつからか、それさえもはっきり覚えていないのだが、内臓、とくに消化器系に異状があると自分自身で看たてた。同時にちゃんとしていられる「余命」について考えた。3.11以後ずっと申し出ていて受理されなかった「退職」を急いだ所以である。すると、透明感のある自分が見えてきた。
 蓄財にも出世にも縁がないことは、遥か昔に解かっていた。それでも…

 7人の兄弟姉妹の全員が中学卒業で終わるほどに貧しい家庭だった。自分で言うのも何なのだが、成績優秀であった爺はそれでも県立高校に入った。大工で長患いを「仕事」にしていた父が病床で「義務教育は終わったんだ。働いて金を入れろ」と言ったのを聞いて、「任意退学」をしたのが、1年の2学期、高校の取得単位はゼロということになる。アルバイトと独学の日々はここから始まった。殆どが肉体労働。いつも腹を減らしていた。ようやく「文部省大学入学資格検定」(当時)を受ける段階まで学習が進んだとき、受験前の5月に父が死んだ。葬儀費用は男兄弟3人の分担。夜勤をして少しばかり貯めた金は、このときに消えた。直後に受けた大検は1発合格。しかし大学受験費用も入学費用も無い。食うこともできない状態だった。とりあえず食えて住める牛乳配達を選び東京へ。紆余曲折を経て、学費の少ない通教で法学を修めようとした。法務省、東京高検、銀行、県庁などに勤める仲間と「央雄会」をつくり、会員のほとんどが4年で卒業をした。これがどれくらい凄いことかは後になって知らされた。

 「大学は出たけれど」世間は大卒だとは認めてくれなかった。ここが役所勤めの仲間との根本的な違いだった。爺はやむなく、在学中に取った宅建主任の資格を使って不動産会社に入社する。ここで知ったのは「正」必ずしも「正」ならずの理(ことわり)だった。世の中が「損得」最優先であることを思い知らされたのだ。世間知らずの露呈。爺は正論を吐いて常務とぶつかり、会社を去った。「何のために法律を学んだのか」。一時奈落の底に落ちた爺には、法曹を目指すしか選択肢がなかった。それからの8年もまた、アルバイトと独学だった。日本経済が高度成長のころと重なる。定職に就かない爺を、区役所税務課の職員は罵倒したものだ。「あんたまともじゃない、人間じゃないね」。
 3年以上中学校で管理員をしてから里山に籠り、二次論文式を受けられるまで進めたが、何度か目の「無一文」の中、爺の「青雲の志」はここで、こと切れた。
 
 サッシ戸の向こうが真っ黒だったのだが、空が分離され「曇り」と知れた。『何を書きだしちゃったのか』。フッと嘲う自分がいる。小さい頃は「日陰のモヤシ」で病弱。学齢に達するまでに40度の高熱を出して死に損なったことが3度もあるという。小学6年まで体育の時間は見学だった爺。絵を描いていた記憶もある。それが現在67歳と8か月。年配になっても大きな病気もせずに来られたのは、伊豆に30年近く住んでいるからに違いない。山紫水明、澄んだ空気、温泉…。もし、郷里横浜や、首都東京のビジネス社会で日々「欲得の暗闘」を繰り返していたら、おそらくここまで生きられなかった。そう思う。

 それでもこの地で資金を貯め、すでに取得していた「社会保険労務士」で開業しようと本気で思っていた時期がある。いつでも相談にのれるよう十数冊の加除式専門書を本棚に並べていた。この「経費」3年間で30万に達している。しかし、この「田舎」の地でも「学歴」にはシビアなのか、専門家的に使ってくれたのは最初に勤めたホテルだけだった(総務課長職)。いや、「不徳の致すところ」と解すべきだろう。「正しい」は爺の中で「闇」に入ったのだから。
 いまならそう思える。とにかく「何々せねばならぬ」という「背中に刃物を突き付けられた」想いは捨て去ろう。

 突然に、それこそ走馬灯のように、昔を思い出すのはなぜだろう。

 いま、これからの時を、静かに生きる。そうしようと思う。
 本を読み、映画を観て。ブログを書き、ホームページを創って。何か人のために動けることを探して。なるべく笑顔で。
 「心の糧」を食べ漁りたい。

 雲の合間にほんの少し、青い空が顔を出している。
  
  

. 元船員のお刺身

もう20年以上も前のことになる。その当時の爺は伊豆熱川の観光ホテルで総務課長として働いていた。ある日爺が自ら面接し採用した元船員のNから、自分の船員保険の被保険者期間について記録も記憶もないという相談を受けた。55歳をとうに過ぎていたのだ。彼が船員として過ごした間の法制では、船員保険は一般の厚生年金保険とは別建てで「1航海1保険」とも言える仕組みだった(昭和61年4月1日改正法から漸次統合が図られている)。つまり彼は「何年何月から何々丸で遠洋航海と」いう形が何度も何度も繰り返されていたのだが、自分でメモすらしていなかったらしい。
「社会保険事務所(当時の名称)に行って相談してきなさい」と励ましたが、一向に腰をあげない。何度目かの面談で爺は自分の甘さに気付いた。一般の人にとって役所は心理的にかくも遠いところなのだと。

 日を決めて彼を伴い上記「役所」を訪ねた。もちろん被保険者たる彼は何一つ資料・証書の類を持参していない。彼に代って事情を説明すると、ソフトな感じの女性所員は、「あなたはどういうお立ち場の方ですか」と問うてきた。当時は県の社会保険労務士会会員で、いわゆる企業内社労士でもあったが、それは言わずに「この人の勤務先の総務課長です」と答えている。
 彼女は納得して目の前の端末機に彼の氏名と生年月日を入力した。もちろんこちらからは覗けない。
「いくつでもいいですから、乗船した船の名前を言っていただけますか」と優しい眼差し。
 彼が2隻思い出すと「それどちらの船が先ですか」と進み「おいくつ頃だったか分かりますか」と続ける。
 2つの船が確認できると、その前後を思い出したらしく船名を2つ追加する彼。
 所員の顔がほころびた。どうやら「本人確認」が成ったと、爺も破顔。
 あとは所員が船名を告げ、「この船はいつごろ?」と新たな質問法での検証が続いた。
『これで大丈夫』と、彼の背中を軽く叩いた爺。

 結論として、受給申請は無事に終わった。
 それから何十日かした或る日。近くのスーパーマーケットにかみさんと食品を買いに行ったときのこと。偶然くだんの寡黙な元従業員に出くわした。屈強な体つきで長身な彼が、文字通り小さくなってお辞儀をする。爺も「よかったね」と笑顔で応えたのだが、何分後だったか、彼が寄ってきて白いトレーに載った刺身を差し出した。お礼だと言う。「いやいや、仕事でやったことだから」と固辞し続ける爺。そのうちに刺身をじっと見つめだした彼。自分のお礼の品が不十分だったのかという彼の懸念の「声」が聞こえてくる。そう、彼にとって爺のしたことは、「絶対仕事ではない」のだろう。だから「お礼」となるのだ。「じゃ、今回だけお気持ちをいただきます。もうしないでね」。
 彼の目がようやく和んだ。

「なぜ刺身って発想したのかな」と、帰りの車の中で爺。書かずもながだが、生魚が苦手だった。
 かみさんが「品物の良し悪しが分かる一番が、魚だったんでしょ、元漁船の人だから」と、事も無げに言った。因みに彼女にとっては大好物、となる。
『人に喜ばれる。こういう仕事がしたいんだよな、俺』 
 
 結果的には実現しなかったものの、この出来事は爺にあらためて「開業」を夢見させることになる。

. 引き算はかけ算


子供の頃、マイナス掛けるマイナスがプラスになるという説明に納得がいかなかった。マイナスよりも「大きい」ゼロにゼロを掛けてもゼロなのに、と。

 いまここに1から15までの数字が入った正方形の小片(駒)がある。これに0と記した同型の1小片を加える。もちろん無地でも良い。さらに数字をバラバラにして枠の中にきっちりと閉じ込める。これらの小片は会社員、「枠」は課でも部でも会社でもいい。もう少し穿(うが)った見方をして「人件費」でもいい。4掛ける4で全く動かない。いや動けない。個々人の「数の大きさ」も「立ち位置」も「序列」さえもが整理されずに硬直しているのだ。そのときたった一つの0が抜け出る。産まれたスペースが組織を可動的にしていく。手間はかかるが序列も操作で整えることができる。昔、こんな「ゲーム」が文房具屋で売っていたような気がする。上級生がかなり複雑な「作業」をして「完成」させていたが、ずっと1人きりで頑張っていたと記憶している。そう、執行責任者(COO)単独でできる改革なのだ。

 慌ててナンバー16の小片を作って嵌めてはいけない。但しもう一つ抜き取って同じ番号を付けるのは差支えない(可動性が保たれるからだ)。もうお分かりだろう。「抜けた」はその「駒」の自主的な判断による。またそうでなくては少しく支障が出る。強制的な排除(解雇)だとすると、残った駒は「次は自分か」と疑心暗鬼になり、改革への積極的協力が減殺されるからだ。全社員に活力を出させるという所期の目的が果たせない。但し書きの2駒目の排除はただの異動と映るので衝撃は少ない。良い意味での「激動」が収まったとき、「枠」は変形しつつも正しく小さくなっているはずだ。
 組織の実質的強化と人件費節減は、これを繰り返せば足りる。
 自主的に見える「早期退職制度」や上手に仕組まれた「自己都合退職」などは、このお伽噺(はなし)の亜種である。
 動かない、動けない部課や会社に「未来」はない。

『少数にすれば必ず精鋭になる』(日経ビジネス「経営語録」佐藤博から)

. 大女将と大根

 それは老舗観光ホテルの駐車場でのことだった。設備係として入社したての爺には、顧客に提供する沢庵を自前で作ること自体が驚愕の一事だった。まだなじみの人がいないどころか、だれが誰だかも定かでない時期で、不可思議な感じで現場を訪れると、フロント・仲居・内務などの従業員が十以上の漬物桶を取り巻いてがやがやと騒いでいた。

 一見無秩序に見えていたが、気が付いてみると1つの桶に2人ずつ、あたかもそれが定位置のように取り付いていた。たった1か所だけ1人足りない桶があり、爺は自然なかたちで桶の脇へと「誘導」された。パートナーは上品な顔立ちの老女だった。「こんな年になっても旅館勤めとは厳しいな」と内心同情をしたのをおぼえている。会釈だけはした。一斉に沢庵漬け用の干した大根を桶に入れはじめた周囲。爺は老女の顔を見た。静かに微笑しているだけ。「入れます」と声を掛け、桶の底に大根を「への字」に曲げて2本入れた。もちろん桶の断面は丸いのでそれに合わせてはいる。老女は爺の顔をチラと見た後で、多分米ぬかと塩を混ぜたものなのだろう、粉をササッと撒いた。「なんだ、これだけのことか」と2段目は手早く済ませた。ところが老女は桶の底を見つめているだけでアクションを起こさない。これ見よがしに首をかしげて底を覗くと、2本の大根の間に溝が出来ている。つまり太さが違うのだ。慌てて細い方を交換して太さと長さを均等にした。アッという間に敷かれる粉。3段、4段と太さ修正をしながら続けていき、6段目になったとき、真ん中が円形に空いた。桶の直径が長くなっていたのだ。老女はまた、ニコリとして動かなくなった。「まさか。この丸にピタッとはまる大根があるわけ?」と探す羽目に。円形を意識して細いのを差し込むと、またニコリで、不動。まさか、の大根を漸く見つけて「Uの字」に丸めると、折れもせず傷つきもせず形が整った。この大根の乾燥加減は半端じゃない技があると、いたく感心した。視線を落とせば、見事なまでに平らに敷かれた粉。この瞬間に気付いた。「試されている」と。大袈裟に言えば人間性や即応能力をだ。漬物作業に乗り気でなかった爺はやっと目覚めた。それからというもの、老女が動作を止めることは1度もなかった。「ありがとうございました」。おしまいのお辞儀は自然な形で出た。返ってきたのはまたまた笑顔。

 この老女が誰からも仰がれ、泣く子も黙る力をもつ大女将(おおおかみ)だということを、何日も経ってから知らされた。
 …もう18年近くも前の話だ。
 温かい笑顔を保ちつつ黙って突き放す「教育法」があることを、このときの記憶から学んだ。



. 有限「会社」ロウジン

 近頃はやりのカタカナの社名だが、もちろん本当の意味の会社ではない。自然人たる個人が、職業人を高齢であるがゆえに退いた後の立ち位置のようなものを文字で表わしてみた。一般的に個人というと卑怯だ。私という「爺」がそれだと言えばすむ。「有限」なのは「責任」ではなく「命=余命」ということになる。働いて収入を得ている間、いわゆる「現役」時代に行っていた諸々の主張・活動を自分の中で始末する手立てとして大いに役立つ考え方かもしれない。換言すれば老後の自分を「みじめ」と感じさせないための知恵、だ。

 自分をひとつの「会社」と見立てれば、営利(生活の安定)のための合法的活動はすべて許される。一般的に知られた「三欠く主義」、つまり『義理欠く、見栄欠く、恥かく』は「経費の節減」として賞賛されよう。肉体労働がなくなった分、高カロリー摂取は不要になったわけで、食材・食事にかける費用は当然減らすことになる。水光熱費削減も美徳に変ずる。こうして、日常的な支出項目を一つ一つ吟味して「有限会社老人」の収支は健全化するというわけだ。あらゆる消費行動はあたらしい視点で要不要の判断をすることになる。いかがだろうか。

 こんな面倒な解説はいいとして、実際の行動でこの考え方を実行している高齢者を、爺は知っている。当初は正直なところ「なにもそこまで」と思っていた。彼女は言う。「人様に迷惑をかけないで生きていくためにはこうするしかない」と。いまは爺、自らの誇りを失わないための彼女の信念に、ただただ敬服している。真の意味でのプライドは、他者の皮相的な毀誉褒貶とは無縁のものだと思うからだ。
 
. プロフィール

蛙声爺

Author:蛙声爺
文芸同人誌編集をしています。
考えるフクロウが理想。
木内光夫のHPもよろしく。

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